第100話《別離》
朝の空気は澄んでいた。
屋敷の門前、砂利の上に停まった馬車の車輪が、陽に淡く光る。
御者が手綱を確かめるたび、革のきしむ音が小さく響いた。
ハクとクロは門柱の陰で静かに並び、耳だけをぴくりと動かす。
風に乗って運ばれる金具の匂い、油の匂い、そして少し甘い草の匂い。
ヒナは低く輪を描き、やがてリカリーネの肩にとまって「ピィ」と短く鳴いた。
母と父、ミナ、セバスチャンが一歩下がって見守る。
バルドランは、ナユへ視線を落とした。
「ナユ」
「はい、先生」
「六つになったら――王立学園都市の初等科へ行くとよい。学ぶ場でしか出会えぬ知恵と、人の縁がある。おぬしは光も闇も抱えておるし。大きい器を持っていると儂は思う。それ故に儂はお主に勧めたんじゃが、どうかの?」
言葉は短いのに、胸の奥に温かく沈むようだった。
ナユは背筋を伸ばして頷く。
「……行ってみたいのです。もっと知りたいのです」
「うむ。それまで、たくさん修行せい。魔法だけではない。よく食べ、よく眠り、よく笑え。全部が力になる」
「はい!」
並んでいたリカリーネが、ふいに拳を握った。
いつもみたいに勝気な笑み――に見えたが、端だけが少し震えている。
「……あたし、もっともっと強くなるから!!」
言い切った瞬間、ぐっと結んでいた唇がほどけ、目尻に涙が滲んだ。
耐えきれずに駆け寄って、ナユにぎゅっと抱きつく。
「……やっぱ、寂しいじゃん……!」
小さな体温が胸に押し当てられる。
ナユはその背中を優しく撫でながら、耳元でそっと囁いた。
「だいじょうぶなのです。すぐに会えるのです。だから今は――いってらっしゃい、なのです」
「……うん。ぜったい、また来るから」
ヒナがリカリーネの肩で「ピィ」ともう一度鳴く。ハクとクロは前足をそろえ、遠ざかるであろう方角をじっと見つめた。
ミナがそっと目頭を押さえ、母は微笑み、父は深く頷く。
セバスチャンは胸に手を当て、静かに一礼した。
リカリーネが腕をほどくと、バルドランは二人へ半歩近づき、目を細める。
「よい別れは、よい再会を連れてくる。――そろそろ時間じゃ」
リカリーネは涙を拭い、いつもの調子を取り戻すように人差し指でナユの額をちょん、と弾いた。
「泣くの、次に会うまでおあずけ!修行サボったら、承知しないからね!」
「サボらないのです!」
二人の笑顔が重なり、風が髪を揺らした。
バルドランが先に馬車へ乗り、リカリーネが続く。
扉が閉まる直前、老人がもう一度だけ振り返った。
「ナユ。おぬしの“優しさ”は、力じゃ。忘れるでない」
「はい、先生!」
扉が閉じる。御者が手綱を打つ。車輪が砂利を踏み、ゆるやかに動き出す。
ハクとクロが立ち上がり、一歩だけ前へ。
ヒナは肩から飛び立ち、短い弧を描いてから、静かにリカリーネの肩へ戻った。
馬車は門を抜け、朝の通りへ出る。
日の光が車体の縁で煌めき、角を曲がるたび反射がちらちらと踊った。
見えなくなるその瞬間まで、ナユは胸に手を当てて、まっすぐに手を振った。
「――またね、先生。リカちゃん。また、いっしょに歩くのです」
風が返事のように頬を撫でる。ハクが小さく吠え、クロが静かに尾を振る。
振り返ると、母の笑顔、父の温かな視線。
ミナの優しい頷きと、セバスチャンの変わらぬ礼。
空はひときわ青く、少しだけ広く見えた。
「今日の記録:先生とリカちゃんが旅立ったのです。胸がきゅっとしたけれど、笑顔で“いってらっしゃい”が言えたのです。六歳になったら王立学園都市の初等科に行くよう勧められました。それまで、修行も勉強も、いっぱい頑張るのです。……日報完了」




