第十六話「発酵の夢と、遠くから届いた手紙」
引き継ぎお楽しみください
発酵の研究は、静かに始まった。
派手なことは何もない。毎朝の仕込みの合間に、小さな器をいくつか並べて、食材に少しずつ手を加えて、様子を見る。それだけだ。
前世の記憶を引っ張り出すと、発酵の基本は「微生物に働いてもらうこと」だ。温度、湿度、時間——この三つを管理すれば、食材は自分で変化していく。
ただし、この世界の食材が前世のものとどう違うかは、やってみるまでわからない。
だから俺は、まず「観察」から始めた。
最初に試したのは、野菜の漬物だ。
八百屋のボルクから分けてもらった根菜を、塩で揉んで器に詰める。重しを乗せて、厨房の隅に置いておく。
翌朝見ると、水が出ていた。
三日後、一口食べてみた。
酸みが出ていた。浅いが、確かに発酵している。
「マリア、食べてみてください」
マリアは一口食べて、目を細めた。
「……酸っぱい。でも、なんか旨みがある」
「そうです。塩と時間だけで、この味になります」
「すごいですね。自分で変わっていくんですね」
「微生物の力です」
「微生物って、見えますか」
「見えません。でも確かにいます」
マリアは「見えないのに働いてくれるんですね」と感心したように言った。
カイルが「俺も食べていいですか」と手を伸ばした。
一口食べて、「酸っぱい! でもなんか好き!」と言った。
次に試したのは、液体の発酵だ。
果実を潰して、甘みを加えて、蓋をゆるく閉めた器に入れる。
二日後から、ぽこぽこと泡が出始めた。
一週間後、恐る恐る蓋を開けると——酸味のある、爽やかな香りがした。
一口飲むと、舌に微かな刺激がある。
(果実酢に近い)
これを薄めて、甘みを加えると——すっきりとした飲み物になった。
「ゼノフさん、飲んでみてください」
「なんだいこれ、爽やかだね!」
「発酵した果実の飲み物です。食前や食後に合います」
「これは——客に出せるね!」
「もう少し安定させてからにします。今はまだ、日によって味が変わります」
「難しいんだね」
「発酵は、コントロールが一番難しいです。でも、そこが面白い」
発酵の研究を続けながら、俺は一つの大きな構想を温めていた。
この世界に「味噌」に近いものが作れないか、という考えだ。
前世の料理の記憶の中で、味噌は特別な位置にある。豆と塩と時間だけで作られる、シンプルなのに複雑な味。出汁と合わせれば、この世界の煮込みや麺が、また一段階変わる。
問題は、豆だ。
この世界に大豆に近いものがあるかどうか——それを探すことから始めないといけない。
朝市で何度か探していたが、なかなか見つからなかった。
そんなある朝。
グレイが珍しく、閉店後でなく昼過ぎに来た。
手に、一通の手紙を持っていた。
「届いた」
「ありがとうございます。誰からですか」
「マリアの両親だ」
俺は少し驚いた。
「もう返事が来たんですか」
「俺のルートは早い」
グレイは手紙を渡して、いつもの席に向かった。
俺は厨房のマリアを呼んだ。
「マリア、手紙が来ました。ご両親から」
マリアは手を止めて、手紙を受け取った。
しばらく、動かなかった。
俺は黙って待った。
マリアは手紙を開いて、読み始めた。
表情が、少しずつ変わっていく。
険しくなるわけでも、明るくなるわけでもない。何かを噛みしめているような、静かな顔だ。
読み終えると、マリアは手紙を折り畳んだ。
「……どうでしたか」
マリアは少し間を置いた。
「お父さんが、「立派な料理人になって帰ってこい」と書いていました」
「それは——」
「認めてもらえた、ということだと思います。怒っているかと思っていたので」
マリアの目が、少し赤くなった。
「お母さんは「体に気をつけなさい」だけでした。それも、お母さんらしいと思って」
俺は何も言わなかった。
マリアは一度深呼吸をして、また厨房に向き直った。
「続きをやります」
「急がなくていいですよ」
「大丈夫です。立派な料理人になるために、時間は無駄にできないので」
