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満腹あひる屋へようこそ! ~元バイトリーダーは異世界でも厨房に立つ~  作者: 膝栗毛


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24/29

第二十四話「ゼノフ帰還と、発酵の器を開ける日」

引き継ぎお楽しみください

ゼノフさんが帰ってくる日の朝、俺は三時に目が覚めた。

 寝直そうとしたが、眠れなかった。

 結局、三時半に起きて厨房に下りた。

 かまどに火を入れながら、今日の段取りを考えた。

 朝の仕込み。朝営業。昼の準備。そしてゼノフさんの帰還。

 帰ってくる時間は、昼過ぎになるとリーナから連絡があった。

 その前に、やるべきことがある。


 発酵の器だ。

 棚から慎重に取り出して、テーブルに置いた。

 三ヶ月と少し。ゼノフさんが出発してから今日まで、この器はずっとここにあった。

 蓋を少し開けると——深い、複雑な香りが広がった。

 先月より、さらに深くなっている。

 一ヶ月前とは別物だ。二ヶ月前とは、もっと別物だ。

 時間が作り出した、この世界にまだない味が、ここにある。

(ゼノフさんを待てた)

 俺は蓋を閉めて、器を棚に戻した。

 今日の昼過ぎまで、もう少しだけ待つ。


 エルナが降りてきた。

「三時半ですよ」と俺が言った。

「今日は早く起きたかったんです」

「なぜですか」

「ゼノフさんが帰ってくる日だから」

「会うのが楽しみですか」

「……少し緊張しています」

「なぜですか」

「手紙で私のことを知っている方に、初めて会う時の緊張感です」

 俺は少し笑った。

「ゼノフさんは、緊張させるような人じゃないですよ」

「どんな人か、わかっています。でも——やはり緊張します」

「わかりました。横にいます」

「ありがとうございます」


 マリアが降りてきて、カイルが来て、いつもの朝が始まった。

 でも今日の朝は、いつもより少し浮き足立っていた。

「ゼノフさん、何時に来ますか」とカイルが聞いた。

「昼過ぎの予定です」

「昼の営業、ちゃんとできますかね。俺、落ち着かないです」

「ゼノフさんが帰ってきた時に、ちゃんと動けている店を見せるほうがいいです」

「確かに! 頑張ります!」

 マリアが「カイルさん、包丁の持ち方が違います」と指摘した。

「え、どこが——あ、本当だ。緊張してる」

「私も緊張しています。でも、手は動かします」

「マリアは冷静だな」

「ノートに「緊張している時こそ、手を動かす」と書いてあります」

「いつ書いたんですか」

「最初のギルド審査の日に。トウヤさんが言いました」

「俺が?」と俺が聞いた。

「言いました」とマリアが答えた。


 朝営業が始まると、常連たちが次々と来た。

 ラドク隊長が来た。麺を食べながら、「今日か」と言った。

「昼過ぎです」

「そうか」

 それだけだったが、いつもより少しだけ早く来ていた。

 ハンスとヨハンが朝から来た。珍しいことだった。

「俺ら、仕事をずらしてもらった」とハンスが言った。

「なぜですか」

「ゼノフじいさんが帰ってくる日に、ここにいたくて」とヨハンが言った。

「それだけのために?」

「それだけのために」

 俺は何も言わなかった。

 でも、嬉しかった。


 昼前に、リンが来た。

「戻ってくる前に聞いておきたいんだが」

「なんですか」

「じいさんが帰ってきた時、何か特別なことをするか?」

「発酵の器を一緒に開けます」

「それだけか?」

「それだけです」

「……それでいいな」とリンは言った。「余計なことをするより、いつも通りが一番だ」

「そう思います」

 リンは竪琴を軽く弾いた。

「帰ってきたら、弾こうと思っている曲がある」

「どんな曲ですか」

「まだ決めていない。じいさんの顔を見てから、決める」

「その場で作るんですか」

「それが一番、その瞬間に合う曲になる」


 昼過ぎになった。

 店内は、常連がほぼ全員集まっていた。

 誰も申し合わせたわけではない。でも、自然とみんながここにいた。

 ゴルドが来た。どんぶりを注文して、黙って食べた。でも今日は、食べ終わっても帰らなかった。

