第385話《光剣》
ナユは全力で踏み込んだ。
床が砕ける。
薄暗い部屋の中を、白い光が走った。
悪魔は微笑んだまま、杖を横へ滑らせる。
こつん。
軽い音。
それだけで、黒い壁が斜めに立ち上がった。
ナユの拳が、その壁へ叩き込まれる。
光と闇がぶつかり、部屋全体が揺れた。
机が跳ねる。
散らばっていた紙が舞う。
倒れた花瓶の破片が、床の上を滑った。
「おや」
悪魔は楽しそうに目を細める。
「見た目より、ずいぶん乱暴なお嬢様ですね」
「どいてください」
ナユは低く言った。
「アニスを助けます」
「それは結構」
悪魔は肩をすくめる。
「ですが、私もせっかく門をくぐった身ですので、すぐ帰るのは少々もったいない」
黒い影が、悪魔の足元から広がった。
影は細い鎖のように床を走り、ナユの足へ絡みつこうとする。
『影状拘束術式を確認』
(切ります)
ナユの手に光が集まった。
「《レイ・エッジ》」
光の刃が走る。
影の鎖がまとめて裂けた。
ナユは止まらない。
身体強化をさらに重ねる。
一重。
二重。
三重。
魔力が骨の奥まで満ちていく。
悪魔が杖を振る。
黒い羽のような刃が、無数に放たれた。
ナユは身を低くする。
光の刃で弾く。
腕で受け流す。
足元を蹴って、さらに前へ出る。
肩を一筋、黒い刃がかすめた。
痛みが走る。
けれど、止まらない。
「速いですね」
悪魔は笑う。
「けれど、まだ届きません」
悪魔の姿がほどけた。
黒い霧になる。
次の瞬間、ナユの背後に現れる。
『背後』
ナユは振り返らずに、肘を打ち込んだ。
光をまとった肘が、悪魔の胸元をかすめる。
黒い燕尾服が裂けた。
悪魔の笑みが、わずかに深くなる。
「これはこれは」
悪魔は一歩下がった。
「油断すると、傷をいただきそうです」
「もう、傷では済ませません」
ナユの手の中で光が伸びる。
「《レイ・ブレード》」
光の剣が形を取った。
ナユは踏み込む。
一撃。
二撃。
三撃。
悪魔は杖で受ける。
杖と光剣がぶつかるたび、黒い火花と白い火花が散った。
部屋の壁に亀裂が走る。
天井から細かい粉が落ちる。
アニスの倒れている場所へ、破片が飛びそうになる。
ナユは即座に足を止め、光を横へ払った。
破片が砕け、床へ落ちる。
悪魔はその動きを見て、口元に手を当てた。
「なるほど」
声は柔らかい。
「お嬢様を守りながら戦う、と」
黒い影が、アニスの方へ細く伸びた。
ナユの目が変わる。
次の瞬間、ナユは悪魔との距離を無理やり詰めた。
床が砕ける。
光剣が振り下ろされる。
悪魔は受け止めた。
だが、受け止めきれない。
杖ごと、悪魔の体が後ろへ押される。
「アニスに」
ナユの声が低くなる。
「触るな」
光が爆ぜた。
「《レイ・バースト》」
近距離で放たれた光の爆発が、悪魔を吹き飛ばした。
黒い壁が何枚も割れる。
悪魔の体が本棚に叩きつけられ、棚ごと砕けた。
だが、悪魔はすぐに立ち上がる。
燕尾服は裂けている。
白い手袋にも焦げ跡がある。
それでも、まだ余裕の笑みを崩さない。
「今のは、なかなか」
悪魔は帽子を拾い、軽く埃を払った。
「ですが、私を帰すには少し足りません」
黒い魔法陣が悪魔の背後に広がる。
そこから、いくつもの腕が伸びた。
影の腕。
人の腕のようで、人ではない。
それらが、ナユへ殺到する。
『数が多いです』
(全部、斬ります)
ナユは光剣を両手で握った。
身体強化をさらに上げる。
六重。
九重。
十二重。
筋肉が悲鳴を上げる。
骨が軋む。
だが、今は止まれない。
影の腕を斬る。
斬る。
斬る。
それでも増える。
斬った端から、黒い泥のように再生していく。
「魂を喰らう悪魔、と言われることもありますが」
悪魔は穏やかに語る。
「正確には、門を通るための対価が魂なのです。私は、いただけるものをいただく。契約とは、そういうものです」
「アニスは、望んでいません」
「でしょうね」
悪魔はあっさり頷いた。
「ですから、私はお嬢様の命令を聞いておりません」
その言葉に、ナユの動きが一瞬だけ止まりかける。
悪魔は続けた。
「誤解なきように。私は、あのお嬢様を壊した張本人ではございません」
黒い腕が、再びナユへ迫る。
「門が開き、名を呼ばれ、対価が差し出されるはずだった。ですが、対価が尽きていた。それだけのことです」
「それでも」
ナユは影の腕を斬り裂いた。
「アニスを苦しめるなら、敵です」
「ええ。今は、それで構いません」
悪魔は笑った。
黒い腕が束になる。
巨大な槍のように形を変え、ナユへ突き出された。
ナユは《レイ・ブレード》で受ける。
