【第四話】冬将軍
ロシアは、一歩も退いていなかった。
日本、韓国、中国。
三方向からの連携攻撃を正面から受け、弾き、押し返し、それでもなおそこに立っている。
氷の国、冬将軍。
その異名に相応しい、圧倒的な停止力だった。工業地帯一帯の空気はすでに戦場というより災害の中心に近い。アスファルトは白く凍りつき、砕けたコンクリートの断面からさえ霜が伸び、呼吸をするたび肺の奥が痛む。
日本は薄く白い息を吐いた。
手の中の天下無刀は、冷えているのに妙な熱を宿しているようにも感じられており、横では韓国が低く姿勢を落としている。反対側では中国が、まだ負傷した身体でありながら金色の防壁を絶やさずに維持していた。
三人ともまだ立っている。立っているが優勢とは言い難い。
「っ……ほんと、硬い……!」
韓国が舌打ち混じりに吐き捨てる。
その直後、彼女の身体がまた横へ走った。
残像に近い速度。
ロシアの死角へ回り込み、低い体勢から膝蹴りを叩き込む。ほぼ同時に、韓国の足元を起点に地面が光る。踏み込みの衝撃そのものを次の加速へ転換するような、彼女らしい効率の良い動きだが、ロシアは避けない。
分厚い氷壁が斜めに立ち上がり、その一撃を真正面から受け止める。
鈍い音。
韓国の膝が壁に食い込み、ひびが走る。
そこへ、日本が飛び込んだ。
「富士式」
低い声。
振り抜かれる刃。
零式――富嶽三十六景。
一秒間に刻まれる高密度の連撃が、韓国の一撃でわずかに生じたひびへ集中して叩き込まれ氷壁が砕け散った。破片が朝の光を反射しながら飛び、細かな霜が舞う。しかしその壁の奥にいたロシアは、すでに次の氷壁を形成していた。
まるで最初の一枚が砕かれることごと、最初から計算に入っていたみたいに。
「……っ!」
日本の斬撃が二枚目の壁に食い込み止まりその瞬間、中国の声が飛ぶ。
「下がって!」
日本は反射で横へ跳んだ。
次の瞬間、さっきまで立っていた場所から巨大な氷柱が突き上がる。鋭く細い槍ではない。まるで氷山の一部がそのまま地面から生えたような、鈍重で巨大な柱だった。
それが当たっていたら、切り裂かれるというより押し潰されていた。
「……危な」
韓国が低く言い、もう一度距離を取る。
日本も着地し、ロシアから目を離さないまま問う。
「大丈夫?」
「大丈夫に見える?」
「昨日も同じこと言ってた」
「じゃあ成長しなさいよ、その質問の仕方」
口では軽く返すが、韓国の息は確実に乱れていた。目の前のロシアは、それほどまでに重い。
動きは決して速くない。派手な連撃もない。
なのに、一つ一つの選択が正確で、無駄がなく、相手の疲弊だけを着実に積み上げてくる。まるで戦っているというより、こちらが勝手に削られていくような感覚だ。
「日本」
後方から中国が呼ぶ。
日本が半歩だけ下がり、中国の方へ意識を割くと中国の表情は険しい。
「このまま正面から削るのは悪手よ」
「分かってる」
「本当に?」
「……多分」
「その答え方、不安なんだけど」
中国はそう言いながらも、左手を前へ出す。
金色の線が空間に走り、ロシアの左側へ斜めに防壁が立ち上がった。ただの防御ではない。
進路を絞る壁。
逃げ場ではなく、行き場を指定する壁だ。
「韓国!」
「分かってる!」
韓国が一気に踏み込む。
さっきまでの牽制ではなく、明確に“誘導された進路”へロシアを追い込む意図のある動きだった。ロシアの右側を切り、わざと正面へ押し戻し、そこへ日本が真正面から詰める。
日本の得意な形、視線を正面へ固定し、最短距離で急所だけを斬り取る。
富士式の本領。
震電で距離を潰し、そのまま零式へ。
だがロシアは、そこで初めて明確に日本を見た。
「来るか」
低い声。
次の瞬間、地面全体が凍った。
日本の足元、韓国の踏み込み、中国の壁の基部。その全部へ同時に霜が走る。
「っ!」
日本は咄嗟に足をずらす。
だが韓国は一歩だけ遅れた。
「ちっ!」
足首まで氷に絡め取られ、その動きが鈍る。
ロシアがそこへ向けて拳を振るった。
氷を纏った、ごく単純な一撃。
だが、重い。
日本は斬撃を諦めて横から割り込み、刀の峰でその拳を受けた。
金属と氷が衝突する鈍音。