 グレイが来た。いつもより一時間早かった。

 エレナさんが来た。本を持っていたが、今日はまだ開いていなかった。

 シグが入り口の近くに立った。「なんとなく、ここがいい気がして」と言った。

 ルルちゃんが花屋の両親と一緒に来た。「ゼノフおじいちゃんが帰ってくるって聞いたの」と言いながら、アヒルクッキーをかじっていた。


 そして。

 扉が開いた。


 ゼノフさんだった。

 旅装束を着て、小さな荷物を持っている。

 王都に行く前と、見た目は変わっていない。同じ白髪、同じ丸眼鏡、同じ穏やかな顔。

 でも——何かが違った。

 前よりも少し、背筋が伸びているような気がした。

 目の奥に、何か新しいものが加わっているような気がした。


 ゼノフさんは店内を見渡した。

 全員と目が合った。

 そして——にっこりと笑った。

「ただいま」


 一瞬、静かになった。

 次の瞬間。

「おかえりなさい!!」

 カイルが叫んだ。

 マリアが「おかえりなさいます」と丁寧に言った。

 ハンスとヨハンが「おかえり!」と声を揃えた。

 ルルちゃんが「ゼノフおじいちゃん!」と走ってきた。

 リンが「遅かったじゃないか、じいさん」と言いながら笑った。

 エレナさんが本を置いて、「おかえりなさい」と静かに言った。

 ラドク隊長が立ち上がって、一度だけ頷いた。

 ゴルドが「戻ったか」とだけ言った。

 グレイが何も言わなかったが、フードをいつもより少し下げた。

 シグが「おつかれさん」と言った。


 俺はカウンターの中に立っていた。

 ゼノフさんが俺のところに来た。

 目が合った。

「ただいま、トウヤくん」

「おかえりなさい、ゼノフさん」

 ゼノフさんは店内を改めて見渡した。

「……変わっていないね」

「変わっていません」

「いや、少し変わっているな」

「何がですか」

「人が、増えている」

 ゼノフさんはエルナを見た。

 エルナはカウンターの端に立っていた。少し緊張した顔で、ゼノフさんを見ていた。

「エルナちゃんかい」

「……はい。エルナといいます」

「手紙で聞いたよ。よく来てくれた」

「迷惑をかけていませんか」

「迷惑なんてとんでもない。むしろ——」

 ゼノフさんは丸眼鏡を押し上げた。

「いつも通りの飯を、毎日食べてもらえているなら、それで十分だよ」

 エルナは少し目を丸くした。

「……それだけで?」

「それが一番大事なことだから、はっはっは!」

 エルナは一瞬固まってから——くすっと笑った。

「……聞いていた通りの方ですね」

「そうかい? どんなふうに聞いていたんだい」

「料理を盛りすぎると」

「それは正確だね、はっはっは!!」


 ゼノフさんが座ると、ルルちゃんが隣に来た。

「ゼノフおじいちゃん、王都ってどんなところ?」

「広くて、にぎやかで、でもどこか落ち着かない場所だよ」

「なんで落ち着かないの?」

「なじんだ顔がいないからだよ」

「こっちのほうが好き?」

「もちろん!」

 ルルちゃんは嬉しそうに笑った。

「じゃあ、もう行かないの?」

「月に一度は行かないといけない約束があるけどね。でも——」

 ゼノフさんは店内を見渡した。

「ここが一番好きだよ」


 しばらくして、ゼノフさんが俺を呼んだ。

「トウヤくん、そろそろいいかい」

「はい」

 全員が、何のことかをわかっていた。

 俺は棚から発酵の器を取り出した。

 テーブルに置くと、全員が静かになった。

「三ヶ月と少しです」と俺が言った。

「一緒に開けよう」とゼノフさんが言った。


 ゼノフさんと俺が並んで、器の前に立った。

 エルナが横に来た。

「一緒にいていいですか」

「もちろんです」

 マリアとカイルも来た。

 気がつくと、全員が器の周りに集まっていた。

 ゴルドが一番後ろに立っていて、グレイが壁際に立っていて、ラドク隊長がその隣にいた。


 俺とゼノフさんで、蓋を開けた。

 ゆっくりと。

 香りが、広がった。


 誰も、最初は何も言わなかった。

 深い香りだった。

 一ヶ月前とも二ヶ月前とも違う。仕込んだ初日とは、もう別物だ。

 時間が作り出した、複雑で、深くて、でも方向が一つの香りだ。

「……すごい匂いだね」とカイルが言った。

「旨そう」とハンスが言った。