その背中が、来た時より少し、しっかりしていた。
グレイが帰り際に、俺に話しかけた。
「手紙の中に、もう一枚入っていた」
「別の手紙ですか」
「マリアの父親から、俺宛に。「娘をよろしく頼む」という内容だった」
俺は少し驚いた。
「グレイさんに?」
「手紙を届けたのが俺だったから、俺が保護者だと思ったんだろう」
「それは——どうするんですか」
グレイはしばらく沈黙した。
「……捨てるわけにもいかない」
「そうですね」
「仕方がないので、引き受ける」
グレイはそれだけ言って、扉を出た。
俺は思わず笑いそうになった。
マリアが後ろで「グレイさん、何て言っていましたか」と聞いてきた。
「あなたの後見人になってくれるそうです」
「え? グレイさんが?」
「そうです」
マリアは少し固まってから、「……怖い人なのに」と言った。
「怖くないですよ、たぶん」
「たぶん、ですか」
「少なくとも、卵焼きが好きな人が悪い人なわけはないです」
マリアはくすっと笑った。
数日後、豆の問題が意外な形で解決した。
朝市で、見慣れない露店が出ていた。
遠方からの行商人らしく、見たことのない食材がいくつか並んでいる。
俺は足を止めて、並んでいるものを一つずつ見た。
そして——あった。
小さな、緑がかった豆だ。
鼻を近づけると、独特の青っぽい香りがする。大豆と全く同じではないが、近い。
「これ、何ですか」
行商人の老人が答えた。
「南の地方の豆だよ。「緑実豆」という。珍しいだろ」
「料理に使えますか」
「向こうの地方では煮豆にして食べる。栄養が高い豆だよ。ただ、この辺りでは馴染みがなくてねえ、なかなか売れないんだよ」
俺は全量買った。
老人は目を丸くした。
「全部? 兄ちゃん、何に使うんだい」
「少し試したいことがあります」
「どんな料理にするんだい」
「……時間をかけて、変化させます」
店に戻ると、すぐに仕込みを始めた。
緑実豆を水に浸けて、一晩置く。
翌朝、柔らかくなった豆を茹でる。時間をかけて、完全に柔らかくなるまで。
茹でた豆を潰す。塩を加える。
ここからが勝負だ。
前世の記憶を手繰り寄せながら、俺は慎重に作業を進めた。
麹に相当するものが必要だが、この世界では代わりに何を使うか——
ゼノフさんのスパイス棚を見ると、発酵を促進する効果があると伝承で言われている黄色い粉があった。薬草屋のセラさんに以前教えてもらったものだ。
少量加えて、混ぜる。
器に詰めて、重しを乗せる。
厨房の一番温かい場所に置く。
「……これ、何日かかりますか」
マリアが興味深そうに覗き込んだ。
「最低でも一ヶ月。本当は三ヶ月以上かけたほうがいいです」
「三ヶ月」
「そうです。でも待った分だけ、深い味になります」
「料理に三ヶ月かけるんですね」
「これは、厳密には「仕込み」の段階です。完成した後に、料理が始まります」
マリアはノートを取り出して、書き始めた。
「仕込みに三ヶ月。料理は、もっと長い時間で考える。と、書いておきます」
「いい言葉ですね」
「トウヤさんが言ったことです」
「俺が?」
「さっき言いました」
俺は少し考えた。
「……確かに言いましたね」
発酵の研究を続けていた頃、ヴェルナーから正式な提携の話が来た。
改めて「満腹あひる屋」を訪ねてきたヴェルナーは、以前より少し謙虚な顔をしていた。
「先日の件では、力になれなくて申し訳なかった」
「気にしていません」
「いや、気にしてほしい」
ヴェルナーは真剣な顔で言った。
「あなたたちが自分たちで動いたのに、うちは日和った。反省しています」
「状況が難しかっただけです」
「それでも——だから、今回は本気で提携したいと思っています。対等な形で」
俺はゼノフさんを見た。
ゼノフさんは頷いた。
「具体的には、どういう形を考えていますか」
ヴェルナーは書類を広げた。
「隣街のうちの取引先の食堂に、あなたのレシピを提供していただきたい。対価はお支払いします。それと——あひる組合の仕入れルートを、うちの商会を通して強化できます。価格は市場の五パーセント安く抑えられます」
