第二十六話「傷の二日間と、それぞれの料理」
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翌朝、三時半に目が覚めた。
いつも通りに起きようとして——脇腹の痛みで、思い出した。
二日間、休む約束だ。
俺は布団に戻った。
戻ったが、眠れなかった。
厨房が気になって、仕方がない。
前世でも同じだった。バイト先で熱を出して休んだ翌日、ずっと「ちゃんと回っているか」が気になって眠れなかった。
でも——あの時の店と、今の店は違う。
あの時は、俺がいないと回らなかった。
今は——回る。
(信じよう)
俺は目を閉じた。
六時に、厨房から音が聞こえてきた。
かまどに火を入れる音。鍋を置く音。包丁の音。
三種類の音が、重なっていた。
ゼノフさん、マリア、カイルの三人だ。
それに少ししてから、もう一つの音が加わった。
エルナが降りてきたのだろう。食材を確認する音だ。
四人の音が、静かに厨房を満たしていた。
俺は天井を見ながら、その音を聞いていた。
(いい音がする)
八時頃、扉をノックする音がした。
「トウヤさん、起きていますか」
エルナだった。
「起きています」
「朝ごはんを持ってきました」
扉が開いて、エルナが小さな膳を持って入ってきた。
深味汁。麦飯。それと——卵焼き。
「ゼノフさんが作りましたか」
「いいえ」
「マリアですか」
「違います」
俺はエルナを見た。
「……俺が作りました」
「エルナが?」
「はじめて、一人で全部作りました。深味汁は昨日の仕込みがあったので、温めるだけですが——卵焼きは、一人で」
エルナは少し緊張した顔をしていた。
「食べてもらえますか」
「もちろんです」
俺は卵焼きを一口食べた。
ふわっとした食感。蜂蜜の甘さ。
ゼノフさんの卵焼きとは違う。俺の卵焼きとも違う。
でも——
「旨いです」
「本当ですか」
「本当です。甘さが、少し控えめですね」
「蜂蜜の量を、少し減らしました」
「なぜですか」
「感じ取った時に——今日のトウヤさんには、重い甘さより、すっきりした甘さが合う気がして」
俺は少し驚いた。
「俺の体の状態を、感じ取ったんですか」
「少し。傷があるので、体が少し疲れています。疲れている時は、重いものより軽いものが合います」
「それで、蜂蜜を減らした」
「合っていますか」
「合っています。正確に合っています」
エルナは少し安心したような顔をした。
「よかったです」
「エルナの卵焼きの特徴は、食べる人に合わせて変わることですね」
「そうなりますか」
「なります。それが、あなたらしさだと思います」
エルナは膳を置いてから、部屋の入り口に向かった。
出ていく前に、少し立ち止まった。
「トウヤさん」
「はい」
「昨日のこと——まだ怖いですか」
「刺されたことですか」
「はい」
「少し。でも、大丈夫です」
「嘘ですか」
「本当です。怖いという感覚より、みんなが動いてくれたことの方が強く残っています」
エルナは少し考えてから、「そうですか」と言った。
「エルナは、昨日のことをまだ引きずっていますか」
「……はい。私のせいで傷を負わせた、という気持ちが、まだあります」
「俺が決めたことです」
「頭ではわかっています。でも——」
「でも?」
エルナは少し俯いた。
「傷が塞がるまで、気になってしまいます」
「だから朝ご飯を作ってきましたか」
「……そうかもしれません」
俺は少し笑った。
「それは嬉しいです」
「嬉しいんですか」
「誰かが気にかけてくれることは、嬉しいです。遠慮しなくていいです」
エルナは少し顔を赤くして、「わかりました」と言って出ていった。
一人になって、俺は深味汁を飲んだ。
温かかった。
エルナが温めてくれた、今朝の深味汁だ。
(気にかけてくれている)
それが、純粋に嬉しかった。
と同時に——少し、困った。
