第六話「衛兵隊長と、つるりん麺の朝」
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朝の街は、昼とは全然違う顔をしている。
夜明けの石畳は靄に濡れていて、露店の準備をする商人の声と、遠くの鍛冶場の音だけが静かに響いている。そんな時間に、俺は毎朝市場へ出かけた。
五日も通えば、顔を覚えてもらえる。
「あ、あひる屋の兄ちゃん」
野菜屋のおばさんが声をかけてきた。
「今日は何が入りましたか」
「朝一番でいい根菜が来たよ。それと、久しぶりに海藻も入った」
「海藻?」
「乾燥させたやつ。出汁を取るのに使う料理人もいるけど、この辺りじゃあまり馴染みがなくてねえ、なかなか売れないんだよ」
俺は思わず足を止めた。
「少し見せてもらえますか」
袋を開けると、黒褐色の薄い板状のものが出てきた。
鼻を近づけると——磯の香りがした。
(これは、昆布に近い)
前世で散々使った食材の、よく似た匂いだ。完全に同じではないが、出汁が取れる可能性は高い。
「どのくらい売れ残っていますか」
「今日入ったやつ? 十束以上あるよ。誰も買わないからね」
「全部もらえますか」
おばさんは目を丸くした。
「全部? うちの兄ちゃん、豪気だねえ」
「使い道があるので」
値段を聞くと、売れ残りの心配をしていたせいか、かなり安く譲ってくれた。
その足で、干し魚を扱う店にも寄った。魚に似た海の生物の干物——前世で言う煮干しに近い形状のものが見つかった。これも大量に購入する。
ゼノフさんへの仕入れ報告を頭の中でまとめながら、俺は店へ戻った。
「海藻と干し魚……出汁を取るのかい?」
ゼノフさんは興味深そうに袋を覗き込んだ。
「はい。これで麺の汁を作りたいんです」
「麺?」
「麦粉で作る、長い麺です。茹でて、出汁の汁と一緒に食べます」
ゼノフさんは首を傾けた。
「麦粉の麺なら、たまに作るよ。でもあれはどうしてもぼそぼそするからねえ」
「こね方と伸ばし方を変えます。コシのある麺にできます」
「コシ?」
「弾力、という意味です。噛むと、ちゃんと歯が押し返してくる感じ」
ゼノフさんはますます首を傾けた。
「……そんな麺があるのかい」
「作ってみせます」
まず出汁から始めた。
大鍋に水を入れ、乾燥海藻をそのまま沈める。冷たい水から、ゆっくりと火にかける。これが大事だ。沸騰させてしまうと、えぐみが出る。
じわじわと熱が加わるにつれ、鍋の水が少しずつ色づいていく。淡い琥珀色。磯の香りが厨房に広がり始めた。
海藻を引き上げて、今度は干し魚を加える。一度沸いたところで火を弱め、丁寧にアクを取る。
しばらくして——
「……なんとも言えない匂いがするねえ」
ゼノフさんが鍋を覗き込んで目を細めた。
「出汁の匂いです。これに塩と、少量の甘醤を加えれば汁ができます」
「一口飲んでいい?」
「どうぞ」
ゼノフさんはお玉で少し取って、すすった。
目が、丸くなった。
「……薄いのに」
「はい」
「……旨味が深い。じんわりと後から来るね」
「それが出汁の力です」
ゼノフさんはしばらく感心したようにうなずいていた。
「俺はずっと、料理は強い味が旨いと思っていたよ。でもこれは……引き算の旨さだねえ」
俺は思わず「いい表現ですね」と言った。
「そうかい、はっはっは!」
次に麺だ。
麦粉に塩水を少量ずつ加えながら、手でこねる。
最初はまとまりが悪い。でもそこで諦めずにこね続けることで、粉の粒子が絡み合い、だんだんと滑らかになってくる。
十分ほどこねたところで、俺は生地を床に置いた。
「トウヤくん、それは」
「足踏みです」
「足で?」
「はい。体重をかけることで、手では出せないコシが生まれます」
ゼノフさんは呆気に取られた顔で俺を見ていた。
「……料理で、足を使うのかい」
「前にいた場所では普通のことでした」
俺は生地の上に布を被せて、体重をかけながらゆっくりと踏んでいく。ぐ、ぐ、と生地が押しつぶされ、折り返してまた踏む。
これを何度か繰り返すと、生地の感触が変わってくる。最初のぽそぽそした感じが消えて、しなやかな弾力が生まれてくる。
