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満腹あひる屋へようこそ! ~元バイトリーダーは異世界でも厨房に立つ~  作者: 膝栗毛


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第二十五話「銀星研究院の刺客と、満腹あひる屋の総力戦」

引き継ぎお楽しみください

 ゼノフさんが帰ってきてから、三日が経った。

 その三日間は、穏やかだった。

 ゼノフさんはゆっくりと店の感覚を取り戻しながら、厨房に立った。俺とマリアとカイルと並んで、自分のペースで料理を作った。

 最初の朝、ゼノフさんが作った煮込みを食べたカイルが「前より旨い気がします」と言った。ゼノフさんは「気のせいだよ、はっはっは!」と笑ったが、俺には気のせいじゃないとわかった。

 王都で積み重ねた何かが、静かに料理に入っていた。

 エルナはゼノフさんと少しずつ話すようになっていた。最初は緊張していたが、ゼノフさんが「エルナちゃんが確認してくれた野菜は、なんか元気がいいね」と言ったことで、一気に打ち解けた。

 「元気がいい野菜」という表現が、エルナには初めての褒め言葉だったらしく、その夜マリアに「ゼノフさんに褒めてもらえた」と話していた。


 穏やかな三日間だった。

 でも——四日目の朝に、それは終わった。


 最初に気づいたのは、グレイだった。

 朝市に向かう俺を、路地の角で呼び止めた。

「昨夜から、二人増えた」

「北からですか」

「そうだ。前回の偵察とは、雰囲気が違う」

 俺は少し考えた。

「どう違いますか」

「前回は情報収集だった。今回は——目的を持った動きだ」

「エルナを連れ戻しに来た、ということですか」

「そう見ている。装備も違う。前回の人間は、普通の旅人に見えた。今回の二人は——動きが訓練されている」

 俺は頭の中を整理した。

(アデラさんへの手紙を送ってから、二週間が経つ。法的な手続きが動き始めたことを施設側が察知した可能性がある。それで、手続きが完了する前に動いてきた)

