第二幕 葬儀の夜、そして老人の告白
地ぃ掘れば、潮ん香ぃのする。
そりゃあ気のせいじゃなか。
ほんとに、潮ぁすっとたい。
――灰塚集落 古老の言
〜 四 〜
椎葉の本家は、集落の一番奥にある。
十四軒の家が、谷の底に肩を寄せ合うように並んでいる、その最も山側の奥に、屋根の高い、瓦の特に黒い、二階建ての家が建っていた。私が子供のころに見た記憶のなかの本家と、目の前の建物は、寸分違わなかった。塀の高さも、門の傾きも、軒下に下がった注連縄の古さも、そのままだった。
叔父が、門の前に立ち止まり何かをボソリと呟く。ほんの一秒ほど。そしてくぐった。私は見慣れぬ叔父の姿に少し戸惑いつつも、そのあとを追ってくぐった。
玄関先に白い提灯がふたつ、すでに灯されていた。光源は、昔はろうそくだったが、今は電球が担っている。十一月の早い夕暮れのなかで、その電球の寒々しい白さだけが、妙に浮き上がって見えた。文字は何も書かれていなかった。灰塚では葬式の提灯に文字を入れない、というのが、この地の習わしらしい。
玄関の戸を開けながら、「上がんなっせ」と叔父が言い、玄関を抜ける。
私もそれに習って母屋に入ろうと玄関に近づくと、線香の匂いともうひとつ、別の匂いが鼻孔に触れた。
最初、私はそれを「古い家の匂い」だと思った。畳の、漆喰の、古い木材の、長く閉ざされていた押し入れの、そういう種類の匂い。カビ臭いでもなく、すす臭いでもない。独特の匂い。だが、家のなかへ一歩入った瞬間、私はその匂いの正体が全く別のものだと理解した。
潮の匂いだった。
石碑のうえで嗅いだのと、まったく同じ匂い。それが、この家のなかにも、満ちていた。線香の煙に微かに混ざりながら、廊下の奥のほうから、確実に、漂ってきている。
私は叔父の背中を見た。叔父は何も言わずに、奥の座敷へと続く縁側に面した廊下を歩いていく。気づいていないのか、気づいていて言わないのか、それは分からなかった。
奥の座敷に、祖父は寝かされていた。
葬儀場での祭壇のような、派手さや華やかさはないが、厳かで洗練された祭壇が用意され、その奥に寝かされた祖父。祖父の全身には白い布がかけられている。顔だけでなく全身に。そして、祭壇には左右対称に花が供えられていた。菊と、そして私の知らない種類の花がいくつも。その花は、白いような、薄い緑のような、不思議な色をしていて、湿った海藻のような形をしていた。私は記憶を辿ったが、何科の花かも思いつくことも出来ない。
「線香ば、あげんしゃい」と叔父が言った。
私は祭壇に向かって膝をついた。線香に火を点け、香炉に立てた。伏し目がちに目線を落とし手を合わせた。だが、目を完全には閉じなかった。閉じたら、夢の海底が、また見えてくる気がしたからだ。
祖父の顔は、布の下にあって見えなかった。
私はしばらく、その全身を覆う布を、見ていた。
やがて、おかしなことに気がついた。
布が、わずかに、動いていた。
呼吸のような規則性があるわけではない。それに祖父はもう死んでいる。風でもない。座敷の障子は閉まっている。だが、布は、確かに、上下に、ゆっくりと、不規則に動いていた。
「叔父さん」と私は小声で言った。「これ……」
叔父は、座敷の隅で煙草を吸っていた。私の言葉に、煙を吐きながら、ゆっくり振り返った。
「気にすんな」と叔父は言った。「最後ん日まで、そうなるとたい。お前ん婆ちゃんも、最後ぁ、布ん下で動きよったぁち、覚えとらんとか」
「動いて……?」
「死んだあとの話たい」と叔父は煙草を消した。「灰塚ん人間ぁ、死んだあとも、しばらくは動くとぞ。三日ぁ、続く。三日経てば、止まる。それまでぁ、布ぁ取らんで、見守るとが、ここん習いたい」
私は、自分の手のひらに、また冷たい汗が浮かんでくるのを感じた。
「叔父さん。それ、本当に……」
