第十三話「ギルド食堂の改革と、新しい仲間」
引き継ぎお楽しみください
ギルド食堂を初めて見たのは、翌朝の朝営業が終わった後だった。
ヘルガさんに案内してもらいながら、厨房に入った瞬間——俺は無言で立ち尽くした。
広さは満腹あひる屋の三倍以上ある。設備も悪くない。かまどは四口、鍋も十分な数が揃っている。食材の貯蔵庫も広い。
でも。
(問題は設備じゃない)
一目でわかった。
動線が悪い。かまどと調理台の位置関係が非効率で、一人が動くたびに別の一人の邪魔になる。食材の保管場所も、使う順番と逆に配置されている。仕込みの痕跡を見ると、当日の朝に全部やっているらしく、昼のピーク時間に間に合っていない。
前世でいえば、「レイアウトが設計されていない厨房」だ。よくある話だった。善意で作った厨房が、効率を無視した配置になっている。
「率直に言っていいですか」
「言え」ヘルガさんが言った。
「問題はレシピより先に、厨房の仕組みです」
スタッフは四人だった。
料理長のバルトは五十代の男で、腕は悪くないが「昔ながらのやり方」に固執している。副料理長のヒルデは三十代の女性で、バルトの言うことを黙って聞いている。あとの二人は若い男で、主に皿洗いと配膳を担当している。
俺はバルトに丁寧に頭を下げた。
「初めまして、トウヤと言います。満腹あひる屋で料理をしています。少しお話を聞かせてもらえますか」
バルトは明らかに構えていた。
「外から来た人間に、何がわかる」
「今日初めて来たので、当然わかりません。だから聞かせてください」
バルトは少し拍子抜けした顔をした。
「……何が聞きたい」
「一番困っていることを教えてください」
バルトはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「昼のピーク時間に、料理が間に合わない」
「それは仕込み不足ですか、それとも人手不足ですか」
「両方だ」
「仕込みが間に合わない理由は?」
「朝の段取りが悪い。何をどの順番でやるか、決まっていないから——」
バルトは途中で言葉を止めた。
自分で言いながら、気づいたような顔をしていた。
「段取りを決めれば、変わりますか」
「……変わるかもしれない」
「一緒に考えていいですか」
俺はバルトと並んで、紙に書き出した。
朝の開店から昼のピークまで、何をどの順番でやるか。前世でいうオペレーション設計だ。
牛丼チェーンで最初に教わったこと——「仕込みの順番を決めることが、全ての基本だ」という言葉が、ここでも生きている。
まず、火の通りに時間がかかるものから始める。煮込み系は朝一番に仕掛けておく。次に、切り作業。野菜、肉の順番で。最後に、提供直前に仕上げるものを準備する。
「こういう順番でやってみてください。最初の一週間は、この通りに。慣れてきたら、自分たちでアレンジしてください」
バルトは紙を見ながら、黙って頷いた。
「次に、レイアウトです」
俺は厨房を指差した。
「かまどと調理台の位置を、少し変えたいです。今の配置だと、二人が同時に動いた時に必ずぶつかります」
「それは——」バルトは言いかけて、止まった。「……確かに、ぶつかる」
「ヒルデさん、今の厨房で一番動きにくいと感じる場所はどこですか」
ヒルデは少し驚いたように俺を見た。
「……あちらの調理台とかまどの間です。狭くて」
「そうですね。ここを少し広げれば、二人が同時に動けます。かまどを一口分、右にずらすだけで変わります」
「でも、重くて動かせないだろう」
「ゴルドさんに頼みます」
二日後。
ゴルドは「なぜ俺が」と言いながら、かまどをあっさり動かした。
ヒルデが「すごい……」と呟いた。
「重戦士というのは、こういう時に役立つのですか」とヒルデが言った。
「本来は戦場で使う力だ」とゴルドが言った。
「でも、厨房でも使えますね」
「……余計なことを言うな」
ゴルドは赤くなったわけではないが、なぜか少し早足で帰っていった。
レシピの改善は、段階的に進めた。
最初は「提供スピードを上げること」だけに集中した。味の改善は後でいい。まず出せるようにする。
