第387話《帰星》
光が収まった後も、部屋の中には白い余韻が残っていた。
壊れた壁から、外の光が差し込んでいる。
裂けたカーテンは床に落ちていた。
散らばった紙は、先ほどまでの光を吸ったように淡く揺れている。
第八階梯と《真願》が残した跡は、まだ部屋の空気を震わせていた。
その中心で、ナユはアニスを抱きしめていた。
腕の中の体は、まだ冷たい。
けれど、さっきとは違う。
完全に消えてしまいそうだった息が、今は細く続いている。
胸がかすかに上下している。
指先が、ナユの服を弱く握っていた。
それだけで、ナユは泣きそうになった。
「アニス」
ナユはもう一度呼んだ。
アニスの瞼が、わずかに震える。
「……ナユ……」
かすれた声だった。
ほとんど息のような声だった。
それでも、それは確かにアニスの声だった。
「うん。ここにいるよ」
ナユはアニスの手を握った。
「もう大丈夫。アニスは、帰ってきたんだよ」
アニスの目が、少しだけ開いた。
濁っていた光は、もう消えている。
灰色の瞳。
ナユが知っている、アニスの瞳だった。
けれど、その奥には深い疲労が沈んでいた。
眠ってしまえば、そのまま二度と目を覚まさないのではないかと思うほど、弱い光だった。
「わたくし……ナユに……ひどいことを……」
「今は話さないで」
ナユは首を振った。
「謝るのも、泣くのも、全部後でいいから」
アニスの目尻から涙がこぼれた。
「忘れたく……なかったの……」
「うん」
「忘れなければ……ならないと……思ったのに……」
「うん。分かってる」
ナユはアニスを抱きしめた。
アニスの言葉は弱く、途切れ途切れだった。
それでも、そこにはもう作られた悪意はなかった。
ナユを突き放そうとする冷たい声ではなく、長い時間、ひとりで耐えていた友達の声だった。
「アニスは、ずっと私の名前を呼んでくれていたから」
アニスの指が、また少し強くナユの服を掴んだ。
「ナユ……来て……くれたのね……」
「うん」
ナユの声も震えていた。
「来たよ。アニスを迎えに来たよ」
アニスの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
弱りきった顔のまま、それでも口元がかすかに緩む。
「……ほんとうに……迎えに……来てくれた……」
「うん。遅くなって、ごめんね」
アニスの目尻から、また涙がこぼれた。
けれど、それは苦しみだけの涙ではなかった。
ずっと閉じ込められていた願いが、やっと届いたような涙だった。
「私の……彦星さま……」
ナユの顔が、少しだけ赤くなった。
七夕の話をしたあの夜。
アニスが隠した短冊。
見てはいけないと言われたのに、ミラの解析で少しだけ分かってしまった願い。
ナユが彦星さまになって、私を迎えに来ますように。
その言葉を、ナユは思い出した。
(女の子同士なのに……)
昔と同じ戸惑いが、胸の奥に浮かぶ。
けれど、今は否定しなかった。
否定したくなかった。
ナユは、アニスを抱きしめる。
「うん」
小さく答えた。
「迎えに来たよ、アニス」
その時、扉の向こうで大きな衝撃音が響いた。
部屋の外の戦いは、まだ終わっていない。
『アニシア・ユラ・アンダルシアンの生命反応は安定しつつあります』
『ただし、魂の再接続直後です』
『移動、戦闘、強い精神刺激は危険です』
(ここに置いていけない)
『同意します』
『安全圏への移送が必要です』
ナユはアニスを抱え直した。
その動きだけで、アニスが苦しそうに眉を寄せる。
「ごめんね。少しだけ我慢して」
アニスは答えられない。
けれど、ナユの服を掴む指は離れなかった。
扉の向こうで、リカリーネの声が響いた。
「ナユ!無事なの!?」
「うん!アニスも無事!」
一瞬、外の音が止まった。
その直後、リリエラの声が震える。
「アニシア様が……」
「無事です!」
ナユは今度ははっきりと言った。
「でも、すぐに安全な場所へ運ばないと危ないです!」
扉が開く。
飛び込んできたのはリリエラだった。
白銀の鎧には傷が増えている。
肩で息をしている。
それでも、彼女の目はナユの腕の中だけを見ていた。
「アニシア様……」
リリエラは膝をついた。
剣を床に置き、震える手でアニスの顔へ触れようとして、途中で止める。
触れてしまえば壊れてしまうのではないか。
そんな恐れが、その手にあった。
アニスの瞳が、ほんの少しだけ動いた。
「リリ……エラ……」
「はい。ここにおります」
その声は、王国最強の騎士のものではなかった。
主を失いかけた、一人の騎士の声だった。
アニスは、かすかに目を細めた。
「あなたは……無事なのね……」
「はい」
「なら……よかった……」
リリエラの唇が震える。
「アニシア様。お守りできず、申し訳ございません」
アニスは、ほんの少しだけ首を振った。
