第五話「弦の音と、吟遊詩人の嘘」
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リンが「満腹あひる屋」に現れたのは、俺が来てから五日目の昼過ぎだった。
扉が開いた瞬間に、なんとなくわかった。
普通の客とは、空気が違う。
年のころは二十歳前後——本人は「自称二十歳」らしいが——中性的な顔立ちに、旅慣れた軽装。肩には竪琴のケースを背負い、腰には小さな荷物袋。靴の減り方が尋常でなく、相当な距離を歩いてきたことが見て取れた。
リンは店内をざっと見渡して、カウンターの中の俺に目を止めた。
「あれ、見ない顔」
「五日前から働いています」
「へえ」
リンはカウンターに近づいて、ひょいと腰を下ろした。こちらをじろじろ観察する目に、悪意はないが遠慮もない。
「ゼノフじいさんは?」
「奥で仕込み中です」
「そっか」
リンは竪琴のケースを膝に置いて、にやりとした。
「じゃあ、新人くんに交渉しようかな」
「交渉?」
「演奏と飯の交換。俺の演奏は一級品だよ? 旅の吟遊詩人、リン様の演奏と引き換えに、昼飯一食。悪い取引じゃないと思うけど」
俺は少し考えた。
「ゼノフさんに聞いてきます」
「えっ、新人くん真面目だな」
厨房のゼノフさんに話すと、即答だった。
「ははあ、リンくんが来たのか! 久しぶりだねえ。飯はあげなくていいよ」
「……えっと、断るということですか」
「そう。でも理由を説明してあげてね。リンくんはちゃんと理由を聞けば納得する子だから」
ゼノフさんは楽しそうに笑いながら、鍋をかき混ぜ続けた。
俺はカウンターに戻った。
「ゼノフさんから返事をもらいました」
「おっ、交渉成立?」
「お断りです」
リンはぽかんとした。
「……え? なんで。俺の演奏、結構評判いいんだけど」
「理由は——演奏の価値がないからではなく、ゼノフさんの方針として、働いた対価にはきちんとお金を払うべきだと考えているからだそうです」
俺はゼノフさんに聞いた言葉をそのまま伝えた。
「あなたの演奏には価値がある。だからこそ、飯と交換するのは逆にあなたに失礼だと——そういう意味だと思います」
リンは黙った。
しばらく、本当に黙っていた。
「……じいさん、いっつもそれ言うんだよな」
ぼそりとした声には、どこか親しみが混じっていた。
「何年経っても、同じことを言う」
「ゼノフさんらしいですね」
「……」
リンはケースを背負い直して、渋い顔をした。
「わかった、払う。牙猪どんぶり、一つ」
「つゆだくにしますか」
「なにそれ」
「タレを多めに染み込ませる食べ方です」
「……じゃあそれで」
どんぶりを出すと、リンはしばらくじっと器を見た。
「……これ、前来た時にはなかったよな」
「五日前から始めたメニューです」
「新人くんが考えたの?」
「そうです」
リンは一口食べて、目を細めた。
「……うまいじゃん」
「ありがとうございます」
「なんか、食べると落ち着く感じがする。旅してると、こういうのが一番染みるんだよな」
俺はそれを聞いて、少し意外だった。
「旅をしていると、温かいものが恋しくなりますか」
「恋しいというか……温かくて、重くて、ちゃんと腹に溜まるものって、旅先ではなかなか食えないんだよ。干し肉とか硬いパンとかばっかりだから」
「それは確かに」
「この飯はなんか、根っこのある感じがする。作ってる人の体力みたいなものが入ってる、っていうか」
俺は少し笑った。
「詩人っぽい言い方ですね」
「一応それが本業だから」
リンが食べ終わる頃、ゼノフさんが厨房から出てきた。
「あらリンくん、久しぶりだねえ!」
「じいさん、俺の交渉また断ったんだって?」