俺は書類を読んだ。
条件は悪くない。でも——一つ確認したいことがあった。
「ヴェルナーさん、一つ聞いていいですか」
「なんでしょう」
「うちのレシピを提供した場合、そのレシピはどこに帰属しますか」
ヴェルナーは少し考えた。
「……あなたたちに、ということになりますかね」
「明文化できますか」
「できます」
「それと——提供先の食堂が、レシピを改変した場合のルールも決めたいです」
ヴェルナーは目を細めた。
「……細かいですね」
「前の世界で、こういうことで揉めた事例をたくさん見ています。最初に決めておけば、後で問題になりません」
前世でいうライセンス契約の考え方だ。レシピという知的財産をどう扱うか、最初から明確にしておく。
「わかりました。弁護士に相当する人間に入ってもらって、文書を作りましょう」
「ありがとうございます」
ゼノフさんが「たっはっは! トウヤくんは細かいねえ!」と言った。
「大事なことです」と俺は答えた。
提携の話が進む中、もう一つの動きがあった。
シグが来て、珍しく改まった顔をしていた。
「少し話がある」
「なんですか」
「ヘルガさんから頼まれた。ギルドの公式な話として」
シグはカウンターに座って、声を落とした。
「冒険者ギルドとして、「満腹あひる屋」に公式な認定を与えたいと言っている」
「認定、ですか」
「ギルド推薦の食堂、という形だ。ギルドが認めた安全で質の高い店というお墨付きになる。他の街のギルドにも情報が共有される」
俺は少し考えた。
(ギルドのネットワークに乗るということだ)
「デメリットはありますか」
「定期的な検査が入る。食材の安全確認と、料理の品質チェックだ」
「それは構いません。いつでも見せられます」
「あと——他の街から、料理を学びに来る人間が増えるかもしれない」
「それも——」
俺はゼノフさんを見た。
ゼノフさんは「いいんじゃないかい」と言った。
「この店で覚えた料理が、他の場所でも食べられるなら、それは嬉しいことだよ」
俺はシグに向き直った。
「前向きに検討します。ヘルガさんに、改めて話を聞きにいきます」
「そうしてくれ。あと——」
シグは少し笑った。
「ヘルガさんが、「トウヤのどんぶりが食べたい」と言っていたから、持ってきてやってくれ」
「ギルドマスターが自分で来ればいいのでは」
「あの人、意地っ張りだから」
「……わかりました」
その夜。
リンが演奏を終えて、竪琴をしまいながら言った。
「なあ、トウヤ」
「はい」
「最近、外からの話が多くなってきたな」
「そうですね」
「ヴェルナーとの提携、ギルドの認定、アデラさんからの件——この店が、外に繋がっていく」
「変化が多いですか」
「変化が多いのは、いいことだ。俺みたいな旅人から見れば、動いていない場所より動いている場所のほうが面白い」
リンは竪琴のケースを閉めながら言った。
「ただ——」
「はい」
「一つだけ心配なことがある」
「なんですか」
「お前が、疲れないかどうか」
俺は少し驚いた。
「俺が?」
「料理して、組合の取りまとめをして、ギルドの食堂を改善して、提携の交渉をして——全部、お前が中心にいる」
「それは——」
「一人で全部やろうとしていないか」
俺は少し考えた。
(そうかもしれない)
確かに、最近は動くことが多かった。カイルとマリアに任せられることは任せているつもりだが、判断することの多くは俺が持っていた。
「……気をつけます」
「気をつけます、じゃなくて」
リンは少し真剣な顔で言った。
「たまには、ただ飯を食う側に回れ。お前が作った飯を、お前がゆっくり食べる時間を作れ」
それは、思いがけない言葉だった。
「……そうですね」
「わかったか?」
「わかりました」
「じゃあ、明日の朝飯は、マリアに作らせろ。お前は食べるだけにしろ」
「マリアはまだ——」
「一人でやれるよ、もう。信じてやれ」
翌朝。
俺は四時半に起きた。
厨房に下りると、マリアがすでにいた。
「トウヤさん、今日は座っていてください」
