第二十一話「銀眼の少女と、深まる謎」
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エルナが「満腹あひる屋」に来て、一週間が経った。
最初の数日は、二階の部屋から出てくることが少なかった。食事の時間だけ降りてきて、静かに食べて、また戻る。
でも、マリアが毎朝「一緒に仕込みをやりませんか」と声をかけ続けた結果、三日目から厨房に来るようになった。
エルナの能力は、厨房で少しずつ活かされ始めていた。
食材の鮮度確認。仕入れた野菜の中に、一本だけ芯が傷んでいるものが混じっていても、エルナは触れるだけで気づいた。スパイスの配合を確認する時、「この瓶のクミンに似た粉、少し湿気が入っています」と教えてくれた。
カイルが「エルナさん、これ食べてみてください。何か足りない気がして」と持ってきた揚げ物を一口食べて、「酒の量が昨日より少ないです。後味に差があります」と答えた時、カイルが「す、すごい……」と固まっていた。
マリアはエルナの能力を当たり前のように受け入れて、「じゃあ酒を足してみます」と動いた。
そのやりとりを見ながら、俺は静かに思った。
(この子が来てから、厨房の精度が上がっている)
エルナ自身は、自分の能力についてあまり話さなかった。
求められれば答えるが、自分から話すことはない。過去のことも、施設のことも、必要最低限しか言わない。
でも、料理のことになると、少しだけ言葉が増えた。
「この深味汁、昨日より旨みが深いです」
「仕込みの豆を少し増やしました」と俺が答えると、「そういう調整が積み重なって、味が育っていくんですね」とエルナが言った。
「発酵を見ているようですね」
「似ていると思います。時間と環境が、少しずつ変えていく」
エルナは自分のことを、料理に重ねて考えているのかもしれない。
グレイから連絡が来たのは、エルナが来てから八日目だった。
夜、閉店後にグレイが残った。
珍しく、卵焼きを食べ終えた後も席を立たなかった。
「調べた」
「わかりましたか」
「銀星研究院——北の山中にある、国から予算を受けた研究施設だ。表向きは魔法と体質の研究機関だが、実態は特殊な能力を持つ人間を「資源」として管理している」
俺は少し黙った。
「エルナは——資源として管理されていた」
「そうだ。銀眼は特に希少とされている。感知能力の精度が高く、軍事・医療・製造の分野で応用価値が高い」
「追いかけてきますか」
「来る可能性は高い。ただ——」
グレイは少し間を置いた。
「タイミングがある。施設が脱走に気づいてから、外部に動きが伝わるまで時差がある。今のところ、この街への直接的な動きは確認していない」
「今のところ、ですね」
「そうだ。油断はするな」
俺は頷いた。
「ラドクさんに相談しますか」
「したほうがいい。ただ——」
「はい」
「ラドクが動けば、施設側もそれを把握する可能性がある。公的な動きは、状況を複雑にすることがある」
「わかりました。まず情報を集めて、判断する」
「そういうことだ」
翌朝、俺はエルナに話した。
全部、正直に。
「グレイさんが調べてくれました。施設のことも、追いかけてくる可能性があることも」
エルナは黙って聞いた。
表情は変わらない。でも、指先が少し白くなっているのに気づいた。
「怖いですか」
「……少し。でも——わかっていたことです」
「ここにいていいです。でも、状況が変わることは知っておいてください」
「はい」
「何かあれば、すぐ俺かグレイさんか、シグさんに言ってください」
「……なぜ、そこまでしてもらえるんですか」
俺は少し考えた。
「うちの店のお客さんや働いている人を、守りたいからです。それだけです」
エルナはしばらく俺を見た。
「……私は、まだ何もしていません。役に立っていません」
「食材の鑑定をしてもらっています。それだけで十分です」
「その程度のことで——」
「料理に「程度のこと」はないです」
俺はきっぱりと言った。
「一つ一つの仕込み、一つ一つの確認、全部が繋がって料理になります。エルナが毎朝やっていることは、この店の料理の一部です」
エルナは黙った。
長い沈黙の後、「わかりました」と言った。
その日の昼過ぎ、シグが来た。
どんぶりを食べながら、エルナをじっと見た。
「銀眼の子と少し話していいか」
「シグさん、威圧しないでください」
「してない」
「顔が怖いです」
「これが普通の顔だ」
エルナは少し笑った——珍しく、自然な笑い方で。
「いいです。話しましょう」
シグはどんぶりを脇に置いて、エルナに向き直った。
「銀眼について、俺が知っていることを話す。参考になるかもしれない」
「お願いします」
