第二十三話「諸国料理の祭典と、遠くから届いた味」
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祭典の日は、突然やってきた。
正確には、突然ではない。日程はわかっていた。でも——その日が来た実感は、朝になって初めて生まれた。
いつも通り四時に起きて、厨房に下りた。
かまどに火を入れながら、ふと思った。
(今日、ゼノフさんが王都で料理を出す)
それだけのことだ。俺には何もできない。ただ、ここで料理をするだけだ。
でも——不思議と、手が丁寧に動いた。
エルナが降りてきた。
「今日が祭典の日ですね」
「そうです」
「ゼノフさん、大丈夫でしょうか」
「大丈夫です」
「根拠はありますか」
「あります」
「なんですか」
俺は出汁の火加減を調整しながら、答えた。
「ゼノフさんは、王都に行っても変わっていないからです。手紙を読んでわかりました。最初の三日間、うまく作れなかった——それはゼノフさんが正直な人間だからです。環境が変わって、戸惑った。でも四日目から、自分のやり方を取り戻した」
「知っている顔を思い浮かべて」
「そうです。それができる人間は、どこに行っても自分の料理ができます」
エルナは少し考えてから、「そういうものですか」と言った。
「そういうものです」
「私も、いつかそうなれますか」
「もうなっています」
「え?」
「毎朝ここで、誰かのために食材を確認している。それがあなたの料理の始まりです」
エルナは少し黙って、出汁の器を見た。
「……そうかもしれません」
朝営業が始まると、ラドク隊長が来た。
麺を食べながら、静かに言った。
「今日が祭典か」
「はい」
「王都は遠い。結果が届くのは、いつ頃だ」
「早くて三日後、だと思います。リーナさんが伝令を出してくれると言っていました」
「そうか」
ラドク隊長は麺をすすってから、続けた。
「俺は二十年前、一度だけ王都に行ったことがある」
「そうですか」
「その時、諸国料理の祭典を見た。各地の料理人が、自分の街の料理を持ち寄る。ただそれだけのことだが——見ている人間が、生き生きしていた」
「なぜですか」
「料理に、その土地の空気が入っているからだと思った。食べると、その土地に行った気がする」
俺はその言葉を、静かに受け取った。
「ゼノフさんの料理にも、この街の空気が入っています」
「そうだろう。だから——」
ラドク隊長は器を置いた。
「俺は、ゼノフが王都で出す料理が、この街の料理であることを願っている」
「手紙で、そう伝えました」
「お前が伝えたか」
「はい」
ラドク隊長は少し目を細めた。
「……よかった」
昼過ぎ、ゴルドが来た。
いつも通りどんぶりを注文して、いつも通りつゆだくにして、いつも通り黙って食べた。
でも食べ終わった後、珍しくカウンターに残った。
「トウヤ」
「はい」
「今日が祭典だな」
「そうです」
「ゼノフさんが何を出すか、わかるか」
「わかりません。でも——」
「でも?」
「煮込みと卵焼きが、王都でも好評だったと聞いています。あとは——」
俺は少し考えた。
「ゼノフさんが二十八年間作り続けてきたものを、そのまま出すと思います」
「それは——」
ゴルドは少し間を置いた。
「この店で食べるものと、同じということか」
「同じです」
ゴルドは黙った。
しばらして、「そうか」とだけ言った。
エールを一口飲んで、また黙った。
俺はそのゴルドの横顔を、ちらりと見た。
険しい顔ではなかった。
何かを、遠く思い浮かべているような顔だった。
夕方、リンが竪琴を持って来た。
「今日は、少し特別な曲を弾こうと思っている」
「特別な?」
「ゼノフじいさんのために」
「届きますか、王都まで」
「届かなくても、ここにいる人たちの気持ちが届けばいい」
リンは竪琴の弦を軽く確かめてから、弾き始めた。
今日の曲は、最初から温かかった。
揺れるような、でも芯のあるリズム。どこか懐かしくて、でも新しい感じがする曲だ。
マリアが厨房から顔を出して聞いていた。カイルが配膳しながら、知らず口元が緩んでいた。エルナが目を閉じて聞いていた。
