第384話《悪魂》
扉が閉まった。
外の剣戟が、厚い扉の向こうで遠くなる。
ナユは一人、部屋の中に立っていた。
薄暗い部屋だった。
厚いカーテンが窓を覆い、昼の光をほとんど閉じ込めている。
白い机。
倒れた花瓶。
床に散らばった紙。
そして、その奥にアニスがいた。
アニシア・ユラ・アンダルシアン。
ナユの友達。
アニスは椅子に座ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
白い頬。
整った唇。
人形のように綺麗な姿。
けれど、その目は濁っていた。
「……ナユ……」
小さく、名前を呼ぶ。
「アニス」
ナユが一歩近づいた。
その瞬間、アニスの表情が変わった。
まるで、何かのスイッチが入ったように。
ぼんやりしていた瞳に、作られたような光が宿る。
唇が吊り上がる。
それは、ナユが知っている優しい笑みではなかった。
「まあ」
アニスは、ゆっくりと立ち上がった。
「本当に来ましたのね」
声が変わっていた。
甘く。
冷たく。
高い場所から見下ろすような声。
「お久しぶりですわ、ナユ様」
ナユは足を止めた。
アニスは白いドレスの裾をつまみ、優雅に礼をする。
その仕草だけは完璧だった。
公爵令嬢として。
王都の貴族として。
誰よりも美しく振る舞う者として。
けれど、そこにアニスはいなかった。
「ずいぶん立派になられましたのね。辺境伯。王立学園の有名人。魔王国から帰ってきた英雄……」
アニスは笑う。
「どこへ行っても、皆があなたを見ますのね」
「アニス……」
「その名前で呼ばないでくださる?」
鋭い声が飛ぶ。
ナユの胸が、小さく痛んだ。
アニスは口元に手を当て、くすりと笑う。
「馴れ馴れしいですわ。私とあなたは、もう子供ではありませんもの」
「アニス」
「聞こえませんでしたの?」
アニスの声が、さらに冷たくなる。
「私は、アニシア・ユラ・アンダルシアンです。公爵家の娘。王都を導く者。あなたのように、都合よく人の心へ入り込む者とは違いますわ」
ナユは何も言わなかった。
アニスの言葉は酷い。
ナユを傷つけようとしている。
だが、ナユは見ていた。
アニスの事を。
アニスは笑っている。
口元だけは、綺麗に笑っている。
「あなたはいつもそうですわ」
アニスは続ける。
「何もかも手に入れる。誰からも好かれる。誰もがあなたを助ける。あなたが少し困った顔をすれば、皆が手を差し伸べる」
声は甘い。
けれど、震えていた。
「私のことなど、忘れていたのでしょう?」
「忘れていません」
「嘘」
即座に返ってきた。
「嘘ですわ。あなたは私を置いていきました。学園へ行き、魔王国へ行き、新しい友達を作り、新しい居場所を作った」
アニスの指先が震える。
「私は、ここにいたのに」
ナユは息を呑んだ。
アニスの言葉は、刃のようだった。
だが、その刃はナユだけではなく、アニス自身も傷つけている。
「アニス……」
ナユが言った。
アニスの動きが止まる。
「なぜ、そんな酷いことを言っているのに、泣いているのですか?」
「……泣いてなど」
アニスは頬に触れた。
指先が濡れる。
その瞬間、表情がわずかに崩れた。
「違う……」
アニスの声が揺れた。
「違いますわ。私は泣いてなどいません。私は怒っているのです。私は、あなたを……」
言葉が詰まる。
アニスの唇が震えた。
「あなたを……」
殺したい。
その言葉が、喉の奥まで上がっているようだった。
けれど、出ない。
アニスの手が胸元を押さえる。
「いや……」
小さな声が漏れた。
「違う……違うの……」
『感情反応が急激に乱れています』
ミラの声が響く。
『怒り、愛着、拒絶、恐怖、保護欲。複数の感情が衝突しています』
(アニスは、私を傷つけたくないのですね)
『その可能性が高いです』
ナユは一歩踏み出した。
「アニス。大丈夫です。私はここにいます」
「来ないで!」
アニスが叫んだ。
床に散らばっていた紙が、黒い風に巻き上げられる。
部屋の中の空気が変わった。
甘く濁った匂いが濃くなる。
灰。
花。
腐りかけた果実のような甘さ。
アニスの足元に、黒い紋様が浮かび上がった。
丸い魔法陣。
その周囲に、細い文字が走る。
ナユは見たことのない文字だった。
だが、嫌なものだとはすぐに分かった。
『術式展開を確認』
ミラの声が硬くなる。
『闇属性。階梯上昇処理あり。通常の成長ではありません』
(ロスルドの仕掛けですか?)
