第一部 乾かない町
盆ん長か家にゃ、嫁に行くな。
盆ん長か里にゃ、近寄んな。
――球磨郡淵迫 古老の言い伝え
【編者序文】
ここに収めるのは、柏木日向子という一人の記者が遺した記録である。
柏木は東京を拠点とするフリーランスの記者で、私とは、彼女がまだ出版社の契約ライターであった時分からの知り合いだった。独立してからも、年に数本、私の関わる媒体に原稿を書いてもらう、その程度の間柄である。歳は二十九。仕事は丁寧で、締切に遅れたことは一度もなかった。
本年、二〇二六年の十月初め、私のもとに一通の厚い封筒が届いた。差出人の名はなく、消印は熊本県の人吉郵便局。中身は、手書きの取材ノートが三冊、ICレコーダーが一台、資料の写しが一束、そして数枚の、ばらばらのメモ用紙だった。ノートの筆跡は、間違いなく柏木のものである。
柏木本人とは、九月の半ばから、連絡が取れていない。電話は繋がらず、メールへの返信もない。彼女が夏のあいだ、熊本県の人吉・球磨地方に取材に入っていたことは、七月にもらった短いメールで知っていた。「面白いものを見つけました。まとまったら、最初に持ち込みます」――それが、私が受け取った、彼女からの最後の言葉である。
私は、届いた文書のすべてを読んだ。そして、長く、これをどう扱うべきか、決めかねていた。これを公にすることが彼女の望みなのか、それとも、誰の目にも触れさせぬことが彼女を守ることになるのか、私には判断がつかなかった。最終的に、ほぼ原文のまま世に出すことを選んだのは、ノートの最後のほうに、彼女自身の手で、こう書かれていたからである。「読まれなければ、いなかったことになる」。
以下、文書は可能なかぎり原文のまま収める。固有名詞の一部は、関係者への配慮から仮名に改めた。判読不能の箇所は[ ]で示す。ノートの後半には、水に濡れて乾いた跡が多く、判読不能箇所は頁を追うごとに増える。
ひとつだけ、編者として書き添えておくべきことがある。
白状すれば、出所の知れぬ文書を預かるのは、これが初めてではない。昨年、私はある手記を――阿蘇の山中の、地図に載らぬ集落について書かれた、一束の手記を――受け取っている。誰から、どのような経緯で私の手元に来たのか、それすら判然としないまま、私はあれを、まだ公表できずにいる。本書は、いわば、二束目である。
二束目を整理しているあいだ、奇妙なことが、ひとつだけあった。柏木のノートは、何度、陰干しをして乾かしても、数日経つと、頁の同じあたりが、また、しっとりと湿り直すのである。理由は、分からない。
編者識
――柏木日向子 取材ノート1(七月)より
<七月十二日>
人吉、入り。
熊本駅前で借りたレンタカーで、九州自動車道を南へ。山また山。トンネルを抜けるたびに、空が狭くなる。人吉インターで降りると、盆地の底に、町が見えた。
移動のあいだ、サービスエリアで横田の署名記事を読んだ。同期でいちばん要領のいい男だ。災害遺構の保存問題。いい記事だった。悔しいが、いい記事だった。私には、まだ何もない。二十九歳、フリーになって二年、署名で覚えてもらえる仕事は一本もない。編集部に「柏木さんって、誰でしたっけ」と言われない程度の顔。その程度の私が、貯金を崩して、人吉に来た。
淵迫にだ。
経緯は整理しておく。各誌が「水害から六年」の特集を組む夏である。同じ角度では売れない。事前リサーチで令和二年七月豪雨の被害マップを眺めていて、私は、奇妙な空白に気づいた。淵迫地区。球磨川本流と支流の合流点に近く、推定浸水深は市街地以上。それなのに――死者・行方不明者、ゼロ。地元紙の見出しは「奇跡の集落」。記事は発災翌月の一本きり。続報、なし。SNSにも、淵迫の情報は不自然なほど少ない。
奇跡には、二種類ある。本当の奇跡と、誰かが奇跡ということにした何かと。後者なら、記事になる。
我ながら、嫌な書き方だ。だが、ノートにくらいは正直に書く。私は、奇跡の裏を取りに来た。
* * *
午後、市街を歩いた。
