第十話「一週間後の答えと、セルヴァの誤算」
引き継ぎお楽しみください
一週間は、嵐のように過ぎた。
毎朝四時に起きて仕込みをして、朝営業をして、昼の準備をして、合間にあひる組合の段取りを進めて、夜営業をこなして、閉店後に翌日の計画を立てる。
寝るのは深夜を回ってから。でも不思議と、体は動いた。
前世のバイト掛け持ち時代も、こんな感じだったな——とぼんやり思いながら、俺は毎朝かまどに火を入れた。
あひる組合の動きは、思ったより早く形になった。
グレイが手配してくれた仕入れルートに、組合として申し込みを入れた。八軒まとめての契約は、相手の農家や猟師にとっても悪い話ではなかったらしく、二日で合意が取れた。
資金の「箱」は、ゼノフさんの店の奥に実際の箱を置いて、各店主が週ごとに少額を入れる形にした。帳簿はエレナさんにお願いした。
「私が?」
隅の席で本を読んでいたエレナさんに声をかけると、珍しく目を丸くした。
「図書館で働いているので、数字の管理には慣れていると思って」
「……まあ、確かに得意ですが」
「信頼できる方に頼みたかったんです」
エレナさんはしばらく本と俺を交互に見てから、「わかりました」とだけ言った。
「ただし」
「はい」
「帳簿を確認しに来る時は、静かな席を確保してください。あと、ゼノフさんに話しかけるのを少し抑えてもらえますか、その時だけ」
「善処します」
「善処じゃなくて、確約してください」
俺は思わず笑いそうになりながら、「わかりました」と答えた。
在庫の備蓄については、各店に「最低五日分」を目安として伝えた。
ラドク隊長への報告書は、ゴルドと一緒に回った七軒分に加え、その後さらに四軒の話を聞いて、合計十一軒の証言をまとめた。日時、被害内容、相手の言動——できるだけ具体的に書いた。
ラドク隊長はそれを受け取り、「動ける」と言った。
「商業妨害の証拠として、十分な量だ。ただし——」
「はい」
「動くには少し時間がかかる。内部の調査と並行して進めるため、表立って動けるのは数日後になる」
「わかりました。それまでは店側で対応します」
「無茶をするな」
「はい」
「ただ——」
ラドク隊長はわずかに口元を緩めた。
「お前たちのやっていることは、筋が通っている。俺も急ぐ」
そして、一週間が経った。
約束通り、セルヴァが来た。
今日も連れが二人。前回と同じ顔ぶれだ。
ただ、今日のセルヴァの様子は少し違った。
笑顔は変わらないが、どこかに「早く決めさせたい」という焦りが滲んでいる。一週間の間に、何かが変わったのを察知しているのかもしれない。
ゼノフさんはカウンターの前に立って、穏やかに待っていた。
「ゼノフさん、お返事をいただけますか」
セルヴァが席に着くなり、本題に入った。今日は料理も注文しなかった。
「はい」
ゼノフさんはにこにこしながら、静かに言った。
「お断りします」
一瞬、空気が止まった。
セルヴァの笑顔が、わずかに固まった。
「……理由を聞かせていただけますか」
「この店は、私が好きなように料理を出して、好きな人に食べてもらうための場所です。看板を変える気はありません」
「ゼノフさん、我々の提案をよく理解していただけましたか。売上の保証、食材の安定供給——」
「十分理解しました。それでもお断りします」
セルヴァは少し間を置いて、声のトーンを下げた。
「……仕入れ先のことは、ご存知ですか。最近、この辺りの流通状況が変わっています。今後、これまでの仕入れ先が使えなくなる可能性が——」
「それも大丈夫です」
セルヴァの眉が、かすかに動いた。
「大丈夫、とは」
「別の仕入れ先を確保しました」
今度こそ、セルヴァの笑顔が揺らいだ。
「……いつの間に」
「先日から動いていました」
俺はカウンターの中から静かに言った。
「食材は三日前から新ルートで入っています。野菜、肉、乾物、海藻——全て問題ありません」
セルヴァは俺を見た。
その目に、初めて「値踏み」ではない感情が浮かんだ。
警戒だ。
「……随分、手回しがいいですね」
