第二十二話「アデラの書状と、王都からの風」
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アデラからの書状が届いたのは、ゼノフさんが王都に向かってから、ちょうど一ヶ月が経った日のことだった。
朝の仕込みの最中に、グレイが持ってきた。
「フォン・ライム家の紋章がある。重要な内容だ」
俺は手を拭いてから、封を開けた。
書状には、二つのことが書かれていた。
一つ目は、エルナのことだ。
銀星研究院について独自に調査した結果、施設が行っている「能力者の強制管理」が、フォン・ライム家の領地内における法的な規定に抵触する可能性があるという。
アデラは「この件について、法的な無効化を進める準備がある。ただし、エルナ本人の意思表示が必要になる。手紙か、直接の証言か、どちらかの形で」と書いていた。
二つ目は——王都のことだった。
そこを読んだ時、俺は思わず立ち止まった。
書状の二つ目にはこう書かれていた。
「王都にて、ゼノフ殿の料理が話題になっています。宮廷での試食会で出した煮込みと卵焼きが、王家の方々の間で好評を博しました。特に、殿下の一人が「これまで食べた中で最も温かみのある料理だ」と仰いました。ゼノフ殿は今、王都で大変な評判を取っています」
そしてその下に、一行だけ追記があった。
「ゼノフ殿から、「トウヤに読ませてくれ」と言伝を預かっています。以下に記します」
俺は、その次の行をゆっくりと読んだ。
「トウヤくんへ。
王都の厨房は広くて、道具もいい。食材も豊富だ。でも、最初の三日間は全然うまく作れなかった。理由がわかったよ。ここには、なじんだ顔がいないんだ。
ゴルドくんがどんぶりを食べる顔も、グレイくんが卵焼きを食べる顔も、カイルくんが「なにこれ!」と叫ぶ顔も——何も思い浮かばないから、手が止まってしまった。
四日目から、思い出しながら作るようにした。ゼノフさんはこの顔のために作るんだ、と。そうしたら、少しだけ手が動くようになった。
料理は、誰かの顔を思い浮かべながら作るものだと、トウヤくんが言っていたね。そういうことか、とやっと理解できた。ありがとう。
深味汁の次のやつ、三ヶ月後に開けるのを忘れるな。必ず帰るから、一緒に味見しよう。
——ゼノフより」
俺はしばらく、その手紙を見ていた。
厨房の向こうで、カイルが野菜を切る音がしていた。マリアが出汁の火加減を確認していた。エルナが食材の確認をしていた。
いつも通りの、朝の厨房だ。
でも——その「いつも通り」の中に、ゼノフさんが二十八年かけて作ったものが、全部詰まっている。
(ゼノフさん、ちゃんとやっているんだ)
胸が、じわりと温かくなった。
「どうしましたか」
マリアが声をかけてきた。
「ゼノフさんから手紙が来ました」
「え! なんて?」
「王都で、ちゃんとやっているそうです」
カイルが「本当ですか!?」と飛んできた。
「評判も良いようです。王家の方に褒められたと」
「すごい! ゼノフさん、王都でも盛りすぎているんですかね」
「たぶん、そうだと思います」
三人で笑った。
エルナが少し首を傾けて、「ゼノフさんというのは、やはり面白い方なんですね」と言った。
「会ったことがありますか」とマリアが聞いた。
「ないです。でも——手紙に書かれていたことを聞いて」
「どう思いましたか」
「料理は、誰かの顔を思い浮かべながら作るもの——という言葉が、響きました」
「ゼノフさんらしい言葉です」と俺が言った。
「トウヤさんも、同じことを私に言いましたね」
「言いましたね」
「繋がっているんですね、二人が考えていることが」
午前中、俺はエルナに書状を見せた。
「アデラさんからです。エルナのことも書いてありました」
エルナは書状を読んだ。
法的な無効化。本人の意思表示が必要。
「……私が、証言するということですか」
「手紙でも、直接でも、どちらでも構わないそうです」
「怖くないといえば、嘘になります」
「そうですよね」
「でも——」
エルナは少し間を置いた。
「逃げ続けるより、正面から解決したいです。ここにいる人たちのためにも」
「無理はしなくていいです」
「無理じゃないです。今の私には、一人じゃないから」
銀色の目が、静かに、でも確かな光を持っていた。
「アデラさんへの手紙を書きます。トウヤさん、文章を一緒に考えてもらえますか」
「もちろんです」
昼過ぎ、ラドク隊長が来た。
いつものように麺を注文して、食べながら俺を呼んだ。
「昨日、ゴルドから話を聞いた」
