洗礼(2)
数分馬車に揺られても、夢の心は沈んだままだった。酔いは無いが、腹の奥から何かがせり上がってくる感覚があった。ただ髪が黒いだけなのに、どうしてあんなめに遭わなければならないのか……。指先の震えが止まらない。
「夢、そろそろだぞ。準備しろ」
「はい……」
「さっきまでのでかい返事はどうした。まぁ、あの『歓迎』じゃそうなるわな」
カミックが嫌味たっぷりに笑う。すると、御者台のカロックが、荷台に届くよう声を張り上げた。
「これからヴァーソさんの邸宅に入りますよ! 準備は大丈夫ですか?」
「私は大丈夫だ。スラヴィアはまぁなんとかなるだろう」
「俺も準備万端だぞー!」
「……」
「そこの転移者は、怖気づいたみたいだけどな」
カミックのからかいを無視し、再び大量の薬草を背負う。そして、馬車が巨大な鉄の門の前で止まった。
『ヴィクトリス商会』と書かれた重厚な看板を目にしたシュパーブは馬車から降りて、警備員に話を通す。警備員は二言ほど話すと、直ぐに建物へと走っていった。
「お前達、馬車から降りろ。全員でお出迎えするんだ。いいな? 全員で、だ」
シュパーブが降り、直後に双子がその背を追う。スラヴィアはあからさまに嫌そうな顔をしながらも、二人の背中に張り付くように追随する。
麻袋を背負う夢の足取りは重たかった。今の彼女は、どっちが荷物なのか分からないくらいだった。背中の薬草が、ずっしりと肩に食い込む。馬車から飛び降りると、石畳とは違う、整備された道の感触が直接伝わってきた。
夢が見上げると、そこには貴族の屋敷と見間違うほどの荘厳な建物が鎮座していた。使用人と思われる人たちが庭の手入れをしており、その間を縫うようにして、シュパーブらが歩く。ヴィクトリス商会の出入口前に到着すると、先ほどの警備員が姿を現す。
「ヴァーソ様はもう少しで到着されます。ここでお待ちください」
「ああ、ありがとう」
警備員は持ち場に戻りながら、一瞬だけ夢を睨んだ。不安そうに周囲を見渡す夢。彼女にはその場にいる全員が、自分を忌避していると錯覚しそうになっていた。
「あのおじさんまだこないの? スー、あつくて溶けちゃう」
「我慢しろ。本格的な夏にはまだ遠いぞ」
「静かにしろ。来たぞ」
カロックの一言で、夢の背筋が伸びた。早く終わらせて欲しい。そんな願いも空しく、出入口から大柄な男が出てきた。身長は190はあろうかというほどで、ライトブラウンの髭を指先で弄っている。
「待たせたな、シュパーブ。長旅ご苦労」
「随分と上機嫌だな、ヴァーソ。お前らしくない」
シュパーブは口元だけで笑うと、がっしりと握手をする。ヴァーソ・ヴィクトリスは固い結束であるかのように力を込めて握る。背後の三人は、固唾を飲んで動向を見守っていた。
「よく分かったな。娘が二十歳の誕生日を迎えたんだ。今日は盛大に祝うつもりだ」
「へぇ、おめでとう。お前の所だと、さぞかし大物も来るだろう。余計なお世話かもしれないが、そろそろそういう年頃だろう」
「まだ見合いもさせてない。ああいうことがあったら、こっちだって躊躇する。そうだな……、お前の後ろにいるような、黒髪の転移者のせいでな」
ヴァーソの鋭い眼光は、既にシュパーブから離れていた。麻袋を背負った夢を、真っすぐ射抜いている。彼に名前すら呼ばれず、不浄なものを見るような敵意を向けられ、心拍数が跳ね上がる。
「その中身は薬草か? 診療所に卸すんだ。さっさと持ってこい」
「はい……」
夢がおずおずとヴァーソの元へと歩み寄り、慎重に品物を置く。即座に警備員が飛んできて、いつも以上に手厳しいチェックが入ると、シュパーブは苦笑するしかなかった。改めて異常がないことを確認すると、今度は夢の身体を無遠慮に弄り始めた。
抵抗すら許されない、屈辱的な時間だった。奥歯を噛み締め、目を固く閉じて耐える。数十秒後、「異常な物は持ち運んでいません」と事務的な報告を終え、ヴァーソの脇へと退いた。
「そこまですることないだろう。私を信用していないのか?」
「お前も長旅で疲れたのか? 転移者など拾って。それとも、お前でも老眼が始まったのか? いずれにしてもまともじゃないな」
「老眼とは失礼な。私だってこいつのことは信用していないさ」
「じゃあどうしてここに連れてきた!」
「さあね」
二人が会話をしている間、夢は屈辱で肩を震わせていた。虫が這いずり回るような耐えがたい感触が、熱を帯びて残っている。
自尊心など捨てたはずだった。しかし今は、熱い涙が次から次へと溢れ出て止まらない。私は人間として見られていない。帰りたい。ただ、元の世界へ戻りたい。視界を滲ませながら、ヴァーソの足元をじっと睨みつけた。




