第二十八話「秋の風と、深まるものたち」
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三ヶ月は、嵐のように過ぎた。
正確には、嵐のようではなかった。
むしろ——川のように、だ。
急ぐわけでも、止まるわけでもなく、ただ自然に流れて、気がついたら三ヶ月が経っていた。
その三ヶ月の間に、いろんなことがあった。
ヴェルナーとの提携が本格的に動き始めて、隣街のブルーノ亭がギルド認定を取った。ブルーノから「ありがとう」という短い手紙が来た。ペーターが「料理が楽しくなった」と書き添えていた。
アデラが月に一度の割合で訪れるようになった。毎回、煮込みとカツ乗せを頼んで、エルナの発酵の進み具合を確認していった。「法的措置は完全に完了しました」という書状が、一ヶ月前に届いていた。
ゼノフさんは月に一度王都に行き、一週間ほどで戻ってきた。王都に行くたびに、少し何かを持って帰ってくる。新しい食材の話、見たことのない料理の話、会った人の話。それが少しずつ、満腹あひる屋の料理に混じっていく。
カイルは冒険者の依頼が減って、厨房にいる時間が増えた。「なんか、冒険者より料理人のほうが向いてる気がしてきました」と言い始めた。
マリアの両親から、また手紙が来た。「立派な料理人になって帰ってこい」という最初の手紙から変わって、今回は「あなたのいる店に、いつか食べに行きたい」と書いてあった。マリアは手紙を読みながら、厨房の隅で少し泣いた。俺は見て見ぬふりをした。
リンは相変わらず、旅に出ては戻ってきた。戻るたびに、少し新しい曲を持ってきた。旅先でこの店のことを話すらしく、遠方から「あひる屋を目指して来た」という客が増えた。
グレイは毎日来て、卵焼きを食べた。それだけは、三ヶ月前と何も変わっていなかった。
エルナは——大きく変わっていた。
毎朝、俺より早く起きた。一度だけ負けたことがあったが、それ以外はずっとエルナが厨房にいた。
料理は、目に見えて上達した。
麺は今や、マリアと並んで「この店の麺担当」になっていた。二人の麺は、同じレシピなのに少し違う。マリアの麺は温かみがあって、エルナの麺は精度が高い。常連の中には、「今日はどっちが作った?」と聞いてくる人もいた。
発酵の管理は完全にエルナが担っていた。豆の状態、温度の変化、香りの変化——全部をノートに書き留めながら、毎日確認を続けた。
ゼノフさんは「エルナちゃんがいると、仕込みの精度が全然違う」と言った。
そして——三ヶ月が経った朝が来た。
秋の最初の朝だった。
空気が少し変わっていた。夏の終わりの重さが消えて、澄んだ冷たさが混じり始めていた。
四時に起きると、エルナがすでに厨房にいた。
「今日ですね」
「今日です」
「豆の様子を見てきました」
「どうでしたか」
「……すごいです」とエルナが言った。
「感じ取りましたか」
「三ヶ月前と、全然違います。あの日の豆の記憶と、今日触れた時の感触が——まるで別のものです」
「それが発酵です」
「どう違うか、言葉にできません。ただ——深くなっています。確かに、深くなっています」
「言葉にできなくていいです」
「なぜですか」
「料理の深みは、言葉より先に体でわかるものです。言葉は後からついてきます」
エルナはノートを取り出した。
「書いておきます。「言葉より先に体でわかる。言葉は後からついてくる」」
「俺の言葉を、全部書いていますね」
「全部ではないですが——大事なことは書いています」
「全部、教えたことを書かれているのは——少し照れますね」
「照れないでください。これが私の教科書なので」
マリアが降りてきた。
「今日ですね!」
「そうです」
「ゼノフさんに起こしてきます!」
「まだ早いですよ」
「でも、今日は早く起きてもらいたいです!」
マリアは二階に駆け上がった。
しばらくして、「たっはっは! もう少し待っておくれ!」というゼノフさんの声が聞こえた。
カイルが来た。
「今日、器を開けるんですよね」
「そうです」
「楽しみすぎて、昨夜あまり眠れませんでした」
「俺も少し」
「トウヤさんも眠れなかったんですか」
「少しだけ」
「エルナさんは?」
エルナが「私は四時間しか眠れませんでした」と答えた。
「それは眠れなかった方では?」とカイルが言った。
「普段は五時間なので」
「一時間の差か」
