第三十五話「向こう岸からの言葉」
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第三十五話「向こう岸からの言葉」
春が深まっていく頃、エルナの中で何かが変わり始めていた。
以前より、口数が多くなった。
以前より、自分から話しかけてくることが増えた。
以前より、笑う回数が増えた。
誰の目にも、その変化はわかりやすかった。
「エルナさん、最近すごく楽しそうですね」とマリアが言った。
「そう見えますか?」
「見えます。なんか、肩の力が抜けた感じです」
「……そうかもしれません」
ある日の午後、エルナが俺に「少し時間をもらえますか」と言った。
「今ですか?」
「夜、閉店後に。話したいことがあります」
いつもより、少し緊張した声だった。
「わかりました」
その日の閉店後。
いつものように、二人でかまどの前に座った。
でも、いつもと少し違う空気があった。
エルナは、ノートを持っていた。
半年分の記録が詰まった、あのノートだ。
「今日、話したいのは——このノートのことです」
「ノートですか」
「最初のページを、見てもらえますか」
俺はノートを開いた。
最初のページには、「料理を食べる人の顔を見る」と書いてあった。
「覚えています。最初に教えたことです」
「あの時の私は——何も持っていませんでした。名前と、能力と、逃げてきたという事実だけ」
「そうでしたね」
「でも、トウヤさんが言ってくれました。「腹が空いている人間に飯を出さない理由はない」と」
「言いました」
「その一言で——ここに来ました」
エルナはノートを最後のページまで開いた。
「自分の言葉で、誰かに何かを伝えられるようになった」
その下に、新しく一行加えられていた。
俺がまだ読んでいない、新しい一行だった。
「トウヤさんへ。
半年前、街道で出会った時、私は何者でもありませんでした。名前を呼ばれることもなく、自分の意思で何かを決めることもなく、ただ逃げているだけでした。
でも今は——「満腹あひる屋の料理人、エルナ」として、ここにいます。
毎朝早起きして、食材を確認して、料理を作って、誰かの顔を見て、笑ったり、緊張したり、怒られたり、褒められたりします。
それが——すごく普通のことなのに、私にとっては全部、初めてのことでした。
その全部を、与えてくれたのは、トウヤさんです。
言葉にするのに、半年かかりました。
ありがとうございます。
そして——これからも、よろしくお願いします。」
俺はノートを読み終えて、しばらく何も言えなかった。
エルナが、静かに俺を見ていた。
銀色の目が、かまどの火を受けて、優しく光っていた。
「……これが、向こう岸ですか」
「はい」
「渡りきりましたね」
「渡りきりました」
「もう、橋は必要ないですか」
「橋は——いつまでも、ここにあると思います」
エルナは少し笑った。
「でも、橋を渡る必要がなくなった、というのは——自分の足で、立てるようになったということです」
「そうですね」
「それを、トウヤさんに伝えたかったです」
俺は少し間を置いて、言った。
「エルナ」
「はい」
「俺も、一つ伝えたいことがあります」
「なんですか」
「最初に会った時、俺はあなたを助けたつもりでした。腹を空かせた子供に、飯をあげただけだと思っていました」
「はい」
「でも——半年経って、思います。あなたが来てくれたことで、俺がもらったものの方が多い」
「……どういうことですか」
「仕入れの精度が上がりました。「その日の汁」という、新しい料理が生まれました。マリアとカイルが、エルナのおかげで成長しました。ゴルドさんが「お前らと一緒にいると、感覚が身につく」と言いました。グレイさんが、いつもより少し早く店に来るようになりました」
「それは——」
「全部、エルナが来てから変わったことです」
エルナは少し俯いた。
「私が、何かを変えたんですか」
「変えました」
「自分では、わかりませんでした」
「気づかなくていいです。変えた人間は、変えたことに気づかないものです。ゼノフさんも、この店を変えたことに、自分では気づいていません」
「ゼノフさんも?」
「二十八年かけて、この店をここまでにした。でもゼノフさんは「ただ飯を作ってきただけだよ」と言います」
エルナは少し笑った。
「私も、いつかそんなふうに言えますか」
「言えます。いつか、自分が変えたものに気づかないくらい、自然になります」
しばらく、二人で黙っていた。
かまどの火が、静かに揺れていた。
「トウヤさん」
「はい」
「これからも、ここにいてもいいですか」
「もちろんです」
「料理人として、もっと上手くなれますか」
「なれます。何度も言いましたが」
「もっと——」
「もっと?」
「もっと、トウヤさんやゼノフさんやマリアさんやカイルさんと一緒に、この店をやっていきたいです」
「やっていきましょう」
「約束ですか」
「約束です」
エルナはノートを閉じた。
「今日、伝えられてよかったです」
「半年がかりでしたね」
「発酵と同じです。時間がかかりました」
「いい味になりましたか」
「どうでしょう。トウヤさんが、判断してください」
「いい味です」
「本当ですか」
「本当です。半年前のエルナと、今のエルナを比べたら——全然違う深みがあります」
「深味汁みたいですか」
「深味汁みたいです」
エルナは少し笑った。
「次は——一年物の発酵が開きます」
「そうですね」
「一年後、私はどうなっていますか」
「俺にもわかりません」
「わからないのは、嫌じゃないですか」
「楽しみです」
「私も、楽しみです」
エルナは立ち上がった。
「おやすみなさい、トウヤさん」
「おやすみなさい、エルナ」
エルナは扉のところで、いつものように振り返った。
「明日、早起き対決します」
「負けません」
「勝ちます」
でも、今夜の「おやすみなさい」と「明日も」という言葉には——いつもより少し、軽さがあった。
肩の力が抜けた、自然な軽さだった。
一人になった俺は、かまどの前に座り続けた。
棚には、新しい発酵の器がある。
一年かけて、深くなっていく。
その間に、エルナはもっと成長する。
マリアもカイルも、もっと成長する。
ゼノフさんは、来年も祭典に出るかもしれない。
この店は、もっと大きくなるかもしれない。
でも——根っこは変わらない。
腹が空いた人に、温かい飯を出す。
それだけのことが、ここにある全てだ。
窓の外、春の夜風が吹いていた。
アヒルの看板が、柔らかく揺れていた。
二十八年と、半年と——これからの一年分の時間が、この場所に積み重なっていく。
「満腹あひる屋」の物語は、まだ続いていく。
誰かのために。
誰かと一緒に。
今日も、明日も、その先も。
あと、この後の終章「これは、俺が書いた話」をぜひお読みください!ここまで読んでいただきありがとうございます!