(エルナはまだ十三歳だ)
俺は思わず天井を見た。
前世の感覚では、料理人として尊重すべき後輩だ。
でも——この世界の感覚はどうなのか、まだわからない。
今は、ただ——この子がこの店に来てよかったと思っている。それだけで十分だ。
先のことは、後で考えればいい。
昼過ぎ、マリアが来た。
「様子を見に来ました」
「ありがとうございます。厨房は大丈夫ですか」
「ゼノフさんがいるので大丈夫です。カイルも頑張っています」
「エレナさんは今日来ましたか」
「来ました。デザートを食べながら、「トウヤさんは大丈夫か」と聞いていました」
「エレナさんが?」
「珍しいでしょう。でも、ちゃんと気にしていました」
「伝えておいてください、大丈夫だと」
「はい」
マリアは少し間を置いてから、「エルナさんが、今日の昼も届けたいと言っています」と言った。
「昼も?」
「はい。朝ご飯を届けてから、ずっと仕込みをしています。トウヤさんのために何か作りたいって」
俺は少し黙った。
「マリア、一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「エルナは、今日どんな顔をしていますか」
「どんな顔、というのは?」
「昨日泣いていたので。今日は落ち着いていますか」
「落ち着いています。でも——時々、厨房から二階の方を見ています。トウヤさんが休んでいる方向を」
「そうですか」
「……トウヤさんのこと、心配しているんだと思います」
俺は少し考えた。
「マリアはどう思いますか、エルナのことを」
「どう、というのは?」
「この店に馴染んでいますか」
「馴染んでいます。最初は少し怖そうな子かと思いましたが——全然怖くないです。むしろ、可愛いです」
「可愛い?」
「料理のことになると、目が輝くんです。食材を確認する時、すごく真剣な顔をします。でも、美味しいものを食べると、ほわっとした顔になります。そのギャップが可愛いです」
俺は思わず笑った。
「マリアらしい観察ですね」
「料理を食べる人の顔を見ることを、教えてもらいましたから」
「そうでしたね」
「エルナさんが何かを食べる顔は、特に好きです。感じ取って、理解して、それでも美味しさに驚いている顔をします」
昼に、エルナが膳を持ってきた。
今日は——つるりん麺だった。
「麺ですか」
「昨日より体を動かすには、麺が合うと思いました」
「感じ取りましたか」
「はい。傷が少し回復しているので、温かくてコシのあるものが合います」
俺は麺を一口すすった。
出汁が、昨日より少し濃い。
「出汁を少し濃くしましたか」
「わかりますか」
「わかります」
「体が疲れている時は、少し味が濃いほうが力が出ます。合っていますか」
「合っています。うまい」
エルナは少し嬉しそうな顔をした。
さりげなかったが、確かに、嬉しそうだった。
「座りませんか」とエルナに言った。
「いいんですか」
「せっかく持ってきてくれたので、一緒に食べましょう」
エルナは少し迷ってから、床に腰を下ろした。
俺は麺を食べながら、「エルナはもう何か食べましたか」と聞いた。
「まだです」
「じゃあ、下で何か作ってもらってきてください」
「いいです」
「よくないです。料理を作る人間が、自分の飯を食べないのは駄目です。ゼノフさんに言われました」
エルナは少し笑った。
「トウヤさんがそれを言いますか。いつも仕込みを優先していたのに」
「だから、俺の失敗を繰り返さなくていいです」
「……わかりました。持ってきます」
エルナが自分の麺を持ってきて、俺の部屋の床に座った。
二人で、黙って麺を食べた。
不思議と、気まずくなかった。
静かな時間が、自然に流れた。
「エルナの麺、美味しいですよ」
「自分で作ったものを、自分で褒めますか」
「客観的に言っています。出汁のバランスが、今日のものと少し違いますね」