バルトには「今の料理を、三割早く出せるようにすること」だけをお願いした。それ以上のことは求めなかった。
前世で学んだことがある——変化を求める時、最初から全部変えようとすると、現場が崩れる。小さな成功体験を積み重ねることで、人は変化に慣れていく。
一週間後、ギルド食堂の昼ピーク時間の提供スピードが、目に見えて改善した。
冒険者からの不満が、半分以下になった。
それと並行して、俺は人手の問題を考え続けていた。
満腹あひる屋の人手不足は、日々深刻になっていた。
朝営業、昼営業、夜営業——三つを回すには、俺とゼノフさんの二人では限界が近い。リンが手伝ってくれることもあるが、本業は演奏家だ。毎日厨房に立ってもらうわけにはいかない。
(採用が必要だ)
問題は「誰を」だ。
料理の技術は教えられる。でも、この店の空気に合う人間かどうかは、技術とは別の話だ。
ゼノフさんに相談すると、「心当たりが一人いる」と言った。
「誰ですか」
「カイルくんだよ」
俺は少し驚いた。
「カイルさんを、ですか」
「あの子、毎日来るだろう。来るたびに厨房を覗いている。料理に興味があるのは、見ていればわかる」
言われてみれば、確かにそうだった。カイルは料理が運ばれてくる時、皿ではなく厨房の俺の手元を見ていることが多かった。
「本人に聞いてみますか」
「そうしようか」
その日の夕方、カイルに声をかけた。
「カイルさん、少し話があります」
「え、なんですか。俺、何かしましたか」
「していません。提案があって」
俺はカウンターに並んで座って、直接聞いた。
「うちで働きませんか」
カイルは目を丸くした。
「え……俺が、ここで?」
「朝と昼の仕込みと、ホール担当から始めてもらえれば。料理は教えます」
「でも俺、冒険者で——」
「続けながらでいいです。依頼がある日は、そちらを優先してください。空いている日だけで構いません」
カイルはしばらく黙っていた。
珍しく、真剣な顔をしていた。
「……俺でいいんですか」
「あなたがいいんです」
「なんで」
「この店が好きだから来ている人間に、働いてほしいからです」
カイルはまた黙った。
それから、ふっと笑った。
「……やります」
「ありがとうございます」
「でも一個だけ条件があります」
「なんですか」
「まかないを食べさせてください」
「それは最初から含まれています」
「やった!!」
カイルが入ってから、朝の仕込みが明らかに楽になった。
覚えは早い。不器用だが、何度も繰り返すことで形にしていく。失敗しても落ち込まず、すぐまた試す。
前世でいい後輩がいた時の感覚に、少し似ていた。
「トウヤさん、この肉の切り方って、どうやったらもっと均一になりますか」
「包丁を引く時に、力を抜いてください。押し切ろうとすると厚みがバラつきます」
「こうですか」
「そうです。もう一枚やってみてください」
「……あ、さっきより均一になった!」
「コツを掴みましたね」
カイルは嬉しそうに笑った。
ゼノフさんが厨房から「カイルくん、飲み込みが早いね!」と声をかけた。
「褒めすぎると調子に乗ります」と俺が言った。
「もう乗ってます!」とカイルが言った。
そんな日々が続いた頃、二人目の「新しい仲間」は、予想外のところから来た。
ある朝の営業中のことだった。
麺を出し終えて一息ついた頃、扉が開いた。
入ってきたのは、十代半ばくらいの少女だった。
黒い髪を一つに結んで、旅装束を着ている。荷物は小さなリュック一つ。顔は疲れていて、でも目だけが異様にしっかりしていた。
少女はカウンターに近づいて、静かに言った。
「すみません、仕事をさせてもらえませんか」
俺とゼノフさんが同時に振り返った。
「仕事?」ゼノフさんが聞いた。
「料理の仕事がしたいです。給料はいりません。食事と寝る場所をいただければ」
俺は少し間を置いて、聞いた。
「名前は?」
「マリアと言います」
「どこから来ましたか」
少女——マリアは少し躊躇してから、答えた。
