第二十九話「冬の訪れと、それぞれの選択」
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が深まっていくにつれて、「満腹あひる屋」の厨房が変わった。
使う食材が変わった。出汁の引き方を少し調整した。温かいものを求めて来る客が増えた。
料理は、季節と一緒に動く。
それが、この三ヶ月でエルナが一番体で覚えたことだったかもしれない。
ある朝、エルナが厨房で仕込みをしながら言った。
「食材が変わりましたね、最近」
「秋になったので」
「同じ野菜でも、感じ取れるものが違います。夏のものより重い感じがします」
「栄養が凝縮されてくる時期です。秋の食材は、体に力をくれます」
「それに合わせて、料理も変えますか」
「少しずつ。一気には変えません」
「なぜですか」
「常連が、味の変化に気づきます。急に変わると、戸惑う人がいる。少しずつ変えると、季節が移り変わる感覚を一緒に味わえます」
エルナはノートに何かを書いた。
「「料理は季節を伝える手紙」と書いておきます」
「俺は、そんなことを言いましたか」
「言いませんでした。私が考えました」
「……俺より上手い表現ですね」
「トウヤさんに教わったことを、自分の言葉にしました」
「橋を渡っていますね」
エルナは少し笑った。
「少しずつ、渡っています」
その日の昼過ぎ、珍しい客が来た。
五十代くらいの、品のある女性だ。
見覚えがあった。
三ヶ月前、ゼノフさんを王都に誘いに来たリーナだった。
「また来てしまいました」
「ようこそ。今日は公式の用件ですか」
「半分は。もう半分は——」
リーナは苦笑した。
「煮込みが食べたくて」
「どうぞ」
煮込みを食べながら、リーナが話した。
「王都の祭典の後、ゼノフさんの料理が話題になっています。同じものが食べたいという声が多くて——その関連で、少し相談があって来ました」
「なんですか」
「諸国料理の祭典、来年も開催されます。今回は、ゼノフさん一人の参加でしたが——来年は、「満腹あひる屋」として複数の料理人で参加していただけないかと」
俺は少し考えた。
「複数の料理人で、ということは——」
「料理を出すだけでなく、店の雰囲気ごと再現していただけると、という意味です。王都の人たちに、この店の空気を届けたい」
「店の空気を、届ける」
「料理だけでは伝わらないものがあります。作る人がいて、食べる人がいて、その間に生まれるものが——ゼノフさんの料理には入っている気がします。それを見せてほしいんです」
ゼノフさんに話すと、「面白いね」と言った。
「行きますか」
「トウヤくんはどう思う」
「全員で行くのは難しいですが——数人で行けば、店の空気は伝えられるかもしれません」
「誰が行く?」
「ゼノフさんと——あと一人か二人」
「トウヤくんが来てくれないと、困るね」
「俺が行くと、店が回りませんが」
「カイルとマリアとエルナで、回せると思うよ。この三ヶ月で、ずいぶん育った」
俺は少し考えた。
(三人で回せる。確かに、今ならできる)
「もう一人、誰が行きますか」
「エルナちゃんに聞いてみようか」
「エルナを王都に?」
「あの子の能力は、初めて見る人には強烈だよ。食材に触れて状態を感じ取る——王都の料理人たちには、驚かれると思う」
「でも——施設のことがあります。王都に行くことで、また目立つかもしれない」
「そこは慎重に考えないといけないね」
ゼノフさんは少し間を置いた。
「エルナちゃん自身に、聞いてみるのが一番だよ」
その夜、閉店後。
いつものように、俺とエルナが厨房に残った。
俺は今日の話をした。
リーナが来たこと。来年の祭典の話。ゼノフさんと一緒に王都に行けるかもしれないこと。
エルナは静かに聞いていた。
「私が、ですか」
「そうです」
「私が行く必要がありますか」
「必要、というより——ゼノフさんが一緒に行ってほしいと言っていました」
「なぜですか」
「エルナの能力を、王都の人に見せたいと」
エルナはしばらく考えた。
「……王都には、銀星研究院と繋がっている人間がいるかもしれません」
「そうですね。リスクは考えないといけません」
「でも——」
「でも?」
「行ってみたいとも、思っています」
「どうしてですか」
「ゼノフさんと一緒に料理を出せるかもしれないから」
俺は少し驚いた。
「ゼノフさんと?」
「私が感じ取った食材を、ゼノフさんが料理にする。そういうことができたら——と、少し思いました」
「それは——」
「変ですか」
「変じゃないです。むしろ——」
俺は少し考えた。
「それは、この店の料理の在り方そのものです。感じ取る人間がいて、作る人間がいて、それが繋がる」
