【第4話「実家の焦りと元婚約者の後悔」】
半年後。
クライン工業領の人口は、一万を超えた。
石畳の道が走り、工場の煙突が六本立ち、港のない内陸の地に関わらず交易所には毎日十台以上の馬車が出入りする。周辺の領主たちが視察に来て、一様に言葉を失って帰っていく。半年前まで「魔物が出る廃村」だったとは、もはや誰も信じない。
アリシアは今日も執務室にいた。
設計図と書類と帳簿が積み上がった机の前で、羽根ペンを走らせながら来客の報告を聞く。
「北区画の住宅、二十棟が完成しました」とクラウスが言った。
「入居予定者への鍵の引き渡しは明後日です。工期、ありがとうございます」
「それから、王都の商人組合から取引の打診が三件来ています」
「優先度をつけて並べておいてください。週末に見ます」
「お姉さまあ」とリリアが顔を出した。「南の倉庫に魔石の新しい採掘分が届きました。鑑定したらAプラス級が混じってました!」
「保管場所を分けておいてください。売却は来月まとめて」
流れるように指示が出て、流れるように片付いていく。
それが今のクライン工業領だった。
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一方、その頃。
クライン伯爵領では。
「……なぜだ」
オスカー・フォン・クラインは、執務室で頭を抱えていた。
机の上に広がっているのは、赤字続きの帳簿だ。昨年まではかろうじて黒字を保っていたのに、今年に入ってから急激に悪化している。用水路は老朽化し、製粉所は止まり、収穫量は下がり続けている。
直そうとした。しかし誰もやり方がわからなかった。
アリシアがいた頃は、なんとなくうまく回っていた。なぜかは、わからなかった。娘が何をしているのか、父親は一度も確認したことがなかったから。
「義妹のイザベラが薦めた業者に頼んだ用水路の工事が、三ヶ月で崩れた件についての損害はいかほどになりますか」と筆頭使用人が聞いた。
「……金貨五百枚だ」
「現在の手持ちは」
「……三百枚だ」
沈黙が落ちた。
「それと、隣領の伯爵家——バルター家から、支援の交渉が来ております」
「バルター家が? 何の支援だ」
「その……バルター家も、財政が厳しいようで」
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一方、レオンハルト・フォン・バルターは。
自室の窓から、荒れた畑を眺めていた。
三日前、旅商人から話を聞いた。クライン工業領のことを。元クライン伯爵令嬢が、半年で廃村を一万人都市に変えたという話を。
最初は笑った。荒唐無稽だと思った。
商人が見せてくれた工業領の製品——魔石ランプを手に取って、笑いが消えた。
精巧だった。王都の一流工房でも、これだけの品は出せない。魔力効率が市販品の三倍、光量は五倍、寿命は比較にならない。
これを作った人間の名前を、商人に聞いた。
アリシア・フォン・クライン。
「……そうか」
レオンハルトは、魔石ランプを持ったまま、しばらく動けなかった。
半年前。あの広間で、彼は何を言ったか。
職人なんて平民の真似。汗をかく女が俺の隣に立てるか。
頭の中で、その言葉が繰り返された。
繰り返すたびに、何か重いものが胸に落ちてきた。後悔とも恥ともつかない、名前のつけにくい感情だ。
しかし、レオンハルトは今の自分の状況も知っていた。
バルター領の財政は、今年中に持たない。借金の返済が滞れば、家が終わる。
……アリシアに頭を下げれば、あるいは。
その考えが浮かんだ瞬間に、レオンハルトは打ち消そうとした。しかし消えなかった。
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命令書が届いたのは、晴れた午後だった。
クライン伯爵家の紋章入りの封蝋。アリシアは開封して、一読した。
リリアが横から覗き込んだ。「何て書いてあるんですか」
「『当地は本来クライン伯爵家の傘下にある土地であり、開発による利益の一部をクライン家に納めること。また鉱山採掘権は家名において返還を求める』——だそうです」