グレイが、いつもより少し早い時間に来た。
卵焼きを注文して、食べながらリンの演奏を聞いた。
フードの奥の顔は見えなかったが、串焼きを食べる手が、いつもよりゆっくりだった。
夜が更けた頃、エレナさんが本を閉じた。
今日は早い時間から来ていて、デザートを二皿食べていた。
「今日は長くいますね」とカイルが言った。
「……なんとなく」とエレナさんが答えた。
「ゼノフさんのことが気になりますか」
「気になる、というわけでは」
エレナさんは少し間を置いた。
「ただ——今日は、ここにいたかったんです」
「なんでですか」
「今日みたいな日は、この場所が一番落ち着くので」
カイルは少し驚いた顔をしてから、「わかります」と言った。
「俺も、朝起きた時から、早く店に来たかったです」
「私も」とマリアが言った。
「私も、来たかったです」とエルナが静かに言った。
俺は厨房から、その会話を聞いていた。
(みんな、感じていたんだ)
今日が特別な日だということを、言葉にしなくても。
閉店時間になっても、なかなか席を立つ人がいなかった。
ゴルドはエールを三杯飲んでいた。グレイはいつもより一時間遅く来て、いつもより遅くまでいた。ハンスとヨハンは「もう一杯だけ」を三回繰り返した。
リンは演奏を続けていた。
誰も「帰れ」とは言えない雰囲気だった。
俺はゼノフさんなら何と言うだろう、と思った。
(「たっはっは! 今日くらいは遅くまでいてくれ!」と言うだろうな)
俺は厨房に戻って、深味汁を大鍋で作った。
「今夜は、もう少しだけ開けておきます。深味汁、飲みたい方はどうぞ」
誰かが「おう」と言った。
誰かが「助かる」と言った。
深味汁の香りが、店内に広がった。
その夜が明けて、翌日が来て、翌々日が来た。
三日目の昼過ぎ。
リーナから早馬が来た。
グレイが受け取って、俺に渡した。
「来た」
手紙を開いた。
全員が、自然と俺の周りに集まっていた。
カイル、マリア、エルナ、リン、ゴルド、グレイ、エレナさん、ハンス、ヨハン、シグ、ラドク隊長——みんながそこにいた。
昼の営業中だったが、誰も席を立たなかった。
俺は手紙を読んだ。
声に出して、全員に聞かせた。
「トウヤ様、並びに満腹あひる屋の皆様へ。
諸国料理の祭典において、ゼノフ殿の料理が最も多くの人の心を掴みました。
ゼノフ殿が出したのは三品。煮込み料理、出汁の汁物、そして甘い卵焼きです。
華やかな料理が並ぶ中で、ゼノフ殿の料理は一見、地味に見えました。でも——食べた人が、全員同じことを言いました。
「また食べたい」と。
他の料理人の料理は、その場で感動を与えるものが多かった。でも、ゼノフ殿の料理は——食べた後に、何かが残りました。温かさ、というのか、誰かの顔を思い浮かべるような、そういう何かです。
王家の審査員が最後に言いました。「この料理には、長い時間が入っている」と。
ゼノフ殿は受賞しました。
諸国料理の祭典、最優秀賞です。
受賞の言葉を求められた時、ゼノフ殿はこう言いました。
「この料理は、私一人の料理ではありません。二十八年間、私の店に来てくれた人たちの料理です。そして今、私の店を守ってくれている人たちの料理でもあります」
会場は、しばらく静かになりました。それから——大きな拍手が起きました。
ゼノフ殿は来月、この街に戻られます。
——リーナ」
俺は手紙を読み終えて、顔を上げた。
店内が、しばらく静かだった。
最初に声を上げたのは、カイルだった。
「……やった」
小さな声だったが、確かに聞こえた。
マリアが目を赤くしながら、「ゼノフさん」と言った。
エレナさんが本を胸に抱えたまま、目を閉じた。
ゴルドが、エールのジョッキを静かにテーブルに置いた。その音だけが、店内に響いた。
グレイは何も言わなかった。でも、フードを少しだけ下げた。珍しいことだった。
ハンスが「すごいな、ゼノフじいさん」と言った。ヨハンが「当たり前だろ」と言った。
シグが「この店の料理だもんな」と言った。
ラドク隊長は、窓の外を見ていた。
リンは竪琴を持って来ていたが、今日はまだ弾いていなかった。手紙を聞いた後、少しだけ目を伏せて、それから弦を一本だけ鳴らした。
