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満腹あひる屋へようこそ! ~元バイトリーダーは異世界でも厨房に立つ~  作者: 膝栗毛


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第二十話「エルナの秘密と、隣街の食堂改革」

引き継ぎお楽しみください

隣街は、「満腹あひる屋」のある街より少し大きかった。

 石畳の道が広く、商店の数も多い。街の中心に大きな広場があって、夕方でも露店が出ている。行き交う人の数も多く、どこか活気がある。

 でも俺には、何かが違う気がした。

 活気はある。でも——温かみが少ない。

 前世でいえば、チェーン店が多い商業地区と、個人店が残る下町の違いに似ていた。数字の賑やかさと、生活の賑やかさは、別のものだ。

「大きな街ですね」

 エルナが隣で言った。

「そうですね。でも、うちの街のほうが好きです」

「なぜですか」

「知っている顔が多いから、だと思います」

 エルナはその言葉を聞いて、少し考えるような顔をした。

「知っている顔が多いこと——それが好きということですか」

「俺はそうです」

「……羨ましいです」

 短い言葉だったが、その重さは十分に伝わった。


 ヴェルナーの店は、街の中ほどにあった。

 商会の建物は大きく、一階が倉庫で二階が事務所になっている。看板には「ヴェルナー商会」と書かれていた。

 扉を開けると、ヴェルナーが出てきた。

「来てくれましたか、トウヤさん。助かります」

「早速見に行きましょう。それと——」

 俺はエルナを示した。

「街道で会った子です。行くところがないとのことで、一緒に連れてきました。一晩、宿を手配してもらえますか。費用は俺が持ちます」

 ヴェルナーはエルナを見た。

 エルナは銀色の目でヴェルナーを見返した。

 ヴェルナーは少し目を丸くしたが、「わかりました、手配します」と言った。

「エルナ、ここで待っていてもらえますか。俺はすぐ戻ります」

「……わかりました」

 エルナは静かに頷いた。


 ヴェルナーに案内されたのは、広場から少し入ったところにある食堂だった。

 「ブルーノ亭」という看板が出ている。

 中に入ると、夕方の営業中だったが、客はまばらだった。

 厨房を覗くと——俺には、すぐに問題がわかった。

 料理長らしい年配の男が、一人で全部をこなそうとしている。補助の若者が一人いるが、手持ち無沙汰に立っている。

 指示が出ていない。役割が決まっていない。

 料理は出てきているが、遅い。客が待ちくたびれた顔をしている。

(典型的な、属人化の問題だ)

 一人の熟練者が全部を抱え込んで、それ以外の人間が育っていない。その熟練者が限界になった時、全体が崩れる。

 前世でも何度も見てきた構図だ。


 料理長に声をかけた。

「初めまして、トウヤといいます。ヴェルナーさんから相談を受けて来ました」

 料理長——ブルーノは、俺を見て少し顔をしかめた。

「若いな。何ができるんだ」

「話を聞くことと、一緒に考えることです。今のところ、それだけです」

 ブルーノは少し拍子抜けした顔をした。

「……偉そうなことを言いに来たんじゃないのか」

「違います。まず、今一番困っていることを聞かせてください」

「客が減ったことだ」

「なぜ減ったと思いますか」

「……わからない。料理の質は落としていない」

「料理は旨いですか」

「旨いと思っている」

「じゃあ——食べさせてもらえますか」


 ブルーノが出してくれたのは、肉の煮込みだった。

 一口食べた。

 旨い。確かに旨い。素材の味を活かした、丁寧な煮込みだ。

 でも——何かが足りない。

 俺はしばらく考えた。

(温度だ)

