第二部 盆
送り火は、道ば照らすもんたい。
どっちへん帰り道かは、火は言わん。
――淵迫の古老の言
――柏木日向子 取材ノートII(八月)より
八月二日
永国寺。幽霊寺の名で知られる古刹である。
ここには幽霊の掛軸が伝わっている。寺の由来によれば、その昔、球磨川に身を投げた女が幽霊となって現れ、時の和尚が、その姿を絵に描いて本人に見せ、諭して成仏させたという。掛軸の本物は、毎年八月上旬の「ゆうれい祭り」でのみ披露される。普段、寺で拝観できるのはレプリカである。淡い墨で描かれた、痩せた女の立ち姿。私は取材の名目で住職に面会を願い出て、思いがけず、長く話を聞くことができた。
住職は七十代の、声の柔らかい人だった。幽霊伝説の由来をひとしきり語ったあと、お茶を淹れ直しながら、ふっと、こんなことを言った。
「うちの幽霊はですな、有名になりすぎましたばってん――あん絵はもともと、見世物じゃなかとです。戒めですたい」
「戒め、ですか」
「川に入った者は、ほんとうなら、帰って来てはならんとです。あん女の人は、帰って来てしもうた。けん、和尚さんが絵に封じて、帰しなはった。――この土地じゃ、昔っから、分かっとったとですよ。川に入った者は、時々、帰って来る、ちゅうこつが」
湯呑みを持つ手が、止まった。住職は私の顔を見ずに、庭のほうを向いたまま、続けた。
「見ゆる、ちゅう言葉のあるでしょう。幽霊の見ゆる、ちゅう。あれはですな、こっちの目が良うなるとじゃなかとです。見ゆるごつなった、ちゅうこつは――もう半分、浸かっとる、ちゅうこつです」
私は、何も言えなかった。十八日の夕方の、あの濡れた足跡のことを、私は誰にも話していない。
淵迫について尋ねると、住職は初めて私のほうへ向き直り、静かに首を振った。
「淵迫さんのことは、うちからは、何も言えんとです。あすこは、うちの檀家じゃなか。あすこの仏さんは――うちの宗派じゃ、扱いきらんとですよ」
帰り際、山門まで送ってくれた住職は、別れの挨拶のあとに、一言だけ、付け加えた。
「記者さん。あなた、もう、見えとるとでしょう」
私は、答えられなかった。住職は、それ以上は何も言わず、合掌して、本堂へ戻っていった。
八月十三日
盆の入り。
夕刻からの灯籠流しを取材する前に、観音禅寺を訪ねた。人吉・球磨で初めて施餓鬼供養が行われた寺として知られる古刹である。歴代の住持には、相良家から迎えられた者も多い。本堂は再建されて新しいが、本尊の聖観音坐像を安置する観音堂は、六百年の時を負った佇まいだった。応対してくれたのは、四十代と思われる住職である。三度の焼失を経て、そのたびに再興されてきた現役の寺だと、住職は静かに説明した。
観音像の由来を尋ねると、住職は、ふっと笑って答えた。
「寺ができた折に安置された、ち伝わっとります。ばってん、ほんとうの由来は、残っとらんとです」
謂れの分からぬまま安置された、聖観音。三度の火災を、そのたびに焼け残った、聖観音。私は、寺の歴史を記したパンフレットの年表に、目を落とした。最初の焼失は、大永六年。火をかけたのは、当時の住持その人だった。相良家の血を引き、京の東福寺で学んで戻り、この寺の十三世を務めた、瑞堅という人物である。
自らが住持を務める寺に、自らの手で、火をかけた。
そして、その後の再興にも、相良家は力を尽くしたという。焼いて、また建てる。焼いたのは身内で、建て直したのも身内。私は、その矛盾の前で、しばらく動けなかった。なぜ、住持は、自分の寺を焼いたのか。
理由は、記録に残っていない、と住職は言った。一族の不和、出奔、いろいろに説かれてきたが、本当のところは分からない、と。ただ、と住職は、年表から目を上げて、ひとつだけ、付け足した。
