第388話《解放》
ナユはアニスを抱えたまま、廊下を進む。
廊下には、まだ焦げた匂いと血の匂いが残っていた。
倒れた男達が壁際に転がっている。
臨時評議会の腕章をつけた者達は、武器を落としたまま動けずにいた。
リリエラの一声と、セバスチャンの静かな威圧で、もう戦おうとする者はいない。
「リリエラさん。アニスを、まず使用人さん達の部屋へ連れていきます。そこで少しでも休ませます」
「承知しました。使用人達のいる部屋なら、寝具も水も用意できます。アニシア様をお任せできる者達もおります」
ナユは小さく頷いた。
「うん。まずはアニスを無事に届けます」
その言葉に、アニスの指がかすかに動いた。
ナユの服を握る力は弱い。
けれど、確かに離そうとしていなかった。
リカリーネが前へ出る。
「じゃあ、道を開けるわよ。邪魔する奴は、そこに転がってる連中の仲間入りだから」
マリエルが水の帯を展開した。
「乱暴な言い方ですけれど、今は分かりやすくて助かりますわ」
「褒めてるの、それ?」
「半分くらいは」
「半分!?」
短いやり取りだった。
けれど、その軽さに、少しだけ空気が戻る。
セバスチャンが廊下の先へ視線を向ける。
「敵の主導権は失われています。ですが、完全に安全とは言えません。移動は迅速に」
「私が先導します。この屋敷の道は、私が知っています」
リリエラが剣を構えた。
ナユ達は、使用人達が閉じ込められていた部屋へ戻った。
扉が開いた瞬間、中にいた者達が一斉に顔を上げる。
年配の侍女が、ナユの腕の中のアニスを見て、口元を押さえた。
「アニシア様……!」
「無事です。でも、まだとても弱っています。寝かせられる場所はありますか?」
「すぐに!」
侍女達が動き出した。
閉じ込められていたはずなのに、その動きは早い。
寝台の布を整える者。
水差しを用意する者。
薬箱を探す者。
皆、主を迎えるために必死だった。
ナユはアニスを寝台へそっと横たえた。
アニスの顔色はまだ悪い。
けれど、呼吸は続いている。
先ほどまで消えかけていた魂の光は、今は細く、確かに繋がっていた。
『生命反応、低位安定。安静を維持してください。追加の強刺激は避けるべきです』
(分かった)
ナユはアニスの手を離そうとした。
けれど、アニスの指が、かすかにナユの袖を掴んだ。
「アニス」
ナユは身を屈める。
「少しだけ、ここで休んでて。すぐ戻るから」
アニスは答えられない。
けれど、ナユの袖を掴む指が、ほんの少しだけ緩んだ。
まるで、行っていいと言っているようだった。
ナユはその手を、侍女の手へそっと預けた。
「お願いします」
「命に代えましても」
年配の侍女は深く頭を下げた。
「いえ。命は代えないでください。みんなで、アニスを守ってください」
侍女は一瞬だけ目を丸くした。
それから、涙をこらえるように頷いた。
「はい。必ず」
リリエラはアニスの寝顔を一度だけ見た。
その目には、まだ痛みが残っている。
だが、今は止まらない。
主を守る騎士として、やるべきことが残っていた。
「ナユ様。次は王城です」
「はい。国王陛下と、公爵様達を解放します」
リカリーネが目を細めた。
「ついで、って言うには大仕事ね」
「でも、やるしかありませんわ。王都の命令系統を戻すには、国王陛下と主要貴族の解放が必要ですもの」
マリエルが頷く。
シズネがスパイクガンを確認する。
「敵の指揮系統は崩れています。今なら突破率は高いです」
「急ぐ」
レナが短く言う。
ティトは香りの小瓶を閉じた。
「アニシア様の部屋に残っていた灰の匂いも、少し薄くなっています。でも、まだ屋敷内には残留しています。長居はしない方がいいです」
セバスチャンは静かに頷いた。
「では、参りましょう」
アンダルシアン公爵家の制圧は、思ったより早く終わった。
ロスルドからの命令が途絶えたことで、雇われた男達は完全に浮き足立っていた。
金で雇われた者達は、旗印を失えば弱い。
王国最強の騎士リリエラ。
そして、第八階梯の光を放ったナユ。
