第390話《幽閉》
迷宮都市ナユタの外門が、ゆっくりと開いた。
王都から来た護送馬車が、その前で止まっている。
護送とはいっても、物々しい鉄格子の馬車ではない。
アンダルシアン公爵家の紋章は外され、代わりに王家の封印と、迷宮都市ナユタへの移送許可を示す札だけが掲げられていた。
馬車の中で、アニスは静かに外を見ていた。
顔色はまだ白い。
長く座っているだけでも疲れるのか、膝の上の手は細く震えている。
それでも、背筋はまっすぐだった。
リリエラは隣に控えている。
王都からの付き添いとして、そしてアニスを守る騎士として、彼女は一歩も離れなかった。
ナユは外門の前で待っていた。
その横には、リカリーネ、マリエル、ティト、シズネ、レナ、ミナ、セバスチャンが並んでいる。
全員が旅装ではなく、ナユタ側で迎えるための落ち着いた服装だった。
ただ、リカリーネだけは腕を組み、いつものように少し偉そうに立っていた。
「アニス」
ナユが馬車へ近づく。
扉が開き、リリエラが先に降りた。
続いて、アニスがゆっくりと足を下ろす。
足元が少しふらつき、ナユがすぐに手を差し出した。
「大丈夫?」
「ええ。少し、眩しいだけですわ」
アニスはナユの手を借りて、地面に降りた。
外の風が、アニスの髪を揺らす。
王都の庭園とは違う風だった。
湿った土の匂いと、遠くの森の匂いと、どこかに人の暮らしの匂いが混じっている。
アニスは、ゆっくりと前を見た。
そして、固まった。
目の前に広がっていたのは、小さな辺境の町ではなかった。
高い外壁。
整えられた道。
遠くに見える建物の群れ。
人が行き交う広場。
商店の看板。
訓練場らしき施設。
さらに奥には、まだ建設中の区画まである。
王都とは違う。
けれど、寂れた辺境ではない。
むしろ、これから大きくなっていく街の力が、そこにはあった。
「……ナユ」
「うん?」
「ここが……迷宮都市ナユタ、なのですか?」
「うん。まだ作っている途中だけど」
アニスは、もう一度街を見た。
「途中……?」
声が少しだけ裏返った。
リカリーネがにやりと笑う。
「そうよ。これでまだ途中。幽閉先にしては、ずいぶん贅沢よね」
「リカリーネさん」
マリエルが軽くたしなめる。
「でも、間違ってはいませんわ。王都で聞く辺境幽閉とは、かなり印象が違いますもの」
アニスはしばらく言葉を失っていた。
王都で裁定を受けた時、覚悟はしていた。
二年間、辺境で幽閉。
街の外へ出ることはできない。
王都にも戻れない。
公爵令嬢としての役割からも切り離される。
それは罰だった。
必要な裁きだと理解していた。
だから、静かな屋敷か、古い塔か、誰にも会わない閉ざされた場所を想像していた。
だが、目の前にあるのは街だった。
広すぎる街だった。
「……これが、幽閉……?」
アニスが小さく呟いた。
その一言で、リカリーネが吹き出した。
「本人が言っちゃった!」
ティトも苦笑する。
「まあ、普通の幽閉ではないですね」
シズネが淡々と言う。
「王命上は幽閉です。実態はナユタ内部での生活制限付き療養と保護です」
「言い方」
リカリーネがツッコミを入れた。
アニスは少しだけ困った顔をした。
それから、ほんのわずかに笑った。
弱い笑みだった。
けれど、王都で見せていた作られた笑みではない。
ナユの知っている、アニスの笑みだった。
「陛下は……本当に、気を利かせてくださったのですね」
「うん。たぶん、最初からこうするつもりだったと思う」
ナユは頷いた。
「でも、アニスが無理しないように、外へ出るのは禁止。王都に戻るのも二年後まで禁止。政治のことも、今はお休み」
「……お休み」
アニスは、その言葉を繰り返した。
罰。
幽閉。
責任。
そのどれでもなく、お休み。
ナユがそう言っただけで、少しだけ息がしやすくなった気がした。
外門を通ると、ナユタの住人達が道の端で静かに頭を下げた。
好奇の目はある。
けれど、石を投げる者はいない。
罵声を浴びせる者もいない。
王都での事件を知っている者もいるはずなのに、そこにあるのは警戒よりも、ナユが連れてきた客人を見る目だった。
アニスは少しだけ肩に力を入れた。
「皆様、私のことを……」
「全部を知っているわけじゃないよ」
ナユは静かに言った。