「顔を……上げなさい……リリエラ……」
弱い声だった。
それでも、その言葉には公爵令嬢としての芯が残っていた。
「あなたは……私の言葉を……守ってくれたのでしょう……」
リリエラは、何も言えなかった。
ただ、深く頭を下げた。
ナユはリリエラを見る。
「リリエラさん。アニスを運びます」
「はい」
リリエラはすぐに表情を戻した。
剣を拾い、立ち上がる。
「道を開きます」
廊下では、まだ戦闘が続いていた。
だが、空気は変わっていた。
先ほどまで統率されていた男達の動きが乱れている。
腕章を付けた者達が、互いに顔を見合わせていた。
「命令はどうなった!」
「アニシア様が奪われたぞ!」
「ロスルド様からの指示は!?」
シズネが短く言う。
「指揮系統に乱れがあります」
マリエルの水の壁が、敵を押し返す。
「アニシア様を縛っていた術式が消えた影響かもしれませんわね」
リカリーネが炎を散らす。
「なら、今のうちに押し切るわよ!」
レナが剣の柄で男の顎を打ち抜いた。
「邪魔」
ティトの香気魔法が、味方の呼吸を整える。
ミナは身体強化を維持したまま、使用人達の部屋の前に立っていた。
そして、セバスチャンは廊下の中央に立っていた。
老執事は、いつも通り背筋を伸ばしている。
けれど、手袋の指先が、ほんのわずかに震えていた。
「お嬢様」
セバスチャンがナユへ向き直り深く一礼した。
「撤退路を確保いたします」
その時だった。
廊下の奥にいた腕章の男の一人が、腰の通信水晶を取り出した。
だが、水晶は黒く濁ったまま、何の声も返さない。
「ロスルド様……?」
男の顔から血の気が引いた。
「応答がない……」
その言葉で、男達の動揺が広がった。
『遠隔術式の反応が途絶しています』
『アニシア・ユラ・アンダルシアンに接続していた監視術式、命令伝達術式、補助術式、すべて遮断済み』
(ロスルドは?)
『直接反応はありません』
『ただし、術式遮断を感知した可能性は極めて高いです』
ナユは唇を結んだ。
ロスルドは来ない。
きっと、ここへは来ない。
ナユ達がいる。
リリエラがいる。
セバスチャンがいる。
アニスの術式は消えた。
悪魔契約も遮断された。
それを知って、なお自分から現れるような相手ではない。
◆
その頃。
王都のどこかで、黒い水晶に深い亀裂が走った。
アニシアを示していた黒い光が、音もなく消える。
ロスルド・バルネスは、その光をしばらく見つめていた。
「……切られたか」
怒りはなかった。
ただ、冷たい計算だけが目に残っている。
「上位悪魔契約まで遮断するとは。やはり、あの小娘は危険だ」
机の上には、王都の地図が広げられていた。
いくつもの印。
いくつもの名前。
そして、赤い線で結ばれた別の場所。
ロスルドは、アンダルシアン公爵家の印に指を置いた。
「アニシアは失敗した」
次に、王都全体を見た。
「この王都も、ここまでだな」
彼は静かに書類を閉じる。
「十分に乱した。種は撒いた。ならば、次へ移る」
黒い水晶が砕ける。
ロスルドは振り返らず、部屋を出た。
「ナユ。お前とは、また別の場所で会うことになる」
公爵家の廊下では、臨時評議会の男達が完全に浮き足立っていた。
命令が途絶えた。
指揮が消えた。
守るべき旗印は、ナユの腕の中にいる。
リリエラが剣を構える。
「全員、武器を捨てなさい」
その声が、廊下に響いた。
「アニシア様は、もうあなた達の旗印ではありません」
男達は動けなかった。
王国最強の騎士。
戻ってきた公爵令嬢。
そして、アニシアを抱くナユ。
もう、彼らに戦う理由は残っていなかった。
セバスチャンが静かに告げる。
「投降なさい。今なら、命までは取りません」
一人が剣を落とした。
続いて、もう一人。
金属音が廊下に響いていく。
ナユはアニスを抱きしめたまま、その音を聞いていた。
ロスルドは逃げた。
それは、分かる。
けれど、今は追えない。
腕の中のアニスが、まだ細い息をしている。
助けたばかりの魂が、まだ揺れている。
ナユはアニスの髪を撫でた。
「今は、アニスを安全な場所へ運びます」
誰も反対しなかった。
王都の夜は、まだ終わっていない。
けれど、アニシア・ユラ・アンダルシアンは、もうロスルドのものではなかった。
◆
「今日の記録:アニスは戻ってきました。まだ弱く、すぐに安全な場所へ運ばなければ危険です。アニスは、私が迎えに来たことを喜んでくれました。七夕の時の願いを思い出して、私の彦星さまと言いました。少し恥ずかしかったです。でも、否定はしませんでした。リリエラさんはアニスの声を聞いて、とても安心していました。ロスルドは現れませんでした。アニスに仕掛けていた術式が消えたことを遠くで知り、撤退したようです。アニスを旗印にした作戦は失敗しました。でも、ロスルドはまだ逃げています。今は、アニスを守ります。日報完了」