光剣が軋む。
闇の槍が押してくる。
足が床へ沈む。
背後にはアニスがいる。
避けられない。
『出力不足。既存光刃では押し負けます』
(なら、もっと)
『危険です。肉体負荷が急上昇しています』
(もっと、強く)
ナユの中で、何かが噛み合った。
身体強化。
光属性魔力。
闘気。
竜言語魔法。
今まで別々に使っていた力が、胸の奥でひとつの流れになる。
光剣が震える。
形が崩れた。
剣では足りない。
刃では足りない。
爆発でも足りない。
目の前の闇を、悪魔を、アニスを倒れさせたこの術式を、まとめて斬り裂く力が必要だった。
『未確認術式構造を検出』
ミラの声が響く。
『光属性階梯、上昇』
ナユの足元から、光が噴き上がった。
部屋全体が白く染まる。
悪魔の笑みが、初めて消えた。
「これは」
ナユの手の中に、巨大な光が集まる。
それは、ナユの小さな身体には不釣り合いな巨大な剣。
剣と呼ぶには、あまりにも大きい。
部屋の天井を突き抜けそうな光の刃。
世界そのものを斬るために生まれたような、白い光。
『危険です。魔力出力、既存上限を突破』
ミラの警告が響く。
だが、ナユは止まらなかった。
止まれるわけがなかった。
倒れているアニスがいる。
まだ息をしている。
まだ助けられる。
なら、目の前の悪魔に構っている時間などない。
ナユは光の刃を握りしめた。
「失せろ、糞悪魔」
声は低かった。
怒鳴ってはいない。
けれど、その言葉に込められた怒りで、部屋の空気が震えた。
「第八階梯――」
悪魔が後ろへ下がる。
黒い壁を何枚も展開する。
影の腕を盾のように重ねる。
それでも、遅い。
「《レイ・カリバー》」
光が、振り下ろされた。
音が消えた。
次の瞬間、白い斬撃が部屋を裂いた。
黒い壁が割れる。
影の腕が消し飛ぶ。
魔法陣が砕ける。
悪魔の体を、光の刃が斜めに斬り裂いた。
「っ……!」
悪魔の口から、初めて声にならない息が漏れた。
燕尾服が裂ける。
胸元から黒い霧が噴き出す。
漆黒の角に、細い亀裂が走る。
部屋の壁が吹き飛んだ。
カーテンが光に焼かれ、窓枠が砕ける。
屋敷全体が大きく揺れた。
外の廊下から、誰かの声が聞こえる。
だが、ナユは振り返らない。
光が収まった時、悪魔は片膝をついていた。
胸元から肩にかけて、深い斬撃が刻まれている。
黒い霧が傷口から漏れ続けていた。
悪魔は自分の傷を見下ろす。
そして、困ったように笑った。
「これはいけませんね」
声はいつも通り柔らかい。
だが、余裕は薄くなっていた。
「しばらく、綺麗には戻りそうにありません」
ナユは荒い息を吐いた。
腕が震えている。
足も重い。
初めての第八階梯。
その反動が、体中に残っていた。
それでも、ナユは悪魔を睨んだ。
「どいてください」
「ええ。そうしましょう」
悪魔はゆっくりと立ち上がる。
胸元の傷を押さえながら、帽子を拾う。
「このままでは、せっかくの現世を楽しめないではないですか」
黒い影が、悪魔の足元に広がった。
転移の気配。
ナユは追わなかった。
追っている場合ではなかった。
悪魔は帽子を胸に当て、優雅に一礼する。
「お嬢様をお救いになるのでしたら、急がれた方がよろしい」
ナユの目が細くなる。
悪魔は、どこか楽しそうに微笑んだ。
「またお会いしましょう、光のお嬢様」
次の瞬間、悪魔の姿は黒い霧にほどけた。
部屋に残ったのは、裂けた影の残り香と、焼けたような光の跡だけだった。
ナユは悪魔が消えた場所を見なかった。
黒い壁は、もうない。
アニスとの間を遮るものは消えていた。
「アニス!」
ナユは倒れたアニスへ駆け寄った。
白いドレスは乱れ、頬は青白い。
唇から、細い息が漏れている。
まだ生きている。
ナユはアニスの手を取った。
冷たい。
あまりにも冷たい。
『生命反応、極めて低下』
ミラの声が響く。
『魂の欠損反応あり。生命力の枯渇が進行しています』
(助けます)
ナユはアニスを抱き起こした。
逃げた悪魔のことなど、今はどうでもよかった。
ロスルドのことも、後でいい。
今、目の前にいる友達を助ける。
それだけだった。
ナユはアニスを強く抱きしめた。
◆
「今日の記録:悪魔と戦いました。悪魔は、アニスを壊した張本人ではないと言いました。門が開いたから現れただけだと。それでも、アニスを苦しめるなら敵でした。私は全力で戦い、初めて第八階梯を使いました。悪魔に深い傷を与えましたが、悪魔は転移して逃げました。追いませんでした。今はアニスを助けることが一番大事だからです。アニスはまだ生きています。絶対に助けます。日報完了」