「そうですか」
「エルナが食材を選んで、ゼノフさんが料理する。それは確かに、この店の一番の強みを見せることになります」
「行っていいですか」
「決めるのはあなたです。リスクも、喜びも、全部あなたのものです」
エルナはしばらく黙っていた。
かまどの残り火が、静かに光っていた。
「トウヤさんも行きますか」
「ゼノフさんに頼まれています」
「一緒に行きますか」
「一緒に行きます」
エルナは少し表情が変わった。
緊張が、少し和らいだような顔だった。
「それなら——行きます」
「怖くないですか」
「怖いです。でも——」
「でも?」
「一人じゃないので、大丈夫です」
翌朝、エルナが仕込みをしながら言った。
「昨夜、一つ決めたことがあります」
「なんですか」
「王都に行く前に、一つ料理を完成させたいです」
「どんな料理ですか」
「自分の料理です。誰かに教わったものじゃなくて、私が考えた料理」
「それは——」
「まだ形がありません。でも——感じ取る能力を使って、食べる人に合わせた料理を作れないかと思っています」
「どういうことですか」
「例えば——来た人の体の状態を感じ取って、今日のその人に一番合う料理を出す。同じメニューでも、少しずつ変えて」
俺は少し考えた。
(パーソナライズド料理、ということか)
「それは——面白いです」
「できますか」
「技術的には、今のエルナにもできます。毎日やっていることを、意識的にやるだけです」
「意識的に、というのが難しいです」
「どういうことですか」
「今は、感じ取ったものを無意識に料理に反映しています。でも——その判断を、ちゃんと言葉にできるようにしたいです」
「なぜ言葉にしたいですか」
「言葉にできれば、マリアやカイルさんにも教えられます。私だけの能力じゃなくて、みんなで使えるものになります」
俺はその言葉を聞いて、少し間を置いた。
(自分の能力を、みんなで使えるものにしたい)
それは——料理人として、一段階上の考え方だった。
「エルナ」
「はい」
「それは、俺がずっと考えていたことに近いです」
「そうですか」
「前の世界での仕事——仕組みを作ることが、俺の得意なことでした。一人ができることを、みんなができるようにする」
「同じですか、私のやりたいことと」
「似ています。能力の仕組み化、です」
「仕組み化」
「感じ取る能力を、言葉と手順に変換する。それができれば、能力のない人間でも近いことができるようになります」
エルナはノートを取り出した。
「「能力の仕組み化」と書いておきます」
「それは、エルナの料理のテーマになりそうです」
「テーマ、ですか」
「料理人はみんな、テーマを持っています。ゼノフさんのテーマは「腹が減った人に温かいものを」。俺のテーマは「早く、旨く、温かく」。マリアのテーマは——たぶん「作る喜びを料理に入れる」。エルナのテーマは——」
「感じ取ったものを、みんなで共有する、ですか」
「そうかもしれません」
エルナはしばらく考えてから、「もう少し考えます」と言った。
「急がなくていいです。テーマは、作りながら見つかります」
「橋を渡りながら、見つかりますか」
「見つかります。渡っている途中で、景色が見えてきます」
数日後、エルナが「試作をしていいですか」と言ってきた。
「いつでも」
「今夜、閉店後に」
「何を作りますか」
「まだ言えません。失敗するかもしれないので」
「失敗してもいいです」
「失敗したら恥ずかしいです」
「料理の失敗は、次の成功の材料です」
「……わかりました。でも、見ていてください」
「見ています」
「途中で口を出さないでください」
「……口を出さずにいられるかどうか」
「我慢してください」
「わかりました」
閉店後、エルナが動き始めた。
まず、棚の食材を一つ一つ触れて確認した。今日の食材の状態を全部把握する。
次に、ノートを開いて何かを書いた。
それから——厨房に立った。
俺はカウンターに座って、黙って見ていた。
エルナが最初に取り出したのは、秋の根菜だった。
それをゆっくりと火で柔らかくした。
次に、乾燥させたきのこ類を水で戻した。
出汁を引いた。今日の出汁は、いつもより少し濃い気がした。
深味汁のペーストを、いつもより少し少なく溶かした。
根菜ときのこを、出汁の中で煮込んだ。
最後に、少量のスパイスを加えた。
俺は知らないスパイスの組み合わせだった。
香りが、少し変わった。
秋の夜に似た香りになった。
「できました」
エルナは二つの器に盛って、一つを俺に差し出した。
「食べてください」
俺は一口飲んだ。
温かかった。
