第三十一話「王都の市場と、エルナの初仕事」
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王都に着いたのは、三日目の昼過ぎだった。
馬車が城門をくぐった瞬間、エルナが「すごい」と小さく言った。
俺も、思わず窓の外を見た。
広かった。
ただ、広かった。
満腹あひる屋のある街を十個合わせても、まだ余裕がありそうな広さだ。石畳の道が幾本も走り、建物が何層にも重なって、人と馬車と商人と衛兵が、雑多に混ざり合っている。
市場の声が、遠くからでも聞こえてきた。
「前の世界の大きな街みたいだ」とエルナが言った。
「前の世界を知っていますか」
「いいえ。でも——こんな感じかな、と想像していました」
「施設で聞いたんですか」
「本で読みました。施設にある数少ない本の中に、大きな都市の描写があって」
「本で読んだ通りでしたか」
「思ったより、うるさいです」
「そうですね」
ゼノフさんが「王都は初めて来た時、圧倒されたよ。でも慣れるものだよ、はっはっは!」と言った。
宿は、リーナが手配してくれていた。
城の近くの、こぢんまりとした宿だ。
部屋は三つ。ゼノフさん、俺、エルナがそれぞれ一つずつ。
荷物を置いて、少し休んでから、リーナと合流した。
「長旅でお疲れでしょう。今日はゆっくりしていただいて、明日から準備を始めましょう」
「祭典はいつですか」
「五日後です。それまでに、食材の確認と調理の練習を」
「食材は王都のもので揃いますか」
「ほとんどは。ただ——」
リーナは少し困った顔をした。
「王都の市場は大きいですが、品質にばらつきがあります。どれがいい食材か、見極めが難しくて」
俺はエルナを見た。
エルナは静かに頷いた。
「任せてください」
翌朝、市場に向かった。
王都の市場は、俺が今まで見た中で最大のものだった。
露店が何百と並んでいて、野菜、肉、魚、香辛料、乾物——全ての食材が揃っていた。
でも——どの露店も、品質が混在していた。
いいものと、そうでないものが、一つの店に並んでいる。
慣れていない人間には、見極めが難しい。
エルナが市場を歩き始めた。
最初の露店で、野菜の籠の前に立った。
目を閉じた。
数秒して、目を開けた。
「左端の籠のものが、一番いいです。右のものは、少し水分が抜けています」
俺は左端の籠の野菜を手に取った。
確かに、張りがある。水分が十分に保たれている。
「合っています」
「次は肉屋です」
肉屋で、エルナが何種類かの肉の前に立った。
「あちらの猪肉が、この市場では一番新しいです。今朝入ったものです」
「感じ取れますか」
「はい。時間が浅いほど、状態が鮮明に感じ取れます」
「この市場に来るのは、初めてですよね」
「はい。でも——感じ取り方は、場所が変わっても同じです」
肉屋の店主が、二人のやりとりを見ていた。
「お嬢さん、どうして時間がわかるんですか」
エルナは少し間を置いた。
「なんとなく、わかります」
「なんとなく?」
「感じ取れる、と言うほうが正確です」
店主は少し不思議そうな顔をしたが、「この市場で、うちの肉を選んでくれる人は少ないんですよ。わかる人にはわかるんですけどね」と言った。
「一番いい肉を置いているからですか」
「朝一番に仕入れているので。でも、見た目ではわかりにくくて」
「次も、ここから仕入れます」
店主は嬉しそうな顔をした。
香辛料の市場は、特に大変だった。
種類が多い。どれが何か、判断するのが難しい。
でもエルナは一瓶ずつ、素早く確認していった。
「これとこれとこれは、うちの棚にあるものと同じです。これは初めてのものです」
「初めてのものは、何ですか」
「……甘みのある、少し酸みのある香りがします。料理に使うなら——魚に合いそうです」
「試してみましょうか」
「はい。失敗したら、ゼノフさんに相談します」
「俺じゃないんですか」
「ゼノフさんのほうが、香辛料の使い方を知っています」
「正直ですね」
「正直でいいですか」
「いいです」