「当然のことをしただけです」
「一軒でそんな手配ができるとは——」
「一軒ではありません」
俺は淡々と続けた。
「この街の独立した店、八軒で共同仕入れの仕組みを作りました。まとめて動いているので、一軒ずつ対応するより交渉力があります」
セルヴァの顔から、完全に笑顔が消えた。
しばらくの沈黙の後、セルヴァは表情を作り直した。
今度の顔は、交渉の顔ではなかった。
「……面白いことをしますね。でも」
声が、低くなった。
「八軒まとめて動いているということは、八軒まとめて困ることになっても構わない、ということですか」
それは脅しだった。
前回より、ずっと直接的な脅しだった。
店内の空気が、張り詰めた。
ハンスとヨハンが、テーブルの上の手をじっと見た。エレナさんが本を静かに閉じた。
ゴルドが、立ち上がった。
「セルヴァとか言ったな」
ゴルドの声は低くて、静かだった。でもその静けさが、全ての音を塗り替えた。
「俺の名前を知っているか」
セルヴァの連れの一人が、すっと手を腰に動かした。
ゴルドはその動きを見て、ふっと笑った。
「その手を動かすなら、覚悟してからにしろ。半端な気持ちで俺の前で武器を抜くな」
連れの男は、手を止めた。
ゴルドはセルヴァに向き直った。
「ベルク商会がこの街で何をしているか、衛兵隊は把握している。証拠も集まっている。それを知った上で、まだその口を動かすか」
セルヴァの顔が、青ざめた。
「……衛兵隊が、動くとでも」
「もう動いている」
そこへ、扉が開いた。
ラドク隊長が入ってきた。
部下を二人連れた、仕事の顔だった。
「セルヴァ・ブレイン。ベルク商会渉外担当。同行をお願いしたい」
セルヴァは立ち上がったが、足が少し震えているのが見えた。
「……何の容疑で」
「商業妨害、および不正取引の疑い。詳しくは署でお話しましょう」
セルヴァは俺を見た。
俺は何も言わなかった。
セルヴァは最後に、一度だけゼノフさんを見た。
ゼノフさんは穏やかに微笑んでいた。
セルヴァと連れの二人は、ラドク隊長に連れられて外に出た。
扉が閉まると、店内に静寂が降りた。
数秒後、ハンスが「……終わったのか?」とぽつりと言った。
「一旦は」と俺は答えた。「商会がどう動くかは、まだわかりません」
「でも、でかい一歩じゃないか」
「そうですね」
ヨハンがエールのジョッキを持ち上げた。
「乾杯しよう」
「まだ昼ですよ」
「いいじゃないか、こういう時くらい」
ゼノフさんが「たっはっは! そうだそうだ!」と笑いながらジョッキを持ってきた。
ゴルドは黙って席に戻り、どんぶりの続きを食べ始めた。
エレナさんはそっと本を開き直したが、口元が少し緩んでいた。
その日の夕方から、「満腹あひる屋」は変わった。
最初に変わったのは、客の数だった。
ラドク隊長が動いた話は、夕方には街に広まっていた。情報の伝わる速さは、前世と変わらない——むしろ小さな街の分、速い。
噂が噂を呼んだ。
「ゼノフじいさんのところが、ベルク商会に立ち向かったらしい」
「あひる屋の新しい料理人が、組合を作って商会を追い出したって」
「衛兵隊長が直々に動いたって本当か」
夕方の営業が始まった頃には、いつもの二倍近い客が来ていた。
「すみません、どんぶりを一つ」
「俺も同じものを」
「揚げ物はありますか」
「麺も食べてみたい」
注文が次々と入ってくる。
俺は厨房でフル回転した。
仕込みは十分にしてある。提供スピードは落とさない。どんな状況でも、出すものの質は変えない——それだけを考えながら、手を動かし続けた。
「トウヤくん、手が足りないよ!」
ゼノフさんが料理を運びながら叫んだ。
「ゼノフさん、配膳だけお願いします! 厨房は俺が回します!」
「わかった!」
ゴルドが「俺も手伝う」と立ち上がった。
「ゴルドさん、水と食器の補充をお願いできますか」
「どこに」
「棚の下の段です」
ゴルドは黙って動いた。
カイルが「俺も何かできる!?」と叫んだ。
「テーブルの片付けをお願いします。食べ終わった皿を厨房に持ってきてください」
