表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
九州の地下に眠る海  作者: めこねこ
第一章 阿蘇の深淵

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/3

第三幕 火口の底へ

戸ば、開けるな。


――椎葉宗一郎 最期の言葉





 葬儀は、予定どおり十時から、本家の奥座敷で営まれた。


 私は昨夜見た、幻のような影のことが頭から抜けず、明け方まで眠れなかった。それでも夜が白む頃に、いつのまにか短い眠りに落ちていた。目が覚めると、障子の外はもう明るかった。

 昨夜の影のことを思い出して、私は縁側に出てみた。だが、そこには何の痕跡もなかった。濡れた跡も、足跡も、何も。十一月の朝の、乾いた板張りの縁側があるだけだった。


 ただ、縁側の手すりに、一枚、見たことのない葉が落ちていた。海藻のような、薄い緑色の、湿った葉だった。祭壇に供えられていた、あの名の知らぬ花と同じものだった。私はそれを拾おうとして、指が触れた瞬間、それが葉ではなくぬめりのある何か動物の一部のような感触であることに気づき、手を引っ込めた。もう一度見ると、それは、ただの枯れ葉に見えた。


 私は、それ以上、確かめなかった。


 葬儀には、昨夜の通夜よりも多くの人が集まっていた。十四軒の集落に、これだけの人間がいたのか、と私は驚いた。あるいは、灰塚以外の土地からも、参列者が集まったのかもしれない。皆、黒い喪服を着ていたが、その黒は、どれも妙に古びていた。黒なのに色褪せて、長いあいだ箪笥の奥にしまわれていたような、湿った黒だった。


 読経が始まった。


 昨夜、通夜の場で聞いた、あの節の違う読経である。坊主は、ひとりだった。年老いた痩せた坊主で、顔は逆光になっていてよく見えなかった。経文は、最初のうちは私の知っているお経に似ていた。だが、進むにつれて、それはどんどん別のものに変わっていった。意味の取れない音の連なり。母音ばかりが異様に伸び、子音が潮が引くように消えていく、そういう響きだった。


 私は、その読経を聞きながら、奇妙なことに気づいた。


 経文の、ある一節が、繰り返し現れる。その一節だけ、私には、なぜか、意味が分かるのだ。誰にも習っていない。聞いたこともない。それなのに、その一節の意味が、私の頭のなかに、直接、流れ込んでくる。


――よく、かえってきた。

――どうか、もとの水へ。


 その読経は、死者を浄土へ送る経ではなかった。


 祖父を、下の海へ還すための、経だった。


*  *  *


 出棺のとき、私は棺を担ぐ役を割り当てられた。


 数少ない親族として当然のことだったが、棺を持ち上げた瞬間、私は違和感を覚えた。


 軽すぎたのだ。


 八十七歳の老人とはいえ、人ひとりの遺体が入っているにしては、棺はあまりに軽かった。まるで、中身が、すでに半分ほど、別の何かに置き換わっているような――。ふと思う、人間の水分量は五十パーセントから六十パーセントという。それらが全て抜けて軽くなった、あるいは、最初から人の形をした抜け殻しか入っていなかったような、そういう軽さだった。


 私は、隣で棺を担ぐ叔父を見た。叔父は、前を向いたまま、何も言わなかった。だが、その横顔には、隠しきれない緊張があった。


「叔父さん」と私は小声で言った。「これ、軽すぎませんか」


 叔父は、答えなかった。


 ただ、ほんのわずかに、首を横に振った。それは「分からない」という意味ではなく、「今は訊くな」という意味の、首振りに思えた。それ以上、叔父に声を変えず、促されるままに歩を進めた。


 日本国の法律では火葬が義務付けられていない。土壌汚染等の影響を鑑み、自治体の条例で基本的に火葬が義務付けられている。しかし、例外は、ある。その例外がこの地には残されている。


 棺は、本家の裏手の、小さな墓地へと運ばれた。灰塚の墓は、ほかのどの土地の墓とも違っていた。墓石が、ひとつもないのだ。代わりに、地面に、大小様々な大きさの丸い石が、いくつも埋め込まれていた。その石の表面には、例の渦巻きの模様が、深く刻まれていた。墓というより、それは、マンホールの、いや、井戸の蓋のように見えた。


 祖父の棺は、土に埋められるのではなかった。


 墓地の中央にある、ひときわ大きな丸い石――その下に、縦穴があった。蓋となっていた丸石を、数人がかりで横にずらすと、地面に、暗い穴が口を開けた。棺は、その穴へと、ゆっくりと、降ろされていった。縄で吊られて、下へ、下へと。


