第二十話「エルナの秘密と、隣街の食堂改革」
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隣街は、「満腹あひる屋」のある街より少し大きかった。
石畳の道が広く、商店の数も多い。街の中心に大きな広場があって、夕方でも露店が出ている。行き交う人の数も多く、どこか活気がある。
でも俺には、何かが違う気がした。
活気はある。でも——温かみが少ない。
前世でいえば、チェーン店が多い商業地区と、個人店が残る下町の違いに似ていた。数字の賑やかさと、生活の賑やかさは、別のものだ。
「大きな街ですね」
エルナが隣で言った。
「そうですね。でも、うちの街のほうが好きです」
「なぜですか」
「知っている顔が多いから、だと思います」
エルナはその言葉を聞いて、少し考えるような顔をした。
「知っている顔が多いこと——それが好きということですか」
「俺はそうです」
「……羨ましいです」
短い言葉だったが、その重さは十分に伝わった。
ヴェルナーの店は、街の中ほどにあった。
商会の建物は大きく、一階が倉庫で二階が事務所になっている。看板には「ヴェルナー商会」と書かれていた。
扉を開けると、ヴェルナーが出てきた。
「来てくれましたか、トウヤさん。助かります」
「早速見に行きましょう。それと——」
俺はエルナを示した。
「街道で会った子です。行くところがないとのことで、一緒に連れてきました。一晩、宿を手配してもらえますか。費用は俺が持ちます」
ヴェルナーはエルナを見た。
エルナは銀色の目でヴェルナーを見返した。
ヴェルナーは少し目を丸くしたが、「わかりました、手配します」と言った。
「エルナ、ここで待っていてもらえますか。俺はすぐ戻ります」
「……わかりました」
エルナは静かに頷いた。
ヴェルナーに案内されたのは、広場から少し入ったところにある食堂だった。
「ブルーノ亭」という看板が出ている。
中に入ると、夕方の営業中だったが、客はまばらだった。
厨房を覗くと——俺には、すぐに問題がわかった。
料理長らしい年配の男が、一人で全部をこなそうとしている。補助の若者が一人いるが、手持ち無沙汰に立っている。
指示が出ていない。役割が決まっていない。
料理は出てきているが、遅い。客が待ちくたびれた顔をしている。
(典型的な、属人化の問題だ)
一人の熟練者が全部を抱え込んで、それ以外の人間が育っていない。その熟練者が限界になった時、全体が崩れる。
前世でも何度も見てきた構図だ。
料理長に声をかけた。
「初めまして、トウヤといいます。ヴェルナーさんから相談を受けて来ました」
料理長——ブルーノは、俺を見て少し顔をしかめた。
「若いな。何ができるんだ」
「話を聞くことと、一緒に考えることです。今のところ、それだけです」
ブルーノは少し拍子抜けした顔をした。
「……偉そうなことを言いに来たんじゃないのか」
「違います。まず、今一番困っていることを聞かせてください」
「客が減ったことだ」
「なぜ減ったと思いますか」
「……わからない。料理の質は落としていない」
「料理は旨いですか」
「旨いと思っている」
「じゃあ——食べさせてもらえますか」
ブルーノが出してくれたのは、肉の煮込みだった。
一口食べた。
旨い。確かに旨い。素材の味を活かした、丁寧な煮込みだ。
でも——何かが足りない。
俺はしばらく考えた。
(温度だ)
「この料理、さっき作りましたか」
「一時間前だ」
「作り置きですね」
「忙しいから仕方ない」
「何人で回していますか」
「俺と、あの若いの一人だ」
「最初から二人でしたか」
「以前は三人いた。一人が辞めた」
俺は少し間を置いた。
「一人辞めてから、いつ頃客が減り始めましたか」
ブルーノは黙った。
「……三ヶ月前だ」
「一人辞めたのは?」
「……四ヶ月前だ」
繋がっている。
一人減って、料理の提供が遅くなった。作り置きが増えた。温度が下がった料理を出すようになった。客が減った。その悪循環だ。
「ブルーノさん、料理は旨いです。問題は料理じゃないです」
「じゃあ何だ」
「仕組みです。一人減った時に、仕組みを変えなかった」
俺はブルーノと、若い補助の男——名前はペーターといった——と三人で話した。