「でも、目が覚めた時から、今日のことしか考えていませんでした」
「俺と一緒だ!」
ゼノフさんが降りてきた。
丸眼鏡をかけながら、「今日か」と言った。
「今日です」
「待ち遠しかったねえ」
「三ヶ月、ありましたが——早かったですか」
「早かった。でも——長かった気もする。不思議だね」
「充実していた、ということだと思います」
「そうかもしれないね、はっはっは!」
朝の仕込みをした。
今日も、いつも通りに。
朝営業が終わって、昼の仕込みをして、昼営業が終わった。
午後の中途半端な時間、店が少し静かになった頃。
俺はゼノフさんに声をかけた。
「そろそろ、いいですか」
「いいよ」
常連たちが集まっていた。
申し合わせたわけではない。でも、みんなが知っていた。
ゴルドが「昼過ぎに来い」とハンスに言ったらしく、ハンスとヨハンが来ていた。グレイはいつもより少し早い時間に来ていた。エレナさんはお昼から来て、ずっと本を読んでいた——が、ページが一枚も進んでいなかった。ラドクさんが「たまたま通りかかった」という顔をして入ってきた。シグが壁際に立っていた。リンが竪琴を抱えて来ていた。
ルルちゃんは花屋の両親と一緒だった。
全員が、自然と集まっていた。
俺とエルナとゼノフさんの三人で、棚に向かった。
発酵の器を取り出した。
三ヶ月前より、少し重く感じた。
気のせいかもしれない。でも——中に何かが積み重なった重さのように感じた。
「開けていいですか」とエルナが聞いた。
「一緒に開けましょう」
三人で、蓋に手をかけた。
ゆっくりと、開けた。
香りが、広がった。
店内が、一瞬静かになった。
三ヶ月前のものとは、別の香りだった。
一ヶ月前のものとも違う。
深い。複雑で、でも——どこか丸い。
尖った部分が全部溶けて、まとまりのある深みになっていた。
「……すごい」とカイルが言った。
「これが、三ヶ月の香りか」とゴルドが言った。
「前のものとは、全然違いますね」とマリアが言った。
ゼノフさんが匙を取った。
少量を取り出して、俺に渡した。
「まず、作った人間が食べな」
「今回は——」
俺はエルナを見た。
「エルナが一緒に作りました。二人で食べましょう」
エルナは少し驚いた顔をした。
「いいんですか」
「当然です」
俺は少量を匙に乗せて、エルナにも同じ量を渡した。
二人で、同時に食べた。
俺の舌に、深い旨みが広がった。
一ヶ月前のものとは、比べ物にならない。
塩辛さの奥に、複雑な層がある。甘みとも酸みとも言えない、何か独自のものがある。
前の世界で食べた、年数を重ねた味噌に——少し似ていた。でも、この世界にしかない何かが加わっていた。
(できた。本当に、できた)
エルナはしばらく、何も言わなかった。
俺は横からエルナの顔を見た。
目が、静かに輝いていた。
ゆっくりと、エルナが言った。
「……感じます」
「何を?」
「三ヶ月分の時間が、全部ここにあります。仕込んだ日のことも、毎日確認した日のことも、全部——この味の中にあります」
「感じ取れますか」
「います。こんなに複雑なものが、感じ取れます」
「初めてですか」
「食べながら、時間を感じたのは——初めてです」
ゼノフさんが一口食べた。
「……深いね」
「はい」
「前のものと、どこが違うか言えるかい」
「前のものは、深みの中に少し刺激があった。今日のものは——刺激が全部溶けて、まとまっています」
「うまく言うね」
「エルナが「丸い」と表現していました。それが一番合っている気がします」
エルナが「私が言いましたか」と聞いた。
「さっき、表情で言っていました」
「表情で?」
「丸く目を細めていました。あれが「丸い」という感想に見えました」
エルナは少し笑った。
「……表情まで読まれていたんですね」
「料理を食べる人の顔を見ることを、教えたのはゼノフさんです」
「俺は教えたつもりはないけどね、はっはっは!」
全員に深味汁を作った。
今日は、三ヶ月物の発酵豆ペーストを使った特別な深味汁だ。
マリアと二人で大鍋に出汁を温めて、ペーストを溶かした。
香りが、一段階変わった。
先月の深味汁とは、別物の香りがした。
「配ります」
全員に器が渡った。
ゼノフさんが立った。
「特別なことは言わないよ」
全員が静かになった。
「ただ——三ヶ月前に始めた仕込みが、今日開いた。それだけのことだ。でも——」
