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神様の手違いで死んだ社畜おっさん、まずは自由を願い、次に明日を願う!TS転生し美少女に!最強チート《願い》は一日一回だけど万能です!異世界スローライフで世界も人も未来も救ってみせます!  作者: 兎深みどり
第八章《王都クーデター編》

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第386話《真願》

 ナユはアニスを抱きしめた。


 白いドレスは冷たかった。

 細い体は、力なくナユの腕の中に沈んでいる。

 頬は青白く、唇から漏れる息は、今にも消えてしまいそうなほど細かった。


「アニス」


 ナユは呼んだ。


 返事はない。


 ナユはアイテムボックスからエリクサーを取り出した。

 震える手で瓶を開け、アニスの唇へ近づける。

 こぼれないように。

 喉へ流れるように。

 少しずつ飲ませた。


 アニスの体に、淡い光が走った。


 傷はない。

 肉体の損傷は、ほとんど修復されていく。

 けれど、アニスの息は戻らない。

 温度も戻らない。


「どうして……」


『肉体修復は成功』


 ミラの声が響く。


『生命維持機能は一時的に安定しました』


 ナユは顔を上げる。


(なら、助かるのですか?)


『いいえ』


 短い返答だった。


『魂反応が極めて希薄です』


 ナユの腕に力が入る。


『対象は死亡寸前ではありません……魂そのものの消滅寸前です』


 部屋の外では、まだ戦いの音が続いている。

 剣戟。

 爆ぜる魔法。

 誰かの声。


 けれど、ナユには遠かった。

 腕の中のアニスだけが、今の世界のすべてだった。


「《レイ・ヒール》」


 ナユの手に光が集まる。

 優しい光が、アニスを包む。

 だが、光はすぐに散った。


「《ルミナス・ヒール》」


 さらに強い光。

 それでも、届かない。

 アニスの魂へ届かない。


『通常回復、効果薄……魂欠損には干渉できません』


「なら、《願い》を使います」


 ナユは即座に言った。

 迷いはなかった。


『一度の《願い》では、効力が不足する可能性が高いです』


「一度で足りないなら、《蓄願》を使います」


 ナユには、未使用の《願い》がある。

 保存していた願い。

 最大三回分。

 非常時のために残していた力。


 今が、その非常時だった。


『《蓄願》三回分を同時解放しても、完全復元は困難です』


 ミラの声は冷静だった。

 だが、その冷静さが、かえって現実を突きつけていた。


『対象の魂は、ほぼ失われています。残存しているのは、核と呼べる極小反応のみ。この状態は、通常の死ではありません。魂の消滅です』


 ナユはアニスを抱きしめる。


 消滅。


 その言葉が、胸に突き刺さった。

 死んだのではない。

 まだ死んでもいない。

 ただ、アニスという存在そのものが、消えようとしている。


「それでも」


 ナユの声は小さかった。


「それでも、助けます」


『提案があります』


 ミラの声が変わった。

 いつもの解析ではない。

 もっと深い場所から響くような声だった。


『《願い》を進化させます』


 ナユは息を呑む。


(進化……?)


『はい』


『以前、ナユタシステムが生まれた時と同じです』


『既存能力を再定義し、ナユ専用の形へ変換します』


 ナユタシステム。


 ナユの力から生まれた、ナユだけの仕組み。

 願いと記録と可能性が結びつき、ただの能力ではないものへ変わった奇跡。


『神から与えられた汎用の《願い》では、対象の消滅に届きません。必要なのは、ナユ自身の願いです』


「私だけの願い……」


 ナユは、アニスの顔を見た。


 目を閉じたアニス。

 ナユを口撃しながら泣いていたアニス。

 忘れなければならないと言いながら、忘れられなかったアニス。

 ナユの名前だけを呼び続けていたアニス。


「どうすればいいのですか」


『《蓄願》保存領域を解体します。保存された三回分の《願い》を素材として、《願い》本体へ統合。ナユタシステムを中継し、能力定義を再構築します。成功した場合、《蓄願》は失われます。以後、未使用の《願い》を保存することはできません』