「この料理、さっき作りましたか」

「一時間前だ」

「作り置きですね」

「忙しいから仕方ない」

「何人で回していますか」

「俺と、あの若いの一人だ」

「最初から二人でしたか」

「以前は三人いた。一人が辞めた」

 俺は少し間を置いた。

「一人辞めてから、いつ頃客が減り始めましたか」

 ブルーノは黙った。

「……三ヶ月前だ」

「一人辞めたのは?」

「……四ヶ月前だ」

 繋がっている。

 一人減って、料理の提供が遅くなった。作り置きが増えた。温度が下がった料理を出すようになった。客が減った。その悪循環だ。

「ブルーノさん、料理は旨いです。問題は料理じゃないです」

「じゃあ何だ」

「仕組みです。一人減った時に、仕組みを変えなかった」


 俺はブルーノと、若い補助の男——名前はペーターといった——と三人で話した。

 今の店の動きを全部書き出して、問題点を洗い出す。

 最初にやることは、いつも同じだ。現状把握から始める。

「昼のピーク時間に、何品出せていますか」

「十品くらいだ」

「以前は?」

「十五品くらい出ていた」

「五品の差は、一人減ったからですか、それとも別の理由もありますか」

「……ペーターに、うまく指示が出せていないのかもしれない」

 俺はペーターを見た。

「ペーターさん、何をやればいいか、わかっていますか」

 ペーターは少し躊躇してから、正直に答えた。

「……あまりわかっていないです。ブルーノさんの動きを見て、できそうなことをやっているだけで」

「それが問題です」

 俺はブルーノを見た。

「ペーターさんは悪くないです。役割が決まっていないから動けていない。指示がないから、見ているだけになっている」

 ブルーノは少し黙ってから、「……そうかもしれない」と言った。

「ペーターさんに、何を任せられますか」

「野菜の下処理と、皿洗いくらいか」

「それだけですか」

「料理は俺がやらないと」

「なぜですか」

「ペーターは料理を習ったことがない」

「俺の店の人間も、最初はそうでした。今は俺がいなくても店を回せます」

 ブルーノは少し目を細めた。

「お前の店では、どうやって教えたんだ」

「一つずつ、小さなことから任せました。任せたら、見守った。失敗しても、次にどうすれば良かったかを一緒に考えました」

「……時間がかかるだろう」

「かかります。でも、今のままでは何も変わりません」


 その夜、ブルーノとペーターと三人で、翌日からの段取りを組んだ。

 ペーターが担当する工程を明確にする。ブルーノが集中する工程を絞る。作り置きをどこまで許容するか、提供温度の基準を決める。

 前世でいうオペレーション設計を、この世界の言葉と状況に合わせてやる。

 ブルーノは最初こそ「俺のやり方を変えるのか」という顔をしていたが、話すうちに少しずつ聞く耳を持つようになった。

 熟練者ほど、「自分のやり方」への執着がある。でも同時に、「お客に旨いものを食べてほしい」という気持ちも強い。そこを引き出せれば、変化を受け入れてくれる。

「ブルーノさんの料理は旨いです。それを生かしたいんです。一人で全部抱えるより、ペーターさんと分担したほうが、より多くの人に旨い料理が届きます」

 ブルーノはしばらく黙ってから、「……わかった、試してみる」と言った。


 宿に戻ると、エルナが食堂の隅の席に座っていた。

 ヴェルナーが手配した宿の食堂で、小さな器のスープを飲んでいた。

「待っていましたか」

「待っていました。でも——」

 エルナはスープを見た。

「このスープ、少し薄いですね」

「そうですか」

「ええ。出汁が足りていません。塩だけで味をつけている感じがします」

 俺は少し驚いた。

「よくわかりますね」

「……わかるんです。食べると、何が入っているか、なんとなく」

「なんとなく?」

「正確には——感じる、という方が近いです」

 エルナは少し俯いた。

「これも、普通じゃない部分なのかもしれません」


 俺は宿の食堂の椅子を引いて、エルナの向かいに座った。

「少し話しませんか。今夜は時間があります」

 エルナはしばらく俺を見てから、「……いいです」と答えた。

「どんな場所にいたんですか」

「研究施設、というところです」

「研究?」

「私の——能力を、調べる場所です」

 俺は黙って続きを待った。

「私は生まれた時から、目の色が違いました。それだけじゃなくて——物の「状態」がわかるんです」

「状態?」

「食べ物なら、何が入っているか。人なら、体の調子。物なら、どのくらい壊れそうか——なんとなく、感じ取れます」

 俺は少し考えた。

(鑑定系の能力か)

「それは——便利じゃないですか」

「便利、と思ってもらえるんですか」

「そう思いましたが、違いますか」

 エルナは少し驚いた顔をした。

「みんな、怖がります。自分のことを全部見透かされるような感じがするって」

「俺は料理人なので——食べ物の状態がわかる人は、正直言って欲しいです」

 エルナはまた、少し目を丸くした。

「……冗談ですか」

「本気です。うちの店には、いろんな人がいます。グレイさんは闇商人で、ゴルドさんは傭兵上がりで、リンさんは吟遊詩人で、エレナさんは司書で——みんな、普通とは少し違います。でも全員、美味しいものが好きです。それだけで十分です」