「そりゃそうだよ、はっはっは! ちゃんと払えるでしょ、リンくんなら」
「……まあね」
リンはぼやきながらも、どこか嬉しそうだった。
「トウヤくんに説明してもらったよ。じいさんの言いたいことは、まあわかる」
「わかってくれるなら結構! それよりリンくん、今日はどこから来たんだい?」
「東の街から。三日かけて」
「三日! 遠かったねえ。何かあったのかい?」
リンは少しだけ表情を翳らせた。
「……まあ、いろいろ」
ゼノフさんはそれ以上聞かなかった。
「じゃあゆっくりしていきな。デザートにアヒルクッキーでも出すから」
「子供扱いしないでよ」
「リンくんは食べるだろう?」
「……もらう」
夕方になると、店の空気が変わった。
仕事終わりのハンスとヨハンが来て、ゴルドも顔を出した。エレナさんはいつもより少し遅い時間に来て、隅の席に本を広げた。グレイはいつの間にか奥の席に座っていた。
満腹あひる屋の「夜の顔」が揃いつつある時間だ。
リンはカウンターの端で、竪琴のケースを開けていた。
「ちょっと弾いてもいい? 別に対価とかじゃなく、ただ弾きたいだけ」
ゼノフさんが「もちろん!」と言った。
リンは軽く弦を確かめてから、静かに弾き始めた。
最初は小さな音だった。
でも少しずつ、音が大きくなった。
旋律は明るいわけでも暗いわけでもない、どこか懐かしいような、揺れるような曲だった。旅の途中で聞こえてきそうな、風景に似た音。
俺は厨房で手を動かしながら、その音を聞いていた。
(うまい)
技術的なことはわからない。でも、聞いていると自然と体の力が抜けた。日が暮れて、食事が済んで、一日が終わっていく時間に、妙に合っている音だ。
ハンスとヨハンがエールを飲みながら目を細めた。エレナさんが本のページを繰る手を止めた。
ゴルドは背もたれに体を預けて、天井を見た。
グレイが、ほんのわずかだけ、フードを下げた。
曲が一つ終わると、自然と拍手が起きた。
リンは少し驚いたような顔をして——それから、照れたように笑った。
「……なんか、いつもより聞こえ方がよかった」
「美味しいものを食べた後だからじゃないですか」
俺が言うと、リンは「それあるかも」と笑った。
「腹が満たされてると、音の受け取り方が変わるんだよな、確かに。体がリラックスしてるから」
「お客さんに料理と一緒に音楽を届けられたら、それはそれで価値があると思います」
「……なんか商売っ気のあること言うね、新人くん」
「元々そういう仕事をしていたので」
「どこで?」
「遠いところで」
リンは「ふうん」と言って、また弦をつま弾いた。
「ねえ、新人くん」
「トウヤです」
「トウヤ。お前、どこから来たの? 本当に」
俺は少し間を置いた。
「……森の中で、気がついたら倒れていました」
「それ以前は?」
「覚えていないことが多いです」
リンは俺の顔をしばらく見た。
「嘘ついてる顔じゃないな」
「本当のことです」
「……記憶喪失?」
「そういう感じかもしれません」
リンは考えるように竪琴を爪弾きながら、それ以上は聞かなかった。
「まあ、いいか。お前の料理はうまいし、じいさんが信用してるなら俺も信用する」
「ありがとうございます」
「でも一個だけ言っとく」
リンは真顔で言った。
「この街には、いろんな人間が来る。商人も、冒険者も、衛兵も、あと——あまりよくない連中も。お前の料理が目立てば、そういう連中の目にも入る。気をつけたほうがいい」
俺はその言葉の重さを、静かに受け取った。
「……何か、知っているんですか」
「別に大した話じゃないけど」
リンは視線を外して、ぽつりと言った。
「東の街で、ちょっとした話を聞いた。新しい商会が、この辺りの飲食業を囲い込もうとしているって。有望な店には接触してくる、らしい」