ゼノフさんは市場をゆっくり歩きながら、あちこちの店主と話していた。
王都に何度か来ているので、顔見知りもいるらしく、「ゼノフさん、また来たんですか!」と声をかけられていた。
「諸国料理祭典で賞を取ったから、有名人になってるんですね」とエルナが言った。
「そうですね」
「でも——ゼノフさんは変わっていません」
「変わっていないですね」
「有名になっても、市場で店主と普通に話している。それが、ゼノフさんらしいです」
「料理の根っこが変わらない人間は、どこに行っても変わらないですよ」
「トウヤさんも、そうですか」
「どうですかね」
「変わっていないと思います。王都に来ても、まず市場を確認して、食材を吟味して——いつもの仕込みの目で見ています」
「バイトリーダーの習性ですかね」
「バイトリーダー?」
「前の世界での仕事です。どんな現場でも、まず状況把握から始める習慣があります」
「それは、ここでも活きていますね」
「活きています。この世界に来て一番役に立ったことかもしれません」
仕入れが終わった頃、リーナが待っていた。
「いかがでしたか」
「いい食材が揃いました」とエルナが答えた。
「そんなに素早く?」
「エルナが全部確認してくれました」
リーナはエルナを見た。
「感じ取れるんですね、食材の状態を」
「銀眼なので」
「銀眼の方は、王都でも珍しいです。研究院以外では——」
リーナは途中で言葉を止めた。
「すみません」
「大丈夫です」とエルナが言った。「その話は、もう終わっています」
「アデラ様から聞いています。勇気がありますね」
「勇気というより——ここにいる人たちが、動いてくれました」
「ゼノフさんとトウヤさんが?」
「それだけじゃないです。グレイさんと、ゴルドさんと、ラドクさんと、シグさんと、マリアさんと、カイルさんと——全員が、それぞれのやり方で動いてくれました」
リーナは少し目を細めた。
「「満腹あひる屋」という店は、面白い場所ですね」
「そうです」とエルナが静かに言った。
翌日から、調理の準備が始まった。
王都の宮廷厨房を借りて、祭典に向けた試作をする。
宮廷厨房は広かった。道具も揃っていた。でも——
「なんか、落ち着きません」とエルナが言った。
「わかります」
「この厨房、誰かの気持ちが薄いです」
「感じ取れますか」
「はい。道具に、愛着が染み込んでいません。使われているだけで、大切にされていない感じがします」
「使う人が多いからだと思います。宮廷では、たくさんの料理人が使います」
「でも——愛着がないと、料理に何かが足りなくなる気がします」
「そうかもしれません。だから——」
「だから?」
「俺たちで、一時的に愛着を入れましょう」
「どうやって?」
「使い始めに、ちゃんと挨拶をします。前の世界では、職場に入る時に道具に挨拶する料理人がいました。バカにしているようで、ちゃんと意味があります」
「料理人としての心構え、ということですか」
「そうです。道具を大切にする気持ちが、料理に出ます」
エルナはノートを出した。
「書いておきます」
「書くんですか、それも」
「大事なことなので」
試作の初日、ゼノフさんが煮込みを作った。
エルナが感じ取って選んだ食材を使った。
俺は横で見ていた。
ゼノフさんの手が動いた。
いつも通りの動きで、でも——少し違った。
宮廷厨房の広い空間に、一人で立っているゼノフさんの背中が、少し小さく見えた。
(ゼノフさんも、緊張しているんだ)
最初の三日間、うまく作れなかった、という話を思い出した。
でも——今回は違った。
煮込みが仕上がった頃、厨房に香りが広がった。
あの香りだ。
満腹あひる屋の、あの香り。
「できました」とゼノフさんが言った。
俺は一口食べた。
「旨いです」
「この食材は、いつものより少し質がいいね」とゼノフさんが言った。
「エルナが選びました」
「そうだね。味が濃い。素材の力が強い」
エルナが「合いましたか」と聞いた。
「合った、合った! はっはっは!」
試作を重ねた。