ゼノフさんは全員を見渡した。
「この三ヶ月間、この店に来てくれたみんなが、この深みを作ってくれた。飯を食いに来てくれる人がいるから、料理を作る意味がある。その料理が積み重なって、この深味汁になった」
ゼノフさんは器を持ち上げた。
「飲もうか」
全員で深味汁を飲んだ。
静かな時間だった。
最初に何か言ったのは、ゴルドだった。
「……前のものと、全然違う」
「そうですね」
「旨い。これは——旨い」
「三ヶ月かけました」
「三ヶ月の味がする。どこかで飲んだことのない味だが——なぜか懐かしい感じがする」
「不思議ですか」
「不思議だ。初めて飲むのに、懐かしい」
エルナが静かに言った。
「時間が入っているからかもしれません。時間は、誰にでも共通のものだから」
ゴルドはエルナを見た。
「……うまいことを言う」
「ありがとうございます」
グレイが飲んだ。
いつも通りの無言で、一口飲んだ。
また一口。
卵焼きを一切れ食べて、深味汁をもう一口飲んだ。
「……合う」
「前より合いますか」
「比べ物にならない。次元が違う」
「次のものは、半年かけます」
グレイはフードの奥から俺を見た。
「半年後、楽しみにしている」
「待っていてください」
エレナさんが本を置いた。
器を両手で包んで、ゆっくり飲んだ。
しばらく目を閉じた。
それから、開いた。
「……今まで飲んだ中で、一番好きです」
「ありがとうございます」
「本が読めなくなりますね、これは」
「デザートと一緒に出しましょうか」
「……そうしてください。毎回」
「わかりました」
ラドクさんが飲んだ。
「仕事の後に、これが飲める」
「はい」
「この街で衛兵をやっていて、よかった」
それは珍しい言葉だった。
「この街が好きですか」とエルナが聞いた。
「なかなか」
「最初から好きでしたか」
「最初は、ただ赴任しただけだった」
「今は?」
ラドクさんは少し間を置いた。
「……ここに根っこができた」
エルナは少し笑った。
「私も、最近できました」
「そうか」
「おめでとうございます、とお互いに言いますか」
「……言おうか」
「おめでとうございます、ラドクさん」
「おめでとう、エルナ」
ハンスが「旨い!!」と大きな声で言った。
ヨハンが「石積みと大工が認める旨さだ」と言った。
「それが一番わかりやすい評価です」と俺が言った。
「そうかい?」
「職人が認めた、というのは信頼できます」
「そりゃどうも! また飲みに来るよ!」
「いつでも来てください」
ルルちゃんが、小さな器を両手で持って飲んだ。
「ん。大人の味がする」
「そうですね」
「前のより、すごい味」
「わかりますか」
「なんかね、飲むとほわっとする。でも前よりもっとほわっとする」
「それが三ヶ月の違いです」
「三ヶ月って、どのくらい?」
「ルルちゃんが、今より少し大きくなるくらいです」
「そのくらいで、こんなに変わるの?」
「変わります」
「すごいね」
シグが飲んだ。
「前の世界にあったやつと、少し似てきた気がする」
「味噌汁ですか」
「そう。完全に同じじゃないけど——根っこが同じ感じがする」
「根っこが同じ」
「この世界の食材で、前の世界の味の根っこを再現した。そういう感じがする」
「前の世界の記憶が、この世界で別の形になった」
「俺が言ったことだな」
「そうです」
「本当にそうなったな」
シグは器を置いて、天井を見た。
「こういうのが、この世界に来てよかったと思う瞬間だ」
リンが飲んだ。
飲みながら、何かを考えている顔をした。
「どうですか」とエルナが聞いた。
「曲が浮かんだ」
「この深味汁から?」
「そう。旅に出た曲が、戻ってきた時に変わっている。それを音にしたい感じがする」
「今夜、弾きますか」
「弾く。今日の深味汁のための曲を」
しばらくして、人が少し落ち着いた頃。
俺はエルナの隣に立っていた。
「どうでしたか、三ヶ月」
「早かったです。でも——長かった気もします」
「ゼノフさんが同じことを言っていましたよ」
「充実していたから、ですか」
「そう言っていました」
エルナは少し笑った。
「私も、充実していました」
「料理が楽しかったですか」
「楽しかったです。でも——料理だけじゃなくて」
「どういうことですか」
