第二話「つゆだく革命と、重戦士の涙」
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翌朝、俺は夜明け前に目が覚めた。
二階の小さな部屋——ゼノフさんが「物置だったんだけどね、はっはっは!」と笑いながら片付けてくれた六畳ほどのスペースだ。天井が低く、窓から見える景色は石畳の路地と、向かいの薬草屋の看板だけ。
それでも、悪くなかった。
布団はふかふかで、昨夜のゼノフさんの料理は素朴ながらも温かく、久しぶりに——いや、この世界では初めて——ちゃんと「食べた」という満足感を覚えて眠れた。
俺は静かに起き上がって、着替えた。
さて。
(まず厨房を把握するところから始めよう)
バイトリーダー時代に叩き込まれた鉄則だ。どんな店でも、最初の仕事は「現状把握」。使える道具、食材のストック、導線の確認。感情論より先に、まず現場を見る。
階段をおりると、ゼノフさんはすでに起きていた。
「おや、早いね! 若いのに感心だ」
「慣れてるので。……厨房、見せてもらっていいですか」
「もちろんだよ、どうぞどうぞ」
厨房に入って、俺は無言で一周した。
かまどが二口。鍋が大中小、それぞれ一つずつ。まな板は厚くて頑丈。包丁は二本あるが、一本は明らかに刃が鈍っている。棚には香辛料の瓶が十二本——ラベルらしきものはあるが、現地の文字は今ひとつ読めない。鼻を近づけて一本ずつ嗅いでいくと、クミンに似たもの、コリアンダーっぽいもの、胡椒の仲間、そして甘い香りの粉が数種類。
食材の貯蔵庫は厨房の奥。覗くと——
「ゼノフさん」
「なんだい?」
「この肉、何ですか」
棚の一角に、赤みがかった大きな塊肉がいくつも並んでいた。
「ああ、牙猪だよ。この辺りじゃ一番ポピュラーな食用魔獣でね。昨日の煮込みにも使ったやつだ」
牙猪——つまり昨日の煮込みの肉か。俺はひとかたまりを手に取り、断面を確認した。
繊維はやや粗め。脂身の入り方は、豚と牛の中間くらい。においは若干癖があるが、下処理次第で十分いける。
(……これ、うまく調理すれば、絶対いいどんぶりになる)
頭の中に、一枚の映像が浮かんだ。
薄切りにした肉と、たっぷりの玉ねぎ。甘辛いタレ。白いご飯の上に乗せて——
「ゼノフさん、玉ねぎはありますか」
「タマネギかい? あるよあるよ、そこの籠に」
「お酒は?」
「地酒なら樽で」
「甘みのある調味料は?」
「蜂蜜と、あと甘醤——えっと、甘い醤油みたいなやつがあるよ」
俺は少し考えて、ゼノフさんに向き直った。
「一つ、作らせてもらっていいですか」
ゼノフさんは丸眼鏡をくいと押し上げて、にっこりした。
「もちろんだよ。厨房はトウヤくんのものだと思って、好きにやってみな」
まず、肉だ。
牙猪の塊を、俺はできるだけ薄く切り始めた。持ち前の包丁——刃の立っているほうを借りて、繊維を断つ方向に、均一な厚みで。
薄切りにすることで火の通りが早くなる。早くなれば、提供スピードが上がる。
バイトリーダーとして働いた牛丼チェーンで、俺が最初に覚えたのはそこだった。「早さ」は「味」と並ぶ、サービスの柱だ。
次に玉ねぎ。半月切りにして、鍋に薄く油を敷いて炒める。甘い香りが立ち始めたところで、地酒を回しかける。じゅわっと上がる蒸気に、思わず口元が緩んだ。
(ああ、これだ。この匂いだ)
甘醤と蜂蜜を合わせ、水で伸ばしてタレを作る。割合は記憶と鼻を頼りに。前世で散々試した、あの甘辛いバランスを、この世界の調味料で再現する。
肉を加えて、タレをからめながら煮る。
玉ねぎがとろりと半透明になり、肉に照りが出てきた頃——
「……いい匂いがするね」