「お前、何ば言いよっとや」と叔父は私を見た。「お前さ椎葉ん家ん人間たい。そぎゃんこつ、知っとろもん」
知らない。父からも、誰からも、聞いたことがなかった。死んだ人が動くなどという話は。
だが叔父の顔は、嘘をついている顔ではなかった。叔父は、心の底から、それが「灰塚の当たり前」だと信じていた。
私は、もう一度、祖父の全身を覆う布を見た。
布は、ゆっくりと、上下していた。
動いているのは、間違いなく、布の下の、祖父の胸の部分であった。
〜 五 〜
通夜は、その夜の七時から始まった。
集落の住人が、ひとり、またひとりと、本家に集まってきた。
私が子供のころに見た顔も、いくらかあった。だが、ほとんどは知らない顔だった。皆、年を取っていた。集落で一番若いと思われる女性でも、五十は越えているように見えた。子供の姿はひとりもなかった。若い夫婦の姿もなかった。この集落に関わり戻ってきたのは、私一人だけのようだった。
灰塚は、滅びかけている集落だ、と私は知っていた。
だが、滅びるとは、こういうことなのか、と思った。家の数は変わらない。家屋もそのまま立っている。だが、住人だけが、年々、確実に老いていく。誰も新しく生まれない。誰も外から入ってこない。残った老人たちだけが、互いに看取り合いながら、ゆっくりと、絶えていく。
それなのに、皆、私を見る目に、ある種の興味があった。
「東京さから、戻られたとですか」と一人の老婆が私に話しかけてきた。「宗一郎さんの孫さんたいね」
「はい」と私は答えた。
老婆は、私の顔をじっと見た。値踏みするような視線ではない。何か別の――もっと深い、確かめるような視線である。
「お顔ぁ、宗一郎さんに似とらすね」と老婆は言った。「特に、目ん奥ぁ」
「そう、ですか」
「夢ば、見よらすか」
私は、口のなかが、急に渇くのを感じた。
また、その質問だった。叔父も、この老婆も、どうしてそれを訊くのだろう。彼らにとって「夢」とは、いったい何を指す合言葉なのか。
「見ます」と私は答えた。
老婆は、わずかに頷いた。
「そらぁ、よかばい」と老婆は言った。「見らるるとさ、椎葉ん家ん証たい」
そう言って、老婆は私から離れた。別の老人のところへ行き、私のほうを指して、何かを耳打ちした。その老人もまた、私を振り返って、頷いた。
私は、自分が、興味の対象ではなく、選別の対象になっているのを感じた。
* * *
通夜振る舞いの席が、奥座敷の手前の広間で始まった。
黒い盆に、いくつもの皿が並べられた。料理は、灰塚で取れるもの、と叔父が説明した。
だが、その料理は、私の知っている熊本の料理ではなかった。
一皿目は、煮魚だった。だが、私の知らない種類の魚だった。白身で、頭が大きく、口が異様に裂けている。眼窩は深く、眼球は黒く濁って、まだ生きているかのように私を見ていた。
「これは、何の魚ですか」と私は隣の老人に聞いた。
「川魚たい」と老人は答えた。「灰塚ん川にしか、おらん」
「川……」
私は、集落に来るときに通った道のことを思い出していた。林道沿いに、川などなかった。あったとしても、湧き水が湧いてできる小さな小川。こんな深海魚のような顔をした魚が住める川は、あるはずがなかった。
二皿目は、小さな貝の煮物だった。これも、私の知らない貝だった。フジツボやカメノテにも似ているが、もっと形が歪だった。殻が黒く、表面に渦巻きの模様が深く刻まれている。
「これは、どこの貝ですか」
「井戸ん中ぃ、湧いてくっとぞ」と老人は答えた。「百年ぁ前から、湧きよっと。代々、こん家ん井戸ぁ、貝が出てくっとたい」
井戸から、貝が湧く。
私はその貝を箸で転がし角度を変えて、しばらく見た。殻の渦巻きは、石碑の表面に彫られていた模様と、よく似ていた。いや、まったく同じものに見えた。
「食べんとな」と老人が促した。「灰塚ぁ来た者ぁ、皆、食わにゃならん。これ食わんと、灰塚ん人間にゃ、なれんけんな」