「北の街から来ました。歩いて、四日かかりました」
「四日」
「はい」
四日分の疲れが、確かに顔に出ていた。
「なぜここに?」
「この街に、美味しい食堂があると聞いて。料理を覚えたくて」
「料理を覚えて、どうしたいですか」
マリアは迷わず答えた。
「いつか、自分の店を持ちたいです」
俺はゼノフさんを見た。
ゼノフさんは丸眼鏡の奥の目を細めて、にこにこしていた。
「まず、何か食べなさい。話はそれから」
マリアに麺を出した。
食べている間、俺は彼女を観察した。
疲れているはずなのに、一口食べた瞬間に目が輝いた。汁の味を確かめるように、ゆっくりと、真剣に食べている。
(この子は、本当に料理が好きだ)
前世の師匠が言っていた言葉がある。「料理が好きな人間は、食べ方でわかる。ただ腹を満たすために食べる人間と、味を理解しようとして食べる人間は、全然違う」
マリアは後者だ。
「美味しいです」
食べ終えてから、マリアは静かに言った。
「出汁の引き方が、今まで食べたことのある麺と違う。もっと深い。使っている素材も、たぶん海のもの——でも、どうやって引いたのかが、わからない」
俺は少し驚いた。
「一口で、それがわかりましたか」
「わかりません。でも、知りたいと思いました」
ゼノフさんが「たっはっは!」と笑った。
「この子、いいね!」
マリアの事情を、少しずつ聞いた。
北の街の小さな食堂で、子供の頃から手伝いをしていた。両親は健在だが、「女の子に料理人は向かない」と言って、厨房に立つことを禁じられた。
「それで、家を出たんですか」
「はい。内緒で」
俺は少し考えた。
(家出少女を雇う判断は、慎重にしないといけない)
でも同時に、この子の目を見ていると——放っておけない気持ちもある。
「ゼノフさん」
「うん」
「どうしますか」
ゼノフさんはマリアを見た。
「マリアちゃん、一つだけ聞かせてね」
「はい」
「お父さんとお母さんに、手紙は書けるかい」
マリアは少し考えてから、頷いた。
「書きます。心配していると思うので」
「それができるなら——」
ゼノフさんは笑った。
「うちで働きな。一緒に料理を覚えよう」
マリアは一瞬、目を赤くした。
「……ありがとうございます」
「礼はいいよ。まず今日は休みな。体を休めてから、明日からにしよう」
マリアの両親への手紙は、その日のうちに書いてもらった。
ゼノフさんも一筆添えた。「責任を持って預かります。必ず料理を覚えさせます」という内容を、丁寧な言葉で。
グレイに頼んで、信頼できる経路で北の街に届けてもらうことにした。
「またか」とグレイは言ったが、受け取ってくれた。
「ありがとうございます」
「……返事が来たら、また届ける」
「助かります」
グレイは少し間を置いてから、ぼそりと言った。
「あの娘の目は、本物だ」
「そう思います」
「料理人の目をしている」
翌朝から、マリアは働き始めた。
最初に任せたのは、野菜の下処理だ。
包丁の握り方から教えた。
「まず、猫の手。指先を曲げて、包丁の側面に当てる」
「こうですか」
「そうです。絶対に指を立てないこと」
「はい」
「切れますか」
マリアは一本切ってみた。
厚みがバラついている。でも手元は震えていない。
「緊張していますか」
「少し」
「包丁は怖がる必要はないですが、敬意は払ってください。料理人の一番の道具なので」
マリアは「はい」と頷いて、もう一本切った。
さっきより、均一になっていた。
(飲み込みが早い)
「マリアさん、前に料理をしたことは?」
「家で、内緒で練習していました。包丁は使ったことがあります」
「どのくらい?」
「毎日、少しずつ。三年間」
俺は思わず笑った。
「それは十分な経験ですよ」
「でも、正式に教わったことはないので」
「正式に教わるより、毎日続けたほうが身につきます」
マリアは少し嬉しそうな顔をして、また包丁に向かった。
カイルとマリアが揃った厨房は、以前より格段に動きやすくなった。
カイルが仕込みと配膳を担当し、マリアが下処理と洗い物を担当する。俺が調理の中心を担い、ゼノフさんが全体を見ながら料理を盛る。