今の店の動きを全部書き出して、問題点を洗い出す。
最初にやることは、いつも同じだ。現状把握から始める。
「昼のピーク時間に、何品出せていますか」
「十品くらいだ」
「以前は?」
「十五品くらい出ていた」
「五品の差は、一人減ったからですか、それとも別の理由もありますか」
「……ペーターに、うまく指示が出せていないのかもしれない」
俺はペーターを見た。
「ペーターさん、何をやればいいか、わかっていますか」
ペーターは少し躊躇してから、正直に答えた。
「……あまりわかっていないです。ブルーノさんの動きを見て、できそうなことをやっているだけで」
「それが問題です」
俺はブルーノを見た。
「ペーターさんは悪くないです。役割が決まっていないから動けていない。指示がないから、見ているだけになっている」
ブルーノは少し黙ってから、「……そうかもしれない」と言った。
「ペーターさんに、何を任せられますか」
「野菜の下処理と、皿洗いくらいか」
「それだけですか」
「料理は俺がやらないと」
「なぜですか」
「ペーターは料理を習ったことがない」
「俺の店の人間も、最初はそうでした。今は俺がいなくても店を回せます」
ブルーノは少し目を細めた。
「お前の店では、どうやって教えたんだ」
「一つずつ、小さなことから任せました。任せたら、見守った。失敗しても、次にどうすれば良かったかを一緒に考えました」
「……時間がかかるだろう」
「かかります。でも、今のままでは何も変わりません」
その夜、ブルーノとペーターと三人で、翌日からの段取りを組んだ。
ペーターが担当する工程を明確にする。ブルーノが集中する工程を絞る。作り置きをどこまで許容するか、提供温度の基準を決める。
前世でいうオペレーション設計を、この世界の言葉と状況に合わせてやる。
ブルーノは最初こそ「俺のやり方を変えるのか」という顔をしていたが、話すうちに少しずつ聞く耳を持つようになった。
熟練者ほど、「自分のやり方」への執着がある。でも同時に、「お客に旨いものを食べてほしい」という気持ちも強い。そこを引き出せれば、変化を受け入れてくれる。
「ブルーノさんの料理は旨いです。それを生かしたいんです。一人で全部抱えるより、ペーターさんと分担したほうが、より多くの人に旨い料理が届きます」
ブルーノはしばらく黙ってから、「……わかった、試してみる」と言った。
宿に戻ると、エルナが食堂の隅の席に座っていた。
ヴェルナーが手配した宿の食堂で、小さな器のスープを飲んでいた。
「待っていましたか」
「待っていました。でも——」
エルナはスープを見た。
「このスープ、少し薄いですね」
「そうですか」
「ええ。出汁が足りていません。塩だけで味をつけている感じがします」
俺は少し驚いた。
「よくわかりますね」
「……わかるんです。食べると、何が入っているか、なんとなく」
「なんとなく?」
「正確には——感じる、という方が近いです」
エルナは少し俯いた。
「これも、普通じゃない部分なのかもしれません」
俺は宿の食堂の椅子を引いて、エルナの向かいに座った。
「少し話しませんか。今夜は時間があります」
エルナはしばらく俺を見てから、「……いいです」と答えた。
「どんな場所にいたんですか」
「研究施設、というところです」
「研究?」
「私の——能力を、調べる場所です」
俺は黙って続きを待った。
「私は生まれた時から、目の色が違いました。それだけじゃなくて——物の「状態」がわかるんです」
「状態?」
「食べ物なら、何が入っているか。人なら、体の調子。物なら、どのくらい壊れそうか——なんとなく、感じ取れます」
俺は少し考えた。
(鑑定系の能力か)
「それは——便利じゃないですか」
「便利、と思ってもらえるんですか」
「そう思いましたが、違いますか」
エルナは少し驚いた顔をした。
「みんな、怖がります。自分のことを全部見透かされるような感じがするって」
「俺は料理人なので——食べ物の状態がわかる人は、正直言って欲しいです」
エルナはまた、少し目を丸くした。
「……冗談ですか」
「本気です。うちの店には、いろんな人がいます。グレイさんは闇商人で、ゴルドさんは傭兵上がりで、リンさんは吟遊詩人で、エレナさんは司書で——みんな、普通とは少し違います。でも全員、美味しいものが好きです。それだけで十分です」