「自分のために作ったので、いつもより少し薄くしました」
「なぜですか」
「私はあまり濃い味が好きじゃないので」
「好みがあるんですね」
「あります。施設では好みを聞かれなかったので、気づきませんでしたが——ここに来て、自分の好みがわかってきました」
「どんな味が好きですか」
「すっきりしていて、でも深みのある味。深味汁が好きです」
「それは、この店の味ですね」
「そうかもしれません。ここで好みができた気がします」
麺を食べ終えてから、エルナがぽつりと言った。
「トウヤさんって——怖くないですか」
「何が?」
「昨日、刺されて。それでも、今日もここにいます。この店を守りたいという気持ちが、怪我をしても変わらない」
「怖かったですよ、昨日は」
「でも、やめようとは思いませんか」
「思いません」
「なぜですか」
俺は少し考えた。
「前の世界から来て、最初にこの店に来た時——ゴルドさんに担ぎ込まれて、ゼノフさんに飯を出してもらった。あの時の温かさが、まだここにある気がするんです」
「今も?」
「今も。だから、守りたいです」
エルナはしばらく黙った。
「……私は、そういう場所を持ったことがなかったです」
「今は、ありますか」
「……あります。ここが」
俺はそれを聞いて、少し胸が温かくなった。
「それは嬉しいです」
「変ですか」
「変じゃないです。それが一番嬉しいことです」
エルナは少し俯いて、「そうですか」と言った。
耳の先が、少し赤くなっていた。
俺は気づかないふりをした。
夕方、カイルが来た。
「傷の具合はどうですか!」
「大丈夫です。明日から戻れます」
「本当ですか? セラさんは二日って言ってましたが」
「明日が二日目です」
「……計算が合っています。でも、無理しないでくださいよ」
「わかっています」
「エルナさんに怒られますよ、無理したら」
「怒りますか、エルナが」
「怒ります。今日一日、ずっとトウヤさんの分まで食材確認していました。「私がやります」って言って」
「……そうでしたか」
「すごく真剣な顔で。俺、少し怖かったです」
「怖くない子ですよ」
「怖くないのはわかっています。でも、真剣な顔がすごくて——なんか、トウヤさんのこと、ちゃんと気にかけているんだなって思いました」
俺は少し笑った。
「そうですね」
「トウヤさん、嬉しそうですよ」
「そうですか」
「図星ですか」
「仕事に戻りなさい」
「はーい」
二日目の夜。
ゼノフさんが顔を出した。
「明日から、戻れそうか」
「はい」
「無理はするな」
「大丈夫です」
ゼノフさんは少し笑った。
「エルナちゃんが、今日一日、よく頑張ってくれたよ」
「聞きました」
「あの子、真剣だねえ。食材の確認を頼んだら、一つ一つ丁寧にやってくれた。マリアちゃんと組んだら、なかなかいい動きをしていた」
「それは——」
「料理人の顔をしていたよ、ちゃんと」
俺はその言葉を、静かに受け取った。
「ゼノフさん、エルナのことをどう思いますか」
「どう、というのは?」
「この店に合っていますか」
「合っているよ。むしろ——」
ゼノフさんは丸眼鏡を押し上げた。
「トウヤくんが来た時と、少し似ているね」
「俺と?」
「最初は遠慮していて、でも厨房に入ると目が変わる。この店のことを、自分のことみたいに考え始める。そういうところが、似ている」
俺は少し考えた。
「……俺も、そう見えていましたか」
「そう見えていたよ。最初から」
「だから、雇ってくれたんですか」
「それもあるし——飯を全部食べてくれたのが嬉しかったんだよ、はっはっは!」
夜が更けた頃、俺の部屋の扉がそっとノックされた。
「はい」
「エルナです。起きていますか」
「起きています」
「……今日も、大丈夫でしたか」
「大丈夫です。明日から戻れます」
「そうですか」
少し間があった。
「入っていいですか」
「どうぞ」