三日間、毎日厨房に立って、料理を確認して、修正して、また試す。
宮廷厨房には、他の地域から来た料理人たちもいた。
彼らは最初、俺たちの料理を少し怪訝な顔で見ていた。
华やかさが、ない。
他の料理人たちの料理は、盛り付けが美しく、珍しい食材を使っていた。
俺たちの料理は——どんぶりと、汁物と、卵焼きだった。
二日目の昼休憩に、他の料理人の一人が話しかけてきた。
四十代の、恰幅のいい男だ。南の地域の代表として来ていた。
「あなたたちが、去年の祭典で賞を取った店ですか」
「そうです」
「率直に聞きますが——あんな地味な料理で、賞が取れるとは思っていませんでした」
「そうですか」
「食べてみたいと思います。今年も出すんでしょう?」
「出します」
「試食させていただけますか」
その日の夕方、数人の料理人が集まった。
ゼノフさんが煮込みと卵焼きを出した。
俺が深味汁を出した。
エルナが——「その日の汁」を出した。
一人一人に、その人の状態に合わせた汁を。
南の代表の男には、長旅で疲れた体に合わせた汁を。東から来た若い料理人には、緊張した体を和らげる汁を。北の代表の老人には、冷えた体を温める汁を。
全員が、一口飲んだ後に黙った。
「……なぜ、私に合っているんですか」
南の男が聞いた。
「感じ取りました」とエルナが答えた。
「感じ取る?」
「食べる人の状態が、なんとなくわかります。それに合わせました」
「なんとなく、というのは?」
「能力です。生まれつき、食材と人の状態が感じ取れます」
男はエルナをじっと見た。
銀色の目を見た。
「銀眼か」
「そうです」
「研究院の——」
「違います」とエルナは静かに、でもはっきりと言った。「私は、満腹あひる屋の料理人です」
その言葉が——厨房に、静かに響いた。
俺はエルナの横顔を見た。
いつもの、銀色の目だった。
でも今日の目は——施設にいた頃でも、街道で出会った頃でも、最初に店に来た頃でもない、目だった。
ここにいることを、ちゃんと知っている目だった。
南の男は少し間を置いてから、「そうですか」と言った。
「料理の腕は、どこで覚えたんですか」
「満腹あひる屋で」
「いつから?」
「半年ほど前から」
「半年で、この汁が作れるのか」
「能力があるので、普通より速く覚えられました。でも——」
「でも?」
「感じ取る能力がなかったとしても、ここまで来られたと思います。教えてくれた人たちがいたので」
男は俺を見た。
「あなたが教えたのですか」
「全員で教えました。ゼノフさんも、カイルも、マリアも」
「面白い店ですね」
「そうだと思います」
三日目の試作が終わった夜。
三人で宿の食堂に座った。
王都の宿の料理を食べながら、ゼノフさんが「どうだい、王都は」と聞いた。
「広いです」とエルナが言った。
「慣れたかい」
「少し。でも——うちの店より落ち着かないです」
「それはそうだよ。うちは二十八年間の積み重ねがある」
「王都の料理人たちは、すごいですね」
「すごいよ。技術も、食材も、うちより上だよ」
「でも——「また食べたい」という感じは、うちのほうがある気がします」
「なぜそう思う?」
「今日、他の料理人の方たちの料理を食べさせてもらいました。美味しかったです。でも——食べた後に何かが残る感じが、少し薄かったです。うちの料理は、食べた後に何かが残ります」
「何が残るんだい?」
エルナは少し考えた。
「……温かさ、だと思います。味ではなくて、誰かが作ってくれたという感じが、残ります」
ゼノフさんは少し目を細めた。
「それを感じ取れるのは、エルナちゃんだけじゃないよ。食べた人が全員、感じている」
「でも言葉にできる人は少ないです」
「だから、エルナちゃんがいてくれると、ありがたいよ」
食事の後、三人で王都の夜を歩いた。
灯りが多くて、街が明るかった。
俺たちの街より、ずっと明るかった。
エルナが「灯りが多いですね」と言った。
「そうですね」
「でも——」
「でも?」
「うちの街の夜の方が好きです」
「なぜですか」