「でも、アニスが私の友達だってことは知ってる」
アニスの指が震えた。
「それは……強すぎる紹介ですわね」
「そうかな」
「ええ。ここでは、ナユの友達というだけで、守られてしまいそうです」
ナユは少し考えた。
「うん。守るよ」
アニスは目を伏せた。
「……そういうところですわ」
最初に案内したのは、アニスが暮らす屋敷だった。
屋敷といっても、王都の公爵家ほど大きくはない。
だが、庭は広く、部屋は明るく、療養のための静かな空間も用意されていた。
リリエラの部屋も近くにあり、数人の使用人が王都から同行している。
さらに、ナユタ側の医療担当や警備担当とも連携できるようになっていた。
アニスは窓の外を見た。
庭の向こうには、街の屋根が見える。
さらにその向こうには、訓練場らしき広場がある。
子ども達の声も、遠くから聞こえてきた。
「静かすぎないのですね」
「静かな方がいい?」
「いいえ」
アニスは首を振った。
「誰かの暮らしの音が聞こえる方が、少し安心します」
ナユはほっとした。
「じゃあ、よかった」
その後、ナユは無理のない範囲でアニスを案内した。
大通り。
市場。
診療所。
図書室。
休憩所。
訓練場。
そして、まだ工事中の区画。
歩くのは少しだけで、あとは馬車や休憩を挟みながらだった。
それでも、アニスは一つ一つを驚いたように見ていた。
「本当に、街なのですね」
「うん。ナユタは迷宮都市だから」
「幽閉先に市場があり、図書室があり、診療所があり、訓練場まであるのですね」
「うん」
「……幽閉とは」
アニスが真面目な顔で呟いた。
今度はマリエルまで小さく笑った。
「アニシア様。王命上は幽閉ですわ」
「王命上は」
「ええ。王命上は」
アニスは口元に手を当てた。
笑ってはいけないと思ったのだろう。
だが、少しだけ肩が震えていた。
ナユは、その様子を見て胸が温かくなった。
アニスが笑っている。
少しだけでも。
王都で泣きながら壊されていたアニスが、今は自分の意思で笑っている。
それだけで、この街へ連れて来られてよかったと思えた。
夕方。
ナユはアニスを、街を見渡せる小さな丘へ連れて行った。
そこは、ナユタの外へ出る場所ではない。
街の内側に作られた見晴らし台だった。
夕陽を受けた建物の屋根が、淡く金色に光っている。
アニスは手すりに触れ、しばらく黙って街を見ていた。
「ナユ」
「うん」
「私は、ここで過ごすのですね」
「うん。二年間」
「二年は、長いですわ」
「うん」
「でも……短いのかもしれませんわね。壊されたものを、もう一度拾い集めるには」
ナユはアニスの横顔を見た。
アニスの表情は、まだ弱い。
けれど、王都にいた時のような空っぽの顔ではなかった。
自分で考えて、自分で言葉を選んでいる顔だった。
「私は、ロスルドに壊されました。ナユを忘れようとして、忘れられなくて、傷つけて、傷ついて、自分が自分でなくなるのを止められませんでした」
「アニス」
「でも、ナユが迎えに来てくれました」
アニスは、ナユを見る。
「だから私は、ここで自分を取り戻します」
風が吹いた。
アニスの髪が揺れる。
その瞳には、弱くても確かな光があった。
「公爵令嬢としてではなく、ロスルドの旗印としてでもなく、誰かに作られた悪役令嬢でもなく」
アニスは、ゆっくりと言った。
「アニスとして、もう一度、自分を取り戻します」
ナユは頷いた。
「うん。私も手伝う」
「ええ。お願いします、ナユ」
アニスは微笑んだ。
その笑顔は、まだ少し儚い。
けれど、確かに戻ってきたものだった。
辺境幽閉。
そう呼ばれる二年間が始まる。
けれど、それは閉ざされるためだけの時間ではなかった。
アニスが壊された自分を拾い集め、もう一度歩き出すための時間だった。
そして、その場所は、ナユの街だった。
◆
「今日の記録:アニスが迷宮都市ナユタへ来ました。裁定では辺境幽閉ですが、ナユタはとても広いので、アニスはこれが幽閉なのかと驚いていました。少しだけ笑ってくれました。屋敷、市場、診療所、図書室、訓練場を案内しました。アニスはここで自分を取り戻すと言いました。公爵令嬢としてでも、ロスルドの旗印としてでもなく、アニスとしてもう一度歩きたいそうです。私はそれを手伝います。日報完了」