「火ちゅうとは、燃やすためばかりじゃ、なかとですよ」と住職は言った。「昔の人は、火で、浄めもしました。――どうしても消さんといかんもんが、燃やすしか手のなかもんが、あったとかもしれません。寺ごと、焼かにゃ、ならんほどの」
施餓鬼供養のことを尋ねると、いまは檀家と寺だけで営むため詳しくは話せない、と住職は言葉を濁した。代わりに、と話は自然に六年前の水害に及び、住職は、今日の夕刻に行われる灯籠流しのことを教えてくれた。
「私も出ますよ」と住職は言った。「きれいなもんです。――流すとは、送るためですけんね。送ったもんが、ちゃんと、下へ往きますように、ち」
下へ往きますように。その念押しの言い方が、なぜか、耳に残った。送ったものが、上へ戻らぬように、と聞こえたのだ。
半ば促されるように、私は寺を辞した。
* * *
市街の川辺は、六年前にすべてを呑んだ同じ川とは思えないほど、穏やかで、美しかった。灯籠流しの会場は、寺からほど近い河原だった。
読経。焼香の列。流される灯籠の、橙色の群れ。水面に火の色が滲んで、川一面が、ゆっくりと下流へ動いていく。亡くなった人々への祈りの風景として、私はこれを、記事の冒頭に置こうと決めた。決めて、シャッターを切り続けた。
異変に気づいたのは、灯籠の群れが橋をくぐって、流れの速いところへ差しかかった頃だった。
一基だけ、遡っていた。
ほかのすべての灯籠が下流へ流れていくなかで、その一基だけが、ゆっくりと、流れに逆らって、上流へ動いていた。風はなかった。仮に風があったとしても、あの流速に逆らえるはずがない。灯籠は、まるで水面の下から誰かに曳かれているように、静かな速さで、上流へ――淵迫のある方角へ、進んでいった。
送ったものが、上へ、戻っていく。住職の念押しの意味が、わかった気がした。この土地の人々は、知っているのだ。送っても、戻ってくるものが、あることを。だから、わざわざ、下へ往け、と祈る。
私は隣にいた年配の男性に、あれ、と指をさしかけた。
男性は、私の指の先を見なかった。最初から、一度も、そちらを見ていなかった。気づいていないのではない。川辺にいた人々の誰ひとりとして、あの一基のほうへ、顔を向けていなかった。皆、見事なほどに、見ていなかった。
見ないことが、作法なのだ。
私はカメラを構え、遡る灯籠に向けて、何度もシャッターを切った。そのとき、横から、すっと手が伸びて、私のレンズを、柔らかく下げさせた。さっきの年配の男性だった。男性は私を咎めるでもなく、むしろ気の毒そうな顔で、小さく言った。
「撮らんほうが、よかですよ」
それから、群衆に紛れて、いなくなった。
〔編者注――同封のSDカードを確認したが、八月十三日夜の写真データは、一枚も存在しない。削除された形跡ではない。撮影された形跡そのものが、ない。柏木のカメラの撮影記録は、八月十三日の昼で止まり、次は八月十四日の朝から再開している〕
八月十四日
淵迫の盆を見るために、午後から地区に入った。
最初に気づいたのは、人が、増えていることだった。
七月に歩いたとき、日中の淵迫で人影を見ることは稀だった。それが今日は、そこかしこに人がいる。庭先で茶を飲む人。畑のあぜに立つ人。縁側に並んで座る人々。盆の帰省だ、と最初は思った。都会に出た子や孫が、戻ってきているのだと。
だが、車が、一台も増えていない。
地区の駐車スペースは七月と同じ顔ぶれの軽トラックと農機具のままで、他県ナンバーは一台もない。鉄道はまだ復旧していない。バスは日に二本。今日のバスから降りた客は、私が確かめた限り、ゼロだった。