「シグさんとゴルドさんに連絡してください」

「すでに入れた」

「ラドクさんには?」

「そっちはゴルドが動く」

「わかりました。今日の朝市は——」

「行くな」とグレイが言った。

「でも仕入れが」

「今日は俺が手配する。お前は店から離れるな」


 店に戻ると、ゼノフさんに話した。

 全部、正直に。

 ゼノフさんは黙って聞いた。

「……来たか」

「はい」

「エルナちゃんは?」

「まだ二階にいます。話していません」

「話すべきだね」

「そうですね」

 ゼノフさんは少し考えてから、「俺から話そう」と言った。

「ゼノフさんが?」

「あの子は俺のことを、まだ少し遠慮しているだろう。でも——店主として、ちゃんと言わないといけない」


 ゼノフさんはエルナを呼んで、カウンターに並んで座った。

 俺は少し離れたところで聞いていた。

「エルナちゃん、施設の人間が来たらしい」

 エルナは表情を変えなかった。でも、手が少し白くなった。

「……わかっていました。感じていました」

「感じていた?」

「昨夜から、見ている気配がありました」

「怖かったか」

「……はい」

「怖くて当然だよ。でもね——」

 ゼノフさんは穏やかに言った。

「この店にいる間は、俺たちがいる。それだけは覚えておいてくれ」

「迷惑をかけます」

「迷惑じゃないよ。腹が減った人に飯を出すのと、同じことだ」

 エルナは少し俯いた。

「……そういう理屈で言われると、断れません」

「断らなくていいんだよ、はっはっは!」


 昼前に、シグが来た。

「二人の場所は特定した。宿は別々だ。今日の昼過ぎに動く気配がある」

「なぜわかりますか」

「一人が、この通りの周辺を朝から何度か歩いている。動線を確認している」

「プロですね」

「そうだ。施設の警備員じゃなく、外部から雇った人間だと思う。報酬で動くタイプだ」

「ゴルドさんは?」

「ラドクに非公式で話を通した。今日の昼から、この通り周辺に衛兵が増える。ただし——」

「ただし?」

「衛兵が動ける範囲には限界がある。公的な権限のない場所では動けない」

「店の中は?」

「店の中は、俺とゴルドがいる」


 昼の営業が始まった。

 いつも通りのふりをしながら、でも全員が張り詰めていた。

 カイルは配膳しながら、入ってくる客を一人ずつ確認していた。マリアは厨房で仕込みをしながら、時々入り口を見た。エルナは厨房の奥にいた。

 ゴルドはカウンターの端に座って、エールを飲んでいた。でも今日は一口も飲んでいなかった。

 シグは入り口の近くに立っていた。

 グレイは奥の席にいた。


 昼過ぎになった。

 俺はどんぶりを仕込みながら、店内を確認していた。

 常連の顔、知らない顔——今日は見慣れない客が三人いた。一人は昨日も来た旅人。一人は行商人風の男。一人は——

 扉が開いた。

 新しい客が入ってきた。

 三十代くらいの男。旅装束だが、体の動かし方が違う。

 シグが少し緊張したのが、横目でわかった。

 男はカウンターに座って、「どんぶりを一つ」と言った。

 声は普通だった。でも——俺には、何かがわかった。

 前世で飲食業の現場を渡り歩いてきた経験が、「この人間は料理を食べに来たわけじゃない」と告げていた。

 注文の仕方が、料理に興味のある人間の頼み方じゃない。

 「どんぶりを一つ」——メニューを見もしないで言った。


 どんぶりを用意しながら、俺はグレイに目配せした。

 グレイは小さく頷いた。

 ゴルドは動かなかった。でも、エールのジョッキを置いた。


 俺がカウンターにどんぶりを置いた時だった。

 男は器を受け取らなかった。

 代わりに、静かに言った。

「エルナ・シュナイダーを返してもらいたい」

 店内の空気が、変わった。

 誰も動かなかった。

 俺は静かに答えた。

「この店に、そういう名前の人間はいません」

「いるはずだ。銀眼の少女だ」

「心当たりがありません」

 男は少し笑った。

「嘘が下手だね」

「正直なもので」

「店主に話を通したい。出してもらえるか」

「今、料理中です」

「待つ」

「どうぞ」


 そこへ、二つ目の扉が開いた。

 裏口だ。

 もう一人の男が入ってきた。

 こちらは少し大きな体格で、手に小さなナイフを持っていた。

 マリアが「ひっ」と短く声を上げた。

「エルナを出せ。騒ぎにしたくない」

 大柄な男が言った。

 俺は静かに前に出た。

「厨房には入れません」

「どけ」

「どけません」

 大柄な男が一歩前に出た。

 ゴルドが立ち上がった。

 男は一瞬、ゴルドを見た。

 でも——カウンターにいた最初の男が、俺の横に回り込んでいた。


 俺が気づいた時には、左の脇腹に鋭い痛みがあった。

 短剣の先が、浅く入っていた。

「動くな。騒ぎにしたくないと言った」

 男が静かに言った。


 次の瞬間、全てが一気に動いた。

 ゴルドが大柄な男に向かった。鎧なしの体でも、その動きは早かった。

 シグが最初の男の腕を掴んだ。

 短剣が、俺の脇腹から抜けた。

 その衝撃で、俺は一歩よろめいた。

 カウンターに手をついた。


「トウヤさん!」

 マリアの声だった。

 俺は「大丈夫です」と言おうとしたが、声が少し掠れた。

 脇腹が痛い。でも——浅い。致命傷ではない。

(浅い。大丈夫だ)