私は、貝の可食部を穿り出し、口に入れた。
舌に、強烈な潮の味が広がった。それは、日頃口にするような海産物の塩気とは違う、もっと深い、もっと古い、何百年も塩漬けにされてきたような、そういう味だった。喉を通るとき、私は自分の身体の内側で、何かが「目覚める」のを、感じた気がした。
私は、それを呑み込んだ。
呑み込んでしまった、と言うべきかもしれない。
〜 六 〜
夜が更けるにつれて、通夜の席は、酒の席に変わっていった。
私は、ひとり、座敷の隅に座って、注がれる酒を黙って飲んでいた。誰もが私に酒を勧めた。「東京さ人間に、灰塚ん酒ぁ、飲ませにゃ」と皆が言った。酒もまた、私の知らない酒だった。どぶろくのような白濁色ではなく、日本酒のような透き通る透明さ。しかし米の香りも甘みもほとんどなく、舌に乗せると、わずかに、潮の風味があった。
「灰塚ん米と、灰塚ん井戸ん水で、作っとぉ」と叔父が言った。「外には、出さん酒たい」
私は、その酒を、何杯も飲んだ。
酔いは、いつもの酔い方とは違っていた。意識が霞むのではなく、むしろ、研ぎ澄まされていく感覚だった。皮膚の表面の感覚が、異様に鋭くなる。隣の老人の呼吸の音が、はっきりと聞こえる。奥座敷の隅に置かれた名も知らぬ花の、湿った匂いが、私の鼻の奥にまで届く。
そして、誰かが、座敷に入ってきた。
広間の隅々まで、一瞬で、空気が変わった。
それまで談笑していた老人たちが、皆、口をつぐみ、その人物のほうを向いた。叔父も、立ち上がって、入ってきた者に向かって、深く頭を下げた。
「作兵衛さま」と叔父は言った。「ようお越し下さりました」
私は、その名前を、頭のどこかで、覚えていた。
子供のころ、父が一度だけ、その名前を口にしたことがあった。「灰塚ぁ、作兵衛さまっちゅう、おじいさんが、一番偉かとぞ」と父は言った。「集落ん長たい」
甲斐作兵衛。
入ってきた老人は、それなりの高齢さが伺えるが足取りに不安定さはなく、ひとりで歩いていた。杖もなく、付き添いもなく、ただ、ゆっくりと、座敷の中央へと進んできた。
背は低かった。しかし、奇妙なほど、姿勢がよかった。背筋が、まっすぐに伸びていた。顔は、皺だらけだった。皺の数は、もはや顔の輪郭が分からなくなるほどに多く、深かった。だが、その皺のなかで光るように見える目の眼光は鋭い。その二つの目が、こちらを見ていた。
目は、白く濁っていた。
白内障の、よくある濁りではなかった。もっと別種の濁り――たとえば、長く水の底に沈んでいたガラス玉のような、内側から滲み出ている種類の白濁である。だが不思議なことに、その白く濁った目は、はっきりと、私を「見ている」と感じた。視覚以外の何かで、私を捉えていた。
作兵衛は、広間の上座に座った。それまで誰も座らなかった上座に。
叔父が、件の酒を運んできた。作兵衛は、それを受け取り、一口、ゆっくりと、飲んだ。そして、改めて、私のほうへ顔を向けた。
「お前さんば、宗一郎ん孫か」
声は、思っていたよりも、しっかりしていた。離れて座る私にも、その声はしっかりと通った。湿った、低い声だった。
「はい」と私は答えた。
「東京で、何ばしよぉと」
「映像の編集ば、しよります」
「映像」と作兵衛は繰り返した。「撮ったもんば、整える仕事か」
「はい」
作兵衛は、また酒を一口飲んだ。それから、ゆっくりと言った。
「お前さん、見ゆっとな。整える前に、紛れ込んどぉもんば、見つけ出す目ぁ、持っとぉとやろ」
私は、息を呑んだ。
噴煙のなかに視えた「目」のことを、私は誰にも話していない。叔父にも、母にも、誰にも。
作兵衛は、私の沈黙を、知っているように、頷いた。
「ちょっと、こっち来んな」と作兵衛は言った。「お前さんさ、話さにゃならんこつば、あるたい」
作兵衛が立ち上がると、広間の老人たちはまた、一斉に口をつぐんだ。作