「旨そうというより、深そう」とヨハンが言った。

「同じだろ」とハンスが言った。

「違う気がするけど」とヨハンが言った。


 ゼノフさんが匙を取った。

 少量を取り出して、俺に渡した。

「まず、作った人が食べな」

「ゼノフさんが先に」

「トウヤくんが作ったものだ。トウヤくんが先だよ」

 俺は匙を受け取った。

 少量を舌に乗せた。

 塩辛さ。

 その後から——深い、深い旨みが来た。

 一ヶ月前のものとは、比べ物にならない。時間が何十倍にも旨みを重ねていた。

 前の世界で食べた、古い味噌の味に——少し近かった。

 でも、それより少し野性的で、この世界らしかった。

「どうだ」とゼノフさんが聞いた。

「……できました」

「旨いか」

「旨いです」

「よかった、はっはっは!」


 ゼノフさんも食べた。

 目を閉じた。

 しばらく、何も言わなかった。

「……深いね」

「はい」

「一ヶ月前とは、全然違う」

「時間が変えました」

「三ヶ月、よく待ったね」

「ゼノフさんと一緒に開けたかったので」

 ゼノフさんは丸眼鏡を外して、少し拭いた。

 レンズが少し、くもっているように見えた。


 マリアが出汁を温め始めた。

 深味汁を作るためだ。

 温めた出汁に、新しい発酵豆ペーストを少量溶かす。

 香りが変わった。

 一ヶ月前の深味汁と、同じ料理のはずなのに——全然違う。

 もっと深くて、もっと複雑で、でも飲みたくなる香りだ。

「全員分、作ります」とマリアが言った。

「頼んだよ」とゼノフさんが言った。


 全員に、深味汁が配られた。

 大きな器、小さな器、持っているものに。

 ゼノフさんが立った。

「みんな、ありがとう」

 短い言葉だった。

「俺が王都にいる間、この店を守ってくれて」

 誰も何も言わなかった。

「俺の料理が、諸国祭典で賞をもらえたのは——二十八年間、この店に来てくれた人たちのおかげだ。今ここにいるみんなのおかげだ」

 ゼノフさんは丸眼鏡の奥の目を細めた。

「それと——」

 ゼノフさんは俺を見た。

「トウヤくん、ありがとう。この店を、ちゃんと守ってくれた」

 俺は少し、胸が詰まった。

「当然のことをしただけです」

「当然のことを、ちゃんとやり続けることが——一番難しいんだよ」


 全員で深味汁を飲んだ。

 最初に飲んだのは、ゼノフさんだった。

 一口飲んで、目を閉じた。

 しばらく、何も言わなかった。

 それから、ゆっくりと目を開けた。

「……旨い」

 それだけだった。

 でも、その二文字が、この場所の全てを表していた。


 ゴルドが飲んだ。

「……先月より、深い」

「三ヶ月ものです」と俺が言った。

「違うな。前のものとは、別の料理だ」

「同じレシピです」

「時間が変えた、ということか」

「そうです」

 ゴルドは深味汁をもう一口飲んだ。

「……じいさんの料理も、時間が変えた」

「どういうことですか」

「王都に行って、戻ってきたじいさんの料理は——前とは違う何かを持っているだろう。見てみたい」

 ゼノフさんが「たっはっは! プレッシャーをかけるねえ!」と笑った。


 グレイが飲んだ。

 無言で、一口飲んだ。

 また一口。

 最後に、「前のものより、卵焼きに合う」とだけ言った。

「試してみてください」と俺が言った。

「今日は卵焼きも頼んでいる」

「では、合わせてみてください」

 グレイは卵焼きを一切れ食べて、深味汁を一口飲んだ。

 長い沈黙の後。

「……前より、ずっと合う」

「よかったです」

「三ヶ月後にまた変わるか」

「変わります」

「次も待つ」


 エルナが飲んだ。

 目を閉じた。

「……複雑です」

「はい」

「でも、方向は一つです。深くなっていく方向」

「前から言っていましたね」

「ずっとそうでした。でも、今日のものは——方向だけじゃなくて」

「なんですか」

「重みがあります。ここで過ごした時間の重みが、味に入っている気がします」

 エルナは目を開けて、ゼノフさんを見た。

「ゼノフさん、初めまして」

「初めまして、エルナちゃん」

「深味汁、美味しいです」

「それはトウヤくんとマリアちゃんが作ったものだよ」