衝撃が腕を痺れさせ、日本の身体が数歩押し戻される。
「日本!」
韓国の声。
日本は歯を食いしばり、なんとか体勢を保った。
「……大丈夫」
「全然そうは見えない!」
「でも折れてない」
「基準が怖いのよ!」
韓国が足元の氷を蹴り砕きながら距離を取り直す。その間に中国が壁を重ね、三人の前へ盾を作る。
ようやく一呼吸分の猶予ができたが、その猶予すらロシアは追わない。
ただ前に立ち、冷気だけを放ち続ける。
それだけでこちらの行動範囲は狭まり、体力も集中力も削られる。
「……最悪」
中国が額の汗を拭う。
冷たい空気の中でも、彼女のこめかみには汗が浮いていた。壁の維持と操作は、それだけ消耗が激しい。
「防御を剥がしても剥がしても、本体まで届かない」
「いや」
韓国が低く言う。
「本体に届いてないんじゃなくて、届いても意味がない感じがする」
日本も小さく頷く。その感覚は分かる。
さっき日本の斬撃は確かに壁を砕いた。
数度、ロシア本人にも浅く届いている。
それでも手応えが薄い。崩れる気配がない。致命傷へ繋がる線が見えない。
「この人……」
日本が目を細める。
「多分、攻撃を止めるんじゃなくて、受けても前へ出る人」
「何それ、最悪じゃない」
韓国が即答した。
「そうね」
中国が苦笑混じりに同意する。
「防御特化のくせに、受け身じゃない。むしろ自分から潰しにくる」
「……壁というより、氷河ね」
韓国が言う。
「こっちが殴ってもびくともしないで、そのままゆっくり全部飲み込むやつ」
その表現は妙に的確だった。ロシアは止まっているようで、止まっていない。遅いようで、確実に近づいてくる。だから怖い。
「相談は終わったか」
ロシアの声が届く。見れば、彼女はもうさっきより五メートルは前へ出ていた。話している間にも、着実に距離を詰めてきている。
中国が言い返す。
「相談中の女の子に割り込むなんて、最低よ」
「戦場で言うことか」
「言うわよ。礼儀は大事」
ロシアはその返答に、ほんの僅かだけ口元を動かした。笑ったのかどうかも曖昧な、微細な変化。
「面白いな」
「今さら?」
韓国が言う。
「私たち、割といつもこうだけど」
「そういう意味じゃない」
ロシアが一歩踏み出しその瞬間、周囲の温度がさらに落ちた。
「まだ折れていないことだ」
次いで氷が走る。さっきより広い。
道路そのものが白く染まり、建物の壁面にまで霜が広がる。遠くの鉄塔が軋む音まで聞こえた。
「……来る!」
日本が低く言う。
韓国がまた右へ。
中国が正面に壁。
日本は左から斜めへ入る。
三人の連携は悪くない。むしろ、かなり高い水準だ。
それでもロシアは真正面からその全てを受け切った。
韓国の速度に対しては足場を凍らせる。
中国の壁に対しては氷の圧で押し返す。
日本の斬撃に対しては分厚い壁と最小限の回避で角度を殺す。
一つ一つは決して派手ではない。なのに、全部が正解だ。
「っああもう!」
韓国が珍しく苛立ちを露わにする。
「嫌い! こういうタイプ!」
「私もよ!」
中国が同意しつつ壁を重ねる。
「何考えてるか分からないし、硬いし、地味に強いし!」
「褒めてる?」
日本が聞く。
「褒めてない!」
中国が即答した、その瞬間。
ロシアの拳が中国の前方防壁に直撃した。
轟音。
中国の万里の長城が、真正面から押し込まれる。
「っ!」
中国の肩が震える。
今までで一番重い一撃だった。
防壁は割れない。
だが確実に、押されている。
「中国!」
日本が叫ぶ。
「っ、平気……!」
「全然そう見えない!」
韓国が叫び返しながら、ロシアの側面へ回ろうとする。
だがその進路へ氷柱が突き上がる。
「うっざ……!」
韓国が後退を強いられロシアはその間にも、ひたすら前へ出る。中国の壁を押し、空間ごと潰すような圧で迫ってくる。
日本は一瞬で判断した。
このままでは中国の壁が耐えても、中国本人がもたない。
なら、前を切るしかない。
「どいて!」
日本が飛び出す。
中国の防壁の脇を抜け、ロシアの真正面へ。
天下無刀を低く構え、踏み込む。
だがロシアはそれを待っていたかのように、目を細めた。
「そう来ると思った」
