第十五話「決着の朝と、新しいメニューの誕生」
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決着は、あっけなかった。
ベルク商会の本部代理人が拘束された翌々日、商会から正式な声明が出た。
この地域での活動を「一時停止」する。被害を受けた店への補償については、別途交渉の場を設ける——という内容だった。
ラドク隊長から報告を受けた時、俺はちょうど朝の仕込みをしていた。
「一時停止、ですか」
「表向きはそうだ。実質的には撤退だ。フォン・ライム家が動いた以上、この地域で商売を続けるのは難しい」
「完全に解決したわけではないですね」
「そうだ。本部は別の地域でまだ動いている可能性がある。ただ——」
ラドク隊長は少し間を置いた。
「この街では、終わりだ」
俺は出汁の鍋をかき混ぜながら、静かに頷いた。
「ありがとうございました、隊長」
「礼はいい。麺をくれ」
「今日は特別に、大盛りにします」
ラドク隊長は「普通でいい」と言ったが、ゼノフさんが「大盛りにしといたよ! はっはっは!」と出してしまった。
隊長は一瞬だけ眉をひそめてから、黙って食べた。
完食した。
ベルク商会の撤退が広まると、街の空気が変わった。
重く沈んでいたものが、すっと軽くなった感じだ。
あひる組合の店主たちが揃って「満腹あひる屋」に来て、エールを飲みながら話し合った。
「とりあえず、一安心だな」とボルクが言った。
「ただ、共同仕入れの仕組みは続けましょう」と俺は言った。「今回みたいなことは、また起きるかもしれません。仕組みがあれば、次は早く動けます」
「そうだな。続けよう」
ヴェルナーからも連絡が来た。
「ベルク商会の圧力がなくなりました。提携の件、改めて話しましょう」
丁寧な文面だったが、少し申し訳なさそうな雰囲気が滲んでいた。
俺はゼノフさんに確認してから、返事を書いた。
「気にしていません。改めてよろしくお願いします」
そんな日々の中、俺には一つ、ずっと気になっていることがあった。
料理のことだ。
ベルク商会の件で慌ただしかった一ヶ月、新しいメニューを考える余裕がなかった。
いや、正確には——考えていたが、形にできていなかった。
頭の中に、ぼんやりとした輪郭がある。
「この店にまだないもの」。
温かいどんぶり、弾力のある麺、カリカリの揚げ物、体に染みる煮込み——これだけ揃っても、何か足りない気がしていた。
(食事の後に来るもの、だ)
前世でいえば、デザートだ。
今のところ、ゼノフさんのアヒルクッキーがあるが、あれはルルちゃんのためのものだ。大人が食事の締めに頼める甘いものが、この店にはない。
でも、ただ甘いものを出すだけではつまらない。
この店らしさのある、デザートを作りたい。
考えながら仕込みをしていると、マリアが横に来た。
「トウヤさん、何か考えていますか」
「デザートを作りたいと思っています」
「デザート?」
「食事の後に食べる、甘いものです」
「クッキーとは違いますか」
「もう少し、食事に寄り添うものがいいんです。食後の口をさっぱりさせて、でも満足感を残すような」
マリアは少し考えた。
「……甘くて、温かいものですか? それとも冷たいものですか」
「今の季節なら——温かいほうがいいですね」
「温かくて、甘くて、食後に食べるもの」
マリアはノートを取り出して、何かを書き始めた。
「前の場所で食べた記憶はありますか」
「たくさんあります。ぜんざい、チャイ、ホットミルク、プリン——」
「全部、知らない名前です」
「そうですね。でも——」
俺は少し考えた。
「共通しているのは、「ほっとする」ということです。体の力が抜けて、今日も悪くなかったな、と思える味」
マリアは書き続けた。
「……ほっとする味、ですか」
「そうです」