「毎日、ここに来る人たちが変わっていく様子を見ることも、楽しかったです。グレイさんが少しだけ表情が柔らかくなった気がします。エレナさんが、先週初めてデザートをおかわりしました。ゴルドさんが、この前カイルさんの料理を「悪くない」と言いました」
「全部覚えていますか」
「食材の状態を覚えるのと同じです。人の状態も、なんとなく記憶されます」
「それは——」
「怖いですか」
「全然。それは料理人として、大切な観察力です」
エルナは少し嬉しそうな顔をした。
「よかったです」
夕方になって、リンが竪琴を弾き始めた。
今日の曲は、確かに「旅をして帰ってきた」という感じがした。
長い旋律が、どこかへ行って、戻ってきて、また出かけていく。
でも根っこは変わらない。
そういう曲だった。
エルナがその曲を聞きながら、「発酵みたいな曲ですね」と言った。
「どういうことですか」
「変わり続けているのに、方向は一つ。深くなっていく方向」
「リンさんに言ってみてください」
「言っていいですか」
「喜ぶと思います」
エルナはリンに近づいて、演奏が終わった後に言った。
「発酵みたいな曲でした」
リンは少し驚いた顔をしてから、「それ、一番好きな感想だ」と言った。
「そうですか」
「俺は料理を音にしたいと思って弾いている。料理みたいだと言ってもらえるのが、一番嬉しい」
「料理みたいな曲と、曲みたいな料理が、この店にあります」
「両方あるな、確かに」
リンは竪琴を一音鳴らした。
「次の曲は、エルナのために弾く」
「私のために?」
「今日、この店の人間になって三ヶ月だろう。それを祝う曲だ」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。聞いてくれれば十分だ」
リンが弾き始めた。
エルナのための曲。
最初は少し静かで、でも少しずつ広がっていく曲。
どこかに辿り着いて、そこに根を張っていく感じがした。
閉店後、全員が帰っていった。
ゼノフさんが「今日はよかったね」と言いながら二階に上がった。
カイルとマリアも上がった。
俺とエルナが、かまどの前に残った。
いつもの夜だ。
でも今夜は、少し特別だった。
「三ヶ月、終わりましたね」とエルナが言った。
「終わりました」
「約束通り、一緒に開けられました」
「そうですね」
「嬉しかったです」
「俺も」
エルナは発酵の空になった器を見た。
「次は、半年ですか」
「そうです」
「もっと深くなりますか」
「なります」
「半年後の私は、どんな料理人になっていますか」
「想像できないくらい、上手くなっています」
「また同じことを言いますね」
「いつも同じことを言います。それが変わらない事実だからです」
エルナは少し笑った。
「信じます」
「信じてもらえると、嬉しいです」
「信じることが、少し上手くなりました」
「誰かを?」
「自分を。トウヤさんの言葉を橋にして、少しずつ渡っています」
「渡れていますか」
「……半分くらいは」
「それで十分です。半年後には、全部渡れます」
エルナはしばらく黙った。
「トウヤさん」
「はい」
「橋は——いつかなくなりますか」
俺は少し考えた。
(橋がなくなるというのは、俺の言葉が不要になる、ということか)
「橋がなくなった時は——」
「はい」
「自分で立っている、ということです。それが目標ですよね」
「そうですが——」
エルナは少し間を置いた。
「橋がなくなっても、川の向こう側に、トウヤさんがいてほしいです」
俺はその言葉を聞いて、少し間が空いた。
厨房が静かだった。
かまどの残り火が、静かに光っていた。
「……います」
「本当ですか」
「本当です」
「川の向こうで、料理を作っていますか」
「作っています。深味汁を作って、待っています」
エルナは少し笑った。
今まで見た中で、一番柔らかい笑顔だった。
銀色の目が、かまどの火を受けて、金色に光った。
「……それが、一番嬉しいです」
エルナが二階に上がった。
一人になった俺は、しばらくかまどの前に座っていた。
新しい発酵の器が、棚に置かれていた。
今日から、半年。
次に開ける時、どんな深みになっているか——今はわからない。
でも。
橋の向こう側で、待っている。
それが今の俺の、一番の楽しみだった。
アヒルの看板が、秋の夜風に揺れていた。
夏が終わって、秋が始まった夜。
「満腹あひる屋」の季節が、また少し変わった。
でも——根っこは変わらない。
変わるのは、深みだけだ。
次回もお楽しみに




