第十四話「ベルク商会の最後の手と、意外な助っ人」
引き継ぎお楽しみください
穏やかな日々が続いていた。
カイルは日に日に包丁さばきが上達して、マリアは出汁の引き方を三日で覚えた。リンの演奏は夜の常連たちの間でなくてはならないものになり、グレイは相変わらず卵焼きを食べに来ていた。
ギルド食堂の改善も順調で、ヘルガさんから「冒険者の不満が九割消えた」と報告があった。バルトは最初こそ構えていたが、今では改善提案を自分から持ってくるようになっていた。
あひる組合も安定している。エレナさんの帳簿管理は完璧で、毎週の定例会は今や「情報交換と食事会」を兼ねた場になっていた。
ベルク商会は表向き静かになっていた。
静かすぎた。
異変に最初に気づいたのは、グレイだった。
ある夜、閉店間際にカウンターに残ったグレイが、珍しく俺を呼んだ。
「少し話がある」
「はい」
グレイはフードを少し上げて、声を落とした。
「ベルク商会が、動いている」
「どういう動きですか」
「三つある」
グレイは指を立てた。
「一つ目。街の外から、腕の立つ料理人を数人雇い入れた。場所は、この通りの突き当たりの空き物件だ」
俺は少し考えた。
(競合店を出す気か)
「二つ目」
「隣街のヴェルナー商会に、うちとの提携を断るよう圧力をかけている。先日、ヴェルナーさんから「少し待ってほしい」という連絡が来ました」
「知っている。ヴェルナーへの圧力は、昨日から始まっている」
「三つ目は——」
グレイは少し間を置いた。
「一番厄介だ」
「なんですか」
「街で噂が広まり始めている。「満腹あひる屋の料理に、変な薬草が入っている」という話だ」
俺は動きを止めた。
「……それは」
「シグが言っていた、評判崩しだ。予告通り来た」
「どの程度広まっていますか」
「今のところ、冒険者の一部と、市場の露店商の間だ。まだ広くはない。でも——」
「時間が経てば広がる」
「そうだ」
俺は頭の中を整理した。
三つの手が同時に動いている。
競合店の出店。取引先への圧力。風評被害。
前世でいえば、競合他社による「三面攻撃」だ。一つずつなら対処できる。でも同時に来られると、対応に追われて本来の仕事が疎かになる——それが狙いだ。
(焦らせて、判断力を鈍らせる。古典的だが効果的な手だ)
「グレイさん、情報をありがとうございます。少し考えます」
「一つ言っておく」
「はい」
「焦るな。あの商会は、お前たちが慌てることを期待している」
「わかっています」
「本当にわかっているか」
グレイは俺をまっすぐ見た。
「転移者は、時にこの世界のスピードと自分の判断のズレに気づかず、先を急ぎすぎる。シグがそうだった。最初の頃、何度か大きな失敗をした」
「シグさんが?」
「今は落ち着いたが、来たばかりの頃は「自分には前の世界の知識がある」と過信して動きすぎた。それで痛い目を見た」
俺は黙って聞いた。
「お前はまだ、この街に来て一ヶ月少しだ。知らないことのほうが、知っていることより多い。それを忘れるな」
「……肝に銘じます」
グレイはフードを戻して、席を立った。
「明日、もう少し詳しい情報を持ってくる」
翌朝、ゼノフさんに全部話した。
ゼノフさんは黙って聞いた。
「……三つ同時か」
「はい。どこから手をつけるか、考えています」
「トウヤくんは、どう思う」
「一番厄介なのは風評被害です。競合店は料理で勝負すればいい。取引先への圧力はヴェルナーさんを信じるしかない。でも——噂は、対処が難しい」
「なぜ」
「噂は否定するほど広まるからです。「変な薬草が入っている」という話に対して、「入っていない」と言えば言うほど、逆に疑いを深める人間が出てくる」
前世でいうところの「否定の逆効果」だ。風評被害に対して正面から反論するのは、多くの場合逆効果になる。
「じゃあ、どうすればいいんだい」
「否定するんじゃなく——見せます」
「見せる?」
「料理を作るところを、公開します」
俺の提案はこうだった。
一日だけ、厨房を開放する。
見たい人は誰でも厨房に入れる。何を使って、どうやって作っているか、全部見せる。
「そんなことができるのかい」
「できます。隠すものが何もないので」
前世で、食の安全問題が起きた時に有効だった対処法の一つだ。「透明性を見せる」こと——工場見学、厨房公開、産地直送。疑いを晴らすには、隠さないことが一番早い。
「ただ——」俺は続けた。「ゼノフさんにお願いがあります」
「なんだい」
「当日、ゼノフさんに前に立ってほしいんです。俺ではなく」
ゼノフさんは目を丸くした。
「俺が?」
「この店を二十八年守ってきた人間の言葉は、俺の言葉より重い。ゼノフさんが「何も隠していない」と言えば、みんなが信じます」
ゼノフさんはしばらく考えた。
「……わかった。任せな」
告知はリンに頼んだ。
「演奏しながら、街中に伝えてくれますか」
「口コミ担当か。まあいいよ」