扉が少し開いて、エルナが顔を出した。
手に、小さな器を持っていた。
「深味汁です。夜に飲むと、体が温まります」
「毎回、持ってきてくれるんですか」
「迷惑ですか」
「迷惑じゃないですよ」
エルナは入ってきて、器を俺に渡した。
俺は深味汁を一口飲んだ。
温かかった。
今日の仕込みのものより、少し濃い気がした。
「今夜は少し濃くしましたか」
「夜は冷えるので。体を温めるために、少し濃いほうがいいです」
「よく考えていますね」
「感じ取れるので」
「でも——感じ取るだけじゃなくて、ちゃんと料理に反映している。それが大事です」
エルナは少し嬉しそうな顔をした。
「褒めてもらえましたか」
「褒めました」
「……嬉しいです」
エルナは床に座った。
俺は深味汁を飲みながら、エルナを見た。
今日一日、俺の分まで食材確認をして、昼と夜に膳を持ってきて——疲れているはずなのに、そんなそぶりは見せない。
「エルナ、疲れていませんか」
「大丈夫です」
「今日はよく動いていたと聞きました」
「トウヤさんがいない分を、少しでも埋めたくて」
「埋めなくてよかったです。ゼノフさんたちで十分に回っていました」
「でも——やりたかったんです」
「なぜですか」
エルナは少し考えてから、答えた。
「トウヤさんが傷を負ったのは、私のためでした。だから——何かしたかったです。じっとしていられなかった」
「気持ちはわかります」
「自分でも、こんなに落ち着かないのは初めてでした」
「施設では、そういう感情を持ったことがなかったですか」
「誰かのために落ち着かない、という経験が——なかったです」
俺はその言葉を聞いて、少し間を置いた。
「それは——」
「変ですか」
「変じゃないです」
俺は深味汁の器を両手で包んだ。
「誰かのために落ち着かなくなること、俺も知っています」
「どんな時ですか」
「この店の料理が上手くいかない時。常連に何かあった時。——あと、エルナが泣いていた時も」
エルナは少し目を丸くした。
「私が泣いていた時?」
「昨日、俺の前で泣いたでしょう。あの時——どうすればいいかわからなくて、少し焦りました」
「焦っていたんですか」
「見えていませんでしたか」
「見えていませんでした。冷静に見えました」
「焦っていました」
エルナはしばらく黙った。
「……焦ってくれていたんですね」
「そうです」
「なんで、嬉しいんでしょう」
「嬉しいですか」
「……少し。誰かが、私のために焦ってくれたということが」
しばらく、二人で黙っていた。
部屋が静かだった。
遠くで、リンの竪琴の音が聞こえた気がした。
もうとっくに閉店しているはずだが——気のせいかもしれない。
「トウヤさん」
「はい」
「この店に来て——初めて、泣けました」
「昨日のことですか」
「それだけじゃなくて。来た最初の頃から、少しずつ、何かが緩んでいく感じがしていました。昨日は、全部出てしまいました」
「それは——いいことだと思います」
「ゼノフさんに言われました。「泣けるのは元気な証拠だよ」って」
「ゼノフさんらしい言葉ですね」
「はい。でも——」
エルナは少し考えた。
「一番最初に緩んだのは、街道でトウヤさんにご飯をもらった時でした」
「そうですか」
「お腹が空いていて、疲れていて、怖かった。でも——あのご飯を食べたら、少し力が抜けました」
「カイルが作った揚げ物のサンドでしたね」
「はい。美味しかったです」
「カイルに言っておきます」
「カイルさんが作ったものでしたが——渡してくれたのはトウヤさんです」
俺は少し考えた。
「それは——ただ余分に持っていただけです」
「それでよかったです。理由がなくても、くれた。それが——嬉しかったんだと思います」
エルナは立ち上がった。
「また眠れなくなるといけないので、戻ります」
「器、洗っておきます」
「私が持っていきます」
「いいですよ」
