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満腹あひる屋へようこそ! ~元バイトリーダーは異世界でも厨房に立つ~  作者: 膝栗毛


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第三十三話「帰り道の雪と、満腹あひる屋の冬」

引き継ぎお楽しみください

第三十三話「帰り道の雪と、満腹あひる屋の冬」


 帰りの馬車は、行きより少し時間がかかった。

 二日目の朝、外の景色が変わっていた。

「雪です」とエルナが言った。

 窓の外、草原に薄く雪が積もっていた。

「冬になりましたね」

「うちの街も、雪が降っているでしょうか」

「降っているかもしれません」

「初めての雪、見られますか」

「見られます」

 エルナは窓に張り付くようにして、外を見ていた。

「……綺麗ですね」

「施設にも、雪はありましたか」

「ありました。でも——窓から見るだけでした。外に出ることは、許されていなかったので」

「今は、出られます」

「はい」

 エルナはしばらく、雪を見ていた。

 ゼノフさんが「うちに着いたら、雪見酒だね」と言った。

「酒は飲めません」とエルナが言った。

「エルナちゃんは、雪見深味汁だね、はっはっは!」


 三日目の夕方、街が見えてきた。

 雪が、街全体に薄く積もっていた。

 アヒルの看板が、雪をかぶって見えた。

「……」

 エルナが、何も言わずに看板を見ていた。

 俺もしばらく、無言で見ていた。

「帰ってきましたね」とゼノフさんが言った。

「帰ってきました」と俺が言った。

 エルナは何も言わなかった。

 でも——その目が、少し赤くなっていた。


 馬車が街道を進んで、街の入り口に着いた。

 門のところに、人影があった。

 グレイだった。

 いつもの格好で、いつもの位置で、立っていた。

「……待っていたんですか」

「たまたまだ」

「毎日、たまたまここに立っているんですか」

「俺は忙しい男だ」

 グレイはそれだけ言って、踵を返した。

 でも——歩く速度は、いつもより少し早かった。


 店に着くと、扉が開いていた。

 中から、賑やかな声が聞こえてきた。

「おかえりなさい!!」

 カイルの声だった。

 扉を開けると——全員がいた。

 カイル、マリア、ハンスとヨハン、エレナさん、リン、シグ、そしてゴルド。

 ラドク隊長まで、いた。

「おかえりなさい」

 マリアが一番に駆けてきた。

「ただいま帰りました」とエルナが言った。

「賞、取りましたか!?」

「取りました」

「やった!! 二年連続!」

「もう知っていましたか」

「グレイさんが、情報を持ってきてくれました」

「グレイさん、早いですね」

「俺の仕事だ」と、いつもの席に座ったグレイが言った。


 ゼノフさんが店内を見渡した。

「何も変わっていないね」

「変わっていません」とカイルが言った。「でも——」

「でも?」

「マリアが、新しいものを考えました」

 マリアが少し緊張した顔で前に出た。

「エルナさんが帰ってきたら、一緒に試したいものがあります」

「私と?」

「エルナさんの能力と、私の発酵の知識を組み合わせたものです」

「どんなものですか」

「冬の「その日の汁」用に——発酵調味料を、その日の状態に合わせて配合する方法を考えました」

 エルナは少し驚いた顔をした。

「それは——」

「まだ試作段階です。一緒に完成させてもらえますか」

「もちろんです」


 全員が席に着いた。

 ゼノフさんが厨房に向かった。

「今夜は、俺が作るよ」

「ゼノフさん、長旅の後ですよ」

「これが一番のリラックスだよ、はっはっは!」


 ゼノフさんが料理を作り始めた。

 いつもの動きだった。

 でも——王都から戻ったゼノフさんの動きは、また少し違っていた。

 二回目の祭典を経て、また何かが積み重なっていた。


 料理が出てきた。

 どんぶり、煮込み、深味汁。

 全員に配られた。

 ゴルドが一口食べて、「……今日のは、また違うな」と言った。

「祭典で、何かありましたか」とエレナさんが聞いた。

「いろいろありました」とエルナが言った。

「全部聞かせてもらえますか」

「全部話します」


 その夜、王都での出来事を全部話した。

 食材が届かなかったこと。エルナが市場で代わりの肉を見つけたこと。殿下が来たこと。「その日の汁」が王家の方に届いたこと。

 全員が、それぞれの反応をした。

「殿下が二回も来たんですか!?」とカイルが驚いた。

「殿下も「その日の汁」を飲んだのか」とゴルドが言った。

「すごいですね」とエレナさんが言った。

「あの肉屋、見る目があったんだな」とハンスが言った。

「肉の話、そこ?」とヨハンが言った。


 リンが竪琴を取り出した。

「帰ってきた曲を、弾く」

「待っていてくれましたか」とエルナが聞いた。

「ずっと考えていた。お前らが帰ってくる日のために」

 リンが弾き始めた。

 旅に出て、戻ってくる曲だった。

 以前弾いた曲と、似ていた。でも——少し違う。

 戻ってきた喜びが、ちゃんと入っていた。


 演奏が終わって、エルナがリンに言った。

「いい曲でした」

「気に入った?」

「はい。帰ってきた時の気持ちが、全部入っていました」

「お前らが帰ってくるのを、何度も想像して弾いたから」

