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満腹あひる屋へようこそ! ~元バイトリーダーは異世界でも厨房に立つ~  作者: 膝栗毛


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第三十話「王都への旅立ちと、置いていくもの」

引き継ぎお楽しみください

王都への出発は、冬の入り口の朝に決まった。

 リーナから「来月の初めに、王都入りをお願いしたい」という書状が届いて、それから逆算して準備を始めた。

 出発まで、三週間あった。


 三週間で、やることは多かった。

 まず、店を留守にする間の体制を整えること。

 俺とゼノフさんとエルナの三人が王都に行く。残るのは、カイル、マリア、グレイ、シグ、そしてリンだ。

 リンはちょうど旅から戻ってきたところで、「しばらくここにいるつもりだった」と言ってくれた。

「いい時に戻ってきましたね」と俺が言うと、「俺の勘は当たるんだよ」とリンが笑った。


 カイルに話すと、「任せてください!」と即答だった。

「本当に大丈夫ですか」

「大丈夫です。三ヶ月前から、一人でも回せる気がしていました」

「自信がありますね」

「エルナさんに「感じ取りました、カイルさんはもう一人で回せます」と言ってもらいました」

「エルナに言われましたか」

「先週。それで、確信しました」

 俺は厨房のエルナを見た。

 エルナは「本当のことを言っただけです」と言いながら、出汁の仕込みを続けていた。


 マリアは少し複雑な顔をした。

「嬉しいですが——エルナさんがいない間、「その日の汁」が出せません」

「休止にします」

「お客さんが寂しがりませんか」

「戻ってきた時に、また出せばいいです。むしろ、少し休止したほうが——」

「戻ってきた時に嬉しさが増す、ということですか」

「そうです」

 マリアはしばらく考えてから、「わかりました。その間に、私も新しいものを考えます」と言った。

「どんなものですか」

「まだわかりません。でも、エルナさんが王都でいろんなものを見てくるように、私もここで考えます。二人で持ち帰ったものを合わせたら、面白いものができるかもしれません」