それらを前に、戦う理由を失った者達は、次々と武器を捨てていった。
使用人達の証言により、屋敷内の隠し部屋も見つかった。
そこには、公爵家の従者や、一部の近衛兵が閉じ込められていた。
彼らを解放すると、状況はさらに早く動き出した。
王都の封鎖を支えていた命令は、いくつもの偽装と脅迫で組み上げられていた。
だが、その中心にいたアニシアは戻った。
ロスルドは逃げた。
臨時評議会の命令も、もう届かない。
崩れ始めたものは、早かった。
王城へ向かう道でも、小さな抵抗はあった。
だが、リリエラが名を告げただけで、正規兵の多くは剣を下ろした。
彼らもまた、何が正しい命令なのか分からないまま動かされていたのだ。
「リリエラ様……本当に、アニシア様は」
「ご無事です。ただし、重い消耗により静養が必要です」
兵士達の顔が変わる。
セバスチャンが一歩前に出る。
「国王陛下へお目通り願います」
静かな声だった。
しかし、逆らえる者はいなかった。
王城の奥。
国王陛下は、外へ出られないようにされていた。
病と静養を理由に隔離され、側近達も分断されていた。
だが、命を奪われてはいなかった。
ナユ達が扉を開けた時、国王は椅子に座っていた。
疲れは見える。
だが、その目はまだ死んでいない。
「ナユか」
「はい。遅くなりました。国王陛下をお助けに参りました」
ナユは礼をした。
国王は、少しだけ息を吐いた。
「また、お前に救われたな」
「今回は、私だけではありません。皆で来ました」
ナユは首を振った。
その後ろに、マリエル達が並ぶ。
リリエラが膝をつく。
セバスチャンも、静かに頭を下げた。
国王は、全員を見た。
「状況を聞こう」
リリエラが説明を始めた。
アニシアが操られていたこと。
ロスルドが関わっていたこと。
臨時評議会が王都を封鎖していたこと。
アニシアは救出され、現在は静養中であること。
国王は黙って聞いていた。
やがて、深く目を閉じる。
「ロスルドめ……また、王国に毒を撒いたか」
その声には怒りがあった。
だが、それ以上に、重い疲労があった。
続いて、公爵達や有力貴族達も解放された。
彼らの多くは、王城内の別室や屋敷に軟禁されていた。
無理やり従わされていた者。
情報を断たれていた者。
臨時評議会に反対したため拘束されていた者。
すべてが一度に元へ戻ったわけではない。
王都はまだ混乱していた。
閉じられた門を開けるにも、外へ説明を出すにも、時間がかかる。
それでも、夜明け前には、王都を縛っていた大きな鎖は外れ始めていた。
国王陛下は王城の広間に立ち、解放された貴族達と近衛兵へ命じた。
「王都封鎖を解除せよ。臨時評議会の命令はすべて停止する。ロスルド・バルネス、およびその協力者を追うのだ」
兵士達が一斉に頭を下げる。
「はっ!」
ナユは、その様子を見ていた。
アニスはまだ眠っている。
ロスルドは逃げた。
完全な勝利ではない。
けれど、王都は取り戻されつつあった。
リカリーネが隣に立つ。
「終わった……って言っていいのかしら」
「まだです。でも、アニスは戻りました。王様も助けられました。だから、少しだけ前に進みました」
「そっか。じゃあ、今日はそれでいいわね」
ナユは頷いた。
「うん」
夜明けの光が、王城の窓から差し込み始めていた。
王都の長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
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「今日の記録:アニスを使用人さん達の部屋へ運びました。アニスはまだ弱っていますが、魂は繋ぎ止められています。その後、国王陛下と公爵様達、閉じ込められていた貴族の方々を解放しました。ロスルドは逃げました。王都を縛っていた臨時評議会の命令は停止されました。完全に終わったわけではありません。でも、アニスは戻りました。王都も少しずつ戻り始めています。長い夜が、やっと明けようとしています。日報完了」