エルナはしばらく俺を見た。
銀色の目が、揺れていた。
「……食べ物の状態がわかるということは、例えば?」
「例えば——さっきのカイルの揚げ物は、食べた瞬間に何が入っているかわかりましたか」
「はい。麦の衣と、鳥に似た肉と——酒と、いくつかの香辛料。種類は正確にはわかりませんが、刺激のあるものと、甘みのあるものが入っていました」
「合っています」
「……本当に?」
「完璧に。カイルに教えた通りのレシピです」
エルナは少し黙ってから、「そうですか」と言った。その声に、わずかな安堵があった。
「その能力が、研究施設の人たちに見つかったんですね」
「生まれた頃からです。両親がいなくて、施設で育ちました。「役に立つ」と言われて、ずっと調べられていました」
「自分の意思ではなく?」
「はい。最近、外に出られるようになって——逃げました」
エルナは静かに言った。感情を抑えた、落ち着いた声だ。でもその落ち着きが、むしろ胸に刺さった。
「今は追われていますか」
「……わかりません。まだ気づいていないかもしれません」
「行くところは、本当にないんですか」
「はい」
俺は少し考えた。
(この子を、一人にして帰るわけにはいかない)
「明日、俺と一緒にうちの街に戻りませんか。とりあえず、店に来てみてください。ゼノフさんは今いませんが、場所はあります」
「……迷惑ではないですか」
「うちの店は、迷惑かどうかより、腹が空いているかどうかで判断します」
エルナはしばらく黙った。
「……わかりました。お世話になります」
「よろしく」
翌朝。
俺はブルーノ亭に顔を出した。
ブルーノとペーターが、昨夜決めた段取り通りに動いていた。
ペーターが野菜を切っていて、ブルーノが火の前に立っている。二人の動きが、昨日より自然に噛み合っていた。
「どうですか」
ブルーノは振り返った。
「……やりやすい。ペーターが動いてくれるから、俺が料理に集中できる」
「ペーターさんはどうですか」
「やることが決まったから、迷わなくなりました」と、ペーターが少し嬉しそうに言った。
「昨日の問題を解決するには、これで十分です。あとは——」
俺は厨房を見渡した。
「一つだけ提案してもいいですか」
「言ってみろ」
「メニューを少し絞ることを考えてみてください」
「絞る? 品数を減らすのか」
「多すぎるメニューは、仕込みを複雑にします。二人で回すなら、十五品より十品のほうが、それぞれの料理に集中できます」
「客が選べなくなるだろう」
「品数が少ない店のほうが、一品一品の質が高いと感じる客もいます。「ここの煮込みは絶品」という評判一つのほうが、「なんでも揃っている」より強い場合があります」
前世でいう「選択と集中」の考え方だ。飲食店の規模と人員に合わせて、提供できるものを絞る。中途半端に多いメニューより、少なくて確実なものを出す。
ブルーノは少し考えてから、「……試してみる」と言った。
「何を残しますか」
「俺が一番自信のあるものを」
「それが答えです」
昼前に、ヴェルナーに報告した。
「大きな問題ではありませんでした。仕組みと役割の問題です。一週間、ペーターさんへの指導を続ければ、安定します」
「そんなに早く解決できるとは」
「問題がシンプルだったので。ただ——」
「ただ?」
「ブルーノさんは一人で抱え込みすぎています。定期的に誰かが様子を見に来ることを勧めます。月に一度、ヴェルナーさんが顔を出すだけで違います」
「それは私の仕事ということですか」
「パートナーということなので」
ヴェルナーは少し苦い顔をしながら、「わかりました」と言った。
「それと——一つ提案があります」
「なんですか」
「うちの店が認定を取ったことで、遠方から来た客が増えています。その客が、この街にも来る可能性があります。ブルーノ亭も、ギルド認定を目指してみませんか」
「認定を?」
「うちの店が通った審査と同じものです。衛生管理と食材管理と品質評価。ブルーノさんの料理の質は十分です。仕組みが整えば、通ると思います」
「その場合、サポートは」
「ヘルガさんに繋ぎます。あひる組合のネットワークも使えます」
ヴェルナーは少し考えてから、「面白い提案ですね」と言った。