 エルナはしばらく俺を見た。

 銀色の目が、揺れていた。

「……食べ物の状態がわかるということは、例えば?」

「例えば——さっきのカイルの揚げ物は、食べた瞬間に何が入っているかわかりましたか」

「はい。麦の衣と、鳥に似た肉と——酒と、いくつかの香辛料。種類は正確にはわかりませんが、刺激のあるものと、甘みのあるものが入っていました」

「合っています」

「……本当に?」

「完璧に。カイルに教えた通りのレシピです」

 エルナは少し黙ってから、「そうですか」と言った。その声に、わずかな安堵があった。

「その能力が、研究施設の人たちに見つかったんですね」

「生まれた頃からです。両親がいなくて、施設で育ちました。「役に立つ」と言われて、ずっと調べられていました」

「自分の意思ではなく?」

「はい。最近、外に出られるようになって——逃げました」

 エルナは静かに言った。感情を抑えた、落ち着いた声だ。でもその落ち着きが、むしろ胸に刺さった。

「今は追われていますか」

「……わかりません。まだ気づいていないかもしれません」

「行くところは、本当にないんですか」

「はい」

 俺は少し考えた。

(この子を、一人にして帰るわけにはいかない)

「明日、俺と一緒にうちの街に戻りませんか。とりあえず、店に来てみてください。ゼノフさんは今いませんが、場所はあります」

「……迷惑ではないですか」

「うちの店は、迷惑かどうかより、腹が空いているかどうかで判断します」

 エルナはしばらく黙った。

「……わかりました。お世話になります」

「よろしく」


 翌朝。

 俺はブルーノ亭に顔を出した。

 ブルーノとペーターが、昨夜決めた段取り通りに動いていた。

 ペーターが野菜を切っていて、ブルーノが火の前に立っている。二人の動きが、昨日より自然に噛み合っていた。

「どうですか」

 ブルーノは振り返った。

「……やりやすい。ペーターが動いてくれるから、俺が料理に集中できる」

「ペーターさんはどうですか」

「やることが決まったから、迷わなくなりました」と、ペーターが少し嬉しそうに言った。

「昨日の問題を解決するには、これで十分です。あとは——」

 俺は厨房を見渡した。

「一つだけ提案してもいいですか」

「言ってみろ」

「メニューを少し絞ることを考えてみてください」

「絞る? 品数を減らすのか」

「多すぎるメニューは、仕込みを複雑にします。二人で回すなら、十五品より十品のほうが、それぞれの料理に集中できます」

「客が選べなくなるだろう」

「品数が少ない店のほうが、一品一品の質が高いと感じる客もいます。「ここの煮込みは絶品」という評判一つのほうが、「なんでも揃っている」より強い場合があります」

 前世でいう「選択と集中」の考え方だ。飲食店の規模と人員に合わせて、提供できるものを絞る。中途半端に多いメニューより、少なくて確実なものを出す。

 ブルーノは少し考えてから、「……試してみる」と言った。

「何を残しますか」

「俺が一番自信のあるものを」

「それが答えです」


 昼前に、ヴェルナーに報告した。

「大きな問題ではありませんでした。仕組みと役割の問題です。一週間、ペーターさんへの指導を続ければ、安定します」

「そんなに早く解決できるとは」

「問題がシンプルだったので。ただ——」

「ただ?」

「ブルーノさんは一人で抱え込みすぎています。定期的に誰かが様子を見に来ることを勧めます。月に一度、ヴェルナーさんが顔を出すだけで違います」

「それは私の仕事ということですか」

「パートナーということなので」

 ヴェルナーは少し苦い顔をしながら、「わかりました」と言った。

「それと——一つ提案があります」

「なんですか」

