準備(2)
「あれ、私……」
「お疲れ様です、お嬢様。少し寝てしまっていたようですね」
「なんてこと……。子どもたちは?」
「ぐっすりですよ、コマさん」
不意に名前が呼ばれ、肩が跳ねた。夢は柔らかい笑顔で、児童の様子を報告する。コマは未だに目を合わせようとはしなかったが、内容の一つ一つに、首を縦に振りながら聞いている。と、彼女は夢の右手が真っ黒になっていることに気付いた。
「ユメ、さん。お疲れ様です……」
「お疲れ様です」
「その右手、どうされたんですか?」
「あぁ、これですか? 明日の準備をしていたんです。子どもたちと一緒に工作をしようと思いまして」
屈託のない夢の笑顔に、コマは安堵した。三人に「本日もお疲れ様でした」と告げて引き上げる夢に、バイパーが監視を兼ねて付いて行く。
「今日はありがとうございました」
「感謝されることなどしていない。本当にこれで、お嬢様が笑顔になるんだろうな?」
「きっと、笑顔になります。熱意を込めれば」
「熱意を込めれば、か……。俺もそうやって、お嬢様を見ているんだけどな」
門の前でバイパーと別れると、夢は足早に馬車の中へ入った。車内ではスラヴィアが退屈しのぎで、粘り石を使ったジャグリングをしていた。
「てんいしゃ、いたのか」
「さっき仕事終わったの。粘り石はどう?」
「ひえてるよ。スー、お仕事できてる?」
ジャグリングを止めたスラヴィアは、粘り石を夢に放り投げる。瞳には怯えの影が残っていたが、しっかりと見つめていた。両手でしっかりとキャッチし、掌に馴染むしっとりとした感触を確認する夢。
「……完璧」
「ほんと? ありがとう!」
スラヴィアが上機嫌になると、馬車の幌が開いた。昼食を調達してきた一行は、夢の姿を見るなりため息が漏れる。
「今日も無事に乗り越えたか。あと一日、まともでいてくれたら俺たちは釈放だ」
「カロック、お前には大事な仕事がまだ残っているじゃないか」
シュパーブが粘り石を袋に入れ、カロックに手渡す。忘れていて欲しかった望みが絶たれた彼は観念して、頭を掻いて夢に歩み寄った。
「飯食ったらヴァーソさんとこ行くぞ。厨房を借りる」
「はい!」
「返事はいいから。ほら、食え」
苦い顔をして黒パンを差し出す。野菜炒めが挟まっており、少し焦げた匂いが食欲を刺激した。黒パンの酸味が口の中を支配するが、夢は美味しそうに咀嚼していた。
「昼飯終わったら俺に付いてこい。ヴァーソさんの厨房を借りる」
「んん、分かり、ました……げほっげほっ」
「慌てるな! ったく、お前といるとほんと調子狂うわ……」
夢が食べ終わると、カロックと共にヴィクトリス商会へと足を運ぶ。孤児院で子どもたちと遊んでいる部下を横目に、薄暗い廊下に入ると、厨房担当の人に事情を説明する。
「澱粉糊を作りたい……、ですか」
「そうなんだよ。手紙送りたくて。そんなに時間かからないからさ」
「分かりました。夕食を作るまでには終わっていて下さいね」
「ありがとうございます!」
厨房担当の人が去っていくと、カロックは無言で顎をしゃくり、部屋に入るよう指示した。昼食を作った際の余熱が残っており、まだほんのりと温かい。夢は井戸水を張った桶をキッチンに置くと、粘り石を袋から取り出す。水に軽くくぐらせて、慣れた手つきで刃を立てる。
「こなれてるな」
「私、親が働いているので、自分で料理することもあるんですよ」
「はー。こういう所は俺たちと変わらないんだな」
剥き終えた粘り石を、今度は石鉢で叩く。予め叩きやすい薄さに切ったため、軽い力で潰すことができた。水に晒すと、白濁した澱粉が底に沈んでいく。
「次はどうするんですか?」
「火をかけて、ゆっくりかき混ぜる。ドロドロになるまでな」
薪に火をつけ、窯に投げ入れたカロック。鍋の中は白濁した液体で満ちていた。指示通りにかき混ぜる夢だが、湯気が容赦なく立ち上がる。「あっつ……」と思わず弱音が漏れるが、カロックは表情を変えず、黙々と火加減の調整に努めていた。
かき混ぜて三十分が経った頃、腕の感触が重たくなったのを感じた。白濁していた抽出物が、透き通るような透明へと姿を変えていたのだ。
「カロックさん! ドロドロになってきました! こんな早いんですか?」
「粘り石二、三個だろ? こんなもんじゃねえか? 少し火弱めるから、お前はかき混ぜ続けてくれ」
木べらに纏わりつく糊が、ますます粘度を増していく。試しに鍋から出してみると、チーズのように細長く伸びていく。
「もう少しですか?」
「ちょっと貸してくれ」
カロックは木べらで鍋をかき混ぜる。先ほどよりも粘度が強くなっており、纏わりつく量も増えている。
「良いだろう。あそこにある小さい壺、持ってきてくれ」
陶器と濡れた布をカロックに差し出すと、彼は造作もなく、熱々の糊を陶器に移し替えていく。厨房がより熱を帯びていくのを感じた。
「悪い。少しだけ貰うぞ。次行く場所の門番に手紙出さなきゃならねえから」
「分かりました。これくらいでいいですか?」
「ああ。充分だ」
残りの糊を陶器に移し替え、濡れた布で丁寧に蓋をする。カロックが火を消すと、僅かに薪が爆ぜる音が残り、厨房には静寂が訪れた。夢はカロックの面前に立ち、深々と頭を下げる。
「転移者はいつもこうだな。何度されても慣れない」
吐き捨てるようなぶっきらぼうな口調だったが、その目は夢という一人の人間ををしっかりと射抜いていた。




