第七話「ベルク商会の影と、ゴルドの武勇伝」
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ベルク商会の男が初めて店に来たのは、朝営業を始めてから十日ほど経った、穏やかな昼下がりのことだった。
最初は、普通の客に見えた。
三十代半ばくらいの、小ぎれいな身なりの男。商人風の上着に、磨かれた革靴。髪はきっちり整えられていて、笑顔は愛想がいい。一見すると、どこにでもいる裕福な旅商人だ。
でも。
俺には、何かが引っかかった。
前世でも、こういう人間を何度か見たことがある。飲食店に「視察」に来る、チェーンの本部社員や、買収を狙う投資家。笑顔の奥に「値踏み」の目がある人間の空気を、俺はアルバイト時代に嫌というほど覚えていた。
男はカウンターに座り、周囲を見渡した。
客の入り、席の配置、厨房への動線。さりげなく、でも確実に観察している。
「何にしますか」
「牙猪どんぶり、一つ」
にこやかな声だった。
どんぶりを出すと、男は一口食べた。
「……旨いですな」
「ありがとうございます」
「この味は、普通の食堂ではなかなか出せない。腕のいい料理人が入ったと聞きましたが——あなたですか」
「そうです」
「いつからここで?」
「少し前から」
男はにこにこしながら、また一口食べた。
「どちらのご出身で?」
「遠いところです」
「ははあ」
男はそれ以上聞かなかった。代わりに、店内をもう一度ゆっくりと見渡した。
「いい店ですね。雰囲気がある」
「ありがとうございます」
「主人はゼノフさんでしたか。長くやっていらっしゃる」
「そうです」
「お話しできますか」
俺は少し間を置いてから、答えた。
「ゼノフさんは今、仕込み中です。用件があればお伝えします」
男はにっこりと笑った。
「いえ、急ぎではありません。またうかがいます」
それだけ言って、どんぶりを平らげ、代金を払い、男は帰った。
ゼノフさんに話すと、「そうか」と静かに言った。
「来ましたか、とうとう」
「心当たりがありましたか」
「先週、近くの乾物屋にも来たらしい。看板を変える気はないかと聞いたそうで——断ったら、翌日から仕入れ業者が来なくなったって」
俺は思わず眉をひそめた。
「仕入れを止めさせたんですか」
「そういうことができる商会なんだよ。この街の仕入れルートの一部を、もう抑えているらしくてね」
「……それは」
「まあ、うちはまだ直接何も言われていないから、今は普通に対応するよ。ただ——」
ゼノフさんは少し考えてから、俺を見た。
「トウヤくん、仕入れ先をもう少し分散させておけるかい。朝市だけじゃなく、別のルートも作っておきたい」
「わかりました。当たってみます」
「頼んだよ。ゼノフは料理のことしかわからないからね、はっはっは」
笑いながら言っているが、ゼノフさんの目は笑っていなかった。
その日の夕方、ゴルドが来た。
どんぶりとエールを注文して、いつもの席に落ち着いたところで、俺はさりげなく隣に立った。
「少し聞いていいですか」
「なんだ」
「ベルク商会を知っていますか」
ゴルドの手が、エールのジョッキの上で止まった。
止まった時間は一瞬だったが、俺には十分だった。
「……知っている」
「どんな商会ですか」
ゴルドはエールを一口飲んでから、低い声で言った。
「北の大都市を本拠地にしている。表向きは食料品と日用品の卸売り商会だが、実態は街ごと流通を抑えて利益を吸い上げる組織だ。十年前から勢力を広げている」
「この街には最近来たと聞きました」
「三ヶ月前からだ。俺も耳には入っていた」
「ゼノフさんの店にも来ました、今日」
ゴルドはじっと俺を見た。
「……そうか」
「まだ話をしにきただけですが」
「次は圧力をかけてくる。それがやり口だ」
俺は少し考えてから、聞いた。
「ゴルドさんは、この街に長くいるんですか」
「十五年だ」
「衛兵隊とは、どういう関係ですか」
「ラドクとは古い付き合いだ。信用できる男だ」
グレイが「真っ当な人間に見える」と言っていたのと、一致した。
「商会と衛兵隊が繋がっているという話を聞きました」
「……」
ゴルドは長い沈黙の後、ぼそりと言った。
「繋がっているのは隊の全員じゃない。一部だ。ラドクがどこまで把握しているかは、わからない」
「複雑ですね」
「街というのは、そういうものだ」
ゴルドはどんぶりを引き寄せて、箸を取った。
「俺にできることがあれば言え。ゼノフさんの店に手を出す連中は、俺が許さん」