「囲い込み?」
「要するに——看板を変えさせて、自分たちの傘下に入れる。それだけならまだしも、断ると妙な嫌がらせをする商会もあるって話だ」
俺は思わず厨房の奥を見た。
ゼノフさんは気づいていない。
「ゼノフさんの店にも?」
「今のところは聞こえてこない。ただ、お前が来てから評判が変わってきてるのは、俺でもわかる。今日来て、三日前と全然違う匂いがした」
リンは静かに言った。
「いい変化だと思う。でも、目立つと面倒を引き寄せることもある」
「……教えてくれてありがとうございます」
「礼はいらない。ただの旅人の世間話だから」
リンはそう言って、また竪琴を弾き始めた。
今度は先ほどより少し明るい曲だった。
夜が深まると、客は一人また一人と帰っていった。
ハンスとヨハンが「また明日!」と野太い声を残して帰り、エレナさんが静かに本を閉じて立ち上がった。
「……今日の煮込みは、昨日より深みがありました」
帰り際に、エレナさんがぼそりと言った。
「スパイスの配合を少し変えました。気づいていただけましたか」
「ええ、まあ……毎日食べているので」
エレナさんは少し照れたように視線を逸らして、扉に向かった。
「また来ます」
「ありがとうございます」
短いやりとりだったが、俺には十分だった。
グレイは最後まで残っていた。
閉店間際、グレイは席を立ちながら、ほんの少し足を止めた。
「トウヤ」
「はい」
「リンから聞こえていた。商会の話」
「……」
「俺も同じ話を聞いている」
グレイはフードの奥から俺を見た。
「ベルク商会。三ヶ月前からこの街の近隣で動いている。やり口は汚い」
「どうして教えてくれるんですか」
グレイはしばらく沈黙した。
「……ゼノフの卵焼きが食えなくなると困る」
それだけ言って、グレイは扉を押した。
夜風が一瞬、店の中に入ってきた。
リンが帰り際に言った。
「また来る。次は払う」
「待ってます」
「演奏、また聞きたい人がいるなら弾いてもいい。ただし——」
リンはにやりとした。
「今度こそ飯一食くらいはサービスしてくれよな」
「ゼノフさんに聞きます」
「絶対断られるやつ!」
笑いながら出ていくリンの背中を見送って、俺は扉を閉めた。
その夜、俺はゼノフさんに話した。
リンとグレイ、二人から聞いたことを、できるだけ正確に。
ゼノフさんは俺の話を、丸眼鏡の奥の目を細めながら静かに聞いていた。
話し終えると、しばらく黙っていた。
「……ベルク商会、か」
「ご存知ですか」
「名前は聞いたことがある。まだうちには来ていないけどね」
「来た場合は……」
「断るよ、当然」
ゼノフさんはあっさりと言った。
「この店は、俺が好きなように料理を出して、好きな人に食べてもらうための場所だからね。看板を変える気は、これっぽっちもない」
「もし嫌がらせをされたら」
「それはその時に考える」
ゼノフさんは俺を見て、穏やかに言った。
「でもトウヤくん、一つ覚えておいてほしいのはね」
「はい」
「この店の常連は、なかなか面倒くさい連中が揃っているよ。はっはっは!」
俺はゼノフさんの笑顔を見て、それからゴルドの顔を思い出した。
グレイの静かな目も。
リンの、笑いながら言った言葉も。
(そうか、この店には——)
俺は少しだけ、心が軽くなった。
「……確かに、心強いですね」
「だろう! さあ、明日の仕込みをしっかり頼むよ!」
「わかりました」
アヒルの看板が、夜空の下でゆっくり揺れていた。
どこかで、竪琴の音がまだ聞こえるような気がした。
「満腹あひる屋」の夜は、少しずつ、いろんなものを抱えながら更けていく。
次回もお楽しみに




