第十七話「一ヶ月後の豆と、街に広がる新しい香り」
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一ヶ月は、あっという間だった。
毎朝仕込みをして、料理を出して、閉店後に発酵の器を確認する。その繰り返しの中で、気がついたら三十日が経っていた。
カイルの包丁さばきは、俺が教えられることをほぼ全部吸収していた。マリアの麺は「自分の味」を持ち始めていて、常連の何人かは「今日はマリアが作ったやつ」と言って頼むようになっていた。
リンは相変わらず旅に出たり戻ってきたりを繰り返しながら、演奏の腕が上がっていた。グレイはマリアを「後見人」として、遠くから静かに見守っていた。エレナさんはデザートを週三回頼むようになっていた。
ヴェルナーとの提携文書は、二週間前に正式に締結した。ギルドの認定審査は、来週に予定されている。
あひる組合は今や、この街の食材流通の三割を担う組織になっていた。
全部が、少しずつ前に進んでいた。
そして、三十日目の朝。
俺は厨房の隅に置いてある器の前に立った。
マリアも横に来た。カイルも覗きに来た。ゼノフさんも、珍しく早起きして来た。
蓋を開ける。
一瞬、全員が静止した。
強い、複雑な香りが広がった。
前世の味噌とは少し違う。もっと野性的な、土の香りに近いもの。でも確かに——発酵の香りだ。
「……すごい匂いだね」
ゼノフさんが丸眼鏡を押し上げながら言った。
「これが発酵の匂いです」
「少し、鼻にくるね」
「最初はそうです。でも——」
俺は匙を取って、少量を取り出した。
深い茶色。もったりとした質感。表面には白いものが少し出ている。
「食べられますか」とマリアが心配そうに聞いた。
「白いのは問題ありません。この部分は取り除けばいい」
白い部分をさっと取り除いて、俺は少量を舌に乗せた。
塩辛い。
でも——その奥に、深い旨みがある。
前世の味噌とは確かに違う。でも、同じ「何か」が確かにある。
時間が作り出した味だ。
(できた)
「マリア、出汁を少し温めてください」
「はい」
温めた出汁に、この発酵豆ペーストを少量溶かす。
鍋の中で、ふわっと香りが立った。
それは——前の世界の台所の香りに、どこか似ていた。
「一口、飲んでみてください」
全員に小さな器で配った。
ゼノフさんが一口。
「……」
カイルが一口。
「……なんですか、これ」
マリアが一口。
「……深い」
三人とも、しばらく黙っていた。
「旨いか、旨くないかで言えば?」とカイルが聞いた。
「旨い。でも、今まで食べたことのない旨さだ」とゼノフさんが答えた。
「塩辛いのに、しつこくない。飲んだ後に、ずっと温かい感じが続きます」とマリアが言った。
俺は三人の顔を見ながら、静かに思った。
(この世界で、味噌汁が生まれた)
問題は、名前だった。
「なんと呼ぶんですか」とカイルが聞いた。
「前の世界では、違う名前で呼んでいました。でも、この世界の言葉で名前をつけたほうがいいと思っています」
「どんな名前がいいですか」
全員で考えた。
ゼノフさんが「豆の汁だから、豆汁はどうかな」と言った。
「それだと味気ない気がします」とマリアが言った。
「じゃあ、発酵豆の汁?」とカイルが言った。
「長いですね」とマリアが言った。
俺は少し考えた。
「この汁を飲んだ時の感覚——「深い」「温かい」「じんわりする」——そこから名前を作れないですか」
「じんわり汁?」とカイルが言った。
「可愛すぎる」とマリアが言った。
「深味汁は?」とゼノフさんが言った。
全員が少し考えた。
「……それがいいかもしれません」と俺は言った。
「深味汁。発酵した豆から作る、深い旨みの汁。意味も通っています」
「決まりだね! はっはっは!」
深味汁を最初に正式なメニューとして出したのは、その日の昼営業からだ。
麺の汁を深味汁ベースにした「深味汁麺」と、どんぶりの横に小さな器で添える「添え深味汁」という形で出した。
最初の反応は、やはりゴルドだった。
どんぶりを注文した時に、「今日から横に小さい汁が付きます」と伝えると、ゴルドは無言で器を持ち上げて一口飲んだ。
静寂。
もう一口。
「……なんだ、これは」
「一ヶ月前から仕込んでいたものです。発酵した豆から作りました」
「一ヶ月前——あの器か」
「覚えていましたか」
「気になっていた」
ゴルドはもう一口飲んだ。
「……体の中が、落ち着く」
「そうですか」
「温かいのに、すっきりもしている。どういう仕組みだ」
「発酵の力です。旨みの成分が、時間をかけて作られます」
「一ヶ月かかるのか」
「最低でも。本当はもっと長くかけたほうが深みが増します」
ゴルドは少し黙ってから、「次はいつ仕込む」と聞いた。
「今日から、次のものを仕込みます」
「今度は、三ヶ月かけろ」
「そのつもりです」
「楽しみにしている」
エレナさんは深味汁麺を注文して、一口すすった瞬間に手を止めた。