「前の世界——別の世界の話だが、似たような話があった。生まれつき特殊な感覚を持つ人間が、それを恐れられたり、利用されたりする話だ」
「どうなりましたか、その人は」
「いろんな例がある。隠して生きた人間。戦った人間。受け入れてもらえる場所を見つけた人間」
「どれが正解でしたか」
「それぞれだ。でも——」
シグは少し間を置いた。
「受け入れてもらえた人間は、自分の能力を武器じゃなく、道具として使えるようになった。人を傷つけるためでなく、何かを作るために」
エルナはシグの言葉を、静かに噛みしめるような顔で聞いた。
「……道具として」
「使い方を、自分で決められるということだ。施設に決められるんじゃなく」
「私には、決められますか」
「ここにいる間は、お前が決める。少なくとも、俺はそう思っている」
エルナは少し黙ってから、「ありがとうございます」と言った。
ゴルドが来たのは夕方だった。
グレイからエルナの話を聞いたらしく、いつもよりやや早い時間に来て、エルナを一度だけじっと見た。
それからどんぶりを注文して、食べながらぼそりと言った。
「小さいな」
「十三歳です」とエルナが答えた。
「十三か」
「はい」
「一人で施設から逃げてきたのか」
「はい」
ゴルドはしばらく黙った。
「……根性がある」
それだけ言って、どんぶりに向かった。
エルナは少し驚いた顔をしてから、俺を見た。
「怒られなかったです」
「ゴルドさんは、根性がある人を嫌いません」
「そうなんですか」
「傭兵上がりなので、強さを見る目があります。身体的な強さだけじゃなくて」
ゴルドはエールを一口飲みながら、「聞こえているぞ」と言った。
翌日の朝。
エルナが珍しく、俺に話しかけてきた。
「少し、聞いていいですか」
「どうぞ」
「トウヤさんは、なぜ料理人になったんですか」
俺は仕込みの手を動かしながら、考えた。
「前の世界でも、料理が好きだったんです。うまく説明できませんが——食べ物を作って、誰かが喜んでくれる。それが嬉しかった」
「でも、飲食業の「便利屋」と言っていましたね」
「聞いていましたか」
「マリアさんが教えてくれました」
「便利屋というのは——特定の料理が得意なわけじゃなくて、どんな店でも回せる、という意味です。調理より、仕組みを作るほうが得意でした」
「でも今は、自分の料理を作っています」
「ここに来てから変わりました」
「何が変えたんですか」
俺は少し考えた。
「ゼノフさんの料理を食べた時、「もったいない」と思ったんです。素材がいいのに、仕組みが追いついていない。でも、そのもったいなさを直したいと思ったのは——この店と、ここに来る人たちが好きになったからです」
「好き、ですか」
「そうです。好きな場所のために、できることをやりたいと思うようになりました」
エルナは少し考えてから、「私も、そういうふうに思えますか」と言った。
「時間はかかるかもしれませんが——なれます」
「どうすれば」
「ここにいれば、なります。強制はしませんが」
エルナは少し笑った。
「……強制しないところが、好きです」
「施設では、強制されていましたか」
「ずっと」
「ここでは、自分で決めていいです。厨房に来たければ来る。来たくなければ来ない。それだけです」
「でも、来たいです」
「それもあなたが決めたことです」
数日後、エルナは俺に「一つ、試してみたいことがあります」と言った。
「なんですか」
「仕入れた食材を、目で見る前に、感じ取って選別する練習をしたいです」
「どういうことですか」
「今は触れてから確認しています。でも、少し離れた場所からでも感じ取れる気がしていて——もし精度が上がれば、市場で仕入れる時に役立てるかもしれません」
俺は少し驚いた。
(自分の能力を、能動的に使おうとしている)
「試してみましょう。今日の仕入れに一緒に来ますか」
「はい」
翌朝の市場。
エルナは俺の隣を歩きながら、時々立ち止まった。
野菜の露店の前で、目を閉じた。
「……三つ目の籠の野菜が、他より鮮度が高いです」
「確かめますか」
近づいて触ると、確かにその籠のものが一番しっかりしていた。
「合っています」
「……やはり、少し離れても感じ取れます」
「精度は?」
「今は、はっきりとはわかりません。でも、大きな差はわかります」
「十分です。続けて練習しましょう」
肉屋の前でも同じことをやった。
エルナは「右の方の猪肉が、鮮度が高いです。左のものは少し時間が経っています」と言った。
確認すると、正確だった。
「すごいな」とカイルが言った。今日は仕入れについてきていた。
「まだ練習中です」とエルナが言った。
「でも、役立ってる! 今まで触って確かめていたのが、遠くからわかるなんて」