 前世の感覚ではなく、体が判断していた。

 でも、服に赤いものが滲んでいた。


 ゴルドは大柄な男を壁に押しつけていた。

 一瞬の出来事だった。

 シグは最初の男の腕を後ろに捻り上げて、動けなくしていた。

 外から足音がした。

 ラドク隊長だった。衛兵を二人連れていた。

「通報があった。動くな」


 俺はカウンターに寄りかかりながら、脇腹を押さえていた。

 ゼノフさんが飛んできた。

「トウヤくん! 傷は!?」

「浅いです。大丈夫です」

「大丈夫じゃない、血が出ている!」

「本当に浅いです。ゼノフさん、落ち着いて——」

「落ち着けるか!!」

 ゼノフさんが怒鳴ったのを、俺は初めて聞いた。


 そこへ、厨房の奥から足音がした。

 エルナだった。

 状況を見て、一瞬で理解したのだろう。

 俺の姿を見た瞬間、エルナの顔が変わった。

「トウヤさん」

「大丈夫です。浅い傷です」

「嘘です」

「本当に——」

「嘘です」

 エルナは俺の前に来た。

 銀色の目が、俺の脇腹を見ていた。

「感じ取れます。深くはない。でも——」

 エルナの声が、少し震えた。

「血が出ています。私のせいです」

「違います」

「私がいなければ、こんなことに——」

「エルナ」

 俺は少し腰を曲げて、エルナと目線を合わせた。

 脇腹が痛んだが、関係なかった。

「俺がここに立ったのは、俺が決めたことです。あなたのせいじゃない」

「でも——」

「どけと言われて、どかなかったのは俺です。あなたを守ろうとしたのも俺です。俺が決めたことです」

 エルナは俺を見ていた。

 銀色の目が、揺れていた。

「……なぜ」

「なぜって——」

 俺は少し考えた。

「ゴルドさんが、俺を担いでこの店に連れてきてくれた。ゼノフさんが、飯と寝床をくれた。いろんな人が、ここで俺を受け入れてくれた。だから——同じことをしたかっただけです」

