プロローグ
今にも一雨降りそうな空の下、佐倉 夢の目は濁っていた。
高校二年生になって初めての全国統一模試。その結果が返却されると、夢は目の前が真っ白になった。志望校の判定は良くてD。危険信号のように、彼女の目に焼き付く。教室では、あちこちで歓声や慰めの声が飛び交っていた。
「……なんでだよ」
小さく毒づくが、誰にも届くことはなかった。放課後のチャイムが鳴っても、夢の視線は動かなかった。教室から誰もいなくなった時、赤く印字されたDとEを覆い隠すように成績表を折り曲げ、鞄に突っ込む。学校から出た夢はいつもの帰り道を外れ、河川敷へと足を向けた。橋の下まで歩くと、糸が切れたマリオネットのように、音を立てて座り込んだ。
橋の壁にもたれかかる。コンクリートの冷たさが、全身に染みる。夢は変わらず濁った目で、川の流れを見ていた。先生達は「最初だから良くも悪くも一喜一憂することはない」なんて言っていたが、限度がある。
手近な小石を拾うと、力任せに投げた。川面に落ちると、彼女は大きくため息を吐く。
「私、いつもこうだ……」
雨が降り始めた。まだ小雨だったが、夢の傷に染み渡るには十分だった。苛立ちをぶつけるべく、もう一度小石を投げようとする。すると、先ほどとは違った景色が夢の注意を引いた。
「あれは……、犬?」
中州の僅かな地面で、子犬が立ち往生していた。雨で濡れた毛に、か細い鳴き声。それは夢のことをじっと見つめていた。その視線から目を逸らすことができず、彼女しばし呆然としていた。
突如、近くのスピーカーからサイレンが鳴る。『これから川が増水します。川から離れて下さい。繰り返します、これから川が増水します……』。警報を聞いた夢は、慌てて立ち上がる。だが対照的に、子犬は右往左往するのを辞め、静かにお座りの姿勢をとった。
「は? 何してるのあいつ! おーい、こっちおいで! こんなところにいたら死んじゃうってば!」
夢は愕然とした。この状況で全く動かない子犬を見て、思わず声が出た。手招きをしても、どれだけ声を張り上げても、意に介さない。その間にも、川の水位が上がっていく。このままでは危ない。夢の中で、無鉄砲な憐れみが生まれた。
「仕方ない。やるか!」
ローファーを脱ぎ、スカートをギリギリまでたくし上げ、全速力で子犬の元へ走る。膝元まである川を渡り切るには、彼女にとっては苦痛だった。それでも身体を突き動かす。腕を必死に伸ばし、子犬を抱きかかえた。雨が強くなり、川の流れは激しさを増す。よろめきそうになるが、最後の力を振り絞って川岸を目指す。水位は腰まで達していた。
「もう少しだよ! 頑張れ私……!」
自分に言い聞かせて、川岸まで歩く。激しい水流が肩まで飛んでくるが、それでも子犬を離さない。あと二メートル。へその辺りまで上がった水位が、容赦なく彼女の体力を削り取る。
あと一メートル。息も絶え絶えで、足を伸ばす。しかし、思うように動かない。口に濁流が入る。視界が奪われる。子犬の感触だけを頼りに、一歩ずつ転ばないように進んでいった。
「はぁ、はぁ……」
残り五十センチ。腕を伸ばして、子犬を岸辺にあげる。子犬は直ぐ夢に向き直り、つぶらな瞳で見つめた。
「それじゃ、私も……」
夢も同じく川岸に手をかける。その時だった。先ほどよりも激しい濁流が、彼女を飲み込んだ。手は離れ、体勢は完全に崩れる。勢いそのままに、流されてしまった。
「が、あぁっ! 助け、て……」
もがけばもがくほど、息苦しさが身体を支配する。視界はぼやけ、右も左も分からなくなっていた。自己満足の為に子犬を助けようとしただけなのに。夢の意識が遠のいて、濁流の音が聞こえなくなったのは、それから暫く経ってからだった。
暗闇の中で、夢は目を開けた。さっきまで川で流されていたはずなのに、制服は乾いている。何かの間違いだと思い、自身のありとあらゆる場所を触るが、泥や水、石ころも無い。下校した時の状態だった。
「どういうこと……? 私、死んだの?」
「いいえ、そうではありませんよ」
暗闇から聞こえる、もう一人の声。やけに爽やかなそれは、夢の警戒心を煽るには十分だった。声がした方を向く。そこには、あの時助けた犬が可愛らしく座っていた。まさか、この犬から? 疑問に思う間もなく、周囲の闇が剥がれ落ちていく。咄嗟に両腕で目を覆う夢。
光に慣れて目を開けると、そこは何処かも分からない林道だった。見たこともない木々が生えており、聞いたこともないような動物の鳴き声が聞こえる。
「……だったらどういうこと」
「貴女は、『合格』したんです!」
座っていた犬の姿が、徐々に変異していく。数秒後、そこに現れたのは、茶髪で朗らかそうな笑顔をした男だった。尖った耳が、人ならざる雰囲気を出している。