エルナは少し照れたような顔をした。
市場からの帰り道、エルナが突然立ち止まった。
「どうしましたか」
「……少し、感じます」
「何を?」
「人です。こちらを、見ています」
俺は何気ない様子を保ちながら、周囲を見渡した。
人通りは普通だ。特に目立つものはない。
「どこですか」
「露店の陰。今は動いていません」
俺はカイルに目配せした。
カイルは何かを察して、自然な動きで周囲を確認した。
「……なんか、フードの人が一人います。こっちを見てる気がします」
「気づかれましたか?」エルナが小声で聞いた。
「わかりません。でも、ここから急いで帰るのは逆効果です」
「どうすれば?」
「普通に歩きます。普通の買い物をして帰る人間を演じます」
エルナは少し緊張した顔をしたが、頷いた。
三人でゆっくりと市場を歩いて、いくつかの食材を買って、それから普通の歩き方で店に戻った。
店に戻ってすぐ、グレイを呼んだ。
エルナの話を伝えると、グレイはすぐ動いた。
「確認してくる」
三十分後、グレイが戻った。
「いた。北から来た人間だ。今は宿に入っている」
「施設の人間ですか」
「断定はできない。だが——北の出身者が、この街に一人で来て、市場でお前たちを見ていた。偶然とは思えない」
エルナは静かに聞いていた。
「……来ましたか」
「まだ確証はない。ただ——」
グレイはエルナを見た。
「お前が先に気づいたのは、よかった」
「……能力のおかげです」
「それだけじゃない。周囲を観察する習慣があったということだ」
その夜、ゴルドとシグとグレイと俺の四人が、閉店後に残った。
エルナも同席した。
「状況を整理する」
グレイが口を開いた。
「北からの人間がいる。今日確認したのは一人だが、複数いる可能性がある。施設が脱走に気づいて、追いかけてきた可能性が高い」
「向こうはどういう手を使ってきますか」
「まず情報収集だ。エルナがどこにいるか、誰と一緒にいるか——それを把握しようとする。次に接触を試みる。強引な手段は、最初は使わない。目立つとまずいから」
「どのくらいの期間、様子を見ますか」
「施設の規模によるが——一週間から二週間だと思う」
「その間に、こちらは何ができますか」
シグが言った。
「俺が追跡できる。冒険者の仕事として、不審者の確認依頼を出せばいい」
「ラドクさんには?」とゴルドが聞いた。
「まだ公的な動きは避けたほうがいい」とグレイが言った。「ただし、いざという時のために話だけはしておいたほうがいい」
「俺から話す」とゴルドが言った。「ラドクとは古い付き合いだ。非公式で動いてもらえる」
俺はエルナを見た。
「怖いですか」
「……少し。でも、前より怖くないです」
「なぜですか」
「一人じゃないから」
それだけ言って、エルナは銀色の目を少し細めた。
話し合いが終わって、ゴルドとシグが帰った後。
グレイがカウンターに残っていた。
「トウヤ」
「はい」
「お前は、エルナをどうするつもりだ」
「どう、とは」
「施設の問題は、一時的に封じることはできる。でも根本的な解決ではない。あの子が一生、この街から出られなくなるかもしれない」
俺は少し考えた。
「根本的な解決というのは、どういうことですか」
「施設がエルナを諦めること。もしくは、施設が持つエルナへの「権利」を無効にすること」
「権利、ですか」
「施設はエルナを「所有物」として登録している可能性がある。この国の法的な枠組みの中で、合法的に」
「それは——」
「フォン・ライム家が動けるかもしれない」とグレイが言った。「貴族家は、そういう登録を無効にする力を持つ場合がある」
「アデラさんに相談できますか」
「してみる価値はある」
俺はしばらく考えた。
(短期的な対処と、長期的な解決を同時に考えないといけない)
前世でいえば、リスクマネジメントとBCPの話だ。目の前の問題に対処しながら、根本的な解決策を並行して進める。
「グレイさん、アデラさんへの連絡を取ってもらえますか」
「わかった」
「シグさんには追跡を続けてもらいます。ゴルドさんにはラドクさんへの非公式な連絡を頼みます。俺は——」
「お前は何をする」
「エルナと話します。この先をどうしたいか、本人に聞かないといけない」
グレイは少し考えてから、「それが一番大事だ」と言った。
「俺たちが全部決めることじゃない」
「そうだ」
翌朝、早起きのエルナと二人で、かまどの前に座った。
出汁の仕込みを始める前に、俺は話した。
「エルナ、昨夜の話を聞いていましたね」
「はい。全部聞こえていました」
「怒っていますか」
「……なぜですか」
「自分の話を、自分がいない場所で決めようとしていたかもしれないので」