「聞いていたんですか」
「リンさんが昨夜言っていました。「明日はマリアが朝飯を作る」と」
「……あの人、大きなお世話を」
「でも、正しいと思います」
マリアは真剣な顔で言った。
「私が一人でやれるかどうか、確かめたいです。見ていてください」
俺は少し迷ってから、カウンターの椅子に座った。
マリアが動き始めた。
海藻を水から出汁を引く。火加減を丁寧に調整しながら。
麺を茹でる。沸騰のタイミングを見計らって。
汁の味を確認する。塩加減を微調整して。
全部、正確だった。
教えた通りの手順で、でも——教えた通りを超えた何かがある。
出汁の香りが、少し違った。
「マリア、海藻の浸け時間を変えましたか」
「はい。昨日、少し長くしてみたら香りが強くなったので、今朝も同じにしました」
「どのくらい長く?」
「十分だけ」
「……それは、いい判断です」
マリアは少し嬉しそうにしながら、麺を器に盛った。
汁を注いで、俺の前に置いた。
「食べてください」
俺は麺をすすった。
出汁の香りが、いつもより少しだけ深い。
マリアの「十分長く」という判断が、味に出ている。
(これは——俺が作る麺と、少し違う)
劣っているわけじゃない。違う、という表現が正しい。
マリアの手が入った麺だ。
「どうですか」
マリアが緊張した顔で見ていた。
「美味しいです」
「本当ですか」
「本当です。いつもの麺と少し違います」
「悪い意味で?」
「いい意味で。あなたの味がします」
マリアは少し黙ってから、「自分の味」と小さく繰り返した。
「料理人はみんな、同じレシピで作っても、少しずつ違う味になります。それが「自分の味」です」
「トウヤさんと同じではないんですね」
「同じにならなくていいです。マリアの味が、この店の味の一つになればいい」
マリアはノートを取り出して、何かを書いた。
また後で見せてもらうと、こう書いてあった。
「自分の味を持つこと。それが料理人になるということ」
その日の朝営業は、マリアが中心になって回した。
俺は横にいたが、ほとんど手を出さなかった。
ラドク隊長が来て、麺を食べた。
「今日は少し違うな」
「マリアが作りました」
ラドク隊長はマリアを見た。
「……旨かった」
それだけだったが、マリアにとっては十分だったらしい。
隊長が帰った後、マリアは「ラドクさんに認めてもらえた」と小さくガッツポーズをした。
昼過ぎ、ゼノフさんが厨房の隅に置いてある発酵中の豆の器を覗いた。
「これ、まだ変わらないね」
「まだ始まったばかりです。一ヶ月後まで待ちましょう」
「一ヶ月後か——」
ゼノフさんは少し遠い目をした。
「一ヶ月後に、どんな味になるんだろうね」
「今は、まだわかりません」
「楽しみだねえ」
「そうですね」
ゼノフさんはにっこりした。
「料理って、いいもんだね。先のことを楽しみにしながら、今日のことをやれる」
俺はかまどの火を確認しながら、その言葉を聞いた。
(先のことを楽しみにしながら、今日のことをやれる)
それは、この店の全てを表しているような言葉だった。
その夜。
発酵中の器を確認してから、俺は二階に上がった。
窓から外を見ると、アヒルの看板が夜風に揺れていた。
一ヶ月後。
豆の発酵が進む頃には、何が変わっているだろう。
ヴェルナーとの提携が形になっているかもしれない。ギルドの認定が下りているかもしれない。カイルの包丁がもっと上手くなっているかもしれない。マリアの麺が、また少し変わっているかもしれない。
わからないことだらけだ。
でも——楽しみだと思っていた。
前世では、先のことを考えると不安になることが多かった。バイトの掛け持ち、将来のこと、漠然とした焦り。
ここでは違う。
先のことを考えると、なぜか温かい気持ちになる。
(この場所が、そうさせてくれるのかもしれない)
アヒルの看板が、ゆっくりと揺れていた。
「満腹あひる屋」の夜は、静かに更けていく。
発酵の器の中では、今夜も見えない何かが、ゆっくりと働き続けていた。
次回もお楽しみに