 私は、穴を覗き込んだ。


 暗く細く、しかしある程度まで覗ける、そんな穴だった。ただ、底は見えなかった。


 しばらく棺を下ろすと、はるか下のほうから、水音がした。


 ポチョンでもない。

 サラサラでもない。


 ざぶん、と。


 縄で降ろされた棺が、何か大量の水があるナニかに、着いた音だった。

 阿蘇の、それも海抜七百メートルの、山の墓地の底で、棺は、水に浮かんだのだ。


 そして、その水音のあとに、私は、確かに、聞いた。


 何かが、棺を、引き入れる音を。


 ずるり、ずるりと。

 ちゃぷり、ちゃぷりと。


 水面の下から、無数の、濡れた手が、棺を抱き受ける音を。





 納棺のあと、あれだけ集まっていた参列者は、波が引くようにいなくなった。

 母屋には、主だった親戚筋しか残っていなかった。先ほどまでの、誰が口を開くでもないのにさざなみのように広がっていた人の息遣いが、凪のように静まり、静寂とも言える静けさが満ちていた。


 私は、ひとりで本家の蔵に入った。


 叔父は、私が蔵の鍵を祖父の部屋から持ち出しているのを見ても、止めなかった。むしろ、私が蔵のほうへ歩いていくのを見て、何か納得したように、小さく頷いただけだった。すべてが、そう仕向けられているような気がした。だが、その時の私は、もう、それを不自然とは思わなかった。私は、自分の意志で、蔵へ向かっているつもりだった。


 蔵は、本家の裏手、墓地とは反対側にあった。白い漆喰の壁の、古い土蔵である。黒く仰々しい鍵は、滅多に開ける機会が無いにも関わらず、私が鍵を差し込み回すと、すんなりとカチリと、回った。重い扉を開けると、中は暗く、ひんやりとしていて、カビとホコリと、そして墨と、紙と、あとは潮の匂いが、した。


 蔵の中には、何代にもわたる椎葉家の品が、整然と積まれていた。奥の方が古く、手前側が新しく。そして、季節に合わせて使われるような漆器や茶器、食器類が右側、掛け軸や行李(こうり)などの普段は使わないものは左側に並んでいた。私は、左側の奥にある扉に進んだ。子供のころに祖父が私を叱った、あの書斎――蔵の奥に、その小部屋があった。


 小部屋に入ると、文机は、記憶のなかと同じ場所にあった。


 分机の引き出しを開ける。あの本があった。


 火國秘聞。


 和綴じの、古い本。表紙に、毛筆で四つの文字。私は、それを手に取った。三十数年ぶりに、ようやくそれに触れた。子供のとき、中を読もうとして叱られた、あの本に。


 ペラリと頁を、めくる。


 崩し字は、子供のころと同じく、私には読めない――はずだった。


 だが、読めた。


 一文字、一文字を判読しているのではない。頁を見た瞬間に、その意味が、まるで翻訳されたように、私の頭のなかに流れ込んでくるのだ。あの読経の一節が分かったのと、同じだった。私の血のなかの「何か」が、この文字を、知っていた。


 私は、読んだ。


*  *  *


 『火國秘聞』地ノ巻。


  肥後の地、もとは海なりき。

  山々の下に、いまも海あり。

  土を掘れば潮の香りすと、古老の語るは虚言にあらず。


 作兵衛の言葉と、寸分違わなかった。いや、作兵衛が、この本の言葉を、語っていたのだ。九万年の口承が、文字となり、その文字を、私は今、血で読んでいる。


 頁を、繰った。


 水ノ巻。血ノ巻。そして――火ノ巻。


 終わりの兆しは、火より来る。

 阿蘇の山、煙を絶やすときは、近し。

 地の底の火、消えなば、下の海の蓋、ゆるむなり。

 そのとき、眠れるもの、まなこを開かん。


 私は、本を閉じようとした。


 だが、最後の頁に、ほかとは違う筆跡で書き込みがあった。崩し字ではない。もっと新しい、几帳面な見覚えのある筆跡だった。


 祖父の字だった。


 私が子供のころ、年賀状の宛名で見た、あの祖父の字。それが、本の最後の頁に、こう書かれていた。


 蓮が来たら、これを読ませよ。

 そして、伝えよ。

 逃げてよい。

 わしは、お前に、戸守りをさせたくない、と。


 私の手が、震えた。


 祖父は、知っていた。いや、分かっていたのだ。自分が死ねば、私が呼ばれることを。そして、私が、次の「返す者」に選ばれることを。だから、祖父は、最後の頁に、書き残していた。逃げてよい、と。お前に、戸守りをさせたくない、と。