澄んだ、短い音だった。
エルナは俺の隣に立っていた。
「「長い時間が入っている」——発酵と同じですね」と、エルナが静かに言った。
「そうですね」
「時間と、人の気持ちが、重なって——どこにも真似できないものになる」
「ゼノフさんが二十八年かけて作ったものです」
「でも——トウヤさんたちが加わって、もっと深くなった。発酵の器が、一ヶ月前より深い香りになるように」
俺はその言葉を聞いて、少し笑った。
「うまいことを言いますね」
「さっきより上手くなりましたか」
「なっています」
その夜。
リンが演奏を始めた。
最初の一音が鳴った瞬間に、全員がそれだとわかった。
祭典の日に弾いた曲だ。
でも今日の演奏は、三日前とは違った。
同じ旋律なのに——どこかが変わっていた。
満ちている、という感じがした。
行って、帰ってきた、という感じがした。
閉店後、俺は一人で厨房に残った。
発酵の器を確認した。
あと少し。
三ヶ月後の約束まで、あと二週間くらいだ。
蓋を少し開けると——今まで嗅いだ中で、一番深い香りがした。
(待っていてくれた)
時間が、ここで積み重なり続けていた。
ゼノフさんが王都に行っている間も、この厨房で、見えない何かが働き続けていた。
俺はかまどの前に座って、今日のことを振り返った。
三日間、何もできなかった。待つだけだった。
でも——待っている間、ここで料理を作り続けた。ラドク隊長に麺を出して、ゴルドにどんぶりを出して、グレイに卵焼きを出して、エレナさんにデザートを出して。
それが——ゼノフさんへの、俺なりの応援だったのかもしれない。
(この店を守ることが、ゼノフさんの料理を支えることだ)
前の世界で、バイトリーダーとして何度も経験したことだ。
現場を守ることが、遠くにいる誰かを支える。
「トウヤさん」
エルナが厨房に顔を出した。
「どうしましたか」
「眠れなくて」
「来てください」
エルナはかまどの前に座った。
二人で、しばらく黙っていた。
「嬉しいですか」とエルナが聞いた。
「はい」
「泣かないんですか」
「泣きそうにはなりました」
「なぜ泣かなかったんですか」
「まだゼノフさんが帰ってきていないので」
エルナは少し考えてから、「そういうものですか」と言った。
「ゼノフさんが帰ってきて、一緒に発酵の器を開けて、深味汁を飲んだ時に——その時に泣けばいいと思っています」
「それまで、取っておくんですか」
「そうです」
エルナはしばらく黙った。
「……私は、その場にいていいですか」
「もちろんです」
「ゼノフさんに、まだ会っていないから」
「ゼノフさんは、エルナのことを知っています。手紙に書きました」
「なんて書きましたか」
「銀眼の子が来て、仕入れの質が上がった、と」
「……それだけですか」
「あと、マリアが毎朝楽しそうだ、とも書きました」
エルナは少し笑った。
「ゼノフさんは、どんな人ですか」
「会えばわかります」
「想像するとしたら?」
俺は少し考えた。
「料理を盛りすぎる人です」
「それだけですか」
「それだけで、十分な人です」
エルナはくすっと笑った。
「会うのが楽しみです」
「もうすぐです」
しばらくして、エルナは二階に戻っていった。
俺は一人で、もう少し厨房に残った。
来月、ゼノフさんが帰ってくる。
発酵の器を一緒に開ける。
深味汁を飲む。
それだけのことだ。
でも——その「それだけのこと」が、今はとても大きく感じられた。
アヒルの看板が揺れていた。
王都の空の下でも、同じ月が出ているはずだ。
ゼノフさんは今夜、何を思っているだろう。
受賞の喜びか、帰りたいという気持ちか、それとも——来月開ける発酵の器のことか。
たぶん、全部だ。
そしてたぶん——この店の、みんなの顔も。
「満腹あひる屋」の夜は、静かに更けていく。
来月、この場所はまた少し変わる。
ゼノフさんが帰ってくる。エルナの問題が動く。発酵の器が開く。
でも——根っこは変わらない。
二十八年分の根っこが、ここにある。
その根っこの上に、これからも積み重なっていく。
それが、「満腹あひる屋」だ。
次回もお楽しみに