ゼノフさんが厨房の入り口から首を伸ばしていた。
「もうすぐです。ゼノフさん、ご飯——この世界だと麦飯ですかね、それを器に盛ってもらえますか」
「麦飯? お客さんに出すのは黒パンが多いんだけど……」
「炊いたやつ、ありますか」
「あるよ、朝用に炊いてあるから」
「じゃあそれを、どんと盛ってください。丼にできる深めの器で」
ゼノフさんが麦飯を器に盛る。俺は鍋の火を止めて、たっぷりのタレごと肉と玉ねぎをすくった。
麦飯の上に、どさりと乗せる。
タレが飯に染みていく。湯気が立ち上る。
それだけで、俺には「完成」がわかった。
「……できました」
ゼノフさんは器をまじまじと見つめてから、匙を取って一口食べた。
数秒、沈黙。
「……」
「……どうですか」
「……」
ゼノフさんは、もう一口食べた。
また沈黙。
「……ゼノフさん?」
「トウヤくん」
「はい」
「これ……なんで飯と一緒に食うんだい?」
俺は少し考えて、答えた。
「飯に合うから、です。タレが飯に染みて、一緒に食べると完成する料理なので」
「……」
ゼノフさんはもう一口。
「うん、確かに……合うね。飯と一緒に食べると……なんというか……」
丸眼鏡がつるつる滑るほど、ゼノフさんは深くうなずいた。
「なくなるまで止まらないね、これ」
俺はほっと息を吐いた。
「今日のランチに出してみましょうか」
「ぜひ!」とゼノフさんは即答した。
昼になると、常連たちが三々五々やってきた。
作業着のハンスとヨハンが「いつもの!」と叫びながら座り、カイルが飛び込んできて「腹ペコで死にそう!」と訴え、エレナさんが静かに隅の席に着いて本を開いた。
俺はゼノフさんに手伝ってもらいながら、新しい丼を仕込んでいた。
タレは朝のうちに多めに作ってある。肉は薄切りにして下処理済み。玉ねぎは半月切りにして待機中。注文が入ったら、熱した鍋に材料を入れて、五分もあれば出せる。
牛丼チェーンで培った「仕込みで勝負する」という哲学は、どうやら異世界でも通用しそうだった。
「ゼノフのじじい! 新しいもん、今日あるって聞いたぞ!」
ゴルドだった。
扉を勢いよく開けて、鎧のまま大股で入ってくる。いつも通りの豪快な入場だ。その後ろに、なぜか小さな影がついてきた。花柄の小さなワンピースを着た女の子——八つくらいだろうか——が、ゴルドの背中にぴったりくっついて歩いてきた。
「ゴルドのおじちゃん、ここ、あひるのお店?」
「ああ。美味い飯が食える店だ。入っていいぞ」
ゼノフさんが厨房から顔を出して、ぱっと顔を輝かせた。
「あら、ルルちゃん! 今日はお父さんとお母さんのお仕事、お休みかい?」
「ちがうよ、ゼノフおじいちゃん。お花屋さん、お客さんいっぱいだから、ここで待ってていいって」
「そうかそうか! じゃあゼノフおじいちゃんが、アヒルのクッキーを焼いてあげるからね!」
ルルちゃんと呼ばれた女の子は嬉しそうにぱたぱたと奥の席に向かった。
ゴルドは俺を見て、顎をしゃくった。
「お前が作るのか、新メニューは」
「そうです。牙猪を使った丼物です」
「……ドンブリ?」
「飯の上に、肉を乗せた料理です。温かいうちに食べてください」
ゴルドはしばらく俺を見てから、どっかと椅子に座った。
「出してみろ」
俺は厨房に戻り、鍋を火にかけた。
油を薄く引いて、玉ねぎを投入。じゅわっという音と甘い香りが広がる。薄切りの牙猪肉をほぐしながら加えて、タレを回し入れる。
肉の色が変わるのを確認しながら、もう一方でゼノフさんに麦飯を盛ってもらう。
五分かからなかった。
深めの器に麦飯をたっぷり盛り、その上に光沢のある肉と玉ねぎをどっさり乗せる。タレが白い飯に染みていく。湯気がゆらゆら立ち上る。