「それなら——」
マリアはペンを止めて、少し躊躇してから言った。
「一つ、試してみていいですか」
「どうぞ」
「材料を使っていいですか」
「何を使いますか」
「卵と、蜂蜜と、牛乳に似たものと——あと、ゼノフさんのスパイス棚から、甘い香りのものを少し」
俺は少し驚いた。
「……そこから思いついたんですか」
「グレイさんが毎日食べている卵焼きを見ていたら、なんとなく」
マリアは真剣な顔で作業を始めた。
卵を割って、蜂蜜を加えて、牛乳に似た白い液体——この世界では「白獣乳」と呼ぶ——を少量混ぜる。
スパイス棚から、甘い香りの樹皮粉を少しだけ加えた。
それを小さな器に分けて、湯煎にかける。
じわじわと、熱が伝わっていく。
しばらくして、マリアは火を止めた。器を取り出すと、表面がわずかに固まっていて、中はまだ柔らかそうだ。
「……できました」
「食べてみましょう」
俺は匙で一口食べた。
ふわっとした食感。卵の優しい甘さ。蜂蜜の香り。そして樹皮のスパイスが、仄かに鼻を抜ける。
(……プリンに近い。でも、もっと素朴だ)
「どうですか」
マリアが緊張した顔で見ていた。
「旨いです」
「本当ですか」
「本当です。ただ——」
「まだ何かありますか」
「もう少しだけ、温度があったほうがいいかもしれません。食後に食べるなら、体を冷やさないほうがいい」
「湯煎の時間を長くすればいいですか」
「試してみてください」
二度目の試作は、三分長く湯煎にかけた。
取り出すと、表面がより均一に固まっている。中はまだとろりとしている。
食べると——一度目より、温かさが残っていた。スパイスの香りが、体の中に入ってから広がる感じがする。
「これです」
「合格ですか」
「合格です。マリアさんが作りました、これは」
マリアは少し顔を赤くした。
「トウヤさんのアドバイスがあったので」
「材料の組み合わせを思いついたのはあなたです。グレイさんの卵焼きから発想した。それが全部です」
「……グレイさんに、聞いてみたいです。感想を」
「では今夜、出してみましょう」
夜、グレイがいつもの席に座った。
串焼きを注文して、いつも通りの卵焼きを頼んだ。
卵焼きを出す時に、俺は小さな器も一緒に置いた。
「これは?」
「新しいものです。マリアが作りました。よかったら食べてみてください」
グレイは器を見た。
しばらく、じっと見た。
「……卵焼きとは違うな」
「似ていますが、別の料理です」
グレイは匙を取って、一口食べた。
静寂。
二口目。
「……」
「どうですか」
グレイはしばらく黙っていた。
それから、フードの奥から厨房を覗いた。
マリアが緊張した顔で立っていた。
「……お前が作ったのか」
「はい」
「何日目だ」
「三週間目です」
グレイはもう一口食べた。
「……悪くない」
マリアの顔が、ぱっと明るくなった。
グレイは視線を器に戻して、独り言のように言った。
「卵焼きとは違うが——こっちはこっちで、何かある」
「何かとは?」
「……うまく言えない。ただ、食べると——少し、遠い場所を思い出す感じがする」
マリアは少し驚いた顔をしてから、ノートを取り出して何かを書いた。
後で見せてもらうと、こう書いてあった。
「料理を食べる人の顔を見る。グレイさんは遠い場所を思い出す顔をした」
翌日から、「とろふわ卵の蜂蜜がけ」——マリアが考えた仮の名前だ——を夜のメニューに加えた。
最初に注文したのは、カイルだった。
「うわ、なんですかこれ。デザートですか?」
「食べてみてください」
カイルは一口食べて、「……なんか、優しい味がする」と言った。
「優しい?」
「なんか、怒れなくなる味。疲れてる時に食べたい」
エレナさんは読書の手を止めて、静かに頼んだ。
「……私も、一つ」
食べながら、エレナさんは珍しく目を閉じた。
しばらくして、そっと開いた。
