第386話《真願》
ナユはアニスを抱きしめた。
白いドレスは冷たかった。
細い体は、力なくナユの腕の中に沈んでいる。
頬は青白く、唇から漏れる息は、今にも消えてしまいそうなほど細かった。
「アニス」
ナユは呼んだ。
返事はない。
ナユはアイテムボックスからエリクサーを取り出した。
震える手で瓶を開け、アニスの唇へ近づける。
こぼれないように。
喉へ流れるように。
少しずつ飲ませた。
アニスの体に、淡い光が走った。
傷はない。
肉体の損傷は、ほとんど修復されていく。
けれど、アニスの息は戻らない。
温度も戻らない。
「どうして……」
『肉体修復は成功』
ミラの声が響く。
『生命維持機能は一時的に安定しました』
ナユは顔を上げる。
(なら、助かるのですか?)
『いいえ』
短い返答だった。
『魂反応が極めて希薄です』
ナユの腕に力が入る。
『対象は死亡寸前ではありません……魂そのものの消滅寸前です』
部屋の外では、まだ戦いの音が続いている。
剣戟。
爆ぜる魔法。
誰かの声。
けれど、ナユには遠かった。
腕の中のアニスだけが、今の世界のすべてだった。
「《レイ・ヒール》」
ナユの手に光が集まる。
優しい光が、アニスを包む。
だが、光はすぐに散った。
「《ルミナス・ヒール》」
さらに強い光。
それでも、届かない。
アニスの魂へ届かない。
『通常回復、効果薄……魂欠損には干渉できません』
「なら、《願い》を使います」
ナユは即座に言った。
迷いはなかった。
『一度の《願い》では、効力が不足する可能性が高いです』
「一度で足りないなら、《蓄願》を使います」
ナユには、未使用の《願い》がある。
保存していた願い。
最大三回分。
非常時のために残していた力。
今が、その非常時だった。
『《蓄願》三回分を同時解放しても、完全復元は困難です』
ミラの声は冷静だった。
だが、その冷静さが、かえって現実を突きつけていた。
『対象の魂は、ほぼ失われています。残存しているのは、核と呼べる極小反応のみ。この状態は、通常の死ではありません。魂の消滅です』
ナユはアニスを抱きしめる。
消滅。
その言葉が、胸に突き刺さった。
死んだのではない。
まだ死んでもいない。
ただ、アニスという存在そのものが、消えようとしている。
「それでも」
ナユの声は小さかった。
「それでも、助けます」
『提案があります』
ミラの声が変わった。
いつもの解析ではない。
もっと深い場所から響くような声だった。
『《願い》を進化させます』
ナユは息を呑む。
(進化……?)
『はい』
『以前、ナユタシステムが生まれた時と同じです』
『既存能力を再定義し、ナユ専用の形へ変換します』
ナユタシステム。
ナユの力から生まれた、ナユだけの仕組み。
願いと記録と可能性が結びつき、ただの能力ではないものへ変わった奇跡。
『神から与えられた汎用の《願い》では、対象の消滅に届きません。必要なのは、ナユ自身の願いです』
「私だけの願い……」
ナユは、アニスの顔を見た。
目を閉じたアニス。
ナユを口撃しながら泣いていたアニス。
忘れなければならないと言いながら、忘れられなかったアニス。
ナユの名前だけを呼び続けていたアニス。
「どうすればいいのですか」
『《蓄願》保存領域を解体します。保存された三回分の《願い》を素材として、《願い》本体へ統合。ナユタシステムを中継し、能力定義を再構築します。成功した場合、《蓄願》は失われます。以後、未使用の《願い》を保存することはできません』
ナユは一瞬も迷わなかった。
「構いません」
『さらに、発動後しばらく《願い》の通常使用も制限されます』
「構いません」
『失敗した場合、アニシア・ユラ・アンダルシアンの魂反応は完全に消滅します』
ナユの喉が、きゅっと締まった。
怖い。
けれど、何もしなければ消える。
なら、選ぶ道はひとつしかない。
「やります」
『承認確認』
「はい」
『ナユタシステム、起動』
ナユの内側で、何かが開いた。
記録の光。
願いの光。
無数の線が、胸の奥から広がっていく。
アニスを抱きしめるナユの周囲に、淡い光の文字が浮かんだ。
それは魔法陣ではない。
祈りに近かった。
ナユがこれまで願ってきたもの。
助けたいと思ったもの。
守りたいと思ったもの。
置いていきたくないと思ったもの。
それらが、光の粒になって集まる。