「うちの店が認定を取ったことで、遠方から来た客が増えています。その客が、この街にも来る可能性があります。ブルーノ亭も、ギルド認定を目指してみませんか」

「認定を?」

「うちの店が通った審査と同じものです。衛生管理と食材管理と品質評価。ブルーノさんの料理の質は十分です。仕組みが整えば、通ると思います」

「その場合、サポートは」

「ヘルガさんに繋ぎます。あひる組合のネットワークも使えます」

 ヴェルナーは少し考えてから、「面白い提案ですね」と言った。

「一軒だけが良くなるより、街全体が良くなるほうが、皆さんにとっていいと思います」

「……お前さん、本当に只の料理人じゃないな」

「前の世界で、いろんな仕事をしていたので」


 昼過ぎ、エルナと合流して帰路についた。

 エルナは小さな荷物を背負って、俺の隣を歩いた。

 昨日より、少しだけ表情が柔らかい。

「昨夜は眠れましたか」

「はい。久しぶりに、ちゃんと眠れました」

「よかったです」

「……ベッドが久しぶりで、最初は眠れなかったんですが」

「施設では?」

「簡易なものでした」

 俺は少し黙ってから、「うちの店の二階に、空き部屋があります」と言った。

「……本当に、来てもいいんですか」

「もちろんです」

「追いかけてくる人がいるかもしれません。迷惑がかかります」

「それは——」

 俺は少し考えた。

「うちの店の常連に、元傭兵と、ランクの高い冒険者と、闇商人と、衛兵隊長がいます」

 エルナは少し目を丸くした。

「……頼もしいですね」

「そうですよ」


 街道を歩きながら、エルナは時々立ち止まって、草原の草を触ったり、道端の石を拾って見たりした。

「どうしましたか」

「……草の状態がわかります。この草は、昨日雨が降ったことを覚えています」

「草が覚えている?」

「感じ取れる、という意味です。うまく説明できませんが——物には状態があって、私にはそれが少し見えます」

「それは——料理に使えそうですね」

「料理に、ですか」

「食材の鮮度や状態がわかるなら、仕入れの時に使えます。うちの組合の仕入れ品質が上がります」

 エルナはしばらく考えてから、「そういう使い方は考えたことがありませんでした」と言った。

「施設では、どんな使い方をしていましたか」

「……兵器の劣化状態を調べたり、薬の成分を分析したり」

「それは——」

「怖いですよね」

「怖いというより、もったいないと思いました」

「もったいない?」

「その能力を、食べ物に使えば——もっと多くの人が喜べると思いました」

 エルナは少し黙ってから、「……そういう考え方をする人は、初めてです」と言った。

「怖がる人がほとんどでしたか」

「はい。施設の人たちは、利用しようとしていました。逃げる前に会った人たちは、みんな怖がりました」

「俺は料理人なので、食材の鑑定ができる人は純粋に羨ましいです」

 エルナは少し笑った。

 昨日より、少し自然な笑顔だった。


 夕方、街が見えてきた頃。

 エルナが立ち止まって、街を見た。

「あれが、トウヤさんの街ですか」

「そうです」

「……アヒルの看板が、見えます」

 距離がある。でもエルナには見えるらしかった。

「あの看板の下が、うちの店です」

「小さいですね」

「小さいです。でも——」

「でも?」

「いい店です」

 エルナはしばらく看板を見ていた。

「……温かい感じがします」

「感じ取れますか」

「建物の状態が、人が長くいた場所の温かさを持っています。時間が積み重なった感じがします」

「二十八年です。ゼノフさんが二十八年、ここで料理を作ってきました」

「二十八年……」

 エルナは静かに言った。

「そんなに長く、一つの場所にいられるんですね」

「いられます。あなたも——いられますよ」