 無口だった祖父。何時間でも、ただ私を見ていた祖父。あの視線は、確かめていたのではなかった。


 案じていたのだ。


 この子に、この血が流れていることを。いつか、この子が、ここへ呼ばれてしまうことを。それを、案じながら、祖父は、ただ、私を見ていた。何も言えずに。何も、できずに。


 私は、その頁に、涙が落ちるのを感じた。


 だが、その涙が、開いた頁に落ちた瞬間――


 文字が、滲んだ。

 そして、滲んだインクが、ひとりでに、新しい文字を、形作り始めた。


 祖父の字ではなかった。崩し字でもなかった。それは、文字ですらなかったかもしれない。渦巻きと、波と、目の模様が、絡み合った、何か。私の血が、それを「読んだ」。


 おそい。

 おまえは、もう、のんでしまった。


 私は、本を取り落とした。


 昨夜の、貝の味が、舌の奥に、蘇った。


*  *  *


 本が落ちた拍子に、文机が、わずかに動きカタリと音がした。

 気になり文机の音がした方を見ると、分机の下の床板が、一枚、ずれていることに、私は気づいた。


 私は分机を横にずらし、その床板に触れてみた。どうも、横にズラせば抜けるような感覚。迷わず横にずらした。


 下方に続く、石の階段が見えた。


 横の床板もずらせる。夢中で確認し、ずらせる床板を全て横にどかした。

 間違いなく、下方への石階段が現れた。


 地下へと続く、古い、石の階段。一段、一段と、暗闇の底へと降りていく。その階段の下から、潮の匂いと、微かな水音が、立ち上ってきていた。


 私は、その一メートルも先が見通せない石段を見下ろした。


 降りてはいけない、と頭の片隅で、誰かが言っていた。祖父の声だったかもしれない。逃げてよい、と書いた、祖父の声。


 だが、私の足は、もう、一段目に、乗っていた。




十一


 石の階段は、思っていたよりも、ずっと長かった。


 私は、スマートフォンの灯りを頼りに、一段ずつ、慎重に降りていった。少しでも気を抜くと、ヌメッとした石段を滑り落ちてしまいそうだった。壁は、湿った岩肌だった。指で触れると、ぬるりとした、苔とも粘液ともつかないものが、付いた。降りるにつれて、空気は重く、冷たくなり、潮の匂いは、濃くなっていった。


 どれくらい降りただろう。百段か、二百段か。あるいは、もっと。階段は、もはや人間が作ったものとは思えなかった。最初のうちは、確かに人の手で刻まれた階段だった。だが、深くなるにつれて、それは、自然の岩の(ひだ)のような、あるいは、何か巨大な生き物の体内の、肋骨のあいだを降りていくような、そういう道に変わっていった。


 そして、私は、底に着いた。


 そこは、広い、岩の空洞だった。


 スマートフォンの灯りでは、全体は見えなかった。だが、空洞の奥に、それは、あった。


 石の戸だった。


 巨大な、石の戸。高さは、見上げるほど。幅も、両腕を広げた何倍もある。表面には、渦巻きと、波と、触手のような模様が、びっしりと刻まれていた。石碑の模様。貝の模様。墓の石の模様。それらすべての、大元が、ここにあった。


 そして、戸の中央に、熊本の言葉で、文字が刻まれていた。


 うみは まだ したに おる


 私は、その戸に、近づいた。


 戸の隙間――石と石の、わずかな隙間から、潮の匂いが、強く、漂ってきていた。そして、その隙間の向こうから、波音が、聞こえた。寄せては返す、寄せては返す、永遠に続く、波の音。阿蘇の、地下深くに広がる、下の海の、波の音。


「ここから先は、行くな」


 背後で、声がした。


 叔父だった。いつのまにか、叔父が、階段の下に、立っていた。手に、古いランタンを提げて。その顔は、ランタンの灯りに照らされて、これまで見たどの叔父よりも、青ざめていた。