根菜の甘みと、きのこの旨みと、深味汁の深みと、スパイスの香りが、重なっていた。
それは——今夜の秋の夜に、完璧に合っていた。
「どうですか」
「旨いです」
「合っていますか、今夜に」
「合っています。今夜の空気に、完璧に合っています」
「よかった」
「これが、あなたの料理ですか」
「今夜の私の料理です。明日は少し違うものになります。来た人と、その日の気候と、食材の状態によって、毎日変わります」
「固定のレシピがない料理ですね」
「それが、私にしかできないことだと思います」
俺は器を持ちながら、少し考えた。
「エルナ、これをメニューにしますか」
「できますか」
「毎日変わるメニューとして出せます。「今日のエルナの汁物」のような形で」
「毎日変わることを、お客さんは許容してくれますか」
「この店の常連は、変化を楽しめる人たちだと思います。毎日違うことが、逆に楽しみになる」
「試してみていいですか」
「明日から出しましょう」
エルナは少し驚いた顔をした。
「今日作ったものを、明日から」
「そうです」
「失敗するかもしれません」
「失敗したら、一緒に考えます」
「また口を出しますか」
「今度は口を出してもいいですか」
「……少しだけ、許可します」
翌日から、「今日のエルナ汁」というメニューが生まれた。
名前は、カイルがつけた。
「「今日のエルナ汁」がいいと思います! 毎日違うって、なんかわくわくします!」
「もう少し格好いい名前がいいです」とエルナが言った。
「格好よくしますか?」
「していいです」
「「今日の滋養汁」」とマリアが提案した。
「「感じ汁」」とカイルが言った。
「それは駄目です」とエルナが言った。
「なぜですか!?」
「なんとなく」
最終的に、「その日の汁」に落ち着いた。
初日、ゴルドが「その日の汁」を頼んだ。
エルナはゴルドの状態を感じ取って、今日のゴルドに合わせた汁を作った。
「……昨日とは違う」
「毎日変わります」
「なぜ変わる」
「あなたに合わせているからです」
ゴルドは少し間を置いた。
「俺に合わせた汁、ということか」
「そうです。今日のゴルドさんは、少し肩が凝っています。そういう時は、血の巡りを助ける食材が合います」
「……よくわかるな」
「感じ取れます」
「不思議な子だ」
「そうですか」
「褒めているぞ」
「……ありがとうございます」
グレイが「その日の汁」を頼んだ。
エルナが感じ取って、作った。
「今日のグレイさんは——少し疲れています。目を使いすぎている感じがします」
「……なぜわかる」
「感じ取れます。夜に文字を書くことが多いですか」
グレイは少し黙った。
「書く」
「目に疲れが溜まっています。今日は、目の疲れを和らげる食材を入れました」
「それがわかるのか」
「だいたい」
グレイは汁を飲んだ。
無言で、一口、また一口。
「……旨い。それだけじゃなく——楽になる」
「合っていましたか」
「合っていた」
グレイはしばらく黙ってから、「エルナ」と呼んだ。
「はい」
「お前の能力は——料理に使うのが、一番いい使い方だ」
エルナは少し間を置いてから、「そう思います」と言った。
「施設では、そう思えなかったか」
「思えませんでした。でも——ここに来てから、思えるようになりました」
「そうか」
エレナさんが「その日の汁」を頼んだのは、三日目だった。
少し迷っているような顔をして、「これは、毎日変わるんですか」と確認してから頼んだ。
エルナが感じ取って、作った。
「エレナさんは——今日は、少し頭を使いすぎています。考えすぎている感じがします」
「……よくわかりますね」
「図書館の仕事ですか」
「調べ物が多くて」
「考えすぎた時は、少し甘みのある温かいものが——頭の疲れを和らげます」
エレナさんは汁を飲んで、少し目を閉じた。
「……よかった。頭が、少し静かになった気がします」
「合いましたか」
「合いました」
エレナさんはまた少し目を閉じて、それから開いた。
「エルナさん」
「はい」
「あなたの料理は、本を読むより先に体に届きますね」
「それは——嬉しい言葉です」
「本が好きな私が言うのだから、相当なことです」
その夜、閉店後。
俺とエルナがかまどの前に座った。
「三日間、どうでしたか」とエルナが聞いた。
「うまくいっていますよ」
「失敗しませんでした」
「失敗しませんでした」
「でも——まだ不安です」
「どういうことですか」
「感じ取れない日が来るかもしれません。体調が悪い日とか、集中できない日とか」
「そういう日は、俺かゼノフさんに頼めばいいです」
「でも、私のメニューなのに」
「チームですよ」と俺が言った。
