洗礼(1)
馬車が軋みながらゆっくりと動き出した。操縦はカロックが担当しており、不規則な振動が繰り返し響いている。そんな中でも、スラヴィアは幸せそうに眠っており、シュパーブは外の雲行きを目で追っていた。麻袋の隙間からは、薬草の匂いが漏れ出ている。土の匂いと混ざってはいたが、野性味溢れる刺激臭は、夢の脳を揺さぶるには充分だった。
「凄く、鼻にツンとする……」
「慣れておけ。これはまだ一般的な薬草だ。これ以上文句言うと、ここに死体が載ることになるかもしれないぞ」
「すみません……」
胃の奥底が凍りつく感覚に襲われた夢とは対照的に、カミックは落ち着いていた。時々大きく縦に揺れる荷馬車の中でも、顔色一つ変えない。縦に揺れる度に、先ほど食した獣肉の味がせり上がってくる。鉄混じりの風味が鼻から抜けると、一層催吐心がこみ上がる。
「よくこんなところで眠れますね、スラヴィアさんは……」
「転移者、知らないのか。精霊ってのはな、魔力を使うから疲れるんだ。お前だって、昨日は死にかけていたじゃないか」
「そうですね……。あの時っ、うっ、見捨てないで、くれて……」
夢が吐きたい気持ちを抑え、一呼吸置く。
「ありがとうございました……」
「俺は何もしてねえ。感謝するなら姐さんにしな」
カミックも、シュパーブも、誰も彼女の顔を見ようとしていない。「はい……」と掠れた声で返事をするが、馬車の振動で、あっさりかき消されてしまった。
そんな停滞と苦痛が、数日続いた。馬車の中は重苦しいほどの沈黙で満たされていた。数少ない救いは、スラヴィアが喧しかったことと、野盗や獣に襲われなかったことくらいだった。馬車の風景は、何もない林道から、小さな集落へと変わり始める。シュパーブの目の色が変わるのが、横顔を覗くだけでも分かった。
「……シュパーブさん、もう少しですか?」
「そうだな。足の具合はどうだ」
「だいぶ良くなりました。スラヴィアさんのお陰です」
「おいおい、前から思ってたけど子どもにさん付けかよ。どんだけビビってんの」
横からカミックが茶化すが、夢は何も言い返せなかった。数日前、広大な川面を一瞬で凍らせた光景が、はっきりと思い出される。すると、夢の背筋に嫌な寒気が走る。
いつの間にか、スラヴィアが起きていたのだ。二人の会話は筒抜けだったらしい。真っ白く透き通った頬は真っ赤に染まっていた。
「カミック……」
「あ、起きてたの、スラヴィア。もしかして、全部聞いてた?」
「コノヤロー! スーは子どもじゃない!」
スラヴィアは一瞬にして氷の板を作り、カミックの頭上に振り下ろした。カミックは笑いながら片手で受け止めるが、夢は思わず目を背けた。これがここの世界のじゃれ合いなら、確実に殺される。無意識に漏れ出す冷気が、じりじりと寿命を削っている気さえした。
しかし、そんな騒ぎをよそに、シュパーブだけは視線を一つも動かさなかった。
「あともう少しでヴィヴァーロに着くぞ。遊んでないで準備しろ!」
「はい!」
夢が馬車内の面子では一番大きく返事をした。馬車の振動が落ち着き、石畳を叩く音に変わる。
「返事は良いんだな、転移者。……やること覚えてるか?」
「この薬草を、問屋に卸すことです」
「最低限の記憶力はあるようだな。まぁ大丈夫だ。お前を一人では行かせない。俺らがついていく。良いな?」
「……心強いです」
「媚び売ってんじゃねえよ」
二人の会話をよそに、スラヴィアは大きく伸びをした。そして、あからさまに外を避けるように、積み荷の近くで引きこもる。
「馬車から出たくない。スー、あついの苦手」
「贅沢言うな、スラヴィア。ヴァ―ソが許すと思うか?」
「あのおじさんこわいからやだ」
口を尖らせるスラヴィア。すると、不規則な馬車の振動が消えた。カロックが手綱を引いて馬車を止めたのだ。警備員の声が、荷台越しからも聞こえる。
「積み荷を見せて下さい」
「あいよ。誰かー。積み荷を出してくれ。こいつらに見せなきゃならない」
「分かりました!」
夢が荷物を持ち、狭い馬車から飛び降りる。石畳の洗礼を受け、痺れるような痛みに耐えながら、警備員に歩み寄った。シュパーブはその様子を黙って観ていたが、カミックは深いため息を吐く。
「姐さん、やっぱりこいつ連れてきたのは失敗だったんじゃないすか?」
「これも『教育』さ。でもあいつは、気付いていないようだがね」
先ほどまで賑わっていた検問所の空気が、一瞬にして凍りついた。黒髪の女を見るヴィヴァーロ市民たちは、汚物を避けるように距離を置く。警備員は腰につけたナイフに手をかけ、いつでも引き抜けるよう、敵意を剝き出しにして身構えていた。
「積み荷を見せろ」
有無を言わさず荷物を乱暴にひったくられる。中身を執拗に調べられるが、ありふれた薬草しか入っていない。警備員が苦虫を嚙み潰したような顔で、薬草を押し付けた。ホッとしたように、カロックが話しかける。
「ね? 何もないでしょう。我々シュパーブ商隊が怪しいものなんて仕入れるわけないでしょう」
「……今そこにあるだろう。まあいい。確認した。通れ」
「はいはい。お役目ご苦労様でーす」
軽口を叩きながら、夢を急いで荷台に乗せるカロック。張り詰めた空気が一瞬だけ緩んだと思っていた夢だったが、幌を閉めると、カロックは一変して低い声で彼女の耳元で囁いた。
「転移者。さっきの警備員を見ただろう? お前はここでは『そういう存在』なんだよ。お前は薬草運びに必死で気付いてなかったかもしれないが、周りを見てみろ」
促されるまま、幌を少しだけ開け、市民の様子を見る。少し前までは活気に溢れていた検問前が、今は静寂に満ちていた。馬車を指差して不快感を露わにする者や、自身の子どもと足早に去る母親、陰口を叩く者たちばかりだった。
「黒髪だ……。転移者がいるぞ!」
「おお恐ろしい。しかしどうしてシュパーブが……?」
「子どもは絶対近付けるなよ」
幌を閉じる夢。現実を突き付けられた彼女は、指先が震え、膝から崩れ落ちた。頭を抱えてうずくまると、シュパーブは眉一つ動かさず指示を出す。
「カロック、出すぞ」
「分かりました」
再び石畳を小気味良く叩く蹄の音が聞こえ始めた。隣ではスラヴィアは麻袋に抱き着き、薬草の青臭い匂いに顔を埋めていた。
「夢。ようこそヴィヴァーロへ」
口元だけで笑みを作ったシュパーブの声が、夢に突き刺さった。