「北からの人間のことですか」
「そうだ。今朝確認したが、その人間は昨夜の宿を発ったらしい。いなくなった」
俺は少し考えた。
「偵察だったということですか」
「可能性が高い。本格的な動きは、次の段階ということだろう」
「時間はどのくらいありますか」
「施設に報告して、次の手を考えて——早くて一週間。余裕を見て二週間だ」
「その間に、アデラさんへの意思表示を届けます」
ラドク隊長は少し目を細めた。
「フォン・ライム家が動くのか」
「動いてもらえるようです」
「それは——大きな力だ」
「ゼノフさんの店が、いろんな人と繋がってきた結果だと思います」
ラドク隊長は麺をすすりながら、静かに言った。
「ゼノフは今、王都にいるんだったな」
「はい。評判が良いようです」
「そうか。あの人が王都にいる——というのは、実は俺にも関係がある」
俺は少し驚いた。
「どういうことですか」
「ゼノフとは、二十年前から知り合いだ」
「そうだったんですか」
「俺がこの街に赴任した時、最初に行った食堂がゼノフの店だった。あの頃は、まだ奥さんが生きていた」
ラドク隊長は少し遠い目をした。
「温かい人だった。ゼノフも、奥さんも。俺がこの街に馴染めたのは、あの店があったからだ」
「……それを、ゼノフさんに伝えましたか」
「言えていない。言葉にするのが苦手で」
「今からでも伝えられます」
「そうだな」
ラドク隊長は麺の最後の一口を食べて、器を置いた。
「ゼノフが王都で評判を取るのは——当然だ。あれだけの料理を作れる人間が、世に出ていなかったほうがおかしい」
「ゼノフさんはずっと、ここにいることを選んでいました」
「知っている。だから余計に、今回の選択は大きいと思っている」
俺はその言葉を聞きながら、ゼノフさんの手紙を思い出した。
最初の三日間、作れなかった話。四日目から、知っている顔を思い浮かべて作るようになった話。
(ゼノフさんは変わっていない。でも、広がっている)
夕方、リンが旅から戻ってきた。
扉を開けて、荷物を下ろして、「ただいま」と言った。
「おかえりなさい」
「二週間ぶりだな。変わったことは?」
「エルナが来ました。それと、ゼノフさんから手紙が」
「エルナ?」
リンはカウンターに腰を下ろして、俺の話を聞いた。
全部聞き終えてから、「なかなか、いろいろあったな」と言った。
「そうですね」
「エルナという子は?」
「今は厨房にいます」
リンはちらりと厨房を見た。
エルナがマリアと並んで、仕込みをしていた。
「……銀眼か」
「知っていますか」
「旅をしていると、たまに聞く。珍しい能力だ」
「怖いですか」
「俺が怖がってどうする。旅人は、珍しいものに慣れているもんだ」
リンは竪琴のケースを置きながら言った。
「ゼノフじいさんの手紙、読んでいいか」
俺はもう一度書状を出した。
リンはゼノフさんの部分をゆっくり読んだ。
読み終えてから、「じいさんらしいな」と言った。
「そうですね」
「「なじんだ顔」か——俺も同じだよ」
「どういうことですか」
「旅先でも、演奏するんだが——この店のことを思い浮かべて弾くと、音が変わる気がする。ゼノフじいさんが「顔」で料理が変わると言っているのと、同じことだと思う」
「場所や人が、表現を変えるんですね」
「そういうことかな」
リンは少し笑った。
「俺がここに居場所を作ったのは——ここが「戻ってくる理由」になったからだ。じいさんが王都でもここを思い浮かべているなら、じいさんにとっても同じものだろう」
その夜、エルナはアデラへの手紙を書いた。
俺が横に座って、言葉を一緒に考えた。
施設での生活のこと。逃げてきた理由。ここで過ごした日々。そして、自分の意思として「この問題を解決したい」ということ。
エルナは慎重に、でも正確に書いた。
感情的な言葉は少なく、事実を積み上げていく。でも、一ヶ所だけ、感情が滲む部分があった。
「ここに来てから、初めて自分の能力が「役立つ」と感じました。料理の仕込みに使うことで、誰かが喜んでくれます。施設では、私は道具でした。でも今は、料理人の端くれとして、何かに貢献できている気がします」
俺はその部分を読んで、何も言わなかった。
エルナが「おかしいですか」と聞いてきた。
「おかしくないです。むしろ、正直でいい」
「大げさじゃないですか。まだ三週間も経っていないのに」
「三週間で十分です。あなたがここで積み上げてきたことは、本物です」
エルナは少し黙ってから、「そうですか」と言って、手紙を書き続けた。