「チーム?」
「一人で全部やろうとしなくていいです。助けてもらうことも、チームの力です」
「トウヤさんが言いますか、それを」
「俺が一番、一人で抱え込みすぎる人間だったので——その反省から言っています」
エルナは少し笑った。
「……トウヤさんの失敗から学べますか」
「どんどん学んでください」
「では、一人で抱え込みすぎないように、します」
「それが一番です」
しばらく、二人で黙っていた。
秋の夜は、少し冷えていた。
かまどの残り火が、いつもより心地よく感じられた。
「トウヤさん」
「はい」
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「トウヤさんは——将来、どうしたいですか」
俺は少し驚いた。
「将来、ですか」
「王都の祭典が終わった後、どうするか——考えていますか」
「考えていません、まだ」
「なぜですか」
「今が面白いから、今のことしか考えていないかもしれません」
エルナは少し考えてから、「そうですか」と言った。
「エルナは将来のことを考えていますか」
「少し。ここで料理を覚えて——いつかは、自分の店を持ちたいと思っています」
「マリアと同じですね」
「マリアさんも、そう言っていましたか」
「来た時から、そう言っていました」
「……私は、来た時は考えていませんでした。逃げることしか考えていなかったので」
「今は、考えています」
「はい。ここに来てから、先のことを考えられるようになりました」
「それはよかったです」
エルナは少し間を置いた。
「自分の店を持つ時——「その日の汁」を出したいです」
「いいですね」
「来た人に合わせた汁物を出す店。毎日変わる、一人一人違う汁物」
「面白い店になりますよ」
「トウヤさんに、見てもらえますか」
「見に行きます」
「約束ですか」
「約束です」
エルナは少し嬉しそうな顔をした。
「でも——まだ先の話です」とエルナが言った。
「そうですね」
「今は、ここで覚えることがたくさんあります」
「たくさんあります」
「トウヤさんから、まだ教わっていないことが山ほどあります」
「そうですね」
「全部教えてもらえますか」
「全部教えます。時間がかかりますが」
「どのくらいかかりますか」
「そうですね……」
俺は少し考えた。
「しばらく、かかります」
「しばらく、というのは?」
「三ヶ月より長い。半年より長い。一年より……たぶん、長い」
エルナはその言葉の意味を、少し考えているような顔をした。
「長い時間、一緒にいるということですか」
「教えることが多いので」
「教えることが多いから、ということですか」
「……それだけではないかもしれませんが」
少し間があった。
俺は自分が何を言ったか、整理しようとした。
うまく整理できなかった。
エルナが静かに言った。
「……嬉しいです」
「何がですか」
「それだけではない、という部分が」
「エルナ」
「はい」
「あなたは、まだ——」
「十三歳です。知っています」
「だから——」
「急ぎません」
エルナは静かに言った。
「発酵と同じです。急いでも、時間は変えられません。ただ、最適な環境を整えて、待つだけです」
俺はその言葉を聞いて、少し笑った。
「俺が教えたことを、俺に返しますね」
「いい教えだったので、使いました」
「……参りました」
「これからも、たくさん教えてください」
「教えます」
「一緒に、発酵の器が深くなるのを見ていてください」
「見ています」
「川の向こう側で、待っていてください」
「待っています」
エルナが立ち上がった。
「おやすみなさい、トウヤさん」
「おやすみなさい、エルナ」
エルナは扉に向かって、一度だけ振り返った。
「明日も、早起き対決をします」
「負けません」
「勝ちます」
エルナは少し笑って、二階に上がっていった。
一人になった俺は、かまどの前に座り続けた。
半年後に開ける発酵の器が、棚にある。
その頃、この店はどうなっているか。
エルナは、どんな料理人になっているか。
俺は、何を教えられているか。
わからないことだらけだ。
でも——発酵と同じだ。
急げない。ただ、最適な環境を整えて、待つだけだ。
その時間が——今は、少し楽しみだった。
アヒルの看板が、秋の夜風に揺れていた。
冬が近づいていた。
冬になれば、また食材が変わる。
「その日の汁」も、変わる。
全部が、少しずつ、深くなっていく。
「満腹あひる屋」の夜は、静かに更けていく。
発酵の器と一緒に。
二人の間にある、言葉にならないものと一緒に。
それが少しずつ、深みを増していく。
次回もお楽しみに




