【第5話「栄光と最終決着」】
王子の一行が到着したのは、快晴の朝だった。
石畳の大通りを馬車が進んでくる。沿道に並んだ住民たちが、珍しそうに——しかし警戒せずに——眺めている。工業領の人間たちは、もう騒がない。毎週どこかの偉い人間が視察に来るから、慣れてしまった。
アリシアは大通りの端で、腕組みをして待っていた。
作業着のままだった。今朝も炉の前に立っていたから、袖に煤が少しついている。
「……あれが、領主殿か」
馬車の窓から、若い男が顔を出した。
エドワード・アルディン。国王の末子。二十歳。王位継承順位は六番目で、自分でも「王になる可能性はほぼない」と言い切るらしい。真面目そうな目をしていた。アリシアを見た視線が、一度作業着に落ちて、また顔に戻ってきた。
「アリシア・フォン・クライン殿ですか」
「はい」とアリシアは言った。「ご案内します。足元が悪い箇所はありませんが、工場区域は騒がしいので、ご用意があればお使いください」
「……耳栓、ですか。用意してくれているのか」
「大体の方が驚かれるので」
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三時間、エドワードは工業領を歩き回った。
製鉄炉の前に立ち、設計図の説明を聞き、流通の仕組みを聞き、農業区画の水路を見た。数字が出てくるたびにメモを取り、質問をした。頓珍漢な質問は一つもなかった。アリシアが説明を省いた部分を「それはなぜか」と正確に突いてきた。
視察が終わった頃、エドワードは大通りの端で立ち止まった。
煙突から煙が上がっている。馬車が行き交う。子供が走っている。鍛冶の音が響いてくる。
「半年前まで、廃村だったというのは本当ですか」
「はい」
「……信じがたい」
「私も時々、そう思います」
エドワードが振り返った。真剣な目だった。
「率直に聞きます。あなたは今、何が欲しいですか。資金か、人員か、王家の後ろ盾か」
アリシアは少し考えた。
「正式な自治権です」
「自治権」
「この領地で行っていることを、誰にも止めさせたくない。伯爵家の命令にも、ギルドの干渉にも、左右されない土台が欲しい。王家の正式な承認があれば、それが得られます」
「それだけか」
「今は、それだけです」
エドワードはアリシアを見た。長い間、見た。
「わかった。自治権を与えよう。それと——辺境伯位も一緒に申請する。この規模の都市に、伯爵家付きの出先領主という立場は釣り合わない」
アリシアが目を細めた。
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。むしろこちらが——」エドワードは少し言葉を止めた。「このような土地を作った人間に、まともな地位を与えるのは当然の義務です」
アリシアは答えなかった。
代わりに、煙突を見上げた。
王家の正式な承認。辺境伯位。
それがあれば——誰も、何も、止められない。
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翌朝のことだった。
正門の前に、三台の馬車が並んだ。
最初に降りてきたのは、老いた男だった。オスカー・フォン・クライン。アリシアの父だった人間。半年前より、明らかに痩せていた。目が落ち着かない。後ろに義母がいるが、いつもの余裕が消えている。
次の馬車からイザベラが降りてきた。ドレスは相変わらず綺麗だが、顔色が悪い。
三台目の馬車から、レオンハルトが降りてきた。先日より、さらにやつれていた。
三人が正門の前に並んだ。
アリシアは報告を受けて、外に出た。
正門を開けなかった。門の外で三人と向き合った。
父が一歩、前に出た。
「アリシア……久しぶりだな」
「オスカー様」とアリシアは言った。名前で呼ばなかった。「ご用件を」
父の顔が歪んだ。
「……借金の件で、助けてほしい。家が——クライン家が潰れそうなんだ。お前だったら、なんとかなると思って」
「いくらですか」
「金貨二千枚だ。業者に騙されて、用水路の工事費が——」
「お断りします」
父が、息を呑んだ。
「な——しかし、お前だって元はクライン家の娘だろう。家族の情というものが——」
「家族の情」とアリシアは繰り返した。
静かだった。声を荒げなかった。
「勘当の夜を覚えていますか、オスカー様。十二月でした。日が暮れていました。荷物は革鞄一つ許されました。馬車は出してもらえませんでした。一時間歩いて、街道に出たところで、御者が見かねて乗せてくれました」
父が目を逸らした。
「その夜、私に家族の情はありましたか」
沈黙。
イザベラが前に出た。
「姉様! 私、悪かったと思ってるのよ! でも今さらそんなこと言っても仕方ないでしょ! 今困ってるんだから助けてよ、姉様の財力なら金貨二千枚なんて——」
「イザベラ様」