「灯りが少ない分、一つ一つの灯りが目立ちます。アヒルの看板の下の灯りが、よく見えます」
「帰りたいですか」
「……少し。でも、まだやることがあります。帰るのは祭典が終わってから」
「そうですね」
「帰る時が、楽しみです」
「何が一番楽しみですか」
「全部です」とエルナは言った。「でも——」
「でも?」
「かまどの前での話が、一番楽しみです」
ゼノフさんが少し先を歩いていた。
二人になった時、エルナが静かに言った。
「トウヤさん」
「はい」
「今日、言えてよかったです」
「何をですか」
「「満腹あひる屋の料理人です」と言えたことです。あの言葉、自分で言いながら——本当だと思いました」
「本当のことです」
「施設にいた頃の私には、自分を何者と言えばいいかわかりませんでした。逃げていた時も、何者でもなかった。でも——今日は、ちゃんと言えました」
「川を、渡れましたか」
エルナは少し考えてから、「半分より先まで来た気がします」と言った。
「もう少しですね」
「はい。でも——急ぎません」
「急がなくていいです」
「向こう岸で、待っていてもらえますか」
「待っています」
エルナは少し笑った。
王都の灯りの中で、銀色の目が静かに光った。
祭典は、四日後だった。
準備は、できていた。
食材は、エルナが選んだ。
料理は、ゼノフさんが作る。
仕組みは、俺が整える。
そして——「その日の汁」は、エルナが出す。
一人一人に合わせた汁を、この祭典で初めて、王都の人たちに届ける。
宿に戻る前に、エルナが空を見上げた。
「同じ月ですね」
「うちの街と?」
「はい。違う場所にいても、同じ月が見えます」
「そうですね」
「今頃、カイルさんたちは何をしていますか」
「この時間は——閉店後かな。片付けをしていると思います」
「グレイさんは卵焼きを食べましたか」
「マリアが作った卵焼きを、今頃食べているかもしれません」
「ゴルドさんは武勇伝を話していますか」
「誰かに話しているかもしれません」
「エレナさんは本を読んでいますか」
「読んでいると思います。デザートを食べながら」
「ルルちゃんはもう寝ていますか」
「この時間はもう寝ています」
エルナは空を見たまま、静かに笑った。
「みんな、いつも通りにいます」
「そうですね」
「それが——嬉しいです。私がいなくても、いつも通りに続いている。でも——」
「でも?」
「帰ったら、また私の場所があります」
「あります」
「消えていません」
「消えていません」
エルナは月を見ながら、少し間を置いた。
「トウヤさんは、この世界に来てよかったですか」
俺は少し考えた。
「よかったです」
「理由は?」
「たくさんあります」
「全部言ってもらえますか」
「長くなりますよ」
「聞きます」
俺は少し笑った。
「ゼノフさんの飯が旨かったこと。ゴルドさんが担いでくれたこと。組合を作れたこと。ギルド認定が取れたこと。カイルが料理人になったこと。マリアがデザートを作ったこと。グレイさんが毎日卵焼きを食べに来ること。リンが演奏してくれること。エレナさんが本を閉じて汁を飲んだこと。ゼノフさんが祭典で賞を取ったこと——」
「それから?」
「街道の休憩所で、銀色の目の子に会えたこと」
少し間があった。
エルナは月を見ていた。
俺も月を見た。
ゼノフさんが「二人とも、寒いから早く戻りなさい! はっはっは!」と呼んだ。
エルナがくすっと笑った。
「帰りましょう」
「帰りましょう」
宿に戻りながら、エルナが最後に言った。
「トウヤさん」
「はい」
「祭典が終わったら——一緒に帰りましょう」
「そうしましょう」
「うちの街に」
「うちの街に」
「満腹あひる屋に」
「満腹あひる屋に」
王都の夜が、静かに更けていく。
アヒルの看板は、ここからは見えない。
でも——三人とも、ちゃんと知っていた。
あの看板が、どこにあるか。
あの看板の下で、今夜も誰かが料理を作っているか。
それは——どこに行っても、消えないものだった。
次回もお楽しみに