役割が明確になると、厨房の動きが変わる。これも前世で学んだことだ。「誰が何をするか」が決まっていない厨房は、必ずどこかで詰まる。
「トウヤさん、今日のタレの量、昨日より少し多くないですか」
マリアが素早く気づいた。
「よく気づきましたね。今日は少し味を濃くしてみています。寒い日は少し濃い目の味が合うので」
「寒い日に濃い目、覚えます」
「料理は季節で変わります。少しずつ覚えていきましょう」
マリアは小さなノートを取り出して、書き留めた。
(ノートを持っている)
前世でも、伸びる料理人は必ずメモを取った。
夜の営業が終わった頃、常連たちが新しい仲間たちに気づき始めた。
「おう、見ない顔だな」とハンスがマリアに言った。
「マリアといいます。最近入りました」
「何歳だ」
「十五です」
「若いな! ゼノフじいさん、若い子を雇ったのか」
「将来有望な料理人だよ! はっはっは!」
ゴルドはマリアをじっと見て、「北の街の出か」と言った。
「なぜわかるんですか」
「訛りが残っている」
マリアは少し驚いた顔をしてから、「はい」と頷いた。
「北は厳しい街だ。女が料理人を目指すのは、大変だっただろう」
「……ご存知ですか」
「昔、仕事で行った。気骨のある街だ」
ゴルドはエールを一口飲んだ。
「ここで学ぶといい。いい師匠がいる」
マリアはゴルドの視線の先——俺を見た。
俺はどんぶりを盛りながら、「ゴルドさん、褒めすぎです」と言った。
「事実を言っただけだ」
その夜遅く、片付けを終えた後。
マリアがカウンターで一人、さっきのノートを広げていた。
今日一日で覚えたことを、丁寧に書き留めている。
「マリアさん、今日はゆっくり休んでください」
「もう少しだけ。書いておかないと、忘れてしまうので」
「……料理をするのが、本当に好きなんですね」
マリアは少し考えてから、答えた。
「好きとか嫌いとか、考えたことがなかったです。ただ——料理をしている時間だけは、怒られなくても迷ってもいい気がした。答えは自分で出せる気がした」
俺はその言葉を、静かに受け取った。
「わかります」
「トウヤさんも、そういう気持ちで料理していますか」
「昔はそうだったかもしれません。今は——」
俺は少し考えた。
「誰かが食べてくれる顔を思い浮かべながら、作るようになりました」
「誰かの顔?」
「そうです。ゼノフさんが「旨い」と言う顔。ゴルドさんが黙って食べる顔。カイルさんが「なにこれ!」と叫ぶ顔」
マリアはくすっと笑った。
「それ、すごくいいですね」
「そうなりたいですか」
「なりたいです」
「じゃあ、覚えることは一つだけ」
「なんですか」
「料理を食べる人の顔を、よく見てください。レシピより先に、それです」
マリアはノートにそれを書いた。
「料理を食べる人の顔を見る」と。
アヒルの看板が揺れていた。
今夜は少し風が強い。
俺は看板を見ながら、今の「満腹あひる屋」を頭の中に描いた。
ゼノフさん、カイル、マリア、リン。
常連のゴルド、グレイ、エレナさん、ハンスとヨハン、ルルちゃん。
あひる組合の仲間たち。ラドク隊長と衛兵たち。
ヘルガさんとギルドの人々。ヴェルナー、アデラ、シグ——遠くから来た人たち。
全部繋がっている。
一枚の大きな絵のように、全部が繋がっている。
(俺はこの絵の、どの部分にいるんだろう)
厨房の人間だ、と思う。
中心にいるわけじゃない。でも、厨房がなければ絵は成立しない。
それでいい。
それが、俺の場所だ。
翌朝、四時に起きた。
厨房に下りると、マリアがすでにいた。
「早いですね」
「トウヤさんより早く来るつもりだったのに、負けました」
「何時に起きましたか」
「三時半です」
「……負けました」
マリアはくすっと笑った。
「何から始めますか」
俺はかまどに火を入れながら、答えた。
「出汁から始めましょう。一番大事なものを、一番最初に」
「はい」
海藻を水に浸けながら、俺はマリアに教え始めた。
冷たい水から、ゆっくりと。
それが、全ての始まりだ。
次回もお楽しみに