「え? は? 待って。合格って……」
「あの犬は仮の姿。こうやって溶け込むことで、絶望している人達を観察したり、見つけ出したりできるのです! そこで貴女に出会った! 何やら絶望していたようなので、そこから抜け出す為のお手伝いをさせてもらいましたよーっ」
男は朗々と話し続ける。
「申し遅れました。私、この世界の妖精です。さっきまでいた世界で、人生に絶望している人を選んで、この世界でのびのびと生活できるようお手伝いするのが私の役目! 既に30人ほど、貴女様と同じような境遇の人を救ってきました!」
「……救った?」
「はい! 皆様大変喜ばれておりましたよ? 日本? ではパッとしなかったのに、ここでは好き放題できるって!」
男はますます饒舌に話す。転移した者の経験談や、今は何をしているか等、通販番組の出演者のようにポジティブなことばかりだった。夢は一切表情を変えず、男に付き合っている。
「ですので、貴女様も日本……? の生活なんてポイしちゃいましょう! レッツ異世界ライフ! ここでの生活に必要なスキルさえあれば、貴女様もたちまちヒーローに……」
「ふざけんな」
肩を震わせ、夢が低く呻る。
「……え? 今なんと?」
「ふざけんなって言ったんだよ! 要するに現実逃避しましょうってことでしょ? 私、あんたに何したか分かる? 命救ってやったんだぞ!」
予想外の反応に、男の笑みが引き攣る。
「抑えて下さいよぉ。どうしてこんなに怒ってるんですか?」
「怒るに決まってんだろ! 何が『好き放題』だよ! 何が『ヒーロー』だよ! 私には帰らなきゃいけない家があるし、心配してくれる家族もいる。てめえの好き勝手にされるなんて絶対に嫌だね!」
男に物怖じせず、泣きそうな顔で睨みつける夢。男は今までとは違う日本人の反応に、困惑するばかりだった。
「てめえの自己満足に私を巻き込むな! 絶望しているからって、全員こんなところに行きたいって思ってるとか大間違いだからな? 早く私を日本に帰せよ!」
「そんなこと急に言われましても……。帰る方法がないわけではないですが、かなり時間がかかるので……」
「じゃあそれを今すぐ教えろ! いくら時間が掛かっても、私は日本に帰るんだ!」
本当に帰りたいことを感じ取った男から、柔和な笑みが消えた。「ここから先は少し長くなります」と、夢を奥まった場所へ誘う。そこで、彼は一つの石を取り出した。人間の握り拳くらいの大きさのそれは、水滴のような形をしており、黒く鈍い光を放っている。
「これは『涙魔石』と言います。あくまでもこれはサンプルなので、実際に使っても効力は有りませんが……」
「それを集めれば良いんだな? どうやって? 何個集めれば良い?」
「落ち着いて下さい! 順を追って説明しますから! 先ずどうやって集めるか、ですが、転移した黒髪の人間に会って下さい。そこで一定時間『会話』をすると、魔石が生成されます」
夢は「続けろ」と無言で視線を送る。
「何個集めれば良いのか、ですが、四つだったような気がします」
「だった『ような』? 本気で帰す気ある?」
「そんな睨まないで……。帰りたがる人なんて初めてで……」
男は困ったように肩をすくめた。日本に帰りたいと叫ぶ人間がいたのが、未だに信じられないようだった。これ迄の三十人は、大喜びでこの世界を満喫している。でも、目の前にいる少女は違う。目を血走らせ、今にも食ってかかりそうな勢いで質問を繰り返している。
「あと、これから先は長い旅になります。転移してきた人達全員に与えているスキルがあるんですけど、要ります?」
「帰れるなら」
「分かりました」
男は夢に触れると、淡い光が灯る。そして、一冊の書物を取り出した。
「これは現地の言葉で書かれた本です。読めますか?」
「読めるけど」
「成功ですね! おめでとうございます! 先ほど付与したのは、現地で読み書きができるスキルです。いくら強いスキルを持っていても、会話とか物書きができなきゃ詰みますから!」
「……スキルだの詰みだの、ゲームじゃないんだから」
夢は怒るのも疲れていたが、帰る為の僅かな糸口を掴んだだけでも、ストレスが少なくなった気がしていた。
「じゃあそれでは、私はこれで……」
「おいちょっと待ってよ! まだスキルとやらをくれるんじゃないの?」
「ここから先は、貴女様の力で頑張って下さい! では、魔石を集めたらまたお会いしましょう!」
逃げるように去っていく妖精。その後ろ姿は、何処かいじけているようにも見えた。
「待ってよ! 置いて行かないでよ! 私にここで死ねって言うの!?」
夢の声が、夕暮れの林道に虚しく響いた。