 エルナは何も言わなかった。

 少し、間があった。

 それから——エルナの目から、涙が落ちた。


 一粒だけじゃなかった。

 次々と、静かに落ちた。

 声は出なかった。

 ただ——銀色の目から、涙が流れた。

「エルナ」

「……ごめんなさい」

「謝らなくていいです」

「ごめんなさい。私がいたから——」

「エルナ」

 俺はもう一度、エルナの目を見た。

「あなたがいてくれて、よかったです」

「なぜですか」

「仕入れの質が上がりました。マリアが毎朝楽しそうです。ゼノフさんがあなたを気に入っています。この店が、少し変わりました」

 エルナは涙を流しながら、俺を見ていた。

「それは——」

「全部、あなたがここにいたからです」

「そんなことの、ために——」

「そんなことじゃないです」

 俺は静かに言った。

「人がここにいてくれることが、この店の全てです。ゼノフさんが二十八年かけて作ったのも、それです。俺が守りたいのも、それです」


 エルナはしばらく泣いていた。

 声を出さずに、静かに泣いていた。

 マリアが横に来て、エルナの肩に手を置いた。

 何も言わなかった。

 ただ、そこにいた。

 エルナはマリアの手を感じて、また少し涙を流した。


 ゴルドが俺の横に来た。

「傷を見せろ」

「大丈夫です」

「見せろ」

 俺は脇腹を見せた。

 ゴルドは傷を確認した。

「……浅い。でも、手当をしろ」

「はい」

「薬草屋のセラさんを呼ぶ」とカイルが言って、飛び出した。


 ラドク隊長が二人の男を確保した。

「施設の人間か」

「そうだ」と一人が答えた。威勢は、もうなかった。

「今後の処理は、フォン・ライム家との協議になる。連行する」

 衛兵が二人を外に連れ出した。


 セラさんが来て、傷を診た。

「浅いね。縫わなくてもいい。薬草を貼れば、数日で塞がる」

「痛みは?」

「一週間くらいは、無理をしないこと。厨房の仕事は——まあ、二日は休みなさい」

「二日は」

「絶対に」とゼノフさんが言った。

「でも仕込みが——」

「俺がやる」

「ゼノフさんが?」

「何のためにここにいると思っているんだ。トウヤくんがいなくなった一ヶ月、俺だってやっていたんだよ」

「でも——」

「二日、休みなさい」とセラさんが再度言った。

「……わかりました」


 薬草を貼って、包帯を巻いた。

 俺はカウンターの椅子に座っていた。

 エルナが横に来た。

 涙は止まっていた。でも、目が少し赤かった。

「大丈夫ですか」

「大丈夫です。本当に」

「感じ取ってみていいですか」

「どうぞ」

 エルナは俺の脇腹に、そっと手を当てた。

 目を閉じた。

 しばらくして、「浅いです。本当に」と言った。

「だから言ったじゃないですか」

「……でも、血が出ていました」

「傷は傷です。でも、大丈夫な傷です」

 エルナは手を離した。

「……怖かったです」

「俺も少し怖かったです」

「嘘ですか」

「本当です。刺されるのは、初めてだったので」

 エルナは少し笑った。泣いた後の、少し疲れた笑顔だった。

「初めてなんですか」

「当たり前です。前の世界は、刺されない世界でした」

「この世界に来て、刺されましたね」

「来て損したかもしれません」

「……そんなことはないと、思います」

「俺も、そう思っています」


 その夕方、アデラから緊急の書状が来た。

 グレイが受け取って、すぐ俺に渡した。


 「先ほど、銀星研究院に対する法的措置が正式に発動されました。エルナ・シュナイダーへの「所有権登録」は、フォン・ライム家の裁量により無効と認定されます。施設は今後、エルナ殿に対して強制的な接触を行う法的根拠を失います。

 本日の事案については、ラドク隊長から報告を受けました。負傷者が出たことを、深くお詫び申し上げます。

 エルナ殿に伝えてください。もう、追われることはありません。

 ——アデラ・フォン・ライム」


 俺はエルナを呼んだ。

 書状を渡した。

 エルナは静かに読んだ。

 読み終えてから、しばらく動かなかった。

「……終わりましたか」

「はい」

「本当に?」

「アデラさんが言うなら、本当です」

 エルナはまた、少し目が赤くなった。

「泣きすぎですか」とエルナが言った。

「今日くらいはいいと思います」

「格好悪いですね」

「格好悪くないですよ」

「泣いてばかりです。施設では、ずっと泣かないようにしていたのに」

「ここでは泣いていいです」

「なぜですか」

「泣く理由があるからです」

 エルナは少し考えてから、「そうですね」と言った。

 それから、また少し泣いた。


 マリアが「エルナさん、デザート食べましょう」と言った。

「今日は私が作ります。エルナさんのために作ります」

「私のために?」

「食べてほしい人の顔を思い浮かべながら作ると、美味しくなるって、トウヤさんに教わりました。今日はエルナさんの顔を思い浮かべて作ります」

 エルナは少し驚いた顔をしてから、「ありがとうございます」と言った。


 その夜、いつもの常連たちが揃った。

 俺は椅子に座ったままで、厨房には立てなかった。

 ゼノフさんとマリアとカイルが、三人で厨房を回した。

 最初は「回せるかな」と思ったが——三人は、ちゃんと回した。

 俺がいなくても、動いた。

(育っていたんだ。ちゃんと)

