第109話《志望》
昼下がりの陽が差し込む居間で、ナユは両手をぎゅっと握りしめた。
父と母、セバスチャン、ミナが揃ってこちらを見つめている。
「――学ぶ科を決めたのです。わたしは“冒険科”に行きたいのです!」
一瞬の静寂。
父は眉を上げ、しかしすぐに口元をゆるめた。
「冒険科……か。お前は“男爵”本人だぞ、身分だけ見ればもっと楽な道もある」
そう言いながら、父は肩をすくめ、にやりと笑う。
「――と、お前は三歳の頃から“深淵を踏破する”って言ってたな。今更止められる訳がない」
母があたたかく頷く。
「危ない橋は渡って欲しくないけれど……あなたの選んだ道なら、私達は支えるわ」
「お嬢様のご決断、誇りにございます」
セバスチャンが胸に手を当て、静かに言う。
「入学試験は“七日後”、王立学園都市レリティアにて。現在の王都からは馬車で一日――約五十キロ。前日に出立し、手前の宿場町にて一泊を手配いたします。宿は王立認定の旅館、治安も良好。夜間は私が交代で警備に当たります」
ミナが勢いよく頷いた。
「お嬢様、持ち物と装備、全部リストにします!道中の支度もお任せください!」
「助かるのです!」
ナユは胸が熱くなるのを感じた。
セバスチャンが補足する。
「試験は“当日申請・当日受験”。事前書類は不要で、各科ごとに会場が分かれております。冒険科は基礎体力、危機対応、簡易探索の三本立て――午前に筆記、午後に実技です」
「ふむ、理屈より現場、という奴だな」
父が感心したように頷く。
「怪我は絶対にしない事。無理は“少しだけ”にする事」
母は指を二本立てて微笑んだ。
我が子が無理をしがちなのを理解しているからこそ出た言葉であった。
「出発の日の朝は消化のよいものにしましょうね」
「ありがたいのです!」
ナユは背筋をのばし、深く頭を下げた。
「男爵として、そして冒険者として恥じないように、全力で挑むのです!」
窓の外で、風が若葉を揺らす。
その音が、家族の拍手に混じって心地よく響いた。
「旅程は私が詰めます」
セバスチャンが手帳を開く。
「護衛は私とミナで」
「旅立ちの日の朝にお弁当を渡すわね」
母が微笑みながら言う。
「お守りも……今夜渡しましょう」
「……ほんとうに、ありがとう、なのです」
ナユの声は少し震えていた。
けれどその瞳は、まっすぐ未来を見ていた。
父がわざとらしく咳払いをした。
「よし、それじゃあ“男爵殿”。夕食後に壮行会だ。失敗談でも披露してやろう。失敗の数だけ、強くなるからな」
「お父様の失敗談は長いので、要点を絞ってくださいね」
母が笑う。
みんなが笑う。
その真ん中で、ナユはぎゅっと拳を握った。
(絶対に受かるのです。深淵へ続く最初の一歩――外さない)
◆
――その夜。
寝室の灯が小さく揺れていた。
母が入ってきて、ナユの手に小さな包みをそっと渡す。
「これを持って行きなさい。“守りのブローチ”です。私が若い頃に手に入れた宝物なの」
銀の細工が月明かりを反射する。
胸の奥に、暖かいものが灯る。
「ありがとう、なのです。必ず帰るのです!」
母は微笑み、髪を優しく撫でた。
◆
――翌朝。
屋敷の門前には馬車が停まっていた。
セバスチャンが荷を積み、ミナが手綱を整えている。
ナユは淡いローブを身にまとい、胸元には“守りのブローチ”。
「行ってきます、なのです!」
父が腕を組みながら言った。
「忘れるなよ、ナユ。――“帰ってくる場所がある”ってことを」
母も手を振る。
「気をつけて。道中はセバスチャンとミナの言う事をよく聞くのよ!」
「はい、なのです!」
風が吹き、朝陽が昇る。
その光を背に、馬車がゆっくりと動き出した。
門の外の道は、まっすぐ学園都市へと続いている。
(行くのです。わたしの道を)
「今日の記録:家族に“冒険科に行く”と伝えました! 一週間後に王立学園都市で入学試験。馬車で前日移動して宿泊、当日申請・当日受験なのです。セバスチャンとミナが同行し、両親は“門出の朝”に見送ってくれました。お母様から“守りのブローチ”、お父様から“帰ってくる場所を忘れるな”の言葉!絶対合格するのです!……日報完了」