それは静かな言葉だったが、岩のような重さがあった。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。エールをもう一杯持ってこい」
夜になって、グレイが来た。
串焼きと卵焼きを注文して、いつもの隅の席へ。
俺は少し迷ってから、閉店間際に声をかけた。
「今日、ベルク商会の男が来ました」
グレイは串焼きを食べる手を止めなかった。
「見た」
「いたんですか」
「ずっとここにいた」
そういえば今日のグレイは、来た時間がいつもより早かった。
「……見ていてくれたんですか」
「別に。飯を食いに来ただけだ」
グレイはそっけなく言って、串の最後の一口を食べた。
「あの男の名前はセルヴァ。ベルク商会の渉外担当だ。口が上手くて、一見温厚に見えるが——交渉が決裂すると豹変する」
「ゼノフさんの仕入れ先を抑えることは、できますか」
「俺の取引先に、この街の流通に詳しい人間がいる。別ルートの手配なら、できなくはない」
「……お願いできますか」
グレイはしばらく俺を見てから、ぼそりと言った。
「卵焼きを、明日も食えるようにするためだ。恩に着るな」
「わかりました」
閉店後、ゼノフさんと二人で片付けをしながら、俺は今日のことを全部話した。
ゴルドの言葉。グレイの情報。仕入れルートの件。
ゼノフさんは黙って全部聞いた。
話し終えると、ゼノフさんはしばらく雑巾を絞り続けていた。
「……この店、ずいぶん心強い常連がいるもんだね」
「本当に、そう思います」
「俺が一人でやっていた頃は、こんなこと考えたこともなかったよ。ただ飯を作って、来た人に食わせて、それだけだった」
「それは今も変わっていないと思います」
「そうかな」
ゼノフさんは俺を見た。
「トウヤくんが来てから、店が変わった。料理も変わったし、来る人も変わった。それはわかる」
「……すみません、余計なことを」
「余計なことじゃないよ」
ゼノフさんははっきりと言った。
「俺はね、トウヤくんが来てくれて、本当によかったと思っている。ただ——」
ゼノフさんは少し表情を翳らせた。
「お前に、面倒をかけてしまうことが申し訳ないね」
「俺はここで飯を食わせてもらっている身です。当たり前のことをしているだけです」
「当たり前じゃないよ」
ゼノフさんはふっと笑った。
「まあ、なるようにしかならないね。それより——」
「はい」
「明日の仕込みを頼んだよ、はっはっは!」
翌日の朝。
ラドク隊長がいつものように麺を食べに来た。
部下を帰してから、隊長は静かにカウンターに残った。
「少し話がある」
「はい」
ラドク隊長は器を脇に置いて、声を低くした。
「ベルク商会が、この辺りの食堂に接触し始めている。知っているか」
「昨日、来ました」
隊長は少し眉を上げた。
「そうか。……何か言われたか」
「まだ、世間話の範囲でした」
「そうか」
隊長は少し考えてから、続けた。
「はっきり言う。あの商会は、正規の商業活動だけをしているわけではない。我々も調査中だが、証拠を掴むのが難しい状況だ」
「衛兵隊の中にも、繋がっている人間がいると聞きました」
ラドク隊長の目が、鋭くなった。
「……誰から聞いた」
「複数の人から、噂として」
隊長はしばらく俺を見ていた。
「……否定はしない。内部の調査も同時に進めている」
「そうですか」
「この店に何かあれば、直接俺に言え。部下を通さず、俺に直接」
俺は頷いた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。旨い麺が食えなくなるのは困る」
ラドク隊長はそう言って席を立った。
その背中を見ながら、俺は思った。
(ゴルドが言っていた通り、信用できる人間だ)
その日の昼。
ゴルドがどんぶりを食べながら、珍しく昔話をし始めた。
きっかけは些細なことだった。ハンスが「そういえばゴルドさんって、若い頃は何してたんですか」と聞いたのだ。
「傭兵だ」
「どのくらいやってたんですか」
「二十年」
「に、二十年!?」
ヨハンが目を丸くした。
「どこで戦ってたんですか」
「あちこちだ。北の国境紛争に五年。それから東の砦の守備に三年。後半は各地の護衛任務が多かった」
「すごい……なんで今は、この街に?」
ゴルドは少し間を置いてから、どんぶりを一口食べた。
「……ゼノフさんの飯が旨かったからだ」
一瞬の沈黙の後、ハンスとヨハンが「それだけですか!?」と声を揃えた。
「それだけだ」
ゴルドは至って真剣な顔だった。
