第三十四話「春を待つ仕込みと、新しい一年」
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冬は、忙しい季節だった。
雪が降ると、客が増える。
温かいものを求めて、人々が「満腹あひる屋」に集まってくる。
「その日の汁」は、冬になってさらに人気が出た。
マリアとエルナが組んだ新しい発酵調味料——二人は「冬味噌」と名付けた——が完成して、汁のバリエーションが増えた。
体を温める汁、風邪に効く汁、疲れを取る汁。エルナが感じ取り、マリアが調味料を選び、二人で完成させる。
常連たちは、毎日違う汁を楽しみにするようになった。
「今日は何が出るかな」が、冬の朝の挨拶になった。
ある朝、ルルちゃんが来た。
いつもより顔色が悪かった。
「ルルちゃん、大丈夫?」とマリアが聞いた。
「ちょっと、お腹痛い」
エルナが近づいて、しばらく見ていた。
「……少し、冷えていますね。お腹を」
「うん、なんか冷たい感じがする」
「温かい汁を作ります。少し待っていてください」
エルナが作った汁を、ルルちゃんが飲んだ。
しばらくして、「お腹、あったかくなった」と言った。
「よかったです」
「エルナさん、お医者さんみたい」
「料理人です」
「料理人で、お医者さんみたいなことができるの?」
「体を労わることは、料理の役目の一つです」
ルルちゃんは少し考えてから、「私もエルナさんみたいになりたい」と言った。
「料理人にですか?」
「ううん。誰かのお腹を、あったかくできる人」
エルナは少し驚いた顔をしてから、「いい目標です」と言った。
冬の間、シグはほとんど店にいた。
冬は冒険者の依頼が減る季節らしく、「暇だから」と言いながら、ホールに立っていた。
「シグさん、料理覚えませんか」とカイルが言った。
「俺は配膳でいい」
「もったいないですよ。シグさんも、転移者なんですよね。前の世界の料理、知っているんじゃないですか」
シグは少し考えた。
「……一つだけ、知っているものがある」
「なんですか」
「鍋。冬に、みんなで一つの鍋を囲んで食う料理」
俺は思わず反応した。
「鍋料理ですか」
「そう。お前も知ってるか」
「もちろんです」
「作れるか」
「作れます」
冬の真ん中、新メニューとして「鍋」が登場した。
大きな鍋に出汁を入れて、肉と野菜を煮込みながら、みんなで食べる。
深味汁ベースの出汁に、冬の野菜と牙猪の薄切り肉。
最初に試したのは、いつもの常連たちだった。
「これは——」とゴルドが鍋を見た。
「みんなで食べる料理です」
「一つの鍋を、みんなで?」
「そうです」
ゴルドは少し考えてから、「悪くない」と言った。
「食べてみてください」
全員で、鍋を囲んだ。
ゴルド、グレイ、ハンスとヨハン、エレナさん、リン、シグ、ラドク隊長——みんなが同じ鍋から、料理を取った。
「……これは、いいな」とハンスが言った。
「一人で食べるより、なんか旨い気がする」とヨハンが言った。
「気のせいじゃないですよ」と俺が言った。「一緒に食べると、料理の温かさが増します」
「不思議な料理ですね」とエレナさんが言った。「同じ鍋から取るだけで、こんなに違う」
グレイが鍋から肉を取って、卵焼きと一緒に食べた。
「……合う」
「鍋と卵焼き、合いますか」
「合う。意外だが、合う」
鍋は、冬の間ずっと人気だった。
常連が増えるたびに、鍋が大きくなった。
最終的に、店で一番大きな鍋を新しく作ることになった。
「これ、何人分ですか」とカイルが新しい鍋を見て聞いた。
「十五人分くらいです」
「十五人!?」
「冬の間、みんなで囲める鍋がいいと思いました」
「ゼノフさんらしい考え方ですね」とマリアが言った。
「いつも盛りすぎだから、はっはっは!」
冬の終わりに近づいた頃、エルナがノートを俺に見せた。
「半年分、まとまりました」
ノートには、半年間に学んだことが、丁寧に書かれていた。
最初のページには「料理を食べる人の顔を見る」と書いてあった。
最後のページには——
「自分の言葉で、誰かに何かを伝えられるようになった」
俺はそれを読んで、少し間を置いた。
「全部、ここに詰まっていますね」
「半年分です」
「あと少しで、発酵の器が開きますね」
「楽しみにしています」
雪が少しずつ溶けていく頃。
ある日の朝、エルナが「今日、感じ取りました」と言った。
「何をですか」
「外の空気。少しだけ、春の匂いがします」
「春が近いですか」
「もう少しだと思います」
「発酵の器も、もう少しですね」
「あと一週間くらいです」
その一週間、店はいつも通りだった。
いつも通りの朝、いつも通りの仕込み、いつも通りの常連。
でも——みんなが、少しだけ何かを待っている空気があった。
そして、半年の最終日。
春の最初の日だった。
窓の外、雪はすっかり消えていて、代わりに小さな緑の芽が見え始めていた。
俺とエルナが、棚から器を取り出した。
「半年です」
「半年です」
「開けましょう」
蓋を開けた。
香りが、広がった。
三ヶ月物とは、また別の香りだった。
より複雑で、より丸く、より——「満腹あひる屋」の香りに近づいていた。
「……」
全員が、無言で香りを感じていた。
ゴルドが最初に言った。
「……これは、もう料理を超えている」
「どういうことですか」とカイルが聞いた。
「香りだけで、何かを語っている。言葉にできないが——時間そのものの匂いがする」
エルナが少し笑った。
「ゴルドさんも、感じ取れるようになりましたか」
「俺にそんな能力はない」
「でも、言葉にできました」
「……お前らと一緒にいると、こういう感覚が身につくらしい」
全員で深味汁を飲んだ。
今日の深味汁は、半年物のペーストを使った、特別なものだった。
飲んだ瞬間、店内が静かになった。
誰も、何も言わなかった。
しばらくして、グレイが静かに言った。
「……完成した」
「何がですか」とエルナが聞いた。
「この店の味だ」
「まだ、完成じゃないですよ」と俺が言った。
「なぜだ」
「次の仕込みは、もっと長くします。一年かけます」
グレイは少し沈黙してから、「また待つのか」と言った。
「待ちます」
「次は、何になる」
「わかりません。でも——もっと深くなります」
「楽しみにしている」
「次も、待っていてください」
その夜、エルナが俺に言った。
「半年経ちました」
「経ちました」
「橋、どのくらい渡りましたか」
「俺が判断することじゃないですが——」
「どう見えますか」
「もうすぐ、向こう岸が見えそうです」
エルナは少し笑った。
「向こう岸に着いたら——」
「はい」
「自分の言葉で、ちゃんと伝えます」
「待っています」
「もう少しです」
窓の外、春の最初の風が吹いていた。
アヒルの看板が、柔らかく揺れていた。
冬を超えて、春が来た。
発酵の器は、また新しい仕込みが始まる。
今度は一年。
一年後、この店はどうなっているだろう。
エルナは、どんな言葉を、どんな色で伝えてくれるだろう。
わからない。
でも——焦らない。
「満腹あひる屋」の春が、静かに始まっていく。
二十八年と、半年分の時間を重ねた場所で。
これからも、誰かのために、誰かと一緒に、料理は作られていく。
次回もお楽しみに