「ありがとうございます」

「礎は——お前らが置いていったものだ。俺が弾けるのは、その上に音を重ねているだけだ」


 夜が更けて、常連たちが帰っていった。

 最後に残ったのは、いつものメンバーだった。

 ゼノフさん、俺、エルナ、カイル、マリア。

 発酵の器の前に、自然と集まった。

「次の半年物、確認しますか」とエルナが聞いた。

「確認しましょう」

 器を取り出して、少しだけ蓋を開けた。

 冬の入り口の香りが、深くなっていた。

「進んでいますね」とエルナが言った。

「三ヶ月分、進んでいます」

「あと三ヶ月で、半年です」

「春に開けますか」

「春に開けましょう」


 マリアが少し緊張した顔で言った。

「エルナさん、明日から一緒に試作、いいですか」

「もちろんです」

「楽しみです」

「私も」


 全員が二階に上がった後、俺とエルナが厨房に残った。

 いつもの場所、いつもの時間。

 でも——三週間ぶりだった。

「帰ってきましたね」とエルナが言った。

「帰ってきました」

「かまどの前で、話す約束」

「覚えています」

「全部話しましたか、王都のこと」

「全員に話しました」

「でも——」

「でも?」

「ここでしか話せないことも、あります」

 俺は少し間を置いた。

「なんですか」

 エルナは少し考えてから、言った。

「殿下に会った時——少し怖かったです。施設のことを思い出して」

「そうでしたか」

「でも——トウヤさんが横にいたので、大丈夫でした」

「全員の前では言いませんでしたね」

「全員の前で言うと、心配されます。今日は、帰ってきたお祝いの日でした。心配ごとは、今夜だけにしたかったです」

「賢いですね」

「橋を渡っていると、こういう判断もできるようになります」


 しばらく、二人で静かにしていた。

 窓の外、雪が静かに降っていた。

 最初の雪が、街を白く染めていた。

「綺麗ですね」とエルナが言った。

「初めての雪ですね」

「うちの街での、初めての雪」

「来年は、もっと色々な雪を見ますね」

「来年——」

 エルナは少し考えてから、「来年のことを考えると、嬉しいです」と言った。

「どんな来年ですか」

「半年物の発酵が開く春。その日の汁が冬を超えて、春の汁になる。マリアさんと一緒に作るもの。来年の祭典——」

「全部、楽しみですか」

「全部、楽しみです」


 エルナは窓の外の雪を見ながら、ぽつりと言った。

「トウヤさん」

「はい」

「施設にいた頃——未来のことを考えると、いつも灰色でした。何も見えない、ただ続いていく時間でした」

「今は?」

「今は——色があります。いろんな色が」

「どんな色ですか」

「深味汁の色。発酵豆の色。その日の汁の、毎日違う色。アヒルの看板の色。雪の白。エールの泡。リンさんの竪琴の木の色——」

 エルナは俺を見た。

「全部、トウヤさんと出会ってから見えるようになった色です」


 俺は少し言葉を探した。

「俺も——色が増えました」

「どんな色ですか」

「銀色」

 エルナは少し目を丸くした。

「私の目の色ですか」

「そうです」

「それは——どんな印象の色ですか」

「最初は、ただ珍しい色だと思いました」

「今は?」

「今は——あなたの感じ取る能力の色だと思っています。誠実さの色。料理人としての真剣さの色」

「……そんなふうに、見てくれていたんですか」

「最近、特にそう思います」


 エルナは少し俯いた。

 窓の外の雪が、静かに降り続けていた。

「トウヤさん」

「はい」

「いつか——」

「はい」

「いつか、もっと——」

 エルナは言葉を探していた。

 俺は待った。

「……今は、まだ。橋を渡りきっていないので」

「わかっています」

「でも——いつか、ちゃんと言葉にします」

「待っています」

「半年後かもしれません。一年後かもしれません」

「発酵と同じです。時間がかかります」

「焦りませんか」

「焦りません」

 エルナは少し笑った。

「いい返事ですね」

「いい返事をしたつもりです」


 雪が、窓の外で静かに降っていた。

 厨房のかまどの火が、暖かく灯っていた。

「明日から、また冬の仕込みです」とエルナが言った。

「明日から、また忙しくなります」

「楽しみです」

「俺も」

 エルナは立ち上がった。

「おやすみなさい、トウヤさん」

「おやすみなさい、エルナ」

 エルナは扉のところで、もう一度振り返った。

「明日、早起き対決します」

「負けません」

「勝ちます」


 一人になった俺は、窓の外の雪を見た。

 アヒルの看板に、雪が静かに積もっていた。

 二十八年分の時間が染み込んだ看板に、今年の冬の雪が、また一層積もっていく。

 来年の春、発酵の器が開く。

 その時——エルナはどんな言葉を、どんな色で、伝えてくれるだろう。

 わからない。

 でも——焦らない。

 発酵と同じだ。

 時間が、ちゃんと深みを作ってくれる。


 アヒルの看板が、雪の中で静かに立っていた。

 「満腹あひる屋」の冬が、始まった。

 今年も、来年も——きっと、その先も。

 この場所で、料理は作られ続ける。

 誰かのために。

 誰かと一緒に。

次回もお楽しみに

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