「……お待たせしました」
カウンターにどんと置くと、ゴルドはじっとそれを見た。
しばらく動かない。
「……飯の上に、肉が乗っている」
「そうです」
「……なぜ」
「一緒に食べると旨いから、です」
ゴルドはしばらく考えるように黙ってから——匙を取り、一口食べた。
沈黙。
もう一口。
また沈黙。
「……」
「……ゴルドさん、どうですか」
ゴルドは答えなかった。
ただ、匙が止まらなかった。
二口、三口、四口——みるみる器の中身が減っていく。
そして。
「……タレが、飯に染みているのがいい」
ぼそりと、ゴルドが言った。
「肉と飯と、タレが一緒に口に入る。どれかが足りなくなる気がして、次の一口が止まらん」
「それが、どんぶりです」
「……もっとタレを多くできるか」
俺は思わず少し笑った。
「できます。つゆだく——タレ多めにして提供する方法があります」
「つゆだく」
「タレをたっぷり染みこませた仕上げ方です」
ゴルドは俺の目をまっすぐ見て、静かに言った。
「それにしろ」
「わかりました」
俺は鍋に戻って、タレを追加した。
じゅわっと染みるように肉と絡めて、麦飯の上にたっぷりとかける。タレが器の底に薄く溜まるくらい。
それを出すと、ゴルドはまた一口食べた。
一瞬、その大きな手が止まった。
「……飲み物のように食える」
それが、この世界で初めて聞いた「つゆだく」への感想だった。
「なんか、ゴルドのおじさんすごく真剣な顔してるね」
カイルが小声で俺に言った。
「美味しいんだと思う」
「俺も食べていい?」
「どうぞ」
カイルの器にも同じものを盛ると、彼は一口食べた瞬間に目を丸くして、「なにこれ!?」と素直に叫んだ。その声に引っ張られるように、ハンスとヨハンが「俺らにも!」と手を挙げた。エレナさんが本から目を離して、隣の器を横目でちらりと見た。
隅の席では、フードの人物——グレイが串焼きを食べながら、静かにこちらを観察していた。
ゼノフさんが俺の隣にやってきて、耳打ちした。
「トウヤくん、注文が来てるよ。材料、足りるかい?」
「仕込みはしてあります。五人分なら今すぐ出せます」
「たっはっは! 頼もしいねえ!」
その日の昼、「満腹あひる屋」はいつもより少しだけ賑やかだった。
ゴルドは「つゆだく」の丼を平らげた後、「もう一杯」と追加注文した。そんな彼を見てカイルが「俺も!」と叫び、ハンスとヨハンが笑いながらエールのおかわりを頼んだ。
エレナさんは本を閉じて、こっそり「……私も、それを」と小さな声で注文してきた。
ルルちゃんはゼノフさんが焼いたアヒルクッキーをかじりながら、「おじいちゃん、いいにおいがするね」と言った。
ゼノフさんは目を細めて、「そうだろう、そうだろう」とうなずきながら、俺の背中をぽんぽんと叩いた。
「トウヤくん、大したもんだよ」
「まだまだです。これは序の口で——」
「続きがあるのかい!?」
「ええ。麺も、揚げ物も、あと——煮込みを、もう少し化けさせたいと思ってます」
ゼノフさんは丸眼鏡の奥をきらきらさせて、「たっはっは! 楽しみにしてるよ!」と豪快に笑った。
その夜、片付けを終えた厨房で、俺は棚のスパイスを並べ直した。
瓶を一本ずつ手に取り、嗅いで、確かめる。
クミンに似た粉。コリアンダーの仲間。複数の辛みのある実。甘い香りの樹皮。
(……これと、これと、これを合わせたら)
頭の中で、鮮やかな黄色の煮込みが浮かんだ。
前世で、全国のカレーを食べ歩いた記憶が、じわじわと蘇ってくる。
(次は、これだ)
窓の外、アヒルの看板が月明かりに揺れていた。
「満腹あひる屋」の、まだ始まったばかりの夜だった。
次回もお楽しみに