「一軒だけが良くなるより、街全体が良くなるほうが、皆さんにとっていいと思います」
「……お前さん、本当に只の料理人じゃないな」
「前の世界で、いろんな仕事をしていたので」
昼過ぎ、エルナと合流して帰路についた。
エルナは小さな荷物を背負って、俺の隣を歩いた。
昨日より、少しだけ表情が柔らかい。
「昨夜は眠れましたか」
「はい。久しぶりに、ちゃんと眠れました」
「よかったです」
「……ベッドが久しぶりで、最初は眠れなかったんですが」
「施設では?」
「簡易なものでした」
俺は少し黙ってから、「うちの店の二階に、空き部屋があります」と言った。
「……本当に、来てもいいんですか」
「もちろんです」
「追いかけてくる人がいるかもしれません。迷惑がかかります」
「それは——」
俺は少し考えた。
「うちの店の常連に、元傭兵と、ランクの高い冒険者と、闇商人と、衛兵隊長がいます」
エルナは少し目を丸くした。
「……頼もしいですね」
「そうですよ」
街道を歩きながら、エルナは時々立ち止まって、草原の草を触ったり、道端の石を拾って見たりした。
「どうしましたか」
「……草の状態がわかります。この草は、昨日雨が降ったことを覚えています」
「草が覚えている?」
「感じ取れる、という意味です。うまく説明できませんが——物には状態があって、私にはそれが少し見えます」
「それは——料理に使えそうですね」
「料理に、ですか」
「食材の鮮度や状態がわかるなら、仕入れの時に使えます。うちの組合の仕入れ品質が上がります」
エルナはしばらく考えてから、「そういう使い方は考えたことがありませんでした」と言った。
「施設では、どんな使い方をしていましたか」
「……兵器の劣化状態を調べたり、薬の成分を分析したり」
「それは——」
「怖いですよね」
「怖いというより、もったいないと思いました」
「もったいない?」
「その能力を、食べ物に使えば——もっと多くの人が喜べると思いました」
エルナは少し黙ってから、「……そういう考え方をする人は、初めてです」と言った。
「怖がる人がほとんどでしたか」
「はい。施設の人たちは、利用しようとしていました。逃げる前に会った人たちは、みんな怖がりました」
「俺は料理人なので、食材の鑑定ができる人は純粋に羨ましいです」
エルナは少し笑った。
昨日より、少し自然な笑顔だった。
夕方、街が見えてきた頃。
エルナが立ち止まって、街を見た。
「あれが、トウヤさんの街ですか」
「そうです」
「……アヒルの看板が、見えます」
距離がある。でもエルナには見えるらしかった。
「あの看板の下が、うちの店です」
「小さいですね」
「小さいです。でも——」
「でも?」
「いい店です」
エルナはしばらく看板を見ていた。
「……温かい感じがします」
「感じ取れますか」
「建物の状態が、人が長くいた場所の温かさを持っています。時間が積み重なった感じがします」
「二十八年です。ゼノフさんが二十八年、ここで料理を作ってきました」
「二十八年……」
エルナは静かに言った。
「そんなに長く、一つの場所にいられるんですね」
「いられます。あなたも——いられますよ」
エルナは俺を見た。
銀色の目が、夕日の中で揺れていた。
「……信じていいんですか」
「信じるかどうかは、あなたが決めることです」
エルナは少し笑った。
「また同じことを言いますね」
「同じことしか言えないので」
「……そういうところが、信じやすいです」
街の入口に差し掛かった時、シグが立っていた。
腕を組んで、壁にもたれている。
「遅かったな」
「一日余分にかかりました。これはエルナ、街道で会いました」
シグはエルナを見た。
エルナはシグを見た。
シグの目が、少し鋭くなった。
「……その目は」
「シグさん、知っていますか」
「銀眼だ」
俺は聞き返した。
「銀眼?」
「この世界の言葉だ。生まれつき、物の状態を感じ取れる者が稀にいる。銀色の目を持って生まれてくることから、そう呼ばれる」
エルナは少し緊張した顔でシグを見ていた。
「知ってはいるが——俺は怖くない。前の世界に、似たような話があったから」
「前の世界?」
シグは俺を見た。
「転移者、もう一人。こっちは料理人じゃなく、冒険者だが」