 「叔父さん」と私は言った。「叔父さんは、知っていたんですね。最初から、全部」


 叔父は、答えなかった。代わりに、こう言った。


「お前ん爺さんは、お前ば、逃がしたがっとった」と叔父は言った。「あん人ぁ、お前ば、ここに呼びとうなかった。じゃっで、わしに、何度も言いよった。蓮ば、巻き込むな、てな」


「でも、叔父さんは、私を呼んだ」


「呼ばにゃ、ならんかった」と叔父は、絞り出すように言った。「戸守りん本家ぁ、もう、お前しか、おらん。わしは、分家たい。わしには、戸ば守る資格が、なか。守れるとは、本家ん血だけたい。お前だけたい」


 私は、戸を、見た。


 そして、自分の手のひらを、見た。


 いつのまにか、私の手のひらの、指と指のあいだに、薄い膜のようなものが、張りはじめていた。水掻きの、なりかけ。昨夜、障子に映った、あの影の手と、同じものに、私の手が、なろうとしていた。


 私は、悟った。


 貝を呑み込んだとき。酒を飲んだとき。あの読経を聞いたとき。本を血で読んだとき。一歩ずつ、私は、人から、別の何かへと、変わっていた。いや――もともと、私のなかに、それは、いた。灰塚に来たことで、それが、目を覚ましただけだった。


「逃げられますか」と私は叔父に聞いた。「今からでも、私は、逃げられますか」


 叔父は、長いあいだ、黙っていた。


 そして、言った。


「お前が、決めることたい」


 だが、私には、もう、分かっていた。


 これは、選択ではない。選択のかたちをした、ただの、確認だった。私が「逃げる」と言っても、私の足は、戸のほうへ向かうだろう。私が「残る」と言っても、同じことだ。どちらを選んでも、行き着く先は、同じだった。私は、選んでいるのではない。選んだと、思わされているだけだった。


 最初から。


 東京で、あの夢を見はじめた、あの夜から。


 いや、もっと前から。私が、椎葉の血を引いて、生まれた、その瞬間から。




十二


 その夜、村中の鐘が、鳴った。


 低い、籠もった音だった。寺の鐘とも、神社の鐘とも違う、もっと鈍い、水のなかで叩かれているような、そういう音だった。鐘の音は、谷の底の集落全体に、響き渡った。


 私は、本家の二階の客間で、その音を聞いていた。


 窓から外を見ると、集落の家々から、人が、出てきていた。老人たちが、ひとり、またひとりと、家の戸を開け、外へ出てくる。皆、白い着物を着ていた。喪服ではない。白い、死装束のような、着物だった。


 そして、彼らは、皆、濡れていた。


 雨は、降っていなかった。空には、傾いた月が、出ていた。それなのに、老人たちの白い着物は、びっしょりと、濡れていた。まるで、たった今、水のなかから、上がってきたかのように。髪から、裾から、水が、滴っていた。


 彼らは、列をなして、歩きはじめた。


 集落の奥――私が昼間、降りていった、あの蔵のほうではない。集落の、さらに奥。外輪山の内側へと続く、暗い山道のほうへ。その道の先にあるのは、阿蘇の、古い火口跡だと、私は、なぜか、知っていた。


 叔父が、客間に入ってきた。


 叔父も、白い着物を着ていた。そして、濡れていた。


「行こうか」と叔父は言った。


 その声には、もう、昼間の緊張も、青ざめた怯えも、なかった。ただ、静かな、諦めにも似た、穏やかさがあった。


 私は、立ち上がった。


 いつのまにか、私も、白い着物を、着ていた。


 いつ着替えたのか、覚えていなかった。だが、私は、それを着ていた。そして、私の着物も、濡れていた。私の髪からも、水が、滴っていた。私は、自分の手で、自分の濡れた髪に、触れた。指のあいだの膜は、もう、はっきりとした水掻きに、なっていた。


 私は、叔父とともに、外へ出た。


 そして、白い列の、最後尾に、加わった。


*  *  *


 行列は、暗い山道を、登っていった。


 私は、自分の足で、歩いているつもりだった。一歩、また一歩と、地面を踏みしめている。その感覚は、確かにあった。だが、同時に、私は、知っていた。私は、歩いているのではない。運ばれているのだ。この行列全体が、ひとつの、大きな流れであり、私は、その流れに浮かぶ、一枚の葉に過ぎなかった。流れは、私を、火口へと、運んでいく。私の足は、ただ、その流れに、合わせて、動いているだけだった。