氷の壁が今までよりさらに厚く立ち上がる。
日本の斬撃がそこへぶつかり、止まる。
その瞬間、ロシアの肘打ちが刀越しに日本の胸元へ入った。
「っ」
息が詰まり日本の身体が後ろへ飛ばされる。
地面を滑り、砕けたコンクリート片を散らしながらようやく止まる。
「日本!」
中国と韓国の声が重なる。
日本は咳き込みながらも片膝をついた。
胸が痛い。だが骨は折れていない。
まだ動ける。
「……大丈夫」
「その台詞、今日何回目よ!」
韓国が叫び中国も眉を寄せたまま言う。
「全然大丈夫そうじゃないの!」
日本は呼吸を整えながら立ち上がった。
その視線は、まだロシアから離れない。
痛い。
苦しい。
だが、それ以上に理解してしまったことがある。
勝てない。
このままの日本では。
富士式は通る。速さもある。精度でも上回っている部分はある。けれど決め手がない。
そして相手は、こちらが迷えば迷うほど有利になるタイプだ。
戦いが長引くほど、ロシアに寄っていく。
「……日本」
中国が低く呼ぶ。
その声音で、日本はすぐに察した。中国も気づいている。この流れの先を。
「駄目よ」
中国ははっきり言った。
「今、それは駄目」
「……何の話」
「とぼけないで」
中国の金色の瞳が鋭く細まる。
「あなたの顔、昨日と同じよ」
韓国が二人を見る。
「何?」
中国は韓国を見ず、日本だけを見て答える。
「こいつ、またあれを出そうとしてる」
韓国の表情が一瞬で変わった。
「は?」
「待っ!日本、まさか」
「まだ決めてない」
日本はそう言った。
だが、その言葉の時点で半分は答えを認めているようなものだった。
「決めないで」
中国が即座に言う。
「昨日出したばっかりでしょ。制御しきれてないって自分で言ってたじゃない」
「このままじゃ勝てない」
「今日は勝つ日じゃないかもしれないでしょ!」
中国の声が強くなる。
「引くことも選択肢よ!」
「引いたら?」
日本の声が静かに返る。
「この人が追ってきたら」
中国が詰まる。
韓国も何も言えない。
その沈黙を、ロシアだけが冷静に見ていた。
「なるほど」
低い声。
「そこまで追い込めているのか」
日本が顔を上げる。
ロシアは静かに立っている。
相変わらず表情は薄いが、その氷色の瞳の奥に、ごく僅かな熱が宿っていた。
「なら」
一歩。
冷気が揺れる。
「見せろ」
ロシアの声が、少しだけ強くなる。
「お前の本気を」
中国が唇を噛んだ。
「……最悪」
韓国が低く言う。
「煽るの?」
「本気で見たいんでしょ、あの人」
中国が返す。
「そういうやつ、一番厄介なのよ」
日本は二人の言葉を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
呼吸を整える。
頭の中で、あの日の空を思い出す。焼けた空。泣く若者。拳を握っていた自分。そして最後に、自分でそれを捨てると決めたあの日。
嫌だった。
心の底から。
「……仕方ない」
日本が目を開く。
その瞳には、すでに薄く赤が差していた。
中国が一歩前へ出ようとする。
「日本!」
「大丈夫」
「その大丈夫が一番信用できないの!」
中国の叫びは切実だった。
日本は一瞬だけ彼女を見る。
金色の瞳。
怒っていて、焦っていて、でもどこまでも自分を止めようとしてくれる目。
「ごめん」
日本が小さく言う。
「またそれ!?」
「でも、これは言うしかない」
日本は前へ出る。
白い髪が風に揺れる。
その毛先に、朝日とは違う赤が混じる。
「制御」
空気が止まった。
韓国が息を呑む。
中国が唇を噛む。
ロシアだけが、静かにその瞬間を見ていた。
「解除」
次の瞬間、世界そのものが一拍遅れたように感じた。
空気が重くなり地面の霜が砕ける。
建物の窓ガラスが連鎖的に割れ、冷気と熱気がぶつかり合う。日本の姿が変わっていく。
白を基調とした和服は、白と深紅の軍装へ。
髪には旭日のような赤が差し、瞳は完全な紅へ染まる。
刀は抜かれない。
代わりに握られる拳。
そこに立っていたのは、日本ではない。
日帝だった。
韓国が、思わず一歩後ろへ下がる。
「……ほんとに出た」