「……生地が変わってきたねえ」
「もう少しです」
十分ほど踏んでから、生地を薄く伸ばして細く切る。
切り揃えた麺を沸騰した湯に入れると、湯の中でゆらゆらと泳いだ。
茹で上がった麺を一本取り出して、ゼノフさんに渡す。
ゼノフさんはそのまま口に入れて、噛んだ。
「……」
「どうですか」
「……伸びない。噛むと、ちゃんと返ってくる」
「コシです」
「これがコシか……」
ゼノフさんは何度も噛みながら、目を細めた。
「麦粉が、こんな食べ物になるのか」
「出汁の汁と合わせると、もっとわかります」
試作の器を二つ作った。
茹でた麺を器に盛り、透き通った出汁の汁をたっぷり注ぐ。仕上げに塩をひとつまみ。
シンプルだ。具は何もない。でもそれでいい。今日は麺と汁だけで勝負する。
「食べてみてください」
ゼノフさんは箸の代わりに使う二本の細い棒——この世界では「挟み木」と呼ぶらしい——で麺を持ち上げて、すすった。
ずるる。
しばらく、無言。
「……」
「ゼノフさん」
「……」
ゼノフさんは汁を一口飲んだ。
また、無言。
「……温かい」
「はい」
「体の、芯から温まる感じがする」
「出汁の汁は、そういう力があります」
「これは……」
ゼノフさんは麺をもう一口すすって、ゆっくりと器を置いた。
「これは、朝に食べたいねえ」
俺はその言葉を聞いて、膝を打った。
(朝メニュー)
考えていなかった発想だった。今まで昼と夜のことばかり考えていたが、確かに——この麺は朝に向いている。
夜勤明けの衛兵、早起きの職人、旅立ち前の冒険者。そういう人たちが、朝の冷えた体に染み込む一杯を求めて来る。
「ゼノフさん、朝営業はしていますか」
「今まではしていなかったけどね。俺一人じゃ手が回らなかったから」
「やってみますか」
ゼノフさんは丸眼鏡を押し上げて、俺を見た。
「……トウヤくん、早起きは平気かい」
「慣れています」
「じゃあ、やってみようか! はっはっは!」
翌朝。
夜明け前から仕込みをして、日が昇り切る前に暖簾を出した。
最初の客は、三十分ほど待っても来なかった。
俺は静かに厨房で麺の準備をしながら待った。ゼノフさんはカウンターで居眠りをしかけていた。
やがて——
扉が開いた。
入ってきたのは、鎧を着た男だった。
四十代くらいだろうか。背筋の通った立ち姿と、疲れの滲んだ目。腰には剣を提げているが、冒険者というより、どこかの組織の人間に見えた。
「……やっているのか」
「はい、今朝から朝営業を始めました」
「朝から開いている食堂は珍しい」
「よかったら麺はいかがですか。温かい汁麺です」
男はカウンターに腰を下ろした。
「もらおう」
麺を出すと、男はしばらくじっと器を見た。
「……透き通った汁だな」
「出汁を引いています。海藻と干し魚から」
「海のものか」
「はい。召し上がってみてください」
男は挟み木を取り、一口すすった。
動きが止まった。
「……」
「いかがですか」
男はすぐには答えなかった。汁をもう一口飲んで、麺をもう一口すすって。
「……夜通し仕事をした後の体に、染みる味だ」
「夜通し、ですか」
「衛兵隊の夜警だ。夜明けで交代になったが、温かいものを食いたくて……いつも開いている店がなくてな」
俺はなるほど、と思った。
「これからも、毎朝開けています」
「そうか」
男はまた麺をすすった。
「旨い」
「ありがとうございます」
「この味は……どこで覚えた」
「遠いところで」
男は「そうか」と静かに言って、それ以上は聞かなかった。
麺を食べ終えた男が代金を払いながら、ふと言った。
「この店の主人は、ゼノフか」
「そうです」
「長くやっている店だな。俺がこの街に赴任した十年前からあった」
「ご存知でしたか」
「名前だけは。入ったことはなかった」
男は席を立ちながら、俺を見た。
「名は」
「トウヤです」
「ラドク衛兵隊長だ」
ラドク隊長は、俺の目を一瞬だけじっと見てから、軽くうなずいた。
「また来る」
「お待ちしています」
ラドク隊長が帰った後、しばらくして次の客が来た。
夜明け作業を終えた職人風の男が二人、それから旅立ち前らしい荷物を背負った若い冒険者。