 エルナは俺を見た。

 銀色の目が、夕日の中で揺れていた。

「……信じていいんですか」

「信じるかどうかは、あなたが決めることです」

 エルナは少し笑った。

「また同じことを言いますね」

「同じことしか言えないので」

「……そういうところが、信じやすいです」


 街の入口に差し掛かった時、シグが立っていた。

 腕を組んで、壁にもたれている。

「遅かったな」

「一日余分にかかりました。これはエルナ、街道で会いました」

 シグはエルナを見た。

 エルナはシグを見た。

 シグの目が、少し鋭くなった。

「……その目は」

「シグさん、知っていますか」

銀眼ぎんがんだ」

 俺は聞き返した。

「銀眼?」

「この世界の言葉だ。生まれつき、物の状態を感じ取れる者が稀にいる。銀色の目を持って生まれてくることから、そう呼ばれる」

 エルナは少し緊張した顔でシグを見ていた。

「知ってはいるが——俺は怖くない。前の世界に、似たような話があったから」

「前の世界?」

 シグは俺を見た。

「転移者、もう一人。こっちは料理人じゃなく、冒険者だが」

 エルナは俺とシグを交互に見た。

「……あなたたちは、別の世界から来たんですか」

「そうです」と俺が言った。

「だから——変なことに、驚かないんですね」

「いろいろ経験してきたので」

 エルナはしばらく黙ってから、「そうですか」と言った。

 少し、肩の力が抜けた気がした。


 「満腹あひる屋」に戻ると、カイルとマリアがいた。

「おかえりなさい! あれ、誰ですか?」

「街道で会いました。エルナ、しばらくここにいます」

「えっ、また増えた!」

「増えましたが、いいですか」

「いいですよ! ゼノフさんがいなくなったら一人分減ったし!」

 マリアがエルナに近づいた。

「マリアといいます。よろしくお願いします」

「エルナです。……よろしくお願いします」

「空き部屋は私の隣です。案内しますね」

 マリアはエルナを連れて、二階に上がっていった。


 その夜。

 エルナに夕飯を出した。

 どんぶりと、深味汁と、デザート。

 エルナは一口ずつ、丁寧に食べた。

 食べながら、時々目を閉じた。

「どうですか」

「……全部、わかります。何が入っているか、どう作ったか。でも」

「でも?」

「わかっても、なくならない美味しさがあります。全部知っていても、食べたくなります」

「それが料理だと思います」

 エルナはデザートを一口食べて、銀色の目を細めた。

「このデザート——誰が作りましたか」

「マリアです」

「若い子ですね」

「三週間目の料理人です」

「……三週間で、こんな味になるんですか」

「素質があります」

 エルナはデザートをもう一口食べた。

「作った人の気持ちが、少し伝わってくる気がします」

「それは——能力ですか」

「わかりません。でも——誰かのために作ったものは、違う感じがします」


 閉店後、俺は一人でかまどの前に座った。

 今日は、いろんなことがあった。

 ブルーノ亭の問題。ヴェルナーとの話。そして——エルナとの出会い。

(この子は、この店に必要な人間かもしれない)

 食材の状態を感じ取れる能力。それは、料理人として考えれば、これ以上ないほど役に立つ。

 でも、それ以上に——エルナ自身が、この店の空気に馴染みそうな気がした。

 理由は、うまく言えない。ただ、街道で並んで歩いた時、この子はずっとまわりを観察していた。草の状態、道の様子、行き交う人——全部を静かに見ていた。

 料理人に必要なものは、観察力だ。食材を見る目、客を見る目、厨房を見る目。

 エルナには、それが生まれつき備わっている。

(問題は、追いかけてくる者がいるかもしれないことだ)

