恒常、激動にて
ーホメオスタシス。
ある一定の範囲の状態を保つ。恒常性。
俺は思い出していた。
この研究施設で実験対象として散々無理なことを強要されていたことを。
そもそも、俺は普通の高校生だった。
丁度日本の内閣総理大臣が変わった頃、政策がガラッと代わり、それこそ軍事国家のような思想へと変貌していた。
今まで平穏無事に暮らしていたのに、突然召集礼状が届いた。
内容は、妹のDNAが日本に役立つから喜んでその身を受け渡せとかそういうものだった。
両親は研究者で、国内でも有数の珍しい研究をしていたという。
そのサンプルとして妹の血液を採取したとき、偶然発見されたそうだ。
両親は、親である前に研究者だった。
そして、召集に応じれば確実に人権も無視されるような扱いをされることだと、子供の俺でもわかっていた。
俺は反対した。
ダメだと。
どうしてもというのなら俺がやる、と。
しばしの猶予と血液の採取による判定が行われた。
どうやら俺が代わりになっても問題ないのだと。
検査結果が出るや否や、俺はかの研究所に連れて行かれた。
唐突過ぎて、瑞希に別れの挨拶もできなかった。
彼女とは幼いころからの付き合いで、転入してきたときに身体が弱いらしく周囲になじめず孤立していたところ、昔の妹とその姿を重ねてしまってた気づけば話しかけていた。
俺がいなくなっては、妹しかあいつの話し相手になってやれない。
うまくやっていけるか心配だった。
研究所についてからは、毎日決まった時間に起き、決まった時間においしくもない薬品なのか食べ物なのかよくわからないものを与えられ、気の遠くなるような臨床実験を繰り返す日々だった。
その研究所に両親はいたが、全く心強いとは思えず、相変わらず物のように扱われた。
別段ショックでもなんでもなかった。
俺の親はそういうやつなんだって、とうの昔に気づいていた。
妹が心配だ。
何ヶ月たったのかわからない。
実験の最中、気づけば俺は自分の中に話し相手ができていた。
誰と話すこともなく、そもそも声を発する機会もないまま過ごしていく日々の中で
その話し相手と会話をするのだけが俺の楽しみになっていた。
壁を見つめたままにやーっと笑う俺の姿は、さぞ滑稽であっただろう。
あるいは、もう俺は壊れていたのか。
研究内容に興味なんぞなかったが、両親が話していることをたまたま聞いた。
今日本では平行世界についての研究をしているらしい。
同じ場所で、異なる結果を歩んだ世界。
表側、裏側と呼称していた。
2面性しかないのだろうか。
ランダムでその両面をつなぐトンネルが発生するという。
そこを通れば人間が平行世界を行き来できるという。
被験体としてたくさんの人間がそのトンネルを抜けるために用意された。
研究者はいつも頭を抱えている。
仕事というとそんなものなのかもしれないが、全く楽しくなさそうだ。
今日、あれだけたくさんいた被験体の最後の一人がトンネルに向かった。
今まで帰ってきたものは一人もいない。
実験は失敗ということだろう。
ある日。
両親が喜んでいる姿を久しぶりに見た。
詳しくは知らないが、今まで準備段階だったが、俺の脳と眼には特殊なことをすることができるらしい。
全く興味はない。
ただ、それを聞いてまた実験の種類が増えるんだな、と人事のように感じた。
研究所は大盛況だった。
俺を使った実験が成功したらしい。
誰かが話しているのを聞いた。
脳だけ活かしコンピュータとして使おう、と。
たぶん俺のことだろう。
またそれを人事のように聞いていた。
改めて考えることはしなかったが、この世界に未練はないみたいだ。
それからしばらく記憶がない。
いつも話しかけているアイツが身体を使っていたのだろうか。
考えるのも億劫だ。
何もしたくはない。
ただ、久しぶりに妹と瑞希の顔が浮かんだ。
今日は夜に眼が覚めた。
実際朝から行動していたのだろうが、それは俺じゃない。
もう一人の俺だ。
考えてみるとちょくちょく記憶がない。
どうでもいいことだが。
今日も夜に眼が覚めた。