中国は言葉を失ったように日帝を見つめていた。何度か片鱗を見た。
昨日もほんの一瞬だけ触れた。
だが、こうして完全な形で真正面から見るのは初めてだった。
その存在感は、日本の延長でありながら、まるで別の生き物みたいに濃い。
「……なるほど」
ロシアが、初めてはっきりと笑った。
それは楽しげというには僅かすぎる変化だったが、それでも確かに感情と呼べるだけの熱があった。
「来たか」
日帝は何も答えない。
ただ、拳を握る。
空気が軋む。
ロシアが一歩前へ出る。
氷が鳴る。
そのまま、声を張った。
「こい! 日帝!」
韓国が思わず目を見開いた。
中国も息を呑む。
それは挑発ではなかった。
歓喜に近い。
強敵を前にした戦士の昂ぶりだ。
「……最悪」
中国が小さく言う。
「こういう相手だったのね」
「嫌いなタイプでしょ」
韓国が低く言う。
「ええ。ものすごく」
次の瞬間、日帝が消えた。
音より先に、圧がロシアへ届く。
拳。
真正面。
ロシアは即座に氷壁を展開する。
だが今までとは違う。
日帝の拳が、壁ごと叩き割った。
氷の破片が爆発的に飛び散る。
その奥でロシアが腕を交差させ、直撃を受け止める。
轟音。
アスファルトが陥没する。
ロシアの足元が、初めて大きく沈んだ。
「……いい」
ロシアが低く呟く。
「やはり、こっちだ」
日帝の返答は短い。
「遅い」
そのまま二撃目。
肘。
膝。
掌底。
剣ではなく拳による圧殺の連続。
大東亜共栄拳。
拳法というより、国家の圧力と軍勢の推進力を一人の身体へ圧縮したような戦い方だった。
ロシアの氷壁が次々に砕ける。
今まで三人がかりでも割り切れなかった壁を、日帝は正面から押し潰していく。
「……押してる」
韓国が呆然と呟く。
「違う」
中国が金色の瞳を細める。
「押してるんじゃない。崩してる」
言葉通りだった。
日帝は力任せではない。
ただ出力が高いだけでもない。
壁の継ぎ目、受けの方向、ロシアの重心、その全部を見切った上で、最も崩れる角度とタイミングだけを選んで叩き込んで精密で容赦がない。
それは日本の技術を持ったまま、日帝の暴力を乗せた形だった。
「っ……!」
ロシアが初めて、後ろへ下がる。
氷壁を重ねながら、それでも一歩引かされる。
日帝が追う。
「終わりだ」
低い声。
次の瞬間、拳がロシアの胸元へ直撃した。
今度は壁ではなく本人だ。
ロシアの身体が大きく浮き、後方へ吹き飛ぶ。何本もの鉄骨を砕き、コンクリート壁へ叩きつけられる。
衝撃で建物の外壁が崩れた。
土煙。
静寂。
「……マジで?」
韓国が呆然と呟く。
中国は何も言えなかった。
ロシアが、負けた。
少なくとも今の一瞬だけを切り取れば、そう見えた。
日帝はその場に立ったまま、動かない。
追撃しない。
追撃が必要ないと判断したのか、あるいは別の何かを警戒したのか。
その静止が、妙に不穏だった。
やがて、土煙の奥からかすかな声がした。
「……まだだ」
低い。
けれど、ロシアの声にしては少しだけ重い。
中国の表情が変わる。
「……何?」
韓国も眉を寄せる。
「終わってないの?」
煙の奥で、何かが揺らぐ。
冷気ではない。
もっと粘ついた、赤い何か。
ロシアの身体が、ゆっくりと起き上がる。
その色白の肌が、内側から染まるようにわずかに赤みを帯びていた。
氷色の瞳の奥にも、見慣れない色が滲んでいる。
日帝が初めて、わずかに目を細めた。
「……これは」
ロシアいや、ロシアだったものの口元がわずかに動く。
「増やせ」
声が二重に聞こえた気がした。
次の瞬間、地面が軋む。
アスファルトの裂け目から、無数の影がにじむように現れかけた。
人の形。
兵士。
まだ完全ではない。
形になる前に揺れている。
けれど、その気配だけで十分だった。
中国の背筋に冷たいものが走る。
「……何、あれ」
韓国も一歩後ろへ下がる。
「別人じゃない」
日帝は沈黙したまま、その赤い気配を見つめていた。
やがて、ロシアの身体がぐらりと揺れる。
影が消える。
赤みも一瞬だけ引いた。
完全には変わりきれないまま、ロシアは膝をつく。
そのまま地面に片手をつき、荒くはないが重い呼吸を繰り返した。