「トウヤさんは休んでいてください」
エルナは器を受け取って、扉に向かった。
出ていく前に、少し振り返った。
「明日から、また一緒に仕込みをしましょう」
「はい。よろしくお願いします」
「私も、早起きします」
「負けません」
「勝ちます」
エルナは少し笑って、扉を閉めた。
一人になった。
俺は天井を見た。
脇腹の傷が、静かに疼いていた。
でも——それより。
(なんだろう、この感覚は)
胸が、少し温かかった。
深味汁のせいかもしれない。
エルナが持ってきた、夜用の少し濃い深味汁のせいかもしれない。
俺は目を閉じた。
(今は、まだ何も考えなくていい)
エルナはまだ十三歳で、料理を覚え始めたばかりで、昨日やっと自由になった。
俺はこの世界に来てまだ数ヶ月で、この店を守ることで精一杯で、ゼノフさんに任されたものを育てている途中だ。
先のことは、わからない。
でも——今夜、深味汁を持ってきてくれた人がいる。その温かさは、確かだ。
それだけで、今夜は十分だ。
翌朝、三時半に目が覚めた。
傷の痛みは、昨日より薄かった。
ゆっくりと起き上がって、厨房に向かった。
階段を下りると——エルナがいた。
かまどに火を入れていた。
俺の足音に気づいて、振り返った。
「来るの、早いですね」
「今日から戻ります」
「無理しないでください」
「傷は大丈夫です」
「感じ取ってみていいですか」
エルナが近づいてきて、脇腹のあたりに手を近づけた。
目を閉じた。
しばらくして、「……塞がっています。本当に大丈夫みたいです」と言った。
「だから言いました」
「でも、確認しました」
「念入りですね」
「念入りでないと、気が済まないです」
俺は少し笑った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
エルナは出汁の仕込みに戻った。
俺もかまどの前に立った。
二人で、並んで仕込みをした。
しばらくして、エルナが「昨日の夜、眠れましたか」と聞いた。
「よく眠れました。深味汁が効いたかもしれません」
「よかったです」
「エルナは?」
「……昨日より、よく眠れました」
「昨日は眠れなかったですか」
「少し。でも——今日はトウヤさんが戻ってくると思ったら、早く起きられました」
俺は手を動かしながら、その言葉を聞いた。
(今日は俺が戻ってくると思ったら、早く起きられた)
それは——
「……勝ちましたね」とエルナが言った。
「え?」
「昨日、早起きすると言いました。でも、今日はトウヤさんの方が来るのが遅かったです」
「そういう話でしたっけ」
「そういう話でした」
「……負けました」
「覚えておいてください」
「覚えておきます」
マリアが降りてきた。
俺を見て、「おかえりなさい」と言った。
「ただいま戻りました」
「傷は大丈夫ですか」
「大丈夫です。エルナに確認してもらいました」
「エルナさん、今日も早かったんですね」
「早起き対決をしていると言っていました」とエルナが言った。
「対決?」とマリアが笑った。
「私が勝ちました」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
カイルが来た。
俺を見て、「戻ってきた!!」と大きな声を上げた。
「おはようございます、カイル」
「二日間、なんかそわそわしていました」
「回っていたじゃないですか」
「回っていましたけど、なんか——いないと、違うんですよね。変なんですけど」
「変じゃないです。チームというのは、一人欠けると違うものです」
「チームですか。なんかいい言葉ですね」
「前の世界でよく使った言葉です」
「前の世界——どんな世界だったんですか、本当に」
「飲食業界という、戦場でした」
「戦場!?」
「比喩です」
ゼノフさんが降りてきた。
俺を見て、一瞬だけ目を細めてから、「戻ってきたか」と言った。