では、この人たちは、どこから来たのか。
そして、もうひとつ。彼らは皆、どこかが、濡れている。
ズボンの裾。袖口。髪の生え際。スカートの腰のあたり。ひとりひとりは「水仕事のあと」「汗」で済む程度の濡れ方だ。だが、全員となると、話が違う。縁側に並ぶ人々の、座っている座布団の縁にだけ、薄く濡れた色が滲んでいるのを、私は見てしまった。
住民たちは、彼らと、ごく普通に話している。お茶を出し、畑のものを持たせ、孫の話か何かで笑い合っている。「戻ってきなはったね」と声をかけているのを、二度、聞いた。お帰りなさい、ではなく、戻ってきなはったね。その言い回しの、わずかな距離。
* * *
堤防で、琴葉に会った。
琴葉は私を覚えていて、おねえさん、まだおったと、と言った。呆れたような、それでいて、少しだけ嬉しそうな顔だった。盆ん前に帰れと言ったのに、という意味だろう。帰らなかった理由を、私は、仕事だから、と答えた。半分は本当で、半分は、もう、自分でも分からない。
琴葉と並んで、堤防に座った。琴葉はぽつぽつと、家の話をした。母と二人暮らしであること。母は市街のスーパーで働いていること。父のことを聞くと、琴葉は、川を見たまま言った。
「父ちゃんは、おらん」
「……六年前の水害で?」
「ちがう」と琴葉は首を振った。「水害んときは、おった。おらんごつなったとは、その後。――父ちゃんは、川下に行ったと」
「川下に? お仕事で、下流の町に住んでるってこと?」
琴葉は、答えなかった。代わりに、大人がするような、諦めた笑い方をした。十歳の子供が、してはいけない笑い方だった。
「おねえさんは、よそん人やけん、分からんとよ」と琴葉は言った。「川下に行く、ちゅうとはね、――」
そこで琴葉は、急に立ち上がった。川面を指さして、声を上げた。
「来た! おねえさん、魚の来たよ!」
* * *
最初、私には、白い帯が見えた。
夕暮れの川面の下を、白い、大きな帯のようなものが、ゆっくりと上流へ動いていた。一つではない。二つ、三つ――群れだった。一体あたりの長さは、人の背丈ほどもある。球磨川に、あんな大きさの魚はいない。少なくとも、群れをなすほどには。
白い影たちは、流れに逆らって、音もなく、淵迫の前の淵へと、次々に入ってきた。
気がつくと、堤防には、住民たちが出てきていた。十人、二十人。誰も騒がない。誰も網を持たない。誰も写真を撮らない。皆、ただ静かに堤防に並んで、白い群れが淵に入ってくるのを、見ている。それは漁の風景でも、見物の風景でもなく――強いて言えば、駅のホームで、列車を出迎える人々の風景に、いちばん近かった。
「あれが、お盆の魚」と琴葉が言った。「お盆んときだけ、川下から、上ってくると」
私は、目を凝らした。白い影の一つが、淵の浅いところで、ゆっくりと身をひるがえした。その時、影の輪郭が、夕方の光の加減で、一瞬、はっきりと見えた。
魚だった。
魚だった、と書いておく。書いておかないと、別のものだったことに、なってしまいそうだから。ただ、その魚の腹側に、ひれとは別に、四つ、何かが折り畳まれているのが見えた。長くて、細くて、関節のあるものが、四つ。
私は、それ以上、見なかった。見ないことが、この土地の作法だからだ――と書きかけて、手が止まる。私はいつから、この土地の作法を、自分の作法のように書くようになったのだろう。
八月十五日
送り盆。夕刻、再び淵迫へ。
送り火を焚くのを見せてもらうつもりだった。盆の終わり、迎えた霊を送り帰すための火である。私の郷里でも、玄関先で焙烙に苧殻を焚いて、煙で霊を送る。だから私は、家々の前で焚かれる小さな火を想像していた。