日帝の紅い瞳が静かに細まる。
ロシアはうずくまったまま動かない。
だが、その周囲の空気だけは明らかに変わっていた。
さっきまでの冬将軍とは別種の、もっと危険で、もっと得体の知れない何か。
中国がようやく声を絞り出す。
「……日本」
「今の、見た?」
日帝は短く答える。
「見た」
「何だと思う」
「分からない」
珍しく、率直な返答だった。
韓国が唇を噛む。
「冗談じゃないんだけど。倒したと思ったら、なんかもっとヤバそうなの出かけたんだけど」
「完全に出てはいない」
中国が言う。
「でも、出かけた。それが最悪なの」
韓国が頷く。
「同意」
その時、ロシアがゆっくりと顔を上げた。
まだロシアだ。
けれど、その瞳の奥にはさっきまで確かになかった影が残っている。
「計画を開始する」
その瞬間悪寒が走った。声がロシアのものではなく別の何かの声だった。
同じ頃。
欧州の一角、厚い石壁と重い沈黙に包まれた会議室では、空気がまた一段階冷えていた。
東アジア方面から送られてくる観測データが、大きなモニタに次々と表示されている。
ロシアの出力上昇。
日本の異常変化。
瞬間的に膨張した赤い反応。
そして最後に記録された、説明不能な二重波形。
「……おかしい」
ドイツが低く呟く。
その表情はほとんど変わらないが、声のわずかな硬さに異常を察したフランスが、組んでいた足をほどいた。
「何が?」
ドイツはモニターを見たまま答える。
「ロシアの波形だ」
「ただの出力上昇じゃないの?」
「違う」
ドイツの指先がデータを拡大する。
「二つある」
フランスが目を細めた。
「……二つ?」
「正確には、一つの器の中に別の反応が重なっている」
その表現に、窓際で微笑んでいたイギリスが初めてわずかに眉を上げた。
「へえ」
珍しく、心底興味を持ったような声だった。
ドイツはさらに続ける。
「しかも、それは既存のロシア本体のパターンとは一致しない。もっと古く、もっと重い」
フランスが小さく舌打ちする。
「嫌な予感しかしない言い方ね」
「事実だ」
ドイツは短く返し、それからモニタに表示された別の波形へ視線を移した。
「日本も同様だ」
「日本も?」
「未完全だが、過去の反応が明確に再起動している」
イギリスがくすりと笑った。
「面白い」
「どこが」
フランスが即座に睨む。
イギリスは視線をモニタへ向けたまま言う。
「止まったはずの国が、また歴史を引っ張り出し始めてる」
「それの何が面白いのよ」
「退屈じゃない」
フランスが本気で嫌そうな顔をした。
「ほんとにあなた、碌でもないわね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてない」
「知ってる」
ドイツは二人のやり取りをほとんど聞いていないようだった。
彼女の視線はずっと、ロシアの波形に釘付けになっている。
その形。
その古さ。
その重み。
どこか、見覚えがある気がした。
いや、正確には記憶として知っている。
自分の歴史に深く刻まれた、かつての敵の気配に近い。
「……まさか」
小さく漏れたその声を、隣にいたフランスだけが聞き取った。
「何?」
ドイツはしばらく答えなかったが、やがて小さく首を振った。
「まだ断定はできない」
「だから何を」
ドイツはゆっくりと顔を上げる。
「もし、あの反応が私の推測通りなら」
一瞬だけ、沈黙。
そのわずかな間さえ、会議室の空気は重かった。
「東も西も、もう現在だけでは戦っていない」
フランスが目を細める。
「つまり?」
ドイツの答えは短かった。
「歴史が、前線に出始めている」
イギリスが、窓の外を見ながら小さく笑った。
「いいね」
その声は、いつもより少しだけ楽しそうだった。
「本当に面白くなってきた」
フランスは露骨に顔をしかめる。
「その台詞を笑顔で言えるあなた、やっぱり最悪よ」
「ありがとう」
「だから褒めてないって言ってるでしょ」
会議室の窓の向こうで、欧州の空は薄く曇っていた。まだ嵐ではないけれど、確実に天気は崩れ始めている。
そしてその中心には、きっとまだ名のつかない何かがいた。