警報がずっと鳴り響いていた。
研究所内は、ところどころ火の手があった。
どうでもいい。
ふと、肩を掴まれる。
「楓。助けにきたよ」
瑞希だった。
「楓!」
突然の声にハッとする。
見れば個室のドアを瑞希が開いていた。
研究所内は警報が鳴り響いていて、赤いランプが明滅している。
「急いで!」
葵を抱え、部屋から脱出する。
迷いなく進む瑞希についていく。
葵の身体はその小さい見た目通り、心配するほど軽かった。
「こっち!」
なんとかエントランスホールに辿り着く。
正面ドアを抜ければ外だ。
その後のことはわからないが、ただ…。
「瑞希」
ただ、言っておきたいことがあった。
「なに?」
「また、助けてもらったな。ありがとう」
今まで忘れてて、すまん。
瑞希はその元々大きい瞳を更に見開いていたが、察してくれたのか、
「ううん、あたしこそ、ありがとう」
笑顔で応えてくれた。
とにかく今はこの先のことを考えなくては。
「ここを抜けたらどうするんだ!?」
息せき切って、ひた走る。
振り返って瑞希は答える。
「大丈夫!考えてるの。あたしのーー」
彼女の言葉が最後まで聞こえることはなかった。
瑞希の表情が悲痛に歪む。
その胸からは夥しい量の血液が飛び出ていた。
パーン。
その乾いた音は、ホール内で木霊し遅れて聞こえてきた。
「あたしのーーなんだったんでしょうね?」
にこやかな笑顔の、今のこの状況の元凶。
仲間の振りして俺たちを襲ったーー。
「瑞希!」
葵を降ろし、傍に駆け寄る。
返事が、ない。
目前で突如訪れる、死ーー。
信じられない。
そんな概念、俺は知らない。
認めない。
こんな簡単に、人が…。
「簡単に死ぬんですよ、人って」
相変わらずにこやかにしている。
レジスタンス・リーダー。もとい裏切り者。
「…うるせえ」
耳障りだ。
葵をこんなにしたのもこいつだ。
「何なんだお前!?」
激情に駆られる。
理解できない。
本能が疼く。
ーころしてしまえ、と。
「何、と言われても」
困ったように顎先に指を置く。
うーん、と考えこんでいた。
「私は、貴方ですよ」
しばし考えていたかと思うとわけのわからないことを言い放った。
「……」
なんなんだこいつは。
ふざけてる…。
「あ、信じてませんね?
比喩でも謎かけでも挑発でもなく、素直に答えたのですが」
「…つまりてめえは死にてえのか」
そも、話している余裕など最初からない。
相手が持っているのは鉄砲じゃなければ今すぐにでも飛びかかっているところだ。
「あーそういうこと言いますか。
私は貴方に会えて嬉しいんですよ。私では到達しえなかったところに、貴方なら届くかもしれない」
余裕を見せている。
すぐには殺さないつもりなのだろうか。
「わかってないようなので簡単に。
私は世界視に望む答えを出せなかった。貴方なら知ってるんじゃないですか?
ホメオスタシス」
「…?」
横文字が出てきたが。
俺のことだろうか。
「何言ってんのかわからんが、それ以上御託並べるぐらいならかかってこいよ」
見え見えの虚勢を張る。
何しろ相手は飛び道具。卑怯だ。
「…本当にわかってないみたいですね。それなら貴方に用はない。
次を当たります」
獲物を構える。
銃口、真っ暗な丸い部分がはっきり見える。
あれ…俺、死ぬのか。
不思議と少しも動くことができなかった。
死に直面するとはこういうことなのか。
ー意識が、遠くなる。
「さようなら」
その指に躊躇なく力が込められる。
パーン。
さっきと同じようにホール中に木霊する発砲音。
容赦なく人の命を奪う文明の利器は、ただの暴力だ。
そこには慈愛も恐怖もない。
ただ、死が差し迫る。
寸分狂わず放たれた直線の死は、しかし虚しく壁にぶつかった。
「…ク」
にこやかだった笑みに、残虐さが滲む。
「避けたな?テメェ」
倒れるだけの運命だった俺は、そこに依然として立ち尽くしている。
さっきまでと違う点はたった一つ。
右眼。
無機質な色へと変わったソレ。
ホメオスタシス。
恒常性を願う。




