第311話《俯瞰》
城壁の上は、すでに安全圏ではなかった。
空に開いた穴は広がり続け、白い結界の縁が黒く侵食されている。
軋みが空気を震わせ、耳鳴りのような圧が肌を刺す。
黒いクジラは、その外側で悠然と泳いでいた。
まるで水面の向こうから、こちらを観察しているかのように。
サバリネは腕を組み、静かに見上げている。
隣でザヴェルが舌打ちした。
「……切りがねぇな」
穴の縁から黒い塊が落ちる。
落ちるたびに形を持ち、街へ散る。
潰しても、潰しても、止まらない。
「元凶を始末しないと意味がありませんわね」
サバリネの声は静かだ。
「だが上だ」
ザヴェルが顎をしゃくる。
黒いクジラは遥か上空。
質量も、瘴気も、桁が違う。
「飛んで届く高さじゃねぇ」
「仮に届いても、あの表面を削れる保証もありませんわ」
黒い膜が巨体を包んでいる。
ただの打撃では届かない。
ただの魔法では削れない。
その時。
黒いクジラが身を反らせた。
空気が沈む。
次の瞬間、巨体が落ちた。
再度、体当たり。
轟音。
結界が悲鳴を上げる。
亀裂が走る。
穴がさらに広がる。
白い破片が、空へ散る。
黒い風が一気に吹き込む。
そして。
裂け目という裂け目から、黒い塊が投げ込まれる。
屋根。
路地。
市場。
広場。
数を数える意味がない。
迷宮都市ナユタは、魔物の巣窟へと変わりつつあった。
下で悲鳴が上がる。
兵が押される。
冒険者が後退する。
ザヴェルが低く笑う。
「ちっ……面白ぇじゃねぇか」
指を鳴らす。
周囲の空気が歪む。
「俺は行くぜ?」
視線は地上。
溢れる魔物の群れへ。
サバリネが肩をすくめる。
「どうぞ。あなたは止まりませんものね」
だが次の瞬間、彼女も一歩踏み出す。
「やれやれ。放っておくと街が消えますわ」
二人は城壁から身を躍らせた。
落下。
重力が風を裂く。
最初に地面へ叩きつけられたのは、ザヴェルの拳だった。
衝撃が放射状に広がり、黒い魔物がまとめて吹き飛ぶ。
着地と同時に、蹴り。
熊型が真横へ飛ぶ。
サバリネは音もなく降り立つ。
足元から、黒い魔物の身体が腐り落ちる。
触れてもいない。
ただ“存在を許さない”かのように。
「数だけは立派ですこと」
彼女が微笑む。
地上の空気が変わる。
魔物が一瞬、足を止めた。
だが空では、黒いクジラが再び身を揺らしている。
まだ終わらせる気はない。
迷宮都市ナユタは、削られ続けている。