手紙を書き終えた後、エルナは封をする前に俺に渡した。
「確認してもらえますか」
「読んでいいんですか」
「トウヤさんに読んでもらいたいです」
俺は手紙を読んだ。
事実の積み重ね、自分の意思、そして——「満腹あひる屋」という場所への感謝が、最後に一段落あった。
「「ここは、私が初めて「いていい」と思えた場所です」——これが、一番大事な部分だと思います」
「削らないほうがいいですか」
「削らないでください」
エルナは少し安心したような顔をして、封をした。
翌朝、グレイが手紙をアデラのもとへ届けるルートを確保した。
「三日以内に届く」
「ありがとうございます」
「返事は一週間後だろう。それまでに、施設の次の動きが来るかもしれない」
「備えます」
グレイは少し間を置いてから、「もう一つある」と言った。
「なんですか」
「王都の話だ」
「ゼノフさんのことですか」
「そうだ。少し前から、王都でゼノフの料理が話題になり始めている。俺のルートにも入ってきた」
「アデラさんの書状にも書いてありました」
「それだけじゃない」
グレイはフードの奥から俺を見た。
「「諸国料理の祭典」が近づいている。王都でも準備が進んでいる。ゼノフは、その祭典に出ることになったらしい」
「祭典に?」
「宮廷料理人の一人として、王都代表の料理を出す立場になった」
俺は少し驚いた。
「早いですね。来てまだ一ヶ月なのに」
「それだけ評判が広まったということだ。ただ——」
「はい」
「ゼノフは悩んでいるらしい」
「何を?」
「王都代表として出るなら、「王都の料理」を出すべきか、「自分の料理」を出すべきか」
俺はその言葉を聞いて、少し考えた。
(そこで悩むのが、ゼノフさんらしい)
「グレイさん、ゼノフさんに伝える手段はありますか」
「俺のルートなら、二日で届く」
「手紙を書いていいですか」
「書け」
その夜、俺はゼノフさんへの返事を書いた。
ゼノフさんの手紙への返事と、祭典のことへの俺の考え。
「ゼノフさんへ。
手紙を読みました。「なじんだ顔を思い浮かべて作る」——俺もそうしています。ゼノフさんの顔を思い浮かべて、卵焼きを作っています。まだゼノフさんとは違う味ですが、毎日少しずつ近づいている気がします。
諸国料理の祭典のことを聞きました。悩んでいると聞いています。
一つだけ言わせてください。
ゼノフさんの料理は、「王都の料理」じゃなくていいと思います。二十八年間、この街の小さな食堂で作り続けてきた料理を、そのまま出してください。
それが、誰かが「また来たくなる」料理です。それが、一番遠くまで届く料理です。
深味汁の器、三ヶ月後に待っています。一緒に味見しましょう。
それから——最近、新しい仲間が増えました。エルナという子で、銀眼を持っています。今は厨房で食材の鑑定をしてもらっています。仕入れの質が上がりました。ゼノフさんが戻ってきたら、紹介します。
カイルの包丁が、ずいぶん上手くなりました。マリアのデザートは、常連に大好評です。リンが旅から戻ってきました。グレイさんは今日も卵焼きを食べています。ゴルドさんはエールを飲みながら誰かに武勇伝を語っています。エレナさんはデザートを食べながら本を読んでいます。
いつも通りの、満腹あひる屋です。
ゼノフさんの帰りを、全員で待っています。
——トウヤより」
手紙を書き終えて、グレイに渡した。
「届けてください」
「わかった」
グレイは手紙を受け取って、いつもの席に戻った。
卵焼きの最後の一切れを食べながら、ぼそりと言った。
「……お前が来てから、この店に手紙が増えた」
「そうですか」
「以前は、ゼノフ宛の手紙など年に一度もなかった。今は毎週、誰かに何かを送っている」
「繋がりが増えたということだと思います」
「食堂が、情報の結節点になりつつある」
「そうなっていますか」
「そうなっている。俺の仕事と、少し似てきた」
グレイは立ち上がりながら、「悪いことじゃない」と言った。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。卵焼きが旨かった」
翌日の朝。
仕込みをしながら、俺は発酵の器を確認した。
二ヶ月と数日。あと一ヶ月弱でゼノフさんと約束した期限だ。
蓋を少し開けると——香りがさらに深くなっていた。
先月より、さらに複雑な匂いがする。刺激的だが、その奥に確かな旨みの予感がある。
「これ、もうすぐ開けますか」
エルナが横に来た。
「一ヶ月後に、ゼノフさんと一緒に開ける予定です」
「感じ取ってみていいですか」