「いいですね」

「帰ってきた時に、驚かせてあげます」


 グレイには、店の安全管理を頼んだ。

「また俺か」

「頼りにしています」

「わかった。ただし——」

「はい」

「卵焼きは、誰かに教えておけ」

「誰かに、というのは?」

「俺が毎日食べるものだ。マリアでもカイルでも——ゼノフさんの作り方を、ちゃんと引き継いでおけ」

 俺は少し笑いそうになりながら、「わかりました、伝えます」と言った。


 ゼノフさんはすでに何度か王都に行っていたので、旅の準備は慣れたものだった。

「荷物は最小限でいいよ。料理道具は向こうにある」

「食材は?」

「うちのものを少し持っていく。深味汁のペーストと、発酵途中のスパイス類。向こうでは手に入らないかもしれないから」

「エルナの食材の鑑定は、王都でも役立ちますか」

「役立つよ。王都の市場は大きい。いい食材がたくさんあるが、見極めるのが難しい。エルナちゃんがいれば、一発でわかる」


 出発の前日。

 エルナが「少し話せますか」と俺を呼んだ。

 夜の営業が終わった後、二人でかまどの前に座った。

「明日、出発ですね」

「そうです」

「緊張しています」

「王都が初めてですか」

「こんなに遠くに行くのが、初めてです。施設からここに来た時も、長い距離でしたが——あの時は逃げていたので、緊張する余裕がありませんでした」

「今回は、目的があって行きます」

「それが——余計に緊張します」

「どういうことですか」

「期待されているから、ということです。ゼノフさんと一緒に料理を出す。失敗したら、ゼノフさんに迷惑をかけます」

「失敗しません」

「根拠は?」

「三ヶ月間、毎日「その日の汁」を出して、一度も外れませんでした。感じ取る能力は、本物です」

「でも、王都の人は——」

「腹が減っているのは、どこでも同じです」

 エルナは少し笑った。

「ゼノフさんみたいなことを言いますね」

「ゼノフさんが正しいので」


 しばらく沈黙があった。

 エルナが静かに言った。

「一つ、お願いがあります」

「なんですか」

「王都に行く間、発酵の器を見ていてもらえますか」

「カイルかマリアに頼みますか」

「いいえ。トウヤさんに」

「俺も王都に行きますが」

「わかっています。でも——」

 エルナは少し間を置いた。

「帰ってきた時に、「ちゃんと見ていたよ」と言ってほしいです」

「俺がいない間は、誰かに頼みます」

「それでいいです。ただ——責任を持っていてほしいです。トウヤさんに」

「わかりました。俺が責任を持ちます」

「ありがとうございます」

「なぜ、俺に?」

「一緒に仕込んだので」


 また少し間があった。

「エルナ」

「はい」

「王都で、怖いことがあれば——」

「ゼノフさんがいます」

「そうですが」

「トウヤさんもいます」

「そうです」

「だから、大丈夫です」

 エルナは静かに言った。

「一人じゃないから、大丈夫です。この三ヶ月で、それが一番大きく変わったことです」

「何がですか」

「一人じゃないということが、当たり前になりました。施設にいた時は、いつも一人でした。ここに来てから——一人じゃないことが、普通になりました」

「それは——」

「最初は不思議でした。こんなに自然に、誰かがそこにいることが——」

 エルナは俯いた。

「でも今は、普通です。普通になったことが、嬉しいです」

 俺は何も言わなかった。

 言葉より、その「普通」が、この三ヶ月で積み重なってきたものだとわかっていたから。


 出発の朝。

 まだ暗い時間に、三人が厨房に集まった。

 ゼノフさん、俺、エルナ。

 旅の荷物は小さかった。

 深味汁のペーストを小さな器に詰めたもの。スパイスを数種類。エルナのノート。俺の計算書きのいくつか。ゼノフさんの、丸眼鏡。

 それだけで十分だった。


 カイルが早起きして来た。

「見送りに来ました」

「ありがとうございます」

「マリアも来ます。もうすぐ」

 マリアが降りてきた。

「行ってらっしゃいなさい」と丁寧に言った。

「行ってきます」

「エルナさん」

「はい」

「王都で、美味しいものを食べてきてください」

「食べてきます」

「感じ取ったことを、全部ノートに書いてきてください」

「書いてきます」

「帰ってきたら、教えてください」

「教えます。マリアさんも、新しいものを考えておいてください」

「考えておきます」

 二人でしばらく見合って、それから二人とも笑った。


 グレイが来た。

 珍しい時間に来た。

「見送りに来たのですか」とエルナが聞いた。

「たまたま通りかかった」

「早朝に?」

「……たまたまだ」

 エルナは少し笑った。

「グレイさん、ありがとうございます」

「礼はいらない」

「卵焼きは、マリアさんに頼みました。ゼノフさんの作り方を教えてあります」

「知っている」

「誰かに聞きましたか」

「俺は何でも知っている」

「……ありがとうございます、グレイさん」

 グレイは何も言わなかった。

 でも、いつもより少しだけ長く、エルナを見ていた。


 シグが来た。

「俺も見送りに来たぞ」

「ありがとうございます」

「王都、気をつけろよ。銀星研究院との関係は、アデラさんが処理してくれているが——完全じゃないかもしれない」

「気をつけます」

「何かあれば、俺に連絡を飛ばせ。王都にも、ギルドのネットワークがある」

「わかりました」

「お前の能力は、王都では目立つ。目立ちすぎないようにしろ」

「はい」

「でも——」

 シグは少し笑った。

「思いきり料理をしてこい」

「します」


 リンが竪琴を持ってきた。

「旅立ちに、一曲弾く」

「ありがとうございます」

 リンが弾き始めた。

 旅立ちの曲だった。