「二十年、戦場を渡り歩いた。各地で飯を食ったが、どこに行っても腹は満たされても、何かが足りない感じがした。この街に流れ着いて、たまたまこの店に入って——ゼノフさんの煮込みを食べた時に、初めてそれがなくなった」
厨房からゼノフさんの「たっはっは!」が聞こえてきた。
「大げさだよ、ゴルドくん!」
「大げさじゃない」
ゴルドはぼそりと言った。
「本当のことだ」
ハンスとヨハンは顔を見合わせて、なんとなく黙った。
俺も黙って、その言葉を聞いていた。
(ゼノフさんの飯には、そういう力がある)
俺が来る前から、この店はそういう場所だったのだ。
「ゴルドさん」
俺は思わず声をかけた。
「なんだ」
「二十年の傭兵生活で、一番記憶に残っている戦いはなんですか」
ゴルドは俺を見た。
「なぜ聞く」
「なんとなく、聞きたくなりました」
ゴルドはしばらく考えてから、エールを一口飲んだ。
「……北の国境で、百人の砦を五百人の軍から守った戦いがある」
「五百人!?」ハンスが叫んだ。
「守り切ったんですか」
「七日間守った。援軍が来るまで」
「どうやって」
「食料を守ったからだ」
俺は少し驚いた。
「食料を?」
「戦いで一番先に崩れるのは、腹が減った時だ。百人が七日間戦えたのは、食料の管理が完璧だったからだ。誰も腹を空かせなかった」
ゴルドはどんぶりを見た。
「戦場で一番大事なのは、剣でも魔法でもない。飯だ」
俺はその言葉を、しばらく噛みしめた。
(剣でも魔法でもない。飯だ)
「……それを教えてくれた人がいるんですか」
「俺の親父だ。飯屋をやっていた」
ゴルドは静かに言った。
「親父は戦えなかった。体が弱くてな。でも戦場で飯を作る仕事をしていた。俺はその背中を見て育った」
「……今はどちらに」
「もういない」
短い言葉だったが、その重さは十分に伝わった。
「ゴルドさん」
「なんだ」
「ゼノフさんの飯に、何かを感じたのは——お父さんの飯に似ていたからじゃないですか」
ゴルドは俺を見た。
長い沈黙があった。
「……余計なことを言う奴だ」
「すみません」
「……否定はしない」
ゴルドはエールを飲み干して、器を置いた。
「追加を頼む」
「はい」
その夜遅く。
俺は厨房の小さな椅子に座って、ぼんやりと考えていた。
ゴルドの話。ゼノフさんの言葉。ラドク隊長の警告。グレイの情報。リンの旅の話。
この店に集まるいろんな人間の、いろんな事情が、少しずつ俺の中に積み重なっていく。
前世の俺は、飲食業の「便利屋」だった。どんな店でも回せる、オペレーションの人間。でも、それだけだった気がする。
店が好きだった。料理が好きだった。でも、その店に集まる人間の話を、ちゃんと聞いたことがあったか。
(ここに来て、初めてわかることがある)
飯は、ただ腹を満たすためだけにあるんじゃない。
ゴルドにとっては、父親の記憶だ。ラドク隊長にとっては、夜警明けの体を温めるものだ。グレイにとっては、甘い卵焼きという、この世界で唯一の安らぎだ。
ゼノフさんはずっと、それを知っていたんだろう。
だからこそ、十五年も二十年も、この場所で同じように飯を出し続けてきた。
「トウヤくん、まだ起きているのかい」
ゼノフさんが二階から降りてきた。
「すみません、考えていました」
「また難しい顔をして」
「……ゼノフさんは、いつからこの店をやっているんですか」
ゼノフさんは椅子を引いて、俺の向かいに座った。
「二十八年になるかねえ」
「二十八年」
「女房と二人で始めた店だよ。女房が先に逝ってから、一人でやっている」
「……そうだったんですか」
「もう十二年になる」
ゼノフさんは丸眼鏡を外して、静かに拭いた。
「女房がね、アヒルが好きだったんだよ。だから店の名前も看板も、アヒルにした」
俺は看板のアヒルを思い浮かべた。
ずんぐりとした、愛嬌のある絵。
「……素敵ですね」
「そうだろう。だから俺はこの店を、どんなことがあっても守る」
ゼノフさんは眼鏡をかけ直して、俺を見た。
「トウヤくん、ベルク商会のことは心配しなくていい」
「でも——」
「俺には、ゴルドくんがいる。グレイくんがいる。ラドクくんも来てくれるようになった。リンくんも、ハンスとヨハンも——そして今は、トウヤくんもいる」
ゼノフさんは静かに、でも力強く言った。
「この店は、そんなに柔じゃないよ。はっはっは!」
アヒルの看板が、夜風に揺れていた。
二十八年間、同じ場所で揺れ続けてきた看板が。
俺はその看板を見ながら、静かに決めた。
この店を、守る。
料理で、オペレーションで、自分にできる全ての方法で。
それが、ゼノフさんと、この場所が教えてくれたことへの——俺なりの答えだ。
次回もお楽しみに