「戻りました」
「傷は?」
「塞がっています」
「よかった」
ゼノフさんはかまどの前に立って、火加減を確認した。
「今日は——お前がいる」
「います」
「なんか、厨房が落ち着くね、はっはっは!」
「二日間、ありがとうございました」
「礼はいらないよ。でも——」
ゼノフさんは振り返った。
「二日間、エルナちゃんがよく動いてくれた。あの子のことを、ちゃんと見てやってくれ」
「見ています」
「そうだろうね。見ているのが、わかるよ」
俺は少し「どういう意味ですか」と言いかけて、やめた。
ゼノフさんは何も言わず、にこにこしながら鍋を火にかけた。
朝の仕込みが、四人で動いた。
俺、エルナ、マリア、カイル。
それぞれが自分の担当を持って、でも自然に助け合いながら動く。
今日はゼノフさんも加わって、五人の厨房になった。
少し狭かったが——悪くなかった。
むしろ、今まで一番いい厨房の動きだった。
朝営業が始まった。
ラドク隊長が来て、麺をすすった。
「戻ったか」
「戻りました」
「傷は」
「大丈夫です」
「無理はするな」
「はい」
ラドク隊長は麺を飲み終えてから、「昨日、施設の人間を正式に処理した」と言った。
「どうなりましたか」
「フォン・ライム家の名前が出た瞬間、態度が変わった。施設側も、これ以上の強行は難しいとわかっているはずだ」
「完全に終わりましたか」
「しばらくは様子を見る必要があるが——大きな動きはないと思う」
「エルナに伝えます」
「そうしてくれ」
ラドク隊長は立ち上がって、「ゼノフが戻ってきて、お前も戻ってきた。この店は——うるさいな」と言った。
「褒めていますか」
「褒めている」
昼前に、エルナに話した。
「ラドク隊長から連絡がありました。施設の問題、大きな動きはもうないと思うと」
エルナは静かに聞いた。
「……本当に、終わりに向かっていますか」
「向かっています」
「アデラさんの法的措置と、ラドクさんの動きで——私は、本当に自由ですか」
「自由です」
エルナは少し間を置いた。
「自由というのが、まだよくわかりません」
「ここで料理を覚えながら、少しずつわかっていけばいいです」
「時間がかかりますか」
「かかります。でも——」
「でも?」
「深味汁が三ヶ月かかったように、時間をかけたものは深みが出ます」
エルナはその言葉を聞いて、少し笑った。
「また料理の話になりましたね」
「俺は料理人なので」
「そうですね。私も、料理人になりたいので——いいです」
その日の夜、閉店後。
厨房の片付けが終わって、カイルとマリアが二階に上がった。
ゼノフさんも上がった。
俺とエルナだけが、かまどの前に残った。
「また残っていますか、二人で」とエルナが言った。
「習慣ですね」
「悪い習慣ですか」
「いい習慣だと思います」
エルナは少し笑って、発酵の棚を見た。
「次の仕込みは、いつですか」
「明日にでも始めます」
「三ヶ月後に開けますか」
「そうです」
「私も、その時にいますか」
「いると思います」
「……嬉しいです」
エルナは静かに言った。
「三ヶ月後のことを楽しみにできます。施設にいた時は、先のことを考えると怖かった。でも今は——」
「今は?」
「先のことを考えると、温かいです」
俺はその言葉を聞いて、深味汁の器を思い出した。
三ヶ月後に開ける、新しい発酵の器。
その時にも、エルナがここにいる。
(それが、楽しみだ)
俺は素直に思った。
アヒルの看板が、夜風に揺れていた。
傷は塞がっていた。
新しい仕込みが、明日から始まる。
三ヶ月後に開ける発酵の器。その時に誰がいるか、今はまだわからない。
でも——今夜、かまどの前に並んでいる二人は、確かにここにいた。
「満腹あひる屋」の夜が、静かに更けていく。
少しずつ積み重なりながら。
少しずつ、深くなりながら。
次回もお楽しみに