エルナは少し考えてから、「怒っていません」と言った。
「なぜ?」
「みんなが、私のことを考えてくれているのがわかったから」
「でも——一番大事なのは、あなたがどうしたいかです」
「どうしたいか」
「この先、どこにいたいか。この問題をどう解決したいか。俺たちは手伝えますが、決めるのはあなたです」
エルナはしばらく黙った。
出汁の水が、かまどの火でゆっくりと温まり始めた。
「……ここにいたいです」
「わかりました」
「ただ——みんなに迷惑をかけたくないです」
「迷惑かどうかは、みんなが決めることです。少なくとも、俺は迷惑だと思っていません」
「なぜですか」
「あなたがここにいることで、厨房の精度が上がっています。仕入れの質も上がりました。マリアは毎朝楽しそうです。それだけで、十分です」
エルナは少し黙ってから、「わかりました」と言った。
「施設の問題は、みんなで解決します。あなたは、できることをやればいい」
「できること」
「料理を覚えること、仕入れを手伝うこと、マリアと話すこと——それだけで十分です」
その日の昼、ヴェルナーから手紙が来た。
ブルーノ亭の経営が少し持ち直したという報告と、ギルド認定に向けて動き始めたという連絡だった。
それとは別に、一行だけ追記があった。
「先日の件、フォン・ライム家に非公式で相談しました。アデラ様は動いてくれる可能性があります」
グレイが動くより先に、ヴェルナーがすでに動いていた。
(さすが商人だ。情報が早い)
俺は手紙をエルナに見せた。
「アデラさん、覚えていますか。審査に来た方です」
「はい」
「その方が、動いてくれるかもしれません」
エルナはしばらく手紙を見た。
「……知らない人たちが、私のために動いてくれています」
「あなたが来る前から、この店にはそういう人たちが集まっていました」
「なぜですか」
「ゼノフさんの飯が旨いからです」
エルナは少し笑った。
「それだけですか」
「それが一番です。旨い飯がある場所には、いい人間が集まります。俺はそう思っています」
その夜。
エルナはマリアと一緒にデザートを作っていた。
蜂蜜の量を少し変えて、スパイスを一種類追加した。エルナが「この香辛料を少し加えると、後味が変わります」と言い、マリアが「やってみます」と答えた。
完成したデザートを、二人で食べた。
「……美味しいです」とエルナが言った。
「エルナさんの提案のおかげです」とマリアが言った。
「私は感じ取っただけです。作ったのはマリアさんです」
「二人で作りました」
エルナは少し考えてから、「そうですね」と言った。
「二人で、ですね」
厨房の窓から、アヒルの看板が見えた。
夜風に揺れている。
エルナはそれを見て、「あの看板」と言った。
「はい」
「感じ取ると——長い時間が、染み込んでいます。二十八年分の、いろんな人の気持ちが」
「それがわかりますか」
「なんとなく。料理と同じで——作った人の気持ちが、物に残ることがあります」
マリアが「じゃあ、私たちが作ったデザートにも、気持ちが残りますか」と聞いた。
「残ります。今日作ったものには——楽しいという気持ちが入っています」
「ほんとうに?」
「感じます」
マリアはぱっと笑った。
「じゃあ、毎日楽しく作れば、どんどん美味しくなりますね!」
エルナは少し考えてから、「……そうかもしれません」と言った。
それが、今までで一番自然な笑顔だった。
深夜。
俺は一人でかまどの前に座っていた。
発酵の器を確認した。三ヶ月かける予定のものが、二ヶ月目に入っている。
少しだけ蓋を開けると——先月より、深い香りがした。
時間が、確実に働いている。
(この世界に来てから、どのくらいの時間が経ったんだろう)
数えると、三ヶ月近くになる。
前の世界にいた三十年弱と比べれば、短い。でも——密度は、比べ物にならない。
ゼノフさんの店に来て、料理を始めて、仕組みを作って、組合を作って、ベルク商会と戦って、仲間が増えて、ギルド認定を取って、エルナが来た。
そして——まだ終わっていない。
銀星研究院の問題がある。王都でのゼノフさんの仕事がある。アデラさんとの領地訪問の話がある。ヴェルナーとの提携が続いている。
(やることは、まだたくさんある)
でも——焦りはない。
発酵の器の中のように、時間をかければ深みが出る。
俺は器の蓋を静かに閉めた。
アヒルの看板が揺れていた。
エルナが言っていた「二十八年分の気持ち」が染み込んだ看板が。
今夜から、その気持ちに——エルナの気持ちも、少し加わったかもしれない。
「満腹あひる屋」の夜は、静かに更けていく。
でも、その静けさの下には——いくつもの物語が、ゆっくりと動き続けていた。
次回もお楽しみに