リンは翌日から街を回り、演奏しながら声をかけていった。
「満腹あひる屋が厨房を開放するらしい。誰でも見られるって」
反応は思ったより大きかった。
噂を聞いた人間の一部は「やましいことがないなら見せられるはずだ」と言って、逆に興味を持ったらしかった。
厨房公開の日は、三日後に設定した。
準備の間、カイルとマリアには普段通りの仕込みを続けてもらいながら、俺は当日の段取りを組んだ。
厨房公開の当日、午前中だけ営業を止めて、見学を受け入れる。使っている食材を全部テーブルに並べて、仕入れ先の名前も出す。実際に料理を作るところを見せる。質問があれば答える。
シンプルだが、それだけでいい。
当日の朝。
開店前から、店の前に人が集まっていた。
常連たちはもちろん、見慣れない顔も多い。噂を聞いた近所の住民、市場の露店商、冒険者、衛兵。それから——明らかにベルク商会が送り込んだと思われる、難しい顔をした男が数人。
ゼノフさんは扉を開ける前に、俺に言った。
「トウヤくん、今日は俺の店だということを、ちゃんと見せるよ」
「はい」
「二十八年、ここで飯を作ってきた。後ろめたいことなど、何一つない」
「知っています」
「じゃあ、始めようか! はっはっは!」
扉が開くと、人々が流れ込んできた。
ゼノフさんはカウンターの前に立って、全員を迎えた。
「いらっしゃい! 今日は厨房を全部見せます! 何でも聞いてください!」
テーブルには今日使う食材が全部並んでいた。
牙猪の肉——仕入れ先はグレイが手配した東門の猟師。札に名前を書いて立てた。野菜——西の農村の農家三軒。乾燥海藻と干し魚——グレイの取引先。全て、産地と仕入れ先を明記した。
「これが、今日使う食材の全部です。薬草は——」
ゼノフさんは棚のスパイス瓶を一本ずつ手に取った。
「こちらの香辛料です。料理に風味をつけるためのもので、全て食用のものです。順番に説明します」
ゼノフさんは一本ずつ、名前と用途を説明した。
俺が横で実際に少量を見せながら、匂いを嗅いでもらう。
難しい顔をしていた男たちが、少しずつ表情を変えていく。
次に、実際の調理を見せた。
カイルがどんぶりの仕込みを担当し、マリアが出汁を引き、俺が煮込みを作る。
全員に見える位置でやる。隠さない。
「このタレは、牙猪の脂と玉ねぎと地酒と甘醤で作っています。量は——」
俺は実際に計りながら、一つ一つ説明した。
「出汁は、この海藻を水から——」
マリアが丁寧に手順を説明しながら進めた。初めてにしては、落ち着いていた。
見ている人々の表情が、どんどん柔らかくなっていく。
途中、市場の露店商のおばさんが「あんた、本当にこれだけしか使ってないのかい」と確認した。
「はい、これだけです」
「……そうかい。じゃあ噂は嘘だったってことだね」
「俺たちはそう思っています」
「あたしも、そう思うことにするよ」
それが聞こえたのか、周囲でぼそぼそと会話が広がっていった。
終わり際、ベルク商会が送り込んだと思われる男の一人が、難しい顔のまま近づいてきた。
「一ついいか」
「どうぞ」
「この煮込みの、香辛料の組み合わせは誰が考えた」
「俺です」
「どこで覚えた」
「遠いところです」
男はしばらく俺を見た。
それから、意外なことを言った。
「……旨そうだな」
「食べますか」
男は少し迷って——頷いた。
俺は黄色い煮込みを小皿に盛って出した。
男は一口食べた。
無言。
もう一口。
「……なんだこれ」
「スパイスの煮込みです」
「なんで止まらないんだ」
「それが、この料理です」
男はしばらく煮込みを食べ続けて、それから俺を見た。
「……商会の者だと、気づいているか」
「気づいています」
「それでも食わせるのか」
「腹が減っている人間に飯を出さない理由はないです」
男は少し押し黙った。
それから立ち上がり、代金をカウンターに置いた。
「……ご馳走様」
それだけ言って、出ていった。
厨房公開は昼前に終わった。
帰り際、ラドク隊長が俺の横に立った。
「うまいやり方だ」
「ありがとうございます」
「直接反論するより、見せたほうが早い——そう判断したか」
「はい」
「この街の商売人は、目で見たものを信じる。言葉より行動だ。お前はそれをわかっている」
ラドク隊長は珍しく、ゆっくりと続けた。
「ベルク商会の件、今日中に動く。証拠は十分に揃った。商業妨害と不正競争の両方で、本部にも話を通す」
「お力添え、ありがとうございます」
「礼はいい。麺をくれ」
「今日は昼営業を止めていますが——」
「特別に、一杯だけ」
「わかりました」
午後の営業が始まった頃。
意外な人物が店に現れた。
アデラだった。
フォン・ライム家の女性が、また来た。
今日は護衛の数が少ない。身軽な旅装束で、どこか急いで来た様子がある。
「今日は個人的な訪問ではありません」
カウンターに座りながら、アデラは静かに言った。
「フォン・ライム家として、少し話があります」