「……これは、ゼノフさんが作ったんですか」
「マリアが作りました」
エレナさんはカウンターの向こうのマリアを見た。
「……美味しいです」
マリアは「ありがとうございます」と頭を下げた。その耳が、少し赤かった。
三日後、ゴルドが食べた。
どんぶりとエールの後に、「そのデザートとやらを出してみろ」と言った。
出すと、ゴルドは一口食べた。
無言。
もう一口。
「……甘い」
「はい」
「甘いものは、普段食わない」
「そうですか」
「でも——これは」
ゴルドは少し間を置いた。
「止まらない」
俺は思わず笑いそうになった。
「それはよかったです」
「なぜ甘いのに止まらないんだ」
「スパイスが入っているからだと思います。甘さだけだと飽きますが、香りが加わると続けて食べられます」
「そういうものか」
「そういうものです」
ゴルドは完食してから、ぼそりと言った。
「もう一つ」
「追加ですか」
「……可愛い名前にするな」
「マリアが考えた名前です」
「そうか」
ゴルドは少し黙ってから、「マリア」と呼んだ。
マリアが顔を出した。
「旨かった」
それだけだった。
でもマリアは、それだけで十分だったらしく、「はい」と一言だけ答えて、また厨房に引っ込んだ。
引っ込んだ後に、こっそり小さくガッツポーズをしていた。
俺には見えていたが、言わないでおいた。
デザートが加わったことで、夜の営業の流れが変わった。
以前は食事が終わると客が早めに帰っていたが、デザートを食べながら話が続くようになった。
閉店時間が自然と少し遅くなった。
「賑やかになったね」とゼノフさんが嬉しそうに言った。
「長居してもらえるようになりました」
「それはいいことかい」
「回転率は下がりますが——」
俺は少し考えた。
「この店は、回転率を上げることが目的じゃないので。いいと思います」
「そうだね、はっはっは!」
ある夜、リンが演奏の合間に俺に声をかけた。
「なあ、トウヤ」
「はい」
「最近、この店が変わったな」
「また変わりましたか」
「前回言った時と、また違う意味で」
リンは竪琴の弦を軽く弾きながら言った。
「前は、料理で人が来るようになった。今は——料理だけじゃない気がする」
「どういうことですか」
「カイルが厨房に立つようになって、マリアが新しいメニューを作って、エレナさんがデザートを食べながら本を読んで——なんか、それぞれの人が、この店の中に居場所を持った感じがする」
俺はリンの言葉を聞きながら、店内を見渡した。
ゴルドがエールを飲みながら、久しぶりに来た冒険者と話している。ハンスとヨハンが「今日は疲れた」と言いながらどんぶりを食べている。エレナさんが本を開きながら、デザートを少しずつ食べている。カウンターの端でグレイが串焼きを食べている。カイルが配膳しながら、ゴルドの武勇伝に「すごい!」と相槌を打っている。マリアが厨房でノートを書いている。
「……そうかもしれませんね」
「前の世界で、こういう場所があったか?」
「ありました。よく通っていた定食屋が、少しこんな感じでした」
「お前が作りたかったのは、そういう場所か」
俺は少し考えた。
「意識していませんでした。でも——そうなのかもしれません」
リンは小さく笑って、竪琴を弾き始めた。
今日の曲は、穏やかだった。
波のような、ゆったりとしたリズム。
店内の会話と、食器の音と、竪琴の音が混ざり合って、一つの温かい空気になっていく。
閉店後、全員が帰ってから。
俺、ゼノフさん、カイル、マリアの四人で後片付けをした。
洗い物をしながら、カイルが「最近、楽しいですね」とぼそっと言った。
「楽しい?」
「なんか、毎日来るのが普通だったのに、今は毎日来るのが楽しみになった。微妙に違う感じがします」
「どう違いますか」
「惰性じゃなくなった、みたいな」