 それが、椅子に座って見ていた俺には、一番嬉しいことだった。


 リンが来て、竪琴を弾いた。

 今夜の曲は、穏やかだった。

 騒がしい一日を、静かに包み込むような曲だった。

 エルナはその曲を聞きながら、マリアが作ったデザートを食べた。

「美味しいですか」とマリアが聞いた。

「美味しいです。マリアさんの気持ちが、わかります」

「どんな気持ちですか」

「……温かい気持ちです。あとは——大丈夫、という気持ちも」

「大丈夫という気持ちを込めました」

「伝わりました」

 マリアは嬉しそうに笑った。


 閉店後、俺はカウンターに座ったまま、厨房の後片付けを見ていた。

 ゴルドが帰り際に、俺の隣に立った。

「傷の具合は」

「大丈夫です」

「無茶をした」

「そうですね」

「でも——」

 ゴルドは少し間を置いた。

「正しいことをした」

「ゴルドさんも、昔似たようなことをしましたか」

「何度も」

「後悔しましたか」

「一度もない」

 ゴルドはそれだけ言って、帰った。


 グレイが最後に帰った。

 いつも通りの時間に、いつも通りの速度で立ち上がった。

 俺の横を通る時に、一言だけ言った。

「よくやった」

「グレイさんが情報を集めてくれたからです」

「俺は情報を集めただけだ。体を張ったのはお前だ」

「次からは、もう少し上手くやります」

「次があるつもりか」

「この店を守る以上、何かあるかもしれません」

 グレイは少し沈黙した。

「……次は、もっと早く動く。今日は一歩遅かった」

「グレイさんのせいじゃないです」

「それでも、遅かった」

 グレイは扉を開けた。

「傷が治ったら、教えろ。次の準備をする」

「ありがとうございます」


 全員が帰って、ゼノフさんが二階に上がった後。

 俺はエルナと二人で、厨房の前に座った。

 かまどの火が落ちていて、静かだった。

「今日は、いろいろありましたね」

「はい」

「怖かったですか、最終的には」

「……最初は怖かったです。でも——みんなが動いてくれて、怖くなくなりました」

「それがここの強みです」

「一人じゃない、ということですか」

「そうです」

 エルナは少し間を置いた。

「今日、泣きすぎました」

「いいと思いますよ」

「格好悪いです」

「格好悪くないです」

「施設では、ずっと泣かなかった。泣いたら弱いと思われるから。弱いと思われたら、もっと利用される気がして」

「ここでは、泣いても弱いとは思われません」

「なぜですか」

「泣けるということは、感情がある証拠だからです。感情がある人間が作る料理は、美味しいです」

 エルナは少し笑った。

「また料理の話になりましたね」

「俺は料理人なので」

「そうですね」

 エルナは少し考えてから、言った。

「トウヤさん」

「はい」

「ありがとうございます。今日のことだけじゃなくて——連れてきてくれて、ここにいていいと言ってくれて」

「どういたしまして」

「私は、これからどうすればいいですか」

「どうしたいですか」

「料理を覚えたいです。ちゃんと、料理人になりたいです」

「なれます」

「根拠はありますか」

「あります。毎朝四時に起きて、出汁の仕込みをしている人間が、料理人になれないわけがないです」

 エルナは少し笑った。

「それだけですか」

「それだけで十分です」


 しばらく、二人で黙っていた。

 静かな厨房に、かまどの残り火が少し光っていた。

「トウヤさん」

「はい」

「傷、痛いですか」

「少し」

「無理しないでください」

「二日は休むよう、言われました」

「守ってください」

「守ります」

「約束ですか」

「約束です」

 エルナは少し安心したような顔をした。

「……守ってもらってばかりです」

「今は、それでいいです」

「いつかは、守る側になりたいです」

「なれます。料理で守れます」

「料理で?」

「腹が減った人に飯を出すことが、守ることになります。ゼノフさんがずっとやってきたことです」

 エルナはその言葉を、静かに噛みしめた。

「……ゼノフさんみたいになれますか」

「なれます。ただし——」

「ただし?」

「ゼノフさんみたいな盛り付けは、やめたほうがいいと思います」

 エルナはくすっと笑った。

「あの量は、確かに多いですね」

「多すぎます。でも、誰も文句を言わないので、あれでいいんだと思います」

「盛りすぎが、ゼノフさんらしさなんですね」

「そうです。あなたらしさも、いつか見つかります」


 アヒルの看板が、夜風に揺れていた。

 今日は、騒がしい一日だった。

 でも——終わってみれば、静かな夜だ。

 俺の脇腹は少し痛んでいたが、それよりも——今夜の厨房が、マリアとカイルとゼノフさんで回っていた光景が、頭に残っていた。

(俺がいなくても、動く)

 それが一番、嬉しかった。


 エルナが二階に上がる前に、一度だけ振り返った。

「トウヤさん」

「はい」

「今日、泣いたことを——後悔していません」

「よかったです」

「初めて、人の前で泣けた気がします」

 俺は何も言わなかった。

 エルナは少し頷いて、二階に上がっていった。


 一人になった厨房で、俺はかまどの前に座った。

 脇腹が、静かに痛んでいた。

 でも——それより強く、温かいものが胸にあった。

 この場所が、ちゃんとここにある。

 ゼノフさんが帰ってきた。エルナが自由になった。この店が守られた。

 全部、繋がっている。


 アヒルの看板が揺れていた。

 「満腹あひる屋」の夜が、静かに更けていく。

 傷は、二日で塞がるだろう。

 でも今夜のことは——ずっと残るだろう。

 この場所で過ごした時間の、深みの中に。

次回もお楽しみに

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