エルナは俺とシグを交互に見た。
「……あなたたちは、別の世界から来たんですか」
「そうです」と俺が言った。
「だから——変なことに、驚かないんですね」
「いろいろ経験してきたので」
エルナはしばらく黙ってから、「そうですか」と言った。
少し、肩の力が抜けた気がした。
「満腹あひる屋」に戻ると、カイルとマリアがいた。
「おかえりなさい! あれ、誰ですか?」
「街道で会いました。エルナ、しばらくここにいます」
「えっ、また増えた!」
「増えましたが、いいですか」
「いいですよ! ゼノフさんがいなくなったら一人分減ったし!」
マリアがエルナに近づいた。
「マリアといいます。よろしくお願いします」
「エルナです。……よろしくお願いします」
「空き部屋は私の隣です。案内しますね」
マリアはエルナを連れて、二階に上がっていった。
その夜。
エルナに夕飯を出した。
どんぶりと、深味汁と、デザート。
エルナは一口ずつ、丁寧に食べた。
食べながら、時々目を閉じた。
「どうですか」
「……全部、わかります。何が入っているか、どう作ったか。でも」
「でも?」
「わかっても、なくならない美味しさがあります。全部知っていても、食べたくなります」
「それが料理だと思います」
エルナはデザートを一口食べて、銀色の目を細めた。
「このデザート——誰が作りましたか」
「マリアです」
「若い子ですね」
「三週間目の料理人です」
「……三週間で、こんな味になるんですか」
「素質があります」
エルナはデザートをもう一口食べた。
「作った人の気持ちが、少し伝わってくる気がします」
「それは——能力ですか」
「わかりません。でも——誰かのために作ったものは、違う感じがします」
閉店後、俺は一人でかまどの前に座った。
今日は、いろんなことがあった。
ブルーノ亭の問題。ヴェルナーとの話。そして——エルナとの出会い。
(この子は、この店に必要な人間かもしれない)
食材の状態を感じ取れる能力。それは、料理人として考えれば、これ以上ないほど役に立つ。
でも、それ以上に——エルナ自身が、この店の空気に馴染みそうな気がした。
理由は、うまく言えない。ただ、街道で並んで歩いた時、この子はずっとまわりを観察していた。草の状態、道の様子、行き交う人——全部を静かに見ていた。
料理人に必要なものは、観察力だ。食材を見る目、客を見る目、厨房を見る目。
エルナには、それが生まれつき備わっている。
(問題は、追いかけてくる者がいるかもしれないことだ)
研究施設。能力を利用しようとした人間たち。
グレイに相談する必要がある。シグにも話を聞いておきたい。
そして——ゴルドにも。
守るためには、まず状況を把握することだ。
前世のバイトリーダーとして、ピンチの現場で学んだ一番のことだった。
翌朝、グレイが来た。
いつも通りの時間に、いつも通りの席に座った。
串焼きを注文してから、俺を呼んだ。
「エルナという子が来たらしいな」
「昨夜、見ていましたか」
「俺はいつでも見ている」
「銀眼のことを知っていますか」
「知っている」
「追いかけてくる者がいるかもしれません」
グレイは串焼きを一口食べてから、静かに言った。
「どこの施設か、わかるか」
「わかりません」
「エルナに聞けるか」
「聞いてみます」
グレイは少し間を置いた。
「……俺の取引先に、そういう情報が集まる場所がある。調べる」
「助かります」
「ただし——」
「はい」
「エルナという子に、ここが安全かどうかを保証はできない。それだけは伝えておけ」
「伝えます」
「それでもここにいるかどうかは、本人が決めることだ」
「わかっています」
昼過ぎ、エルナが二階から降りてきた。
マリアと並んで、厨房を覗いていた。
「エルナ、少し話せますか」
「はい」
俺はカウンターに並んで座った。
「昨夜、グレイさんという人と話しました。あなたが来たことを、知っていました」
「……その人は、何者ですか」
「闇商人です。でも——信頼できます。卵焼きが好きな人間は悪い人間じゃないと、俺は信じています」
エルナは少し考えてから、「それは、どういう理屈ですか」と聞いた。
「理屈じゃないです。経験です」
「……わかりました」