 どこかへ向かっていく感じと、ここから出ていく感じが、重なっていた。

 でも——根っこはここにある、という感じも、ちゃんとあった。

 エルナがその曲を聞きながら、俺の横に立った。

「いい曲ですね」

「そうですね」

「帰ってきた時も、こういう曲を弾いてもらえますか」

「リンさんに頼んでおきます」

「帰ってきた時の曲も、リンさんが今作っているかもしれません」

「どういうことですか」

「今この瞬間の曲を弾きながら、もうすでに帰ってきた時のことを考えているかもしれません。リンさんは、そういう人だと思います」


 曲が終わった。

 ゼノフさんが「さあ、行こうか」と言った。

 全員が静かになった。

 カイルが「行ってらっしゃい」と言った。

 マリアが「気をつけてください」と言った。

 グレイは何も言わなかった。

 シグが「またな」と言った。

 リンが「旨いものを持って帰ってこい」と言った。


 店を出た。

 朝の石畳は、冷たかった。

 吐く息が、白くなった。

 エルナが隣を歩いた。

「寒いですね」

「冬が近いです」

「この街の冬は、初めてです」

「戻ってきたら、冬になっています」

「どんな冬ですか」

「雪が少し降ります。その日の汁が、さらに人気になると思います」

「冬の汁を考えておきます」

「旅の間に」

「旅の間に」


 アヒルの看板が見えた。

 出発前に、三人で立ち止まった。

 ゼノフさんが看板を見上げた。

「戻ってくる場所だよ」

「はい」とエルナが言った。

「行ってきます」と俺が言った。

「行ってきます」とエルナが繰り返した。

 ゼノフさんは一度だけ看板を見てから、「たっはっは! さあ行こう!」と言って歩き始めた。


 街道に出た。

 この道を、俺は何度か歩いた。

 最初に来た日、ゴルドに担がれて。

 ヴェルナーの依頼で隣街に行った時。エルナと出会った時。

 でも今日は——目的地が、ずっと遠い。

 王都まで、馬車で三日の距離だ。


 馬車に乗り込む前に、エルナが振り返った。

 街が、見えた。

 アヒルの看板が、遠くに小さく見えた。

「見えます」

「感じ取れますか」

「看板の状態——温かいです。二十八年分の時間が染み込んでいます」

「前に言っていましたね」

「帰ってきた時も、同じように感じ取れると思います」

「帰ってくる楽しみですね」

「はい」

 エルナは少し間を置いてから、「トウヤさん」と言った。

「はい」

「帰ってきた時に——発酵の器を確認するのが楽しみです」

「俺も楽しみです」

「その日の汁を、また出すのも」

「楽しみにしています」

「それと——」

 エルナはアヒルの看板を見た。

「また、かまどの前に二人で座ることも」


 俺は少し間を置いた。

「待っていますよ」

「え?」

「帰ってきたら——かまどの前で、話しましょう。今日の旅のことを」

「全部話しますか」

「全部聞きます」

 エルナは少し笑った。

「それが——一番の帰る理由になりそうです」

「帰る理由は、たくさんあったほうがいいです」

「そうですね。発酵の器と、その日の汁と、マリアさんの新しいメニューと、カイルさんの包丁さばきと——それと」

「それと?」

「かまどの前の話し相手」


 馬車が動き始めた。

 街が、少しずつ遠ざかっていった。

 アヒルの看板が、小さくなっていった。

 でも——消えるまでの間、エルナはずっとそれを見ていた。

 銀色の目が、朝の光を受けて、静かに光っていた。


 ゼノフさんが馬車の中で「腹が減ったね」と言った。

「まだ出発したばかりです」とエルナが言った。

「旅は腹が減るものだよ、はっはっは!」

「準備してきました」とエルナが荷物から包みを出した。

「何ですか」とゼノフさんが聞いた。

「カイルさんの揚げ物サンドです。出発前に作っておいてもらいました」

「ははあ! 気が利くね!」

 俺は包みを受け取った。

 一口食べると——カイルの揚げ物だった。

 三ヶ月前より、確かに上手くなっていた。

「旨いですね」とエルナが言った。

「そうですね」

「カイルさん、育ちました」

「そうですね」

「トウヤさんが教えたものが、ちゃんと育っています」

「みんなが自分で育ったんです」

「でも——種を蒔いたのは、トウヤさんです」


 馬車が揺れた。

 街道の石畳の上を、馬車がゆっくりと進んだ。

 窓の外に、草原が広がっていた。

 秋の終わりの、枯れた色の草原。

 でもその中に、わずかに緑が残っていた。

「あれ、草が残っています」とエルナが言った。

「そうですね」

「冬になっても、少し残るものがあります。全部枯れるわけじゃない」

「そうです」

「……この店も、そうですね」

「どういうことですか」

「いろんなことが変わっても、根っこが残ります。冬に残る草みたいに」

 ゼノフさんが「うまいことを言うね」と言った。

「エルナちゃんは詩人みたいだ」

「リンさんの影響です」

「リンくんも喜ぶよ、そう言ったら」

「帰ったら言います」

「楽しみにしておこう、はっはっは!」


 馬車が進んだ。

 王都まで、三日。

 その先に、何があるか——まだわからない。

 でも。

 帰ってくる場所がある。

 発酵の器がある。

 かまどの前に、話し相手がいる。

 それが——俺にとって、今一番大事なことだった。


 草原の中を、馬車が走り続けた。

 アヒルの看板は、もう見えなかった。

 でも——三人とも、ちゃんと覚えていた。

 あの看板が、どこにあるか。

 あの看板の下に、何があるか。

 それは——どこに行っても、消えないものだった。

次回もお楽しみに

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