「どうぞ」
「ベルク商会の件、耳に入っています。実は——」
アデラは少し間を置いた。
「うちの領地でも、同じことが起きていました。一年前から、食料の流通を少しずつ抑えられていた。最近になって、全体像がわかってきた」
「それは」
「ベルク商会の動きは、この街だけではない。北から東にかけて、十数の街で同じことをしている。最終的には、この地域の食料流通を丸ごと支配するつもりだと思われる」
俺は少し驚いた。
(想定より、規模が大きかった)
「フォン・ライム家として、何か動けますか」
「動けます。正確には——もう動いています」
アデラは一枚の書類を取り出した。
「この地域の貴族家と、有力商会、いくつかに声をかけました。ベルク商会の動きを止めるために、共同で対応することに合意してもらっています」
俺はその書類を見た。
名前が七つ並んでいる。貴族家、商会、それからギルド——ヘルガさんの名前もあった。
「ヘルガさんも?」
「ギルドネットワークは広い。情報が早く集まります。ヘルガさんには先月から相談していました」
俺は少し笑った。
「みんな、動いていたんですね」
「あなたたちが声を上げたから、動きやすくなりました」
アデラは俺を見た。
「満腹あひる屋の話が広まったおかげで、各地の小さな店主たちが「自分たちも声を上げていい」と思い始めています。一つの小さな食堂が変われば、その周りが変わる」
俺はその言葉を、静かに聞いた。
「……俺たちは、ただ飯を作っていただけです」
「それが一番難しいことです」
アデラは静かに微笑んだ。
「ところで」
「はい」
「煮込みをいただけますか。前回食べてから、ずっと気になっていて」
「カツを乗せますか」
「乗せてください」
「かしこまりました」
夕方になった頃、シグが来た。
「商会の件、聞いたか」
「アデラさんから」
「動きが大きくなってきた。ラドクさんも今日中に動くと言っていた」
「聞きました」
「お前は焦っていないな」
「焦っていても、今日の飯を旨く作ることだけが俺にできることなので」
シグは少し笑った。
「それが強みだよ、お前の」
「そうですか」
「うん。前の世界の知識を持ちながら、この世界のスピードで動いている。俺が来た時と、全然違う」
「グレイさんに言われました。先を急ぎすぎるなと」
「あいつ、俺にも同じことを言ったよ」
シグはどんぶりを受け取りながら言った。
「あのおっさん、口は悪いけど、ちゃんと見ている」
「そうですね」
夜が深まった頃、予想外の展開が起きた。
ラドク隊長から使いが来た。
「今夜、ベルク商会の本部代理人を拘束しました。証拠が揃い次第、正式な処分を下します」
それだけ書いた短い手紙だった。
俺はゼノフさんに見せた。
ゼノフさんは手紙を読んで、それから窓の外を見た。
しばらく沈黙があった。
「……終わりそうだね」
「まだわかりませんが、一つの区切りにはなると思います」
「そうか」
ゼノフさんは手紙をテーブルに置いて、俺を見た。
「トウヤくん、一つ聞いていいかい」
「はい」
「ベルク商会が動き始めてから今日まで——怖いと思ったことは、あるか」
俺は正直に答えた。
「ありました。この店が潰されるかもしれないと思った時は、胸が締め付けられました」
「そうか」
「でも——不思議と、絶望はしませんでした」
「なぜだと思う」
俺は少し考えた。
「周りに、いい人がたくさんいたからだと思います。ゴルドさんが「俺にできることがあれば言え」と言ってくれた。グレイさんが情報を持ってきてくれた。ラドクさんが動いてくれた。アデラさんが大きな絵を描いてくれた」
「みんな、この店のためだけに動いたわけじゃないよ」
「わかっています。でも——この店が一つの起点になったことは、確かだと思います」
ゼノフさんは丸眼鏡を押し上げた。
「起点、か」
「小さな食堂が、起点になれた。それは——ゼノフさんが二十八年間、この場所を守ってきたからだと思います」
ゼノフさんはしばらく黙っていた。
それから、静かに笑った。
「……女房に、聞かせてやりたいね」
「きっと聞こえていますよ」
「そうかもしれないね。はっはっは」
その夜遅く。
カイルとマリアが後片付けを終えて二階に上がった後、俺は一人で厨房に残った。
かまどの火が消えた後の、静かな厨房。
鍋の底に少し残った出汁の匂い。スパイスの残り香。
俺はかまどの前に立って、少し目を閉じた。
前の世界の記憶が、薄く浮かんでは消えていく。
深夜まで働いた定食屋の厨房。うどん屋の仕込みの早朝。全国を回った一人旅。
全部、今の自分に繋がっている。
あの記憶がなければ、今日の料理はなかった。今日の料理がなければ、今日の出来事はなかった。
(全部、繋がっている)
俺はゆっくりと目を開けた。
アヒルの看板が、夜風に揺れていた。
静かな夜だった。
でも、その静けさの中に——確かな温かさがあった。
次回もお楽しみに