多くはないが、途切れなかった。
昼になる頃には、朝の分の麺がほぼ出切っていた。
「トウヤくん、朝営業、成功じゃないかい!」
ゼノフさんが嬉しそうに言った。
「初日にしては上々です。ただ、仕込みの量を見直さないといけないですね」
「それはまあ、慣れていけばいいよ」
ゼノフさんは楽しそうに笑いながら、俺の分の麺を盛ってくれた。
「トウヤくんも食べな。自分の作ったものを食べる余裕がないのは、いい仕事とは言えないからね」
「……ありがとうございます」
俺は久しぶりに、厨房ではなくカウンターの椅子に座った。
自分で作った麺の汁をすすると——思いのほか、腹に染みた。
(旨い、とは少し違う感覚だ)
懐かしい、に近い。前世の自分が食べていたものとは全然違う材料で作ったのに、どこかに同じ「根っこ」がある味。
この感覚を、あのラドク隊長は「染みる」と言った。
(悪くない表現だな)
俺は静かに麺をすすりながら、今日の朝のことを頭の中で整理した。
その日の夕方。
リンが来て、麺の汁の匂いを嗅ぎつけて「それ、俺にも」と頼んだ。
食べた後、リンはしばらく黙っていた。
「……なんか、故郷を思い出す味がする」
「故郷はどんなところですか」
「海の近く。……まあ、もう帰らないけどな」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
翌朝、ラドク隊長はまた来た。
今日は一人ではなく、部下らしい若い衛兵を二人連れていた。
「隊長が旨い店を見つけたって言うから」
若い衛兵の一人が、少し照れくさそうに言った。
「夜勤明けに温かい麺が食えるなんて、最高ですよ」
三人分の麺を用意しながら、俺はラドク隊長と目が合った。
隊長は無表情のまま、でもわずかに目元が緩んでいた。
その日の夜。
グレイが帰り際に、いつものようにぼそりと言った。
「ラドク隊長が来ていたな」
「はい。朝営業に」
「……あの男が食堂に来るのは珍しい。基本的に、外では食わないから」
「そうなんですか」
「用心深い人間だ。警戒した相手の店では食わない」
グレイは少し間を置いた。
「お前の店に来たということは——信用した、ということだ」
俺はその言葉の意味を、静かに受け取った。
「……ありがたいことです」
「ただ」
グレイはフードの奥から俺を見た。
「衛兵隊長に信用されるということは、それだけ目立つということでもある」
「ベルク商会の話ですか」
「あの連中は、衛兵隊とも繋がっているという噂がある。どこまで本当かはわからないが」
俺は少し考えた。
「……ラドク隊長は、信用できる人ですか」
グレイはすぐには答えなかった。
「……俺の目には、真っ当な人間に見える。だが確証はない」
「わかりました」
「用心しろとは言わない。ただ——覚えておけ」
グレイは扉を押した。
「旨い飯は、人を引き寄せる。いい人間も、悪い人間も、同じように」
夜風が入ってきて、グレイの姿は暗がりに消えた。
俺はしばらく扉を見てから、振り返った。
ゼノフさんはカウンターを拭きながら、穏やかに笑っていた。
「難しい顔をしているね、トウヤくん」
「……少し、考えていました」
「まあ、考えるのは大事だよ」
ゼノフさんは雑巾を置いて、俺の前に立った。
「でも一つだけ覚えておいてほしいのはね」
「はい」
「この店はね、ずっと同じ場所にあって、同じように飯を出してきた。嵐が来ても、騒ぎがあっても、ここに来れば温かいものが食えるという場所であり続けることが——一番大事なことだと、俺は思っているよ」
俺はゼノフさんの顔を見た。
丸眼鏡の奥の目が、静かで、でも揺るぎなかった。
「……はい」
「だからトウヤくん、難しいことは考えすぎなくていい。明日も旨い飯を作ること——それだけでいい」
俺は小さく笑った。
「わかりました」
「よし! じゃあ明日の朝の仕込みを頼んだよ! はっはっは!」
アヒルの看板が、夜空の下でゆっくり揺れていた。
遠くで、夜警の足音が石畳を踏む音がした。
「満腹あひる屋」の朝営業は、こうして静かに、でも確かに根を張り始めた。
次回もお楽しみに