「任せろ!」
エレナさんが、珍しく本を仕舞って立ち上がった。
「……私も、何かできますか」
「お客さんを席に案内していただけますか。入り口で待っている方が多いので」
「わかりました」
エレナさんは静かに入り口に向かった。図書館司書らしく、落ち着いた動きで客を席に誘導し始めた。
ハンスとヨハンは「俺らは何もできねえな」と笑いながら言ったが、「大きな声でそこのテーブルに呼びかけてもらえますか、注文をまとめて聞きます」とお願いすると、喜んで引き受けた。
満腹あひる屋の常連が、全員でホールを回している。
厨房から見える光景が、なんだかおかしくて、でも温かかった。
二時間後、最初の波が落ち着いた。
全員がカウンターに座って、揃ってため息をついた。
「……疲れた」とカイルが言った。
「お前、皿運んでいただけだろ」とゴルドが言った。
「それだけでも疲れます!」
「トウヤくん、大丈夫かい」
ゼノフさんが心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫です。でも——明日から仕込みの量を増やさないといけないですね」
「こんなに来るとは思わなかったよ」
「評判が広まれば、しばらくはこのペースが続くと思います。ただ」
俺は少し考えてから、続けた。
「このペースに慣れてしまうと、質が落ちる可能性があります。人手をどうするか、真剣に考えないといけないです」
「人手か——」
ゼノフさんが首を傾けた。
「雇うのか?」
「検討してほしいです。このままだと、俺とゼノフさんだけでは回らなくなります」
「誰かいるかねえ」
「心当たりがあれば——」
そこへ、扉が開いた。
リンだった。
いつも通りの竪琴を背負った旅人の姿で、店内を見渡して目を丸くした。
「……なんか、すごいことになってるな」
「今日から少し変わりました」
「変わりすぎだろ。この前来た時の三倍は客がいた気がするけど」
「ちょうどよかった、リンさん」
「なに」
「少し相談があります」
他の常連たちが帰った後、リンと二人で話した。
「演奏の代わりに飯、という交渉はまだ受け付けていません」
「それはわかってる」
「別の提案です」
俺はリンを見た。
「この店で、定期的に演奏をしてもらいたいんです。週に二、三回。報酬はちゃんと払います」
リンは目を細めた。
「……定期で? 俺、旅をしてるんだけど」
「この街を拠点にしてもらえませんか。少なくとも、しばらくの間」
「なんで」
「理由は二つです。一つは、料理と音楽が合わさると、客の満足度が上がる。今日みたいに忙しい夜でも、音楽があると雰囲気が整う。前にいた場所で経験しています」
「もう一つは」
「リンさんには、いろんな街の情報が入ってくる。あひる組合のためにも、外の情報は価値があります」
リンはしばらく俺を見ていた。
「……お前、俺を情報屋として雇うつもりか」
「演奏家として雇います。情報は、あくまで副次的なものです」
「どっちが本命かわかったもんじゃないな」
「両方、本命です」
リンは天井を見て、しばらく考えていた。
「……報酬は」
「食事付き、宿代付き、さらに演奏の報酬を出します。二階に空き部屋があるので」
「ゼノフじいさんは了承しているのか」
「さっき聞きました。「大歓迎だよ、はっはっは!」とのことです」
リンは思わず噴き出した。
「……まったく、じいさんらしい」
しばらく笑ってから、リンは真剣な顔に戻った。
「一つだけ条件がある」
「なんですか」
「旅に出たくなったら、出させてくれ。縛らないでくれ」
「もちろんです。戻ってきたら、席は空けておきます」
リンは少し間を置いてから、「わかった」と言った。
「しばらく、この街にいる」
翌日から、「満腹あひる屋」の一日がさらに変わった。
朝は麺で始まり、昼はどんぶりと揚げ物と煮込みが回転し、夜はリンの竪琴が鳴る。
