転移(1)
日が暮れ始めた頃、夢は人がいる場所を目指し、歩き始めた。
「クソ、あのバカ犬……。私のローファーどこやった……」
裸足で歩くと、土の冷たさが嫌というほど伝わる。木の葉が刺さって痛い。一歩踏み出す度に、小石が足の裏に食い込む。それでも夢は顔をしかめながら、泥臭く進み続けた。
「誰か、いませんかぁ……?」
助けを求めるが、その声は生い茂る木々に吸い込まれ、霧散した。気付けば、夢の呼吸音だけが響く、不気味な静寂に包まれていた。ここで立ち止まってはいけないとは理解していながらも、限界を迎えた身体は言うことを聞かない。夢は木に背中を預け、その場に崩れ落ちた。
喉の渇き、空腹、全身の痛み。立ち上がろうとするが、出るのは荒い息だけだった。
「はぁ、はぁ……」
だらしなく口を開け、息を整えようとした時だった。彼女の近くではっきりと、獣の唸り声がした。その方を向くと、獰猛な吐息と重厚感のある足音が近付いてきた。
恐怖のあまり悲鳴も出ない夢を、野ウサギを思わせる歪な獣が睨む。発達した後脚が、彼女の命を刈り取ろうと地面を蹴り上げた。
「あ……」
急加速する獣に、成す術なくへたり込んでいる夢。全身が震え、死を確信した、その時だった。
突如、眼前の獣の動きが止まった。脳天には投擲用のナイフが突き刺さっており、獣は断末魔もあげずに事切れる。何が起こったのかまるで分かっていない夢。闇の中から現れたのは、場違いなほど軽装の男たちだった。
「そこそこでかいな。今日の夕飯にするか」
「そうだな。よっしゃ! 久しぶりの肉だ! 姐さんも喜ぶだろうな」
両耳の耳飾りを揺らし、鼻歌交じりに獲物を縛り上げる男と、刺青のある右腕を振り上げて何かを合図する男。夢は最後の力を振り絞り、「待って……」と掠れた声を絞り出し、二人への接触を図った。これを逃したら、今度こそ獣の餌になる。剝き出しの生存本能が、彼女を突き動かす。
獣の両脚を掴み、持ち上げた二人だったが、背後から誰かが這い寄る気配を感じた。
「兄貴、後ろ!」
「なんだカロック……。ってうわ!」
弟が兄の脚に縋り付く夢を見つける。今にも泣きそうな顔で、何かを話そうとしていた。しかし、二人には届いていない。
「なんだなんだ! 話聞くからちょっと離してくれよ!」
「ちょっと姐さん呼んでくる。おーい!」
弟が助けを求め、闇の向こうへ姿を消す。兄は夢を振りほどこうとするが、全体重が掛かっており、引きずるだけで精一杯だった。
やがて暗闇に目が慣れてくると、徐々に夢の容姿がはっきりと見えてきた。
土や泥にまみれ、足の裏は傷だらけ。制服もボロボロになっている。だが、兄が注目したのはそこではなかった。
「黒髪……? まさかあんたも……」
「兄貴! 呼んできた。姐さんこっち! ちょっと面倒なことになった!」
「カミック、分かったから。で、カロック。どいつだ?」
カミックが姐さんと呼ぶ女を連れてくる。手灯で足元を照らすと、夢が泣きながら女を見上げていた。カロックの脚からするりと手が離れる。
「こいつか。その面倒ってのは。見た感じ、『転移者』みたいだけど」
「はい。でもこいつ、なんか違うんです。ボロ布みたいになってて、今にも死にそうで。とにかく、くたばりそうなんです」
「……見たところ、演技ではなさそうだな」
女が夢を隅々まで観察する。やがて女は膝をつくと、力尽きた夢を背負い上げた。背中越しに、冷え切った体温を感じる。女は小さくため息を吐くと、双子に背を向けながら指示を出した。
「カロック、カミック。獲物を持って私についてこい」
「転移者を馬車に乗せるんですか? 何されるか分かりませんよ?」
「その時はその時だ。こんな所で死なれたら困るからな。分かったら支度しな」
二人は従うしかなかった。獲物の両脚を持つと、慎重に運び出す。少し前には、泣きじゃくる夢を運ぶ女。二人は、黒髪の人間――転移者が、ここまで無力なことに対して、未だに事態を飲み込めていなかった。
「兄貴、本当に大丈夫かな……」
「さあな。でもよ、さっきから本当に何もしてこないぜ? あの転移者。姐さん、あんだけ無防備なのに。もしかして武器も持ってないんじゃねえのか?」
「あんな恰好から武器が出てきたら逆に怖いよ」
獲物の重みを紛らわすかのように、ぼそぼそと会話をする双子。先導する女はどこ吹く風のように、荷馬車へ到着する。周囲には灯りを垂らしており、心許ない足元を照らしている。女は幌を開けると、迷いなく夢を荷台の端に寝かせた。