マリアが「私は来て三週間ですが」と言った。
「どうですか」と俺が聞いた。
「毎日、覚えることがあります。昨日より今日、今日より明日のほうが、少しだけ料理がわかる気がする。それが——嬉しいです」
ゼノフさんが「たっはっは! 若いのはいいねえ!」と笑った。
「ゼノフさんは嬉しくないですか」とカイルが聞いた。
「嬉しいよ」とゼノフさんは即答した。「ただ、俺の嬉しさは少し違う」
「どう違うんですか」
ゼノフさんは鍋を拭きながら、静かに言った。
「料理が旨くなったことも嬉しい。客が増えたことも嬉しい。でも——一番嬉しいのは、この厨房に人が増えたことだよ」
「人が増えたこと?」
「一人でやっていた頃は、閉店後の厨房が静かだった。女房が逝ってからは、特に」
ゼノフさんはそこで少し笑った。
「今は、こんなに賑やかだ。それが——一番嬉しい」
厨房が、しばらく静かになった。
カイルが「ゼノフさん、なんかいいこと言うな」とぼそりと言った。
「当たり前だよ、はっはっは!」
片付けが終わって、カイルとマリアが二階に上がった後。
ゼノフさんと二人で、湯飲みを持って座った。
いつもの夜の時間だ。
「トウヤくん」
「はい」
「今日のデザート、本当に旨かったよ」
「マリアの発想です」
「でも、トウヤくんが「食後の締めが欲しい」と考えていたからだ。お前がいなければ、マリアちゃんも考えなかった」
「そうかもしれませんが」
「料理というのはね」
ゼノフさんは湯飲みを両手で包んだ。
「一人で全部作ることより、みんなで作ることのほうが、遠くまで行けると思う。俺が二十八年一人でやってきて、今になってわかったことだ」
「……遅いですか」
「遅くないよ。今わかったんだから」
ゼノフさんはにっこりした。
「女房が喜んでいると思うよ。にぎやかな厨房が、あの人の夢だったから」
俺は湯飲みを一口飲んだ。
少し、胸が温かくなった。
翌朝、いつもより少しだけ遅く起きた。
四時ではなく、四時半だ。
階段を下りると、マリアがすでに厨房にいた。
出汁の仕込みを始めていた。
海藻を水に浸けて、火を弱く入れている。正確な手順で。
「早いですね」
「負けました。また」
「いつか勝てます」
「絶対勝ちます」
俺はかまどの前に立って、今日の段取りを頭に描いた。
朝の麺。昼のどんぶりと揚げ物と煮込み。夜のデザート。
全部が繋がっている。一日の流れが、一本の線になっている。
(これが、この店の「一日」だ)
前世の自分が見たら、きっと驚くだろう。
異世界の小さな食堂で、見ず知らずの人たちと、毎日料理を作っている。
でも——今の自分には、これ以外の場所が思い浮かばない。
「トウヤさん」
「はい」
「次は、どんな料理を考えているんですか」
マリアが鍋をかき混ぜながら聞いた。
俺は少し考えた。
頭の中に、いくつかの輪郭が浮かんでいる。
まだ形になっていないもの。この世界の食材で、まだ試していない組み合わせ。
「少し前から、気になっているものがあります」
「なんですか」
「発酵です」
「発酵?」
「時間をかけて、食材を変化させる技術です。チーズとか、お酢とか——この世界にも似たものがあるかもしれない」
マリアは目を輝かせた。
「時間をかけて変化させる、ですか。料理なのに、すぐには完成しない」
「そうです。待つことが、工程の一つになる」
「……面白いです」
「一緒に試しますか」
「はい!」
出汁の香りが厨房に広がり始めた。
外はまだ暗い。
でも、かまどの火が灯っていて、鍋の中でゆっくりと旨味が溶け出していて——この厨房は、もう一日が始まっている。
アヒルの看板が、夜明け前の空の下で静かに揺れていた。
「満腹あひる屋」の朝は、今日も変わらず始まる。
でも昨日とは、少しだけ違う朝だ。
それが——この店の、毎日だ。
次回もお楽しみに