朝営業の常連になったラドク隊長と衛兵たちが、夜も顔を出すようになった。あひる組合の店主たちが、仕事終わりに「今日の報告」を兼ねてやってくる。カイルは相変わらず毎日腹ペコで飛び込んできて、ゴルドはどんぶりとエールを重ねた。
グレイはいつもの席で串焼きと卵焼きを食べ、たまに俺に短い情報を渡してくれた。
エレナさんは週に三回帳簿を確認しに来て、それ以外の日は隅の席で本を読んだ。ゼノフさんが話しかける回数は、約束通り半分以下に抑えた——一回だけ失敗したが、エレナさんは呆れながらも帰らなかった。
ルルちゃんは相変わらず週に何度かやってきて、ゼノフさんのクッキーを食べ、リンの竪琴を聞いて眠そうな顔になった。
大繁盛が始まってから十日後の夜。
閉店後、俺はカウンターに座って、売上の計算をしていた。
数字は、正直に言って驚くほど伸びていた。
一番最初の週と比べると、売上は三倍近い。朝営業の分を加えると、ゼノフさんが一人でやっていた頃の四倍以上だ。
でも——
(このまま伸ばし続けることが、正解じゃないかもしれない)
俺は少し考えた。
前世でも、急成長した飲食店が質の低下で転落するのを、何度か見てきた。売上を伸ばすことと、店の「らしさ」を守ることは、時に矛盾する。
「満腹あひる屋」の「らしさ」は何か。
ゼノフさんの大盛り。温かい雰囲気。常連が気軽に来られる空気。誰でも腹を満たせる場所。
それを守りながら、伸びていけるか。
「トウヤくん、難しい顔をしているね」
ゼノフさんが湯飲みを二つ持ってきて、隣に座った。
「少し考えていました」
「なんを」
「この店をこのまま大きくすることが、正しいかどうか」
ゼノフさんは湯飲みを両手で包みながら、俺を見た。
「正しいかどうか、というのは」
「売上が伸びて、客が増えることは、数字としては良いことです。でも——」
俺は言葉を選んだ。
「ゴルドさんが昔、ここに来てゼノフさんの飯を食べた時の気持ち。あの感覚は、大きくなったら薄れていくかもしれない。それが怖いんです」
ゼノフさんはしばらく黙っていた。
「……トウヤくんは、優しいね」
「そうじゃないですよ、ただの心配性です」
「優しいんだよ」
ゼノフさんはぽつりと言った。
「俺がずっと一人でやってきた理由も、そこにある。大きくすれば料理の質が落ちる気がして、怖かった」
「じゃあ——」
「でもね」
ゼノフさんは俺を見た。
「トウヤくんが来てから、客が増えて、賑やかになった。でも——ゴルドくんは今も同じ顔でどんぶりを食べているだろう。グレイくんは今も卵焼きを食べに来ている。エレナさんは今日も本を読んでいた」
「……はい」
「変わったのは数じゃない。この店に来る理由が、一人ずつ増えたんだ」
俺はその言葉を、静かに受け取った。
「大切なものを守りながら、新しいものを加える。それができるなら——大きくなることは、悪いことじゃないよ」
「……ゼノフさん」
「ただし!」
ゼノフさんは人差し指を立てた。
「盛り付けの量だけは、絶対に減らさない。それだけが俺の譲れない一線だよ、はっはっは!」
俺は思わず笑い出した。
「わかりました。それだけは守ります」
「よし! じゃあ明日も仕込みを頼んだよ!」
その夜、リンが竪琴を片付けながら、ぽつりと言った。
「なあ、トウヤ」
「はい」
「この店、なんか変わったよな。俺が初めて来た時と」
「変わりましたか」
「雰囲気が、明るくなった。前は温かかったけど、どこか静かすぎる感じがあった。今は——」
リンは少し考えてから、笑った。
「生きてる感じがする」
俺は厨房から、店内を見渡した。
カウンターにはゴルドのエールのジョッキがまだ残っていて、エレナさんの使った席には本の栞が一枚落ちていた。ハンスとヨハンが帰り際に残したどんぶりの器が、まだ洗い桶に浸かっている。
アヒルの看板が、外で揺れている。
「……そうですね」
俺はそう答えながら、自分でも不思議な気持ちになっていた。
半月前、森の地面に顔を埋めて目が覚めた時には、これっぽっちも想像していなかった光景だ。
でも今、この場所は——確かに「俺の場所」だと感じていた。
次回もお楽しみに