アリシアは真っ直ぐにイザベラを見た。
「あなたが最後に私に言った言葉を覚えていますか」
イザベラの口が止まった。
「『野垂れ死にしてね』と言いました。笑いながら」
「そ、それは——あの時は——」
「その通りになっていたかもしれませんね。運が良かっただけです」
イザベラが、眉を吊り上げた。「なによ! 偉そうに! 昔はあんなに地味で目立たなかったくせに! 姉様がこんなに成功するなんておかしいわ! ずるい! ずるいじゃない!」
「ずるい」
アリシアが、初めてかすかに首を傾けた。
「私は勘当されて、廃村に捨てられて、水も出ない土地で一から作りました。あなたはクライン家の屋根の下で暮らしながら、傾いた家計の立て直しを何もしませんでした。それをずるいと言うなら——」
アリシアは一拍おいた。
「そうですね。確かに不公平だったかもしれません。あなたは何もしないで守られて、私は何もしてもらえずに捨てられた。その点は」
イザベラが何かを言いかけた。
「でも、結果はご覧の通りです」
レオンハルトが最後に出てきた。
「アリシア、俺からも頼む。バルター家はもう——」
「先日お断りしました」
「わかってる。それでも——」
「バルター様」
アリシアは彼を見た。
「三人いっぺんに来たのは、誰の考えですか」
レオンハルトが押し黙った。
「まとめて来れば情に訴えやすいと思ったのでしょうか。あるいは、私が三人同時に断れるほど冷たい人間ではないと思ったか」
誰も答えなかった。
アリシアは静かに続けた。
「私はクライン工業領の領主です。昨日、王家より正式な自治権と辺境伯位の内定をいただきました。勘当された娘ではありません。血縁でもありません。私には、あなた方の要求に応える義務が、一つもありません」
父が膝を折り始めた。
それにつられて、イザベラも、レオンハルトも——三人が石畳の上に、順番に頭を下げた。
土下座だった。
アリシアはその光景を、しばらく見ていた。
なにも感じなかった。怒りも、哀れみも、溜飲が下がる感覚も——何も来なかった。ただ静かだった。
「お三方」とアリシアは言った。「頭を上げてください」
三人が、おそるおそる顔を上げた。
「クライン伯爵家の件については、民の生活が脅かされる事態になった場合に限り、最低限の支援を検討します。あくまで領主としての義務の範囲で」
父が目を見開いた。「アリシア……」
「ただし」
アリシアは続けた。
「私の名前を呼ぶのはやめてください。私は辺境伯アリシア・フォン・クラインです。オスカー様は『閣下』とお呼びください」
父が、石のように固まった。
「バルター領については、支援はしません。個人の経営判断の結果を、他領が補填する理由はありません」
レオンハルトが目を伏せた。
「イザベラ様については——」
アリシアはイザベラを見た。
イザベラは涙目だった。唇を噛んでいる。子供のような顔で、アリシアを見ていた。
「……縁談の斡旋なら、考えます。ただし、相手が望めばの話です」
イザベラが、「姉様……」と声を出した。今度は怒鳴り声ではなかった。
「私はあなたの姉ではありません」
アリシアは言った。
「閣下、です」
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三人の馬車が去ってから、リリアが飛んできた。
「見てました! 全部見てました! かっこよすぎます!」
「大声を出さないでください、仕事に戻ります」
「お姉さまってば!」
クラウスが近づいてきた。義手の指で帽子のつばをわずかに上げて、無言で目礼した。
アリシアは頷いた。
それで十分だった。
執務室に戻ると、机の上に新しい書類が積み上がっていた。道路の延伸計画、隣領との交易協定、新工場の設計依頼——。
アリシアは椅子に座り、一番上の書類を取った。
筆を持った。
窓の外に、工業領の街並みが広がっている。煙突の煙。石畳の道。行き交う人々。半年前には何もなかった場所に、今は確かに、一万人分の生活がある。
「さて」
アリシアは言った。
ノートを開いた。白いページに、新しい設計図を引き始める。次の工場の、水力発電機の、貯水タンクの——。
「次は、何を作ろうか」
ペンが走る。
インクの匂い。紙の感触。
窓から差し込む光の中で、アリシア・フォン・クラインは笑った。
誰かに見せるためでも、誰かに認めてもらうためでもなく——ただ、次に作るものが楽しみで、笑った。
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【第5話・了/完】
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「万能職人令嬢は辺境で最強の工業都市を創りました
〜勘当されたので現代知識と錬金工学で成り上がります〜」
完