「どうぞ」
エルナは器に手を近づけて、目を閉じた。
しばらくして、「複雑です」と言った。
「どういう意味ですか」
「最初に仕込んだものより、ずっと複雑です。たくさんの変化が重なっています。でも——方向は一つです」
「方向?」
「深くなっていく、という方向」
俺は少し笑った。
「それが発酵というものです」
「時間と一緒に、複雑になっていく」
「そうです」
エルナは器から手を離して、「この店と似ていますね」と言った。
「この店が?」
「来る人が増えて、繋がりが複雑になっていく。でも——方向は一つです。温かくなっていく、という方向」
俺はしばらく、その言葉を考えた。
(発酵と、この店が似ている)
「……うまいことを言いますね」
「料理を感じ取っていると、こういう言葉が出てきます」
「ノートに書いておいてください」
「はい」
その日の夜、全員が揃った。
カイル、マリア、エルナ、リン、ゴルド、グレイ、エレナさん、ハンス、ヨハン、シグ、ラドク隊長。
それぞれがいつもの席で、いつもの料理を食べていた。
俺は厨房から、その光景を見た。
一ヶ月前と、二ヶ月前と、三ヶ月前——少しずつ、人が増えて、繋がりが増えて、でも根っこは変わっていない。
(ゼノフさんが二十八年かけて作った根っこが、ここにある)
その根っこの上に、俺が来てから積み重ねてきたものが乗っている。
そして——まだ積み重なっていく。
リンが竪琴を弾き始めた。
今夜の曲は、少し長かった。
始まりがあって、途中で広がって、また戻ってくる構成だ。
旅に出て、帰ってくる、という感じがした。
エルナが「この曲、どんな曲ですか」とリンに聞いた。
「決まっていない。弾きながら作ってる」
「今この瞬間に、作っているんですか」
「そうだ。この部屋の空気と、今日の気分と、そこにいる人たちで変わる」
「……料理と似ていますね」
リンは少し驚いた顔をした。
「そうかもしれない」
「その場の状態で、変わっていく」
「お前、面白いこと言うな」
「エルナさんは、いつもそういうことを言います」とマリアが言った。
「感じ取れるから、言葉になるんです」とエルナが言った。
閉店後、全員が帰ってから。
俺はかまどの前に一人で座った。
今日届いたゼノフさんの伝言。エルナの手紙。アデラへの返事。
全部が、少しずつ繋がっている。
この店が起点になって、王都にも、北の山の中にも、東の領地にも、隣街にも、線が伸びている。
前の世界で、バイトリーダーとして何度も感じた感覚だ。
いい現場は、自然と繋がりが増える。繋がりが増えると、選択肢が増える。選択肢が増えると、どんな問題が来ても対処できる。
(この店は、いい現場だ)
ゼノフさんが二十八年かけて作ったものが、その証明だ。
アヒルの看板が揺れていた。
遠く王都でも、同じ月が出ているはずだ。
ゼノフさんは今夜も、知っている顔を思い浮かべながら料理をしているだろう。
俺もまた、ゼノフさんの顔を思い浮かべながら、明日の料理を考えている。
そうやって——料理は、人から人へと伝わっていく。
「満腹あひる屋」の夜は、静かに更けていく。
でも、その静けさの中に——王都への線と、北への線と、東への線と、隣街への線が、今夜も細く、温かく、繋がり続けていた。
そして一週間後。
アデラから返事が来た。
短い、でも力強い文面だった。
「法的手続きを開始します。エルナ殿の意思表示は受け取りました。フォン・ライム家として、銀星研究院への対抗措置を取ります。それまでの間、「満腹あひる屋」がエルナ殿の安全を確保していただけますか」
俺はエルナに見せた。
エルナは書状を読んで、しばらく黙った。
「……動いてもらえた」
「はい」
「私のために」
「あなたが手紙を書いたからです。あなたが動いたから、みんなが動けた」
エルナは銀色の目を細めた。
「……ゼノフさんに、会いたいです」
「もうすぐ帰ってきます」
「どのくらいですか」
「発酵の器を開ける時——一緒に来ます」
「一ヶ月後、ですね」
「そうです」
エルナは少し笑った。
「一ヶ月後まで、頑張ります」
「頑張らなくていいです。いつも通りにしていれば、一ヶ月は自然に来ます」
その夜、発酵の器に向かった。
少しだけ蓋を開けて、香りを確かめた。
深い。複雑で、でも方向は一つ。
ゼノフさんが戻ってくる日まで、この器はゆっくりと、深くなり続ける。
アヒルの看板が揺れていた。
王都の祭典まで、あと少し。
ゼノフさんが「自分の料理」を、最も大きな舞台で出す日が近づいていた。
次回もお楽しみに