「でも、ゼノフさんが作った店で、ゼノフさんが作った雰囲気の中で飲んでいます。だから、ゼノフさんの味もします」

 ゼノフさんは少し目を細めた。

「……面白いことを言う子だね」

「よく言われます」

「好きだよ、そういう子が、はっはっは!」


 リンが竪琴を取り出した。

「じいさん、約束通り弾く」

「聞かせてくれ」

「今この瞬間のための曲だ。じいさんが帰ってきて、みんながいて、新しい深味汁がある——この瞬間のための曲」

 リンは弦に手を置いた。

 少し目を閉じた。

 それから、弾き始めた。


 音が、広がった。

 始まりの音が、柔らかかった。

 それが少しずつ、重なっていく。

 最初はシンプルな旋律が、途中から複雑に絡み合って、でも方向は一つだった。

 深くなっていく方向だ。

 エルナが言っていた通りだった。

 発酵と同じだ。

 時間と人が重なって、深くなっていく。


 演奏の途中、ゼノフさんが厨房に入った。

 俺は少し驚いて、後を追った。

 ゼノフさんはかまどの前に立って、何かを確認していた。

「ゼノフさん、今日はゆっくりしていていいですよ」

「少しだけ触らせてくれ」

「何を作るんですか」

「卵焼きだ」


 ゼノフさんは卵を割った。

 蜂蜜を加えた。白獣乳を少し入れた。

 混ぜながら、手が自然に動いた。

 王都から帰ってきた手が、二十八年間の動きを取り戻すように動いた。

 かまどに鍋を置いて、油を薄く引いた。

 卵液を流し込んだ。

 火加減は——長年の勘で調整した。

 ゆっくりと、でも確実に火を通した。

 くるっと巻いた。

 形が整った。

 俺は横で見ていた。

 ゼノフさんの手は、王都に行く前と変わっていなかった。

 でも——少しだけ、違う気がした。

 同じ動きなのに、どこか落ち着きが増したような気がした。

 前よりも、ゆっくり、丁寧だった。


「できた」

 ゼノフさんは卵焼きを皿に乗せた。

「味見していいですか」

「どうぞ」

 俺は一切れ食べた。

 ふわっとした食感。蜂蜜の甘さ。

 でも——少し違った。

「ゼノフさん、前と少し違いますね」

「どう違う?」

「……もっと、落ち着いた感じがします。甘さが、前よりゆっくり来ます」

「そうかい」

「王都で、何か変わりましたか」

 ゼノフさんは少し考えてから、答えた。

「王都でな——いろんな料理人の料理を食べた。すごい技術を持つ人たちばかりだった」

「はい」

「それを見て、俺は思ったんだ。俺には、あんな技術はない。でも——」

「でも?」

「二十八年間、同じ場所で作り続けてきた料理がある。それは俺にしかない」

「そうです」

「王都では、急いで上手くなろうとしていた気がする。最初の三日間、うまくいかなかったのは——それのせいだったかもしれない」

「四日目から変わったんですよね」

「知っている顔を思い浮かべてから、変わった。思い浮かべた時に、気がついたんだ」

「何に?」

「俺は、特別な料理を作りたいわけじゃなかった。来た人が、また来たくなる料理を作りたかっただけだ」

 ゼノフさんは卵焼きの皿を持って、厨房を出た。

「それができていれば、それでいいんだよ」


 ゼノフさんがグレイの前に卵焼きを置いた。

「お待たせ、グレイくん」

「……帰ってきてすぐ、作ったのか」

「そうだよ。グレイくんのために作るのが、一番手が動く気がしたから」

 グレイはしばらく卵焼きを見た。

「……前より、甘いか」

「少し変わったかもしれないね」

「どう変わった」

「王都で、いろんな料理人の料理を食べた。みんな旨かった。でも、一番旨かったのは——ここの料理の記憶だった」

 グレイは卵焼きを一切れ食べた。

 長い、長い沈黙があった。

「……旨い」

「ありがとう」

「前の卵焼きも旨かった。でも——今日のは、違う旨さだ」

「どう違う?」

「前は、慣れた旨さだった。今日のは——少し、遠くから帰ってきた味がする」

 ゼノフさんは少し笑った。

「そうかもしれないね」

「歓迎する」

 グレイはそれだけ言って、深味汁を一口飲んだ。


 リンの演奏が終わった。

 最後の音が、ゆっくりと消えていった。

 誰も何も言わなかった。

 しばらく、静かだった。

 その静けさは、空っぽではなかった。

 満ちていた。


 ゼノフさんが立った。