「施設の名前を、教えてもらえますか。グレイさんが、追いかけてくる人がいるか調べてくれます」
エルナはしばらく黙った。
「「銀星研究院」といいます。北の山の中にあります」
「わかりました。グレイさんに伝えます」
「……本当に、調べてもらえるんですか」
「はい」
エルナは少し躊躇してから、言った。
「……私を捕まえようとしている人たちは、強いです。ここの人たちが危険になるかもしれません」
「それは——」
「それでも、いてもいいんですか」
俺は少し考えた。
正直に言えば、リスクはある。
でも——
「エルナ」
「はい」
「うちの常連を紹介しておきます」
俺は指を折りながら言った。
「ゴルドさんは二十年の傭兵経歴を持つ重戦士で、百人の砦を五百人から七日間守った人です。シグさんはランクの高い冒険者で、転移者でもあります。グレイさんは闇商人で、この地域の情報網を持っています。ラドク隊長はこの街の衛兵隊長で、先日ベルク商会を追い出しました」
エルナは少し目を丸くした。
「……この食堂の常連、ですか」
「そうです。みんな、美味しいものが食べられなくなることを、一番嫌がります」
エルナはしばらく黙った。
それから、銀色の目で俺を見た。
「……ここは、普通の食堂ではないですね」
「はい。普通じゃないかもしれません」
「でも——」
エルナは少し笑った。
「普通じゃない私が、来てもいい場所ですね」
「もちろんです」
その夜、エルナは初めて厨房に入った。
マリアに誘われて、デザートを一緒に作りに来た。
卵を割って、蜂蜜を量って、白獣乳を加える。
一つ一つの作業を、エルナは丁寧にやった。
途中、蜂蜜の器を手に取って、少し目を細めた。
「この蜂蜜、花の種類がわかります。西の草原の花ですね。少し苦みがあります」
「仕入れ先に確認してみます」とマリアが言った。
「その苦みが、甘みを引き立てると思います。悪いことじゃないです」
「食べて確かめますか」とマリアが聞いた。
「はい」
二人でデザートを作って、食べた。
エルナは一口食べて、「美味しいです」と言った。
「エルナさんが加わると、もっとよくなりましたか?」とマリアが聞いた。
「……少し、蜂蜜の量を多くしました。苦みを生かすために」
「なるほど」
「余計なことをしましたか」
「いいえ! 自分で工夫するのが、料理人だと思います」
エルナはマリアを見た。
「……マリアさんは、優しいですね」
「そうですか?」
「怖がらないで、普通に接してくれる人が、あまりいなかったので」
「え、なんで怖がるんですか? 銀眼ってすごい能力じゃないですか」
エルナは少し目を丸くした。
「……すごい、と思ってもらえるんですか」
「すごいと思います! 私、食材の鑑定とか全然できなくて——あ、でもトウヤさんに「鼻を近づけてよく嗅げ」って言われてから、少しわかるようになってきましたけど」
エルナはくすっと笑った。
「……マリアさんと、仲良くできそうです」
「なれます! 絶対なれます!」
翌朝。
四時に厨房に下りると、マリアがいた。
そして——エルナもいた。
二人でかまどの前に立って、出汁の仕込みを始めようとしていた。
「エルナ、早いですね」
「マリアさんに教わります。もし、邪魔でなければ」
「邪魔なわけがないです」
エルナは少し嬉しそうな顔をして、マリアの隣に立った。
マリアが「まず海藻を水に浸けます。冷たい水から、ゆっくり始めることが大事です」と説明し始めた。
エルナは「この海藻、磯の香りがします。三週間前に収穫されたものですね」と言った。
マリアが「え、わかるんですか!?」と目を丸くした。
「だいたい」
「じゃあ、鮮度の確認も教えてもらえますか。私、まだうまくできないので」
「わかりました」
二人の会話が、厨房に広がった。
かまどの火が灯って、出汁の仕込みが始まる。
いつもと同じ朝が、でも少し違う温度で始まっていた。
アヒルの看板が、夜明け前の空の下で揺れていた。
まだ暗い。でも、厨房の灯りが石畳に落ちている。
「満腹あひる屋」に、また一人、新しい人間が加わった。
その人間が持ってきたものが何なのか、まだ全部はわからない。
でも——この場所は、そういう人間が集まる場所だ。
ゼノフさんが二十八年かけて作った、そういう場所だ。
次回もお楽しみに