 ナユは一瞬も迷わなかった。


「構いません」


『さらに、発動後しばらく《願い》の通常使用も制限されます』


「構いません」


『失敗した場合、アニシア・ユラ・アンダルシアンの魂反応は完全に消滅します』


 ナユの喉が、きゅっと締まった。


 怖い。

 けれど、何もしなければ消える。

 なら、選ぶ道はひとつしかない。


「やります」


『承認確認』


「はい」


『ナユタシステム、起動』


 ナユの内側で、何かが開いた。


 記録の光。

 願いの光。

 無数の線が、胸の奥から広がっていく。


 アニスを抱きしめるナユの周囲に、淡い光の文字が浮かんだ。

 それは魔法陣ではない。

 祈りに近かった。


 ナユがこれまで願ってきたもの。

 助けたいと思ったもの。

 守りたいと思ったもの。

 置いていきたくないと思ったもの。


 それらが、光の粒になって集まる。


『《蓄願》第一保存領域、解体』


 光が弾ける。


『第二保存領域、解体』


 ナユの胸の奥が熱くなる。


『第三保存領域、解体』


 強い痛みが走った。

 息が詰まる。

 だが、ナユはアニスを離さない。


『《願い》本体へ統合開始。能力定義、再構築。神授汎用権能《願い》を、個体専用権能へ変換』


『進化が成功しました――エクシードスキル《真願》を得ました』


 ナユの目から涙が落ちた。


 それは悲しみだけではなかった。

 怖さ。

 怒り。

 祈り。

 全部が混ざっていた。


 ナユはアニスの冷たい手を握る。


「アニス」


 返事はない。

 けれど、ナユは呼び続ける。


「アニス、帰ってきてください」


 光が強くなる。


 床に残っていた黒い紋様が、音もなく消えていく。

 アニスの体に絡みついていた、見えない黒い糸が浮かび上がる。


 薬でねじ曲げられた魔力回路。

 魂を削る術式。

 悪魔へ通じる門の残り香。

 ロスルドが何年もかけて仕込んだもの。


 それらが、光の中で露わになっていく。


『死灰の毒系統反応を確認』


『魂削減術式を確認』


『悪魔契約を確認……上位悪魔契約を再確認』


『対象魂核、消滅直前』


 ミラの声が、わずかに速くなる。


『ナユ、願いを』


 ナユはアニスを強く抱きしめた。


 願う。


 ただ願う。


 便利な道具が欲しいわけではない。

 奇跡が欲しいわけでもない。

 目の前の友達を、返してほしい。


「アニスを返して」


 ナユの声が震えた。


「アニスを蝕む死灰の毒を、全部消し去って」


 光が黒い毒を焼いていく。


「魂を削る術式も、悪魔の契約も、ロスルドが仕掛けたものも、全部消して」


 黒い糸が、次々と千切れる。


「消えかけた魂を、この体に繋ぎ止めて」


 アニスの胸元に、小さな光が灯った。


 ほんの小さな光。

 今にも消えそうな、けれど確かにそこにある光。


 ナユはそれを見た。

 アニスの魂の核。

 まだ、残っていた。


「私の友達を」


 ナユは涙を流しながら願った。


「アニスを、返して」


 その瞬間、光が部屋を満たした。


 壊れた壁も、裂けたカーテンも、床に散らばった紙も、すべてが白く染まる。


 音が消えた。


 外の戦いの音も消える。

 ナユの耳に届くのは、アニスのかすかな鼓動だけだった。


 一度。


 弱く。


 もう一度。


 少しだけ強く。


『魂核、固定』


『生命反応、再接続』


『魔力回路、再構築開始』


『死灰の毒系統反応、消失』


『上位悪魔との契約、遮断』


 アニスの指が、わずかに動いた。


 ナユは息を止める。


 アニスの唇が震えた。


「……ナ……ユ……」


 かすれた声だった。

 でも、確かにアニスの声だった。

 空っぽではない。

 泣きながら悪意を吐く声でもない。


 ナユが知っている、アニスの声だった。


「アニス!」


 ナユはアニスを抱きしめた。


 強く。

 壊してしまわないように。

 それでも離さないように。


 アニスの目尻から、一筋の涙がこぼれた。


 まだ意識は戻りきっていない。

 けれど、消えてはいない。


 アニスは、戻ってきた。


『能力更新を確認』


 ミラの声が響く。


『《願い》は《真願》へ進化しました』


『《蓄願》機能は消失』


『以後、未使用分の願いを保存することはできません』


 ナユは小さく頷いた。


 それでいい。

 アニスが戻ってきた。

 それだけでよかった。


『《真願》は、ナユの意志と深く結びついた権能です』


『万能性は低下していません』


『ただし、性質が変化しています』


『これは、神から借りた願いではありません』


『ナユ自身の願いです』


 ナユはアニスの髪を撫でた。


「おかえりなさい、アニス」


 小さく呟く。


 アニスは答えない。

 けれど、細い指がナユの服を掴んだ。


 ほんの少し。


 それだけで、ナユは泣きそうになった。


 扉の向こうで、誰かが叫ぶ声がした。


 戦いはまだ終わっていない。

 ロスルドもまだいる。

 王都もまだ救われていない。


 けれど、今この瞬間だけは。


 ナユは、戻ってきた友達を抱きしめていた。



「今日の記録:アニスの魂は、ほとんど消えかけていました。エリクサーでも、回復魔法でも、魂には届きませんでした。一度の《願い》でも足りず、《蓄願》三回分を使っても難しいとミラに言われました。だから、ナユタシステムを使って《願い》を進化させました。《蓄願》は使えなくなりました。その代わり、《願い》は《真願》になりました。私は、アニスを返してと願いました。アニスの魂は戻りました。アニスは、私の名前を呼んでくれました。日報完了」

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