「さあ、腹が減っていないか。今夜は俺が作る」

「ゼノフさん、今日は休んでいいですよ」とカイルが言った。

「休むのは明日からでいい。今日は——帰ってきた初日だから、俺が作る」

 ゼノフさんは厨房に向かった。

 その背中を見て、マリアが小声で俺に言った。

「少し変わりましたね、ゼノフさん」

「そうですか」

「背中が、前より少し大きい気がします」

「王都に行ったからじゃないですか」

「でも——戻ってきた感じもします。どちらもあります」

 俺はその言葉を聞きながら、厨房のゼノフさんを見た。

 かまどの前で、鍋を火にかけている。

 同じ動きで、同じ場所で、でも——少し違う。

(発酵と同じだ)

 出かけて帰ってきた時間が、ゼノフさんの料理を少し深くした。


 その夜、「満腹あひる屋」は遅くまで続いた。

 ゼノフさんが作った料理が次々と出てきて、全員が食べた。

 煮込み。麦飯。汁物。そして——大盛りの、いつものあれこれ。

「また盛りすぎだよ、ゼノフさん!」とカイルが言った。

「久しぶりだから、はっはっは!」

「久しぶりだから余計に大盛りにする理由がわからない!」

「腹が減っていると思って」

「食べる前からわかるんですか!?」

「だいたいわかるよ、はっはっは!!」

 店内に笑い声が広がった。

 エルナが「やっぱり面白い方ですね」とマリアに言った。

「でしょう?」とマリアが言った。

「盛りすぎるのが、本当に本当なんですね」

「全部本当です」


 深夜近くになって、一人また一人と帰っていった。

 ゴルドが「戻ってきてよかった」と言って帰った。

 グレイが「明日も卵焼きを頼む」と言って帰った。

 ラドク隊長が「ゼノフ、二十年前の礼を言っていなかった」と言った。

 ゼノフさんは「礼なんていいよ」と言った。

 ラドク隊長は少し間を置いてから、「俺がこの街に馴染めたのは、あの店があったからだ。そのことを、ずっと言えていなかった」と言った。

 ゼノフさんは「そうかい」と言って、少し目を細めた。

「女房も喜ぶよ。ありがとう、ラドクくん」

 ラドク隊長は一度だけ頷いて、帰っていった。


 全員が帰った後、ゼノフさんと俺の二人になった。

 後片付けをしながら、ゼノフさんが言った。

「王都から帰ってくる道中、ずっと考えていたことがある」

「なんですか」

「この店を、もっと長く続けたい」

「続けましょう。俺がいます」

「トウヤくんが来てくれたから、続けられると思っている」

「ゼノフさんが作ったものがあるから、続けられます」

「二人でやれば、もっと遠くまで行けるかな」

「行けます」

 ゼノフさんは鍋を拭きながら、少し笑った。

「王都の人に聞かれたよ。「ゼノフ殿の料理の秘訣は何ですか」って」

「なんと答えたんですか」

「「腹が減った人に、温かいものを出すことです」と言ったら、みんな黙っていたよ」

「それが全部じゃないですか」

「全部だよ。でも、みんな難しく考えすぎているから、ピンと来なかったみたいだね、はっはっは!」


 片付けが終わって、ゼノフさんが二階に上がる前に、俺に言った。

「トウヤくん」

「はい」

「帰ってきた日に、ちゃんと飯が食えた。みんなの顔が見えた。深味汁が開いた。卵焼きが作れた」

「はい」

「それで——十分だよ」

 ゼノフさんは丸眼鏡を押し上げた。

「明日からまた、一緒にやろう。はっはっは!」

「はい」

「おやすみ、トウヤくん」

「おやすみなさい、ゼノフさん」


 一人になった厨房で、俺は発酵の器を棚に戻した。

 空になった器は、また新しいものを仕込む。

 今度は何ヶ月かける。どんな味になる。

 それはまだわからない。

 でも——楽しみだ。


 アヒルの看板が、夜風に揺れていた。

 今夜は、少し風が強かった。

 でも、看板は揺れながらも、ちゃんとそこにあった。

 二十八年間、同じ場所でそこにあり続けた看板が。

 これからも、ここにあり続ける。


 「満腹あひる屋」の夜が、静かに更けていく。

 ゼノフさんが帰ってきた夜が。

 深味汁が生まれ変わった夜が。

 少しずつ、また積み重なっていく。

次回もお楽しみに

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