青井阿蘇神社。国宝の楼門。六年前、ここまで水が来た。茅葺の楼門が濁流に浸かる映像を、私も東京の部屋で見ていた。いま、楼門は静かに建っている。蓮池には蓮の花。修復の済んだ社殿。境内に、あの夏の水位を示す標が立っていて、それは私の背丈より、ずっと高いところにあった。
川沿いの温泉旅館街。再建されて新しい暖簾を掛けた宿と、更地のままの区画とが、交互に並ぶ。鉄道はまだ戻っていない。川沿いの線路は流され、復旧の議論が、六年経った今も続いている。
慰霊碑に、手を合わせた。
記事のためではなく――いや、正直に書くと決めたのだった。半分は、記事のためだった。手を合わせている自分を、どこかで「取材の所作」として確認している自分がいた。こういう自分の半端さが、私は昔から嫌いだ。残りの半分だけは、本物だったと、思いたい。
* * *
宿は市内の小さな温泉民宿にした。女将は六十がらみの、よく喋る人で、夕食の膳を運びながら、私の取材先を聞いてきた。淵迫、と答えた瞬間の、女将の顔を、私は忘れないと思う。
笑顔のまま、目だけが、すっと引いた。
「淵迫さんなぁ」と女将は言った。「あすこは、お盆が長かけんねぇ」
「お盆が、長い?」
「取材なら、盆ん前がよかですよ。盆に入ったら、あすこんもんは、よそん人とは、口ばきかんごつなるけん」
それだけ言うと、女将は、ごゆっくり、と膳を置いて出ていった。お盆が長い。風習の話だろう。旧盆を長めに祝う地区は、九州には珍しくない。そう、メモした。いま読み返すと、この日の私は、まだ何も分かっていない。
<七月十三日>
淵迫、初訪問。
市街から車で二十分。球磨川を渡り、支流沿いの県道を遡る。橋を渡った瞬間のことを、どう書けばいいのか、まだ言葉が見つからない。空気が変わった、としか言えない。フロントガラスが、内側から薄く曇った。エアコンの設定は変えていない。七月の、よく晴れた日だった。
淵迫は、三十戸ほどの集落である。山裾に沿って家が並び、集落の前を支流が流れ、その向こうは田圃。風景としては、どこにでもある、美しい山里だ。
ただ、音が、籠もる。
車を降りて最初に感じたのは、それだった。蝉の声も、川音も、確かに聞こえているのに、すべてが一枚、薄い膜の向こうで鳴っているように、籠もって聞こえる。湿度のせいだと思った。実際、湿度は異様だった。歩いているだけで、シャツが肌に貼りつく。靴の中まで、湿ってくる。雨は、もう一週間、降っていないはずだ。
集落の入り口に、看板があった。
「淵迫地区地下水位低減事業 令和三年度~ 熊本県・人吉市」
その奥に、プレハブのポンプ小屋。低い駆動音が、絶え間なく続いている。あとで市の資料を確認すると、水害の翌年から、この排水ポンプは、ほぼ六年間、回りっぱなしだという。地区の地下水位が、下がらないからだ。
歩いて回った。気づいたことを、順不同で書く。
再建されたばかりらしい家の、真新しいサイディングの壁に、腰の高さで一直線、薄い染みが走っていた。浸水痕かと思って、近づいて、ぞっとした。この家は、どう見ても、水害の後に建った家なのだ。染みは、外から付いたのではない。壁の、内側から、滲んでいた。
どの家の軒先にも、玄関の脇に、小さな丸い石が置いてある。青黒い石で、表面が、濡れている。打ち水かと思ったが、石の周りの地面は乾いている。石だけが、濡れている。
住民への接触は、ことごとく、柔らかく失敗した。畑にいた老人に名刺を出すと、言い終える前に、ああ、と柔らかく遮られた。「うちんとこは、もう、よかですけん」。怒気はない。敵意もない。ただ、戸が閉まるように、それで終わる。三人に試みて、三人とも、同じだった。よか、という言葉の柔らかさと、その奥の固さ。
* * *
収穫がひとつだけあった。帰りぎわ、堤防の上に、女の子がひとり、座っていた。
小学校の中学年くらい。麦わら帽子。じっと、川を見ている。私が近づくと、先に向こうが口をきいた。
「おねえさん、よそん人?」
「うん。東京から来たの。記者をしてる」
「きしゃ?」
「新聞とか、雑誌の記事を書く人」
「ふうん」
女の子は、川から目を離さなかった。名前を聞くと、琴葉、と教えてくれた。淵迫の子だという。何をしているのか聞くと、琴葉は、当たり前のことのように言った。