 やがて、行列は、火口跡に、着いた。


 そこは、すり鉢状の、広い窪地だった。底のほうは、暗くて見えない。だが、その中央に、巨大な、縦穴が、口を開けていた。


 昼間、蔵の地下で見た、あの石の戸。あれは、この縦穴の、ずっと底にある、戸の、ほんの一部だったのだ。ここから見下ろす縦穴は、あの戸の、本当の大きさを、私に教えた。戸は、山そのものほど、大きかった。


 縦穴の底から、海鳴りが、聞こえた。


 寄せては返す、波の音。だが、それは、もう、波の音だけではなかった。その音のなかに、何か、巨大なものの、呼吸が、混じっていた。ゆっくりとした、深い、深い呼吸。眠っているものの、寝息。


 老人たちは、縦穴を囲んで、座った。


 そして、祈りはじめた。


 熊本の言葉で。古い、古い、言葉で。あの読経と、同じ節で。


 ――どうか 眠っとってくだっせ

 ――どうか 目ば 覚まさんでくだっせ

 ――血ぁ 返します

 ――じゃっで どうか もうしばらく


 私は、縦穴の、縁に、立っていた。


 いつのまにか、私だけが、立っていた。ほかの老人たちは、皆、座って、祈っている。私だけが、縦穴の、いちばん縁に、ひとり、立たされていた。


 これが、「返す」ということだった。


 私が、ここから、降りる。下の海へ。眠っているものの、もとへ。それで、契約は、更新される。あと六十年、戸は、閉じたままでいる。灰塚は、阿蘇は、九州は、もうしばらく、保たれる。


 私は、縦穴の底を、見下ろした。


 そして、そのとき、底の闇のなかに、それが、見えた。




十三


 それは、目だった。


 夢のなかで、見たのと、同じ。海底の闇のなかに、ひとつ、開いた、巨大な目。だが、今は、夢ではなかった。私は、起きていた。確かに、起きていた。そして、その目は、縦穴の底から、私を、見上げていた。


 見上げられた瞬間、私の、頭のなかへ、流れ込んできた。


 理解が。


 言葉ではない、理解が。


 下には海がある。


 昔からいた。


 人間はあとから来た。


 人間が来る前から、ここは、海だった。山も、土も、火も、あとから、表面に、できた、薄い、皮膜にすぎない。


 その皮膜のうえで、人間は、生まれ、争い、愛し、死んだ。九万年。たった、九万年。


 下のものにとって、九万年は、まばたきの、ひとつ。


 いや。まばたき、という概念すら、下のものには、ない。時間が、ない。始まりが、ない。終わりが、ない。ただ、ある。


 私の、三十四年。私の、名前。私の、仕事。私の、東京。私が、椎葉蓮であること。私が、人間であること。私が、私であること。


 それらは。


 それらは、すべて。


 意味が、なかった。


 頭が、割れそうだった。


 いや、割れそうなのは、頭ではなかった。私という、輪郭だった。私を、私として、囲っていた、薄い、膜。その膜が、内側から、溶けていく。下の海が、私のなかに、流れ込んでくる。あるいは、私が、下の海へ、流れ出していく。


 私は、最後の力で、振り返った。


 叔父を、見た。老人たちを、見た。彼らは、祈っていた。私のために。いや、私を、捧げるために。その顔は、悲しんでいるようにも、安堵しているようにも、見えた。


 そして、その老人たちの列の、いちばん後ろに。


 甲斐作兵衛が、立っていた。


 作兵衛だけが、祈っていなかった。ただ、私を、見ていた。白く濁った目で。その目は、もう、私と、同じものを、見ていた。下の海を。眠っているものを。作兵衛は、かつて、戸の隙間から、これを覗いた。だから、彼の目は、白く濁った。そして今、私の目も――。


 私は、自分の目から、色が、抜けていくのを、感じた。


 作兵衛が、ほんのわずかに、頭を、下げた。


 それは、別れの、挨拶だったかもしれない。あるいは、詫びだったかもしれない。あるいは、ただ、次の戸守りへの、敬意だったかもしれない。


 私は、もう、それを、確かめることが、できなかった。


 私の足が、縁から、離れた。


 私は、落ちていく。下へ。下へ。下の海へ。


 潮の匂いが、私を、包んだ。


 それは、もう、恐怖ではなかった。


 それは、帰郷だった。


 私は、ずっと前から、ここへ、帰るために、生まれてきたのだ。東京での十二年は、長い、長い、旅にすぎなかった。叔父の声で、一秒で熊本弁に戻ったときから――いや、私が、椎葉の血を引いて生まれたときから、私は、いつか、ここへ、還ることが、決まっていた。