淵迫の送り火は、違った。
日が落ちると、川岸から、集落の奥へ向かって、小さな火が、点々と、一直線に灯されていった。等間隔に置かれた皿の上で、油が燃えている。火の列は、川の渡し場のような場所から始まって、田のあいだを抜け、集落の道を通り、山裾の奥へ――岩戸家のある方角へと、続いていた。
送り火は、霊の帰り道を照らすものだ。それは、いい。だが、帰り道とは、どちらへの道なのか。
家から川へ、霊を送るための火なら、私にも分かる。しかし、この火の並びは、逆だった。川から、家々へ。川から上がってくる者のために、道を照らしている。
火の列のいちばん川寄りの一皿に、火を入れていた老人に、思い切って尋ねた。これは、送り火ですか、と。老人は手元の火から目を離さずに、答えた。
「送り火たい」
「でも、火が、川から家のほうへ――」
「送り火ちゅうとはな、姉さん」と老人は言った。「道ば照らす火、ちゅうこったい。照らしときゃあ、迷わんけん。――どっちへん帰り道かは、火の知ったこつじゃなか」
ふと、昼間の観音禅寺の住職の言葉が、よみがえった。火で、浄める。どうしても消さんといかんもんが、燃やすしか手のなかもんが、あった。あの寺を焼いた住持も、ことによると、こうして燃やす火の意味を、知っていたのではないか。送る火と、浄める火。どちらも、戻ってくるものに、向けられている。
その夜、淵迫の盆は明けなかった。
少なくとも、私の目には、そう見えた。送り火が燃え尽きても、昨日の「帰省客」たちは、誰ひとり、いなくならなかった。今朝もう一度、地区の入り口まで車を走らせて確かめた。縁側に、畑に、彼らはまだ、いる。濡れた裾のままで。
女将の言葉の意味が、ようやく、本当に分かった。
淵迫は、お盆が、長い。
終わらないことを、この土地では、長い、と言うのだ。
八月十六日
岩戸家跡に、入った。
先に書いておく。これは取材倫理に反する行為だ。所有者の許可のない、半壊家屋への立ち入り。言い訳はしない。ただ、市役所で確認した限り、岩戸家の屋敷は公費解体の申請リストに六年前から載ったまま、一度も着工されていない。担当課は理由を「所有者と連絡が取れないため」と言った。所有者は、所在不明の、あの祖父と孫である。連絡など、取れるはずがない。取れるはずがないのに、リストから外されもせず、六年、宙に浮いている。市の若い職員は、書類を繰りながら、小さな声で言った。「あそこは、ちょっと、うちでも、ようと分からんとです」。
屋敷は、集落の最奥、山裾にあった。
大きな家だ。茅葺きを鉄板で覆った屋根が半ば落ち、雨戸は歪み、庭は夏草に呑まれている。それでも、玄関の脇には、あの青黒い石が――地区のどの家のものより一回り大きい石が、据えられていた。石は、濡れているどころではなかった。表面を、water が、いや、水が、薄い膜になって、絶えず流れ落ちていた。湧いているのだ。石から。
(読み返して気づく。いまの一文、私は一瞬、水という日本語が出てこなかった。疲れている。)
家の中は、湿った闇だった。畳は腐れ落ち、床板が抜け、黴が、壁という壁に、渦を巻いて広がっていた。渦。そうとしか言えない。黴は普通、地図のような不定形に広がる。この家の黴は、どの壁でも、明確な渦巻きを描いていた。同じ向きの渦を。
奥の土間から、蔵に入った。
蔵の中だけが、奇妙に、保たれていた。湿ってはいる。だが崩れていない。石組みの床の中央が一段低くなっていて、井戸のような正方形の穴があり、木の蓋がされていた。その脇の棚に、帳面の山があった。
帳面の一つに、目を向ける。「水位帳」と書かれてあった。
和綴じの帳面が、年代順に、何十冊。表紙にはどれも「水位帳」とだけある。一番古いものは、虫食いと水損でほとんど読めないが、元禄の年号が見えた。私は、読める範囲を、夢中で書き写した(資料三)。
要点だけ、ここに書く。
帳面の中身は、数値の羅列である。毎朝、日付と、寸尺の単位の数値。後の時代はセンチメートル。何の数値かは書かれていないが、蔵のあの蓋の下の、石の濡れ線の高さだと、私は確信している。
数値は、ゆっくりと波打ちながら、おおむね一定の範囲に収まっている。だが、数十年に一度、数値がせり上がっていく年がある。せり上がりが、ある線を越えようとした年――その頁には、必ず、朱書きがある。
「返シ済」
朱書きの年を、書き出した。読める範囲で、元禄、宝暦、文政、明治、昭和十年代、そして――昭和四十年。間隔は、五十八年、六十一年、五十九年、六十二年。ほぼ、六十年。
昭和四十年の「返シ済」が、最後の朱書きである。
帳面は、その後も毎日、几帳面に続いている。数値は、平成の終わりごろから、じわじわと、せり上がりはじめている。そして、最後の冊。最後の頁。
令和二年七月三日。数値の欄は、書きかけの墨が、水に流れたような跡を残して、途切れていた。
翌日からの頁は、白い。
「返シ」の朱書きは、どこにも、ない。
【資料三】岩戸家「水位帳」写し(抄)・柏木注記
〔朱書「返シ済」の確認できた年と、前回からの間隔〕
元禄十六年(読み取り部分最古)
宝暦十一年――五十八年
文政五年――六十一年
明治十四年――五十九年
昭和十八年――六十二年
昭和四十年――(注・二十二年。例外的に短い。後述)
〔柏木注記一〕昭和十八年から昭和四十年の間隔だけが、極端に短い。昭和十八年の頁の朱書きには、他の年にはない添え書きがある。「不足」。返しは行われたが、足りなかった、と読める。だから次が早く来た、ということか。
〔柏木注記二〕昭和四十年を起点に約六十年後は、令和七年から八年。つまり、今年だ。
〔柏木注記三〕令和二年七月三日で記録は途絶。返シの朱書きなし。水位の数値は、最後の頁の時点で、過去のどの「返シ済」の年の数値よりも、すでに高い。
〔柏木注記四〕この帳面が正しいなら、結論はこうなる。期限は今年。返す者は、六年前からいない。そして水位は、帳面の外で、いまも上がり続けている(資料一参照)。
八月十六日(続き)
蔵を出ると、日が暮れかけていた。
そして、庭に、男が立っていた。
あの男だった。坂で会釈をした、白い顔の若い男。男は、不法侵入者である私を咎める様子もなく、むしろ、待っていたように、軽く頭を下げた。
「見つけなはったですか」と男は言った。
「……水位帳のことなら、見ました。書き写させてもらいました。勝手に入ったことは、謝ります」
「よかですよ」と男は言った。「読まるるなら、読んでよかです。もう、誰の読んでも、変わらんけん」
私は、一歩、踏み込んだ。記者として、踏み込むべき場面だった。あるいは、人間として、踏み込んではいけない場面だった。
「岩戸湊さん、ですよね。令和二年の七月から、所在が確認できていない」
男は、怒らなかった。驚きもしなかった。ただ、静かに、笑った。
「所在なら、あります」と湊は言った。「ずっと、ここに」
「六年前の夜、何があったんですか。あなたと、お祖父さんに」
湊は、しばらく黙っていた。夕暮れの薄闇のなかで、彼の輪郭だけが、妙にくっきりとして見えた。影が、薄いのだ、と気づいた。私の影が庭石まで長く伸びているのに、湊の足元の影は、彼の足のすぐ際で、滲んで終わっていた。
「じいちゃんは」と湊は言った。「最後まで、帳面ば付けよらした。あん晩も。水ん上がってくるなかで、――間に合わんかった」