「魚ば、待っとると」
「魚? 釣り?」
「ちがう」と琴葉は首を振った。「お盆に来る魚。今年は早う来るかもしれんち、母ちゃんの言いよらした」
お盆に来る魚。聞き返そうとしたとき、集落のほうから、女の人の呼ぶ声がして、琴葉は立ち上がった。走り去る前に、一度だけ振り返って、琴葉は言った。
「おねえさん、盆ん前に、帰んなっせよ」
子供の言う言葉ではなかった。いや、子供だから、言えたのかもしれない。大人たちが「よかですけん」の戸の奥にしまっているものを、琴葉は、戸を作らずに、そのまま口にした。それだけのことかもしれない。
車に戻ると、フロントガラスが、また内側から曇っていた。
<七月十五日>
市立図書館と郷土資料館。終日、紙の中。
人吉球磨の水害史を遡る。この土地は、繰り返し、水に襲われてきた。記録に残るだけでも、江戸期から幾度も。近代以降では、昭和四十年七月の洪水が大きい。市街の浸水、流失家屋。古い新聞の縮刷版で、当時の紙面を追った。
そして、見つけた。
昭和四十年七月五日付、地方版の隅。小さな記事だ。全文を写す。
「球磨郡淵迫地区 被害は軽微 住民二名の行方不明続く」
淵迫地区は地形の関係か本流増水の影響軽微にとどまった。しかし三日夜より、同地区の岩戸家長男(二〇)ら住民二名の行方が分からなくなっている。両名の家屋に浸水の形跡はなく、座敷の畳の一部が濡れていたほかは、荒らされた様子もないという。警察は増水した川に近づいた可能性もあるとみて捜索を続けているが、五日夕現在、手がかりは見つかっていない。
読み終えて、しばらく、動けなかった。
水害の夜に、水害ではない形で、人が消えている。家は浸かっていない。畳だけが、濡れていた。
六十一年前の話だ。それだけなら、痛ましい昔の事件で終わる。だが、私は令和二年の「奇跡の集落」の記事を、もう一度、引っ張り出した。発災翌月の、あの一本きりの記事。改めて読むと、最後の段落に、こうあった。「同地区では発災当夜より高齢男性と孫の男性の所在が確認できていないが、家族・地区は『所用で他出している』としており、行方不明者には数えられていない」。
同じだ。
昭和四十年と、令和二年。水害の夜。浸からなかった集落。消える人。出されない届。
約六十年を挟んで、淵迫では、同じことが、起きている。
<七月十六日>
市役所で、開示請求できる範囲の資料を集めた。担当の若い職員は親切だったが、淵迫の話になると、少しだけ、声が小さくなった。
地下水位の観測データを見せてもらう。詳細は別に写しを取った(資料一)。要点だけ書く。淵迫一号観測井の地下水位は、令和二年の水害以降、六年間、ほぼ単調に上がり続けている。途中、渇水注意報の出た年さえ、上がっている。排水ポンプが回り続けているのに、である。職員の説明は「観測機器の不調の可能性」。六年間、不調。交換しないのかと聞くと、二度交換した、と言った。二度とも、同じ値を示した、と。
それから、人口。
市の統計で、淵迫地区の人口推移を確認した。水害前、八十一人。現在、七十九人。六年で、二人減。──おかしい。この六年、人吉市全体の人口減少率からすれば、三十戸の山里なら、一割は減っていなければならない。高齢化率を考えれば、自然減だけでも、もっと減る。転出の記録は、数件ある。転入の記録は、ゼロ。死亡届も、数件ある。それなのに、減ったのは、二人。
数字が、合わない。いや、違う。
数字が、合いすぎている。誰かが減るたびに、誰かが、補充されているような、不自然な静止。そして補充されたはずの「転入者」は、記録の上に、存在しない。
夜、宿で名簿の写しと統計を並べて、深夜まで突き合わせた。窓の外で、川の音がしている。ふと、手が止まった。この宿は、川から離れている。三日前から泊まっているが、川音など、聞こえたことはなかった。
窓を開けると、音は、やんだ。
<七月十八日>
夕方、三度目の淵迫。
琴葉には会えなかった。代わりに、と言っていいのか、坂の途中で、若い男とすれ違った。