『可能性が高いです。対象の魔力回路に、長期的な薬物強化の痕跡があります』
ナユの目が細くなる。
この数年。
アニスの心だけではない。
魔法まで、無理やり変えられていた。
『闇魔法の階梯が、強制的に引き上げられています』
ミラが続ける。
『代償は生命力、および魂の一部。危険です』
アニスは胸を押さえながら、涙を流していた。
それでも口元は、歪んだ笑みを作ろうとしている。
「そうですわ……私は、王都を守る者……私は、臨時評議会の旗印……私は……」
言葉が壊れていく。
「ナユを……」
アニスの瞳から、さらに涙が落ちる。
「ナユを、殺して」
次の瞬間、別の声のように、かすかな願いが漏れた。
「……殺さないで……」
ナユの胸が締めつけられた。
二つの想い。
ナユを殺せという命令。
ナユを殺さないでという本心。
それが、アニスの中でぶつかっていた。
魔法陣が黒く輝く。
アニスの影が、床から立ち上がった。
「第七階梯」
アニスの唇が勝手に動く。
「《デモンズ・ソウルズ》」
黒い魔法陣が裂けた。
そこから、一人の男が現れた。
黒い燕尾服。
白い手袋。
整えられた碧の髪。
ありとあらゆるものを見通す、髪と同じ色の瞳。
長い耳。
漆黒の角。
そして、片手に添えられた黒い帽子。
悪魔。
だが、獣のような姿ではない。
飄々とした紳士のような姿だった。
悪魔は帽子を取り、優雅に一礼した。
「ごきげんよう、お嬢様」
その声は柔らかかった。
まるで、舞踏会の始まりを告げる執事のように。
アニスは震える手を伸ばす。
「命令しますわ……」
声が震えている。
「ナユを……殺して……」
すぐに、別の声が混ざる。
「殺さないで……」
悪魔は首を傾げた。
「これはこれは」
楽しそうに笑う。
「実に矛盾したご命令です」
ナユは構えた。
悪魔の気配は、軽い。
飄々としている。
だが、底が見えない。
ただ立っているだけで、部屋の温度が下がっていく。
アニスはさらに苦しそうに胸を押さえた。
「お願い……命令を……」
悪魔はアニスを見た。
そして、少しだけ残念そうに微笑む。
「申し訳ございません、お嬢様」
アニスの瞳が揺れる。
「貴女からは、もういただけるだけの魂がありません」
ナユの呼吸が止まった。
「なので、命令は聞けません」
その言葉が落ちた瞬間。
アニスの体から力が抜けた。
糸の切れた人形のように、前へ崩れる。
「アニス!」
ナユが駆け出す。
アニスは床に倒れた。
白いドレスが乱れ、細い腕が投げ出される。
頬は青白い。
唇から、かすかな息が漏れている。
まるで、魂まで絞り取られた後のようだった。
ナユはアニスへ手を伸ばそうとした。
だが、その前に悪魔が杖を床へ突いた。
こつん。
軽い音。
それだけで、黒い壁がナユとアニスの間に立ち上がった。
「おっと」
悪魔は微笑む。
「契約は不成立。ですが、門は開いてしまいました」
「どいてください」
ナユの声は低かった。
「アニスを助けます」
「それは困りました」
悪魔は帽子をかぶり直す。
「私も、ただ帰るわけには参りませんので」
ナユは拳を握った。
魔力が全身を巡る。
身体強化。
光属性。
闘気。
竜言語魔法の構造が、奥で震える。
『敵性存在を確認。分類、悪魔系召喚体』
ミラの声が響く。
『対象は第七階梯闇魔法によって出現。術者の制御下にはありません』
(倒します)
『全力戦闘を推奨します』
ナユは、黒い壁の向こうで倒れているアニスを見た。
まだ息はある。
まだ助けられる。
なら、迷っている時間はない。
「アニスを返してください」
悪魔は楽しそうに目を細めた。
「できるものなら」
黒い影が、悪魔の背後で翼のように広がる。
ナユの足元に、光が灯った。
次の瞬間。
ナユは全力で踏み込んだ。
◆
「今日の記録:アニスの部屋へ入りました。アニスは私に酷い言葉を言いました。でも、泣いていました。本当は言いたくないのだと分かりました。ロスルドが仕掛けたものが発動し、アニスは第七階梯を使わされました。悪魔が現れました。アニスは、私を殺してほしい気持ちと、殺さないでほしい気持ちの両方で苦しんでいました。悪魔は、アニスにはもう差し出せる魂がないと言いました。アニスは倒れました。私は、悪魔と戦います。日報完了」