「あなたは」
「俺は」
そこで初めて、湊の顔から、表情というものが、すっと引いた。
「俺は、足りんかった」
「足りなかった……? それは、どういう」
「もう、盆ですけん」と、湊は話を畳んだ。表情が、もとの穏やかさに戻っていた。「あんたは、よか人です。こげなとこまで調べに来る人は、久しぶりです。ばってん――」
湊は、私の足元を、ちらりと見た。
「よか人から、濡れていくとですよ」
それだけ言うと、湊は会釈をして、屋敷の裏手へ歩いていった。私は彼の背中を見送りながら、足音がしないことには、もう驚かなかった。ただ、彼の歩いたあとの、乾いた地面に残る濡れた足跡を、目で追った。
足跡は、最初の数歩は、人の足の形をしていた。
それから、歩幅が、すこしずつ、広くなった。
最後の数歩の間隔は、人間の歩幅では、ありえなかった。
そして足跡は、屋敷の裏手の、あの蔵の方角へ――蔵の中の、木の蓋のされた、四角い穴の方角へ続いて、途切れていた。
八月十七日
人吉城跡、歴史館。
確かめたいことがあった。城跡には、用途不明の地下室遺構が現存する。武家屋敷跡から発見された、石組みの地下空間。中央に井戸を持つ。何のための施設か、いまも定説がない。
見学して、確信に変わった。石の積み方、四角い水場を囲む構造、空間の寸法の感じ――岩戸家の蔵の、あの石組みの床と、同じ意匠である。
帰りの車で、仮説を組み立てた。相良氏は、七百年、この盆地を治めた。外様の小藩が、戦国も、関ヶ原も、幕末も、ただの一度も国替えなく生き延びた。歴史家はそれを外交の妙と地勢で説明する。だが、もし、藩が代々、淵迫の岩戸家の「役目」を知っていて、藩ぐるみで、それを支え続けていたのだとしたら。城内のあの地下室が、岩戸家の蔵の「写し」――万一、本家の儀礼が絶えたときのための、控えの祭場だったとしたら。
七百年の安泰は、忠誠の褒美ではなく、契約の配当だったことになる。
そして、もうひとつ。昨日から、頭を離れないことがある。観音禅寺を焼いた、あの瑞堅という住持のことだ。相良の血を引く者が、自らの寺を、自らの手で焼いた。火で浄める、と今日の住職は言った。寺ごと焼かねばならぬほどのものが、あったのかもしれない、と。
もし、その寺が建っていた土地に、あるいはその寺が祀っていた何かに、戻ってきてはならないものが、入り込んでいたのだとしたら。水で戻るものを、火で断つ。水位帳の家が「返す」ことで宥めるのなら、寺を焼いた住持は、別の手で――火で、断とうとしたのではないか。同じ相良の支配の裏側で、宥める者と、断とうとした者が、いたのではないか。
仮説だ。仮説にすぎない。だが、この仮説だけが、水位帳と、地下室と、焼けた寺と、「奇跡の集落」と、終わらない盆とを、一本の線で繋ぐ。
* * *
夜。宿で、ここまでのノートを読み返した。
読み返して、気づいたことを、正直に書く。
私は、この頃、やたらと水の言葉で書いている。質問が喉で淀んだ、と書いている。記憶の底に沈めた、と書いている。話を掬い上げる、湿った沈黙、滲む違和感。土地に呑まれている、という比喩を使いかけて――呑まれる、も、もう水だ。
東京で書いていた頃の私の原稿に、こんな癖はなかった。
文体は、その人の足場だ。足場が、濡れはじめている。
今夜、天井に、染みが浮いているのを見つけた。昨日まで、なかったはずの場所に。染みの形は、見ようによっては魚に見えるし、見ようによっては、人に見える。私は電気を消して、見ないことにした。
見ないことが、この土地の作法だと、私はもう、覚えてしまっている。