 私は、目を、閉じた。


 そして、水面に、触れた。


 冷たくは、なかった。


 温かくも、なかった。


 ただ、懐かしい、何かだった。


 無数の、濡れた手が、私を、迎え入れた。


 祖父の手も、そのなかに、あった気がした。




終章


 灰塚はその数年後、地図から消えた。


 阿蘇の外輪山の北側に、新しいダムが建設されることになった。治水と、発電のための県の事業だった。灰塚集落は、そのダムの底に沈むことになった。


 もっとも、立ち退きを要した住民は、ほとんどいなかった。調査に入った県の職員の記録によれば、灰塚集落はすでに、ほぼ無人だった。十四軒の家は、どれも、長く人が住んでいない様子で、朽ちかけていた。戸籍を調べても、該当する住民の多くは、何十年も前に死亡しているか、転出していた。職員たちは、首をかしげた。つい数年前まで、ここに人が住んでいたという話もあったからだ。だが、記録のうえでは、灰塚はとうの昔に、滅んだ集落だった。


 ダムは、完成した。


 灰塚の、谷は、水で、満たされた。集落も、墓地も、椎葉の本家も、蔵も、その地下の石の階段も、すべて、深い、水の底に、沈んだ。


 だが。


 ダムの完成後、工事関係者のあいだで、ひとつの、噂が、囁かれるようになった。


 ダムの、底のほうから、夜になると、潮の匂いが、上がってくる、というのだ。


 ダムの水は淡水である。山の地下水と雨水を溜めたものだ。海から、何十キロも離れている。それなのに、ダムの堤体のいちばん下のあたりでは、夜になると確かに海の匂いがする。点検に入った作業員は、皆、それを嗅いだ。


 そして、もうひとつ。


 ダムのコンクリートの内壁。その水に面したいちばん深いあたりに、時々、跡が残るのだという。


 濡れた手形だった。


 人間の手よりすこし大きい。指と指のあいだに、水掻きの跡のある、手形。それが、コンクリートの内側に、ぺたり、ぺたりと、いくつもついている。


 まるで水の底から、誰かが、内側から、コンクリートに触れたかのように。


 外へ、出ようとしたのか。


 それとも、ただ、確かめていたのか。蓋が、まだ、閉じているかを。


 誰にも、分からない。


*  *  *


 私の話は、ここまでである。


 これを書いているのが、誰なのか、と、あなたは、思うかもしれない。椎葉蓮は、下の海へ、還ったのではないか、と。


そのとおりである。


 私は、もう、椎葉蓮ではない。あの夜、縦穴の底で、椎葉蓮という輪郭は、溶けて、下の海に、混じった。だが、混じったあとも、私の、ごく一部は――かつて椎葉蓮であった、記憶の、断片は――まだ、ここに、ある。下の海の、無数の記憶の、ひとつとして。


 そして、私は、知っている。


 阿蘇の戸は、まだ、閉じている。私が、還ったことで、契約は、更新された。あと六十年、あるいは、もうすこし、阿蘇の戸は、保たれるだろう。


 だが、戸は、阿蘇だけでは、ない。


 下の海は、ひとつである。阿蘇の戸の、はるか向こう、同じ海の、別の場所に、ほかの戸が、ある。人吉の、盆地の底に。八代の、海の底に。天草の、岩屋の奥に。荒尾の、鉄の坑道の、その先に。


 それぞれの戸を、それぞれの家が、守っている。あるいは、守っていた。


 そして、私は、下の海のなかで、感じている。


 ほかの戸のいくつかが、もう、私の阿蘇の戸ほどには、しっかりと、閉じていないことを。


 どこかの戸の蝶番ちょうつがいが、軋みはじめていることを。


 潮が、ゆっくりと、満ちはじめていることを。


 阿蘇の戸が、閉じているうちは、よい。


 だが、五つの戸の、ひとつでも、開けば。


 五つは、静かに、開く。


 それは、目覚めの、兆しである。


――あなたの、足の下にも、海は、ある。


 耳を、澄ましてみるとよい。


 夜、静かなときに。


 遠くから、波の音が、聞こえてこないか。


 もし、聞こえたなら。


 そして、もし、潮の匂いが、したなら。


 あなたの土地にも、戸が、あるのかもしれない。


 そして、あなたもまた、それを守る血を、知らずに、引いているのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