二十代の半ばくらい。Tシャツに、サンダル。日に焼けていない、白い顔。すれ違いざま、男は私に、丁寧に会釈をした。よそ者の私に、この集落で初めて向けられた、まともな挨拶だった。私も会釈を返した。それだけのことだ。それだけのことの、はずだった。
数歩、歩いてから、私は気づいた。
足音が、しなかった。
振り返ると、坂の上に、男の姿は、もうなかった。代わりに、乾いた舗装の上に、点々と、濡れた足跡が残っていた。サンダルの形の、濡れた足跡。それは坂の上へと続いて、途中で、ふっつりと、途切れていた。
足跡は、見ているあいだに、端のほうから乾いて、消えた。七月の夕方の、まだ熱の残る舗装の上で、それは、ごく自然なことのはずだった。ごく自然なことが、これほど見たくないものであることが、あるのか。
* * *
宿に戻って、昭和四十年の紙面のコピーを、もう一度、出した。
確かめたいことが、あったからだ。確かめたくないことが、と書くべきかもしれない。
記事の脇に、行方不明者の顔写真が載っている。粗い網点の、白黒の、若い男の顔。岩戸家長男、二十歳。六十一年前に、濡れた畳だけを残して消えた男。
私は、その顔を、知っていた。
今日の夕方、淵迫の坂で、私に会釈をした男だった。
見間違いだ、と書くべきなのだろう。網点の粗い白黒写真と、夕暮れの一瞥。記者なら、この程度の符合で筆を走らせてはいけない。分かっている。分かっているから、今夜は、これ以上書かない。
ひとつだけ。
人吉の夜は、東京より、ずっと静かだ。静かすぎて、耳の奥で、何かが満ちてくる音がする。
――――――
【資料一】淵迫一号観測井 地下水位記録(写し)・柏木注記
出典:人吉市資料(開示)。単位はメートル、地表面からの深さ。値が小さいほど水位が高い。
令和二年八月 マイナス六・八〇
令和三年八月 マイナス六・一二
令和四年八月 マイナス五・四八
令和五年八月 マイナス四・七一(※同年、県南渇水注意報)
令和六年八月 マイナス三・九五
令和七年八月 マイナス三・二〇
令和八年六月 マイナス二・六六
〔柏木手書き注記〕六年で四メートル強の上昇。降雨と無相関。ポンプ稼働下で。機器不調は二度交換済みで否定される。この値が正しいなら、淵迫の地面の下、二メートル半のところまで、水が来ている。/もうひとつ。数列をよく見ること。上昇の幅が、年々、わずかに大きくなっている。水は、満ちながら、速くなっている。
【資料二】住民談話書き起こし(淵迫地区・女性・八十代)
七月十六日収録。畑仕事の手を止めて応じてくれた、唯一の住民。氏名は伏せる。録音時間一二分のうち、抜粋。
――お盆が、長い、と聞きました。淵迫のお盆は、いつからいつまで、なんでしょうか
長かよぉ。十三日に迎えてなぁ、十五日に送って。そいでん、うちんほうはなぁ、送ってから後の、長かと
――送ってから後、というのは。送り火を焚いた後も、何か行事が続くということですか
行事ちゅうこつじゃなか。送り火ば焚いてもなぁ、帰らん人の、おらすとたい
――帰らない人。それは――亡くなった方の霊が、お盆が終わっても、帰らない、という意味ですか
(しばらく無言)
あんた、東京ん人ねぇ
――はい
東京じゃ、死んだ人は、遠かとこに行きなはるとやろ。うちんほうはなぁ、近かと。すうぐ、そこ。川ん下。田ん下。家ん下。近かけん、盆なら、すぐ帰って来らすと。近かけん――帰りそびれる人も、おらすとたい
――帰りそびれた方は、どうなるんですか
そんまま、おってもらう
――おってもらう、というのは
住んでもらう、ちゅうこったい。なんも、珍しかこつじゃなかよ。昔っから、そぎゃんしてきたと
――(数秒の間)岩戸さんのお宅のことを、伺ってもいいですか
……あんた、よそん人やろ。よそん人が、岩戸様んこつば、訊くもんじゃなか
〔以降、約四〇秒、応答なし。録音には風音のような連続音。ただし収録時、現場は無風であった。再生環境によっては、この連続音は、遠い波音にも聞こえる。淵迫から海までは、直線でも五〇キロ以上ある〕
……盆ん前に、帰んなっせ。あんた、よか人らしかけん、言うとくたい。盆に入って、淵迫におったら――数に、入れらるるよ
〔録音、ここで終了。終了操作の記憶が、私にはない〕