それから、本を閉じた。
俺は少し驚いた。
エレナさんが食事中に本を閉じるのは、珍しいことだ。
「……麺の汁が、変わりましたね」
「新しい汁で作りました。気づきましたか」
「すぐわかりました。以前より、口の中に残る感じがある。それがいいのか悪いのか、少し考えていました」
「いかがですか」
「……いいです」
エレナさんは静かに答えた。
「本を閉じてしまったのは、この汁に集中したくなったからです」
「それは嬉しい言葉です」
「本を閉じさせるほどの汁というのは、よほどのものです」
エレナさんは再び麺をすすった。
今日は最後まで本を開かなかった。
グレイは夕方来て、いつもの串焼きと卵焼きを注文した後、俺が出した深味汁の小皿を見て、一口飲んだ。
長い沈黙の後、グレイは静かに言った。
「……卵焼きと合わせていいか」
「どうぞ」
グレイは卵焼きを一切れ食べて、深味汁を一口飲んだ。
また沈黙。
「……塩辛い卵焼きが、ほんの少し甘く感じる」
「汁の旨みが、甘みを引き立てることがあります」
「そういうものか」
「味と味が、互いを変えることがあります」
グレイはしばらく考えてから、「面白い」とぼそりと言った。
それが、グレイの最大級の褒め言葉だと、俺にはもうわかっていた。
その夜、ハンスとヨハンが来た時のことだった。
いつも通り「いつもの!」と叫んで座った二人だったが、深味汁の小皿を見てヨハンが「なんだ、これ」と言った。
「今日から始めた汁物です」
「飲んでいいか」
「どうぞ」
ハンスが一口。ヨハンが一口。
「……なんか、疲れが取れる感じがするな」
「気のせいじゃないと思います。発酵食品には、そういう効果があります」
「発酵?」
「時間をかけて豆を変化させて作ります」
「時間をかけて……」ハンスが繰り返した。「職人みたいだな」
「そうかもしれません」
「俺たちも石積みや大工仕事で、時間をかけて丁寧にやったものほど長持ちするから、なんかわかる気がする」
俺はその言葉を、興味深く聞いた。
「職人の感覚と、料理の発酵は似ているかもしれないですね」
「そうだろう? 急いで作ったもんは、すぐ壊れる。料理もそうだったんだな」
「ゆっくり作ったものは、深みが違います」
ハンスは「うまいこと言うな」と笑って、エールをぐっと飲んだ。
翌朝、ラドク隊長が麺を食べながら言った。
「昨日から、街の空気が少し変わった気がする」
「そうですか」
「深味汁、という話が広まっている。何を作ったんだ」
「発酵した豆から作った汁物です」
「発酵……」
「一ヶ月かけて仕込みました」
ラドク隊長は少し間を置いた。
「……昨夜、夜警の連中が話していた。「あひる屋の新しい汁が旨い」と」
「来てもらえましたか」
「二人ほど、今朝寄ったようだ」
「ありがとうございます」
ラドク隊長は麺をすすりながら、静かに言った。
「お前がこの街に来てから——毎週、何か新しいことが起きている」
「迷惑ですか」
「迷惑ではない。ただ——少し驚いている」
「何がですか」
「新しいことが起きるたびに、街が少し活気づく。それを繰り返している。小さな食堂一軒が、街の空気を変えるとは思わなかった」
俺は少し考えた。
「俺一人ではないです。ゼノフさんと、ここに集まる人たちが、全部繋がっているからだと思います」
「そうかもしれないが——起点はここだ」
ラドク隊長はそれ以上言わなかった。
麺を最後まで食べて、代金を置いて、立ち上がった。
「明日もある」
「お待ちしています」
その日の昼過ぎ、予想外の来客があった。
アデラだった。
今回は護衛を一人だけ連れた、軽い身なりだ。
「また来てしまいました」
「歓迎します」
「深味汁というものを、どうしても食べてみたくて」
「今朝から出しています」
アデラは麺と深味汁を注文した。
一口ずつ、丁寧に味わった。
食べ終えてから、静かに言った。
「……これを作るのに、どのくらいかかりましたか」
「豆を仕込んでから一ヶ月です。次のものは三ヶ月かける予定です」
「一ヶ月……」
「発酵は、時間が材料の一つです」
アデラはしばらく考えてから言った。
「実は、今日は一つ相談があって来たんです」
「はい」
「うちの領地に、料理人を招いて指導してもらえないか、という話です。ベルク商会の件で打撃を受けた食堂が、いくつかあって。立て直しの一助になればと」
俺は少し考えた。
(領地への出張指導か)
「行ける日と行けない日があります。この店を空けられる日を作れるかどうか——カイルとマリアの状況次第です」
「急ぎません。半年後でも構いません」
「ゼノフさんに相談してから、お返事します」
「よろしくお願いします」
アデラは立ち上がりながら、もう一度深味汁の器を見た。
「これを領地でも作れるようになれば、住民が喜ぶと思います」
「仕込みを教えれば、誰でも作れます。ただし、時間だけはかかります」
「時間のかかるものには、それだけの価値がある」
「そう思います」
夕方、シグが来た。
どんぶりと深味汁を食べながら、ふと言った。
「俺の街でも、これ作れないかな」
「シグさんの街?」
「俺が拠点にしている場所。小さな街だけど、食堂が何軒かある」
「材料があれば、どこでも作れます」
「材料は?」
「豆と塩と、時間です」
「時間以外は揃えられそうだな」
「時間も、待てばあります」
シグは少し笑った。
「そうだな」
シグは深味汁をもう一口飲んでから、俺を見た。
「なあ、トウヤ」
「はい」
「この汁、前の世界にあったやつか」
「似たものが、ありました」
「懐かしい感じがするか」
俺は少し考えた。
「懐かしい、というより——繋がっている感じがします」
「前の世界と?」
「前の世界の記憶が、この世界の食材と繋がって、新しいものになった。懐かしさと新しさが、同時にある感じです」
シグはその言葉を聞いて、黙った。
しばらくしてから、「わかる気がする」と言った。
「シグさんも、そういう感覚がありますか」
「俺の場合は剣技だけど——前の世界の動きを、この世界の体で再現しようとしている。完全には再現できないけど、再現しようとする中で、新しい型が生まれることがある」
「前の世界の記憶が、この世界で別の形になる」
「そうだ」
二人で少し黙った。
転移者同士だけが共有できる感覚が、そこにあった。
その夜、片付けが終わった後。
ゼノフさんが「少し話がある」と言って、俺をカウンターに呼んだ。
「なんですか」
「深味汁のことなんだけどね」
「はい」
「あれを仕込んでいた期間——トウヤくんは毎日、器を確認していたね」
「そうですね」
「毎朝、少しだけ蓋を開けて、匂いを嗅いで、また閉める。それを一ヶ月続けた」
「変化を見たかったので」
「俺はね、その姿を見ていて、思ったことがある」
ゼノフさんは丸眼鏡を押し上げた。
「トウヤくんの料理への向き合い方は、普通の料理人と少し違う」
「どういうことですか」
「普通の料理人は、レシピがあって、食材があって、作る。でもトウヤくんは——まず「何が起きているか」を見る。観察から始める」
俺は少し考えた。
「前の世界で、料理より先にオペレーションを覚えたからかもしれません。現場を観察することが習慣になっています」
「オペレーション?」
「仕組みのことです」
「仕組みを見る目と、料理を作る目が、両方あるということかな」
「……そう言ってもらえると、少し整理できます」
ゼノフさんは静かに言った。
「それはね、この店にとって、本当に大切なものだと思うよ」
「どうしてですか」
「料理だけなら、俺一人でも長くやってきた。でも——仕組みを考える人間がいなかった。だから、一人でできる範囲でしか動けなかった」
「ゼノフさんが一人でやってきたことは、簡単なことじゃないですよ」
「わかってる。でも——トウヤくんが来てから、この店は俺一人では行けなかった場所に行き始めている。それはトウヤくんの、その目のおかげだ」
俺は少し言葉に詰まった。
「……俺の目は、前の世界の経験の産物です。この世界で身につけたものじゃないです」
「どこで身につけたかは関係ない」
ゼノフさんははっきりと言った。
「お前がこの店に持ってきたものは、この店のものだ。もうここにあるんだから」
その夜、俺は二階の部屋の窓から外を見た。
街の灯りがぽつぽつと見える。
明日、次の発酵豆の仕込みを始める。三ヶ月後に開ける。
ヴェルナーとの提携が動き始めて、ギルドの認定審査が来週ある。アデラからの領地訪問の依頼も、半年後を目処に考えはじめている。
やることは、まだたくさんある。
でも——焦りは、不思議とない。
深味汁が教えてくれたことが、ここに集約されている気がした。
時間をかけること。待つことを恐れないこと。今日できることを丁寧にやれば、一ヶ月後には必ず何かが変わっている。
(この世界で生きていくということは、そういうことかもしれない)
アヒルの看板が、夜風に揺れていた。
看板の下、石畳に深味汁の香りが、かすかに漂っているような気がした。
「満腹あひる屋」の香りが、少しずつ、街に染み込んでいく。
翌朝、四時に起きた。
厨房に下りると、マリアがいた。
そして今日は、カイルも来ていた。
「カイルさん、今日は早いですね」
「俺も本気出そうと思って」
「何が本気ですか」
「マリアに負け続けているので」
マリアが「早起き対決ではないです」と言った。
「でも、早起きできる人が仕込みを多くできる」
「それは、そうですね」とマリアが認めた。
三人で笑った。
俺はかまどに火を入れた。
マリアが出汁を仕込み始めた。カイルが野菜の下処理を始めた。
三人の動きが、自然と合わさっていく。
それぞれが違う作業をしながら、同じ方向を向いている。
(これが、チームだ)
前世でバイトリーダーとして、ずっと作りたかったもの。
異世界の小さな食堂の厨房で、ようやく形になっていた。
次回もお楽しみに