リリアが絶句した。「……それ、本気で書いてるんですか」
「本気ですね」
「ひどい! アリシアお姉さまが一から全部作ったのに!」
「ええ」とアリシアは言った。「半年前に追い出した娘の成果を今から取り込もうとする、なかなか大胆な発想です」
返答は三行で済んだ。
曰く——『私は勘当の際に正式な書面を交わしております。法的に、私はすでにクライン伯爵家の人間ではありません。したがってご要望に応える義務はございません』。
クラウスが書類に目を通して「法的には完全に正しい」と確認した。
発送した。
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その三日後。
クライン工業領の正門前に、馬車が一台止まった。
降りてきた人物を見て、門番の青年がアリシアのところへ走ってきた。
「領主様。レオンハルト・フォン・バルター伯爵子息が、面会を求めています」
「通さないでください」
「はい?」
「門の前でお話しします」
アリシアが正門に出ると、レオンハルトが立っていた。
六ヶ月ぶりに見る顔だった。あの広間の時より、やつれていた。目の下に隈がある。
「アリシア」
「バルター様」とアリシアは言った。「なんのご用ですか」
「……その、話があって」
「どのようなお話ですか」
レオンハルトが、目を伏せた。長い沈黙があった。
「……俺が、間違っていた」
「どの件についてですか」
「婚約を破棄したことだ。お前のことを——見くびっていた。俺は……もう一度、考え直してもらえないか」
アリシアは、少し考えた。
「バルター領の財政難は、今年中に限界を迎えるそうですね」
レオンハルトの顔が強ばった。
「それが目的でしたら、お断りします」とアリシアは続けた。「それが目的でないとしても——」
アリシアは一歩、前に出た。声は変わらない。表情も変わらない。
「あなたは半年前、私に言いました。『汗をかく女が俺の隣に立てるか』と。私は今も汗をかいています。設計図を引いて、炉の前に立って、土を掘っています。それは変わりません。変わったのは、この土地だけです」
「だから——それがすごいと言って——」
「一つ聞かせてください」
アリシアが遮った。
「あの日、私は広間で、婚約破棄を告げられた後、一度だけ頭を下げました。覚えていますか」
レオンハルトが、黙った。
「覚えていないようですね。私は頭を下げて、あなたの靴の先を見ました。埃が一粒、ついていました。黄色い、麦の粉のような」
アリシアの声は穏やかだった。
「その時、あなたは私を一瞥もしませんでした。イザベラのほうを見ていた。私は透明でした」
レオンハルトが、口を開きかけて、閉じた。
「バルター様」
アリシアは半歩、下がった。
「あなたの顔を見ると、あの廊下の埃を思い出します。吐き気まではしませんが、いい気分にはなれない。それが答えです」
「……頼む」
レオンハルトが、ゆっくりと膝を折り始めた。
金髪の伯爵子息が、石畳の上に両膝をつく。
「助けてくれ。頭を下げる。俺が悪かった。だから——」
「バルター様」
アリシアの声は、変わらなかった。
「あの日の私は、頭を下げても透明でした。今のあなたが頭を下げても、私の目には映りません」
振り返った。
「お引き取りください」
正門が、静かに閉じた。
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夜。
執務室でリリアが「すっきりしました!」と言った。クラウスが「よろしかったのですか」と聞いた。
「何が?」
「バルター家は傾くでしょう」
「それは私が傾けたのではありません」とアリシアは言った。「彼が自分で傾けた結果です」
クラウスは少し考えてから、頷いた。
「……そうですね」
アリシアは窓を見た。
夜の工業領に、魔石ランプの光が点々と並んでいる。半年前には何もなかった場所に、今は一万人分の夜がある。
役立たず。
その言葉が、どこか遠い場所から聞こえた気がした。
アリシアは、静かに笑った。
【第4話・了】