『《蓄願》第一保存領域、解体』
光が弾ける。
『第二保存領域、解体』
ナユの胸の奥が熱くなる。
『第三保存領域、解体』
強い痛みが走った。
息が詰まる。
だが、ナユはアニスを離さない。
『《願い》本体へ統合開始。能力定義、再構築。神授汎用権能《願い》を、個体専用権能へ変換』
『進化が成功しました――エクシードスキル《真願》を得ました』
ナユの目から涙が落ちた。
それは悲しみだけではなかった。
怖さ。
怒り。
祈り。
全部が混ざっていた。
ナユはアニスの冷たい手を握る。
「アニス」
返事はない。
けれど、ナユは呼び続ける。
「アニス、帰ってきてください」
光が強くなる。
床に残っていた黒い紋様が、音もなく消えていく。
アニスの体に絡みついていた、見えない黒い糸が浮かび上がる。
薬でねじ曲げられた魔力回路。
魂を削る術式。
悪魔へ通じる門の残り香。
ロスルドが何年もかけて仕込んだもの。
それらが、光の中で露わになっていく。
『死灰の毒系統反応を確認』
『魂削減術式を確認』
『悪魔契約を確認……上位悪魔契約を再確認』
『対象魂核、消滅直前』
ミラの声が、わずかに速くなる。
『ナユ、願いを』
ナユはアニスを強く抱きしめた。
願う。
ただ願う。
便利な道具が欲しいわけではない。
奇跡が欲しいわけでもない。
目の前の友達を、返してほしい。
「アニスを返して」
ナユの声が震えた。
「アニスを蝕む死灰の毒を、全部消し去って」
光が黒い毒を焼いていく。
「魂を削る術式も、悪魔の契約も、ロスルドが仕掛けたものも、全部消して」
黒い糸が、次々と千切れる。
「消えかけた魂を、この体に繋ぎ止めて」
アニスの胸元に、小さな光が灯った。
ほんの小さな光。
今にも消えそうな、けれど確かにそこにある光。
ナユはそれを見た。
アニスの魂の核。
まだ、残っていた。
「私の友達を」
ナユは涙を流しながら願った。
「アニスを、返して」
その瞬間、光が部屋を満たした。
壊れた壁も、裂けたカーテンも、床に散らばった紙も、すべてが白く染まる。
音が消えた。
外の戦いの音も消える。
ナユの耳に届くのは、アニスのかすかな鼓動だけだった。
一度。
弱く。
もう一度。
少しだけ強く。
『魂核、固定』
『生命反応、再接続』
『魔力回路、再構築開始』
『死灰の毒系統反応、消失』
『上位悪魔との契約、遮断』
アニスの指が、わずかに動いた。
ナユは息を止める。
アニスの唇が震えた。
「……ナ……ユ……」
かすれた声だった。
でも、確かにアニスの声だった。
空っぽではない。
泣きながら悪意を吐く声でもない。
ナユが知っている、アニスの声だった。
「アニス!」
ナユはアニスを抱きしめた。
強く。
壊してしまわないように。
それでも離さないように。
アニスの目尻から、一筋の涙がこぼれた。
まだ意識は戻りきっていない。
けれど、消えてはいない。
アニスは、戻ってきた。
『能力更新を確認』
ミラの声が響く。
『《願い》は《真願》へ進化しました』
『《蓄願》機能は消失』
『以後、未使用分の願いを保存することはできません』
ナユは小さく頷いた。
それでいい。
アニスが戻ってきた。
それだけでよかった。
『《真願》は、ナユの意志と深く結びついた権能です』
『万能性は低下していません』
『ただし、性質が変化しています』
『これは、神から借りた願いではありません』
『ナユ自身の願いです』
ナユはアニスの髪を撫でた。
「おかえりなさい、アニス」
小さく呟く。
アニスは答えない。
けれど、細い指がナユの服を掴んだ。
ほんの少し。
それだけで、ナユは泣きそうになった。
扉の向こうで、誰かが叫ぶ声がした。
戦いはまだ終わっていない。
ロスルドもまだいる。
王都もまだ救われていない。
けれど、今この瞬間だけは。
ナユは、戻ってきた友達を抱きしめていた。
◆
「今日の記録:アニスの魂は、ほとんど消えかけていました。エリクサーでも、回復魔法でも、魂には届きませんでした。一度の《願い》でも足りず、《蓄願》三回分を使っても難しいとミラに言われました。だから、ナユタシステムを使って《願い》を進化させました。《蓄願》は使えなくなりました。その代わり、《願い》は《真願》になりました。私は、アニスを返してと願いました。アニスの魂は戻りました。アニスは、私の名前を呼んでくれました。日報完了」