 研究施設。能力を利用しようとした人間たち。

 グレイに相談する必要がある。シグにも話を聞いておきたい。

 そして——ゴルドにも。

 守るためには、まず状況を把握することだ。

 前世のバイトリーダーとして、ピンチの現場で学んだ一番のことだった。


 翌朝、グレイが来た。

 いつも通りの時間に、いつも通りの席に座った。

 串焼きを注文してから、俺を呼んだ。

「エルナという子が来たらしいな」

「昨夜、見ていましたか」

「俺はいつでも見ている」

「銀眼のことを知っていますか」

「知っている」

「追いかけてくる者がいるかもしれません」

 グレイは串焼きを一口食べてから、静かに言った。

「どこの施設か、わかるか」

「わかりません」

「エルナに聞けるか」

「聞いてみます」

 グレイは少し間を置いた。

「……俺の取引先に、そういう情報が集まる場所がある。調べる」

「助かります」

「ただし——」

「はい」

「エルナという子に、ここが安全かどうかを保証はできない。それだけは伝えておけ」

「伝えます」

「それでもここにいるかどうかは、本人が決めることだ」

「わかっています」


 昼過ぎ、エルナが二階から降りてきた。

 マリアと並んで、厨房を覗いていた。

「エルナ、少し話せますか」

「はい」

 俺はカウンターに並んで座った。

「昨夜、グレイさんという人と話しました。あなたが来たことを、知っていました」

「……その人は、何者ですか」

「闇商人です。でも——信頼できます。卵焼きが好きな人間は悪い人間じゃないと、俺は信じています」

 エルナは少し考えてから、「それは、どういう理屈ですか」と聞いた。

「理屈じゃないです。経験です」

「……わかりました」

「施設の名前を、教えてもらえますか。グレイさんが、追いかけてくる人がいるか調べてくれます」

 エルナはしばらく黙った。

「「銀星研究院」といいます。北の山の中にあります」

「わかりました。グレイさんに伝えます」

「……本当に、調べてもらえるんですか」

「はい」

 エルナは少し躊躇してから、言った。

「……私を捕まえようとしている人たちは、強いです。ここの人たちが危険になるかもしれません」

「それは——」

「それでも、いてもいいんですか」

 俺は少し考えた。

 正直に言えば、リスクはある。

 でも——

「エルナ」

「はい」

「うちの常連を紹介しておきます」

 俺は指を折りながら言った。

「ゴルドさんは二十年の傭兵経歴を持つ重戦士で、百人の砦を五百人から七日間守った人です。シグさんはランクの高い冒険者で、転移者でもあります。グレイさんは闇商人で、この地域の情報網を持っています。ラドク隊長はこの街の衛兵隊長で、先日ベルク商会を追い出しました」

 エルナは少し目を丸くした。

「……この食堂の常連、ですか」

「そうです。みんな、美味しいものが食べられなくなることを、一番嫌がります」

 エルナはしばらく黙った。

 それから、銀色の目で俺を見た。

「……ここは、普通の食堂ではないですね」

「はい。普通じゃないかもしれません」

「でも——」

 エルナは少し笑った。

「普通じゃない私が、来てもいい場所ですね」

「もちろんです」


 その夜、エルナは初めて厨房に入った。

 マリアに誘われて、デザートを一緒に作りに来た。

 卵を割って、蜂蜜を量って、白獣乳を加える。

 一つ一つの作業を、エルナは丁寧にやった。

 途中、蜂蜜の器を手に取って、少し目を細めた。

「この蜂蜜、花の種類がわかります。西の草原の花ですね。少し苦みがあります」

「仕入れ先に確認してみます」とマリアが言った。

「その苦みが、甘みを引き立てると思います。悪いことじゃないです」

「食べて確かめますか」とマリアが聞いた。

「はい」

 二人でデザートを作って、食べた。

 エルナは一口食べて、「美味しいです」と言った。

「エルナさんが加わると、もっとよくなりましたか?」とマリアが聞いた。

「……少し、蜂蜜の量を多くしました。苦みを生かすために」

「なるほど」

「余計なことをしましたか」

「いいえ! 自分で工夫するのが、料理人だと思います」

 エルナはマリアを見た。

「……マリアさんは、優しいですね」

「そうですか?」

「怖がらないで、普通に接してくれる人が、あまりいなかったので」

「え、なんで怖がるんですか? 銀眼ってすごい能力じゃないですか」

 エルナは少し目を丸くした。

「……すごい、と思ってもらえるんですか」

「すごいと思います! 私、食材の鑑定とか全然できなくて——あ、でもトウヤさんに「鼻を近づけてよく嗅げ」って言われてから、少しわかるようになってきましたけど」

 エルナはくすっと笑った。

「……マリアさんと、仲良くできそうです」

「なれます! 絶対なれます!」


 翌朝。

 四時に厨房に下りると、マリアがいた。

 そして——エルナもいた。

 二人でかまどの前に立って、出汁の仕込みを始めようとしていた。

「エルナ、早いですね」

「マリアさんに教わります。もし、邪魔でなければ」

「邪魔なわけがないです」

 エルナは少し嬉しそうな顔をして、マリアの隣に立った。

 マリアが「まず海藻を水に浸けます。冷たい水から、ゆっくり始めることが大事です」と説明し始めた。

 エルナは「この海藻、磯の香りがします。三週間前に収穫されたものですね」と言った。

 マリアが「え、わかるんですか!?」と目を丸くした。

「だいたい」

「じゃあ、鮮度の確認も教えてもらえますか。私、まだうまくできないので」

「わかりました」

 二人の会話が、厨房に広がった。

 かまどの火が灯って、出汁の仕込みが始まる。

 いつもと同じ朝が、でも少し違う温度で始まっていた。


 アヒルの看板が、夜明け前の空の下で揺れていた。

 まだ暗い。でも、厨房の灯りが石畳に落ちている。

 「満腹あひる屋」に、また一人、新しい人間が加わった。

 その人間が持ってきたものが何なのか、まだ全部はわからない。

 でも——この場所は、そういう人間が集まる場所だ。

 ゼノフさんが二十八年かけて作った、そういう場所だ。

次回もお楽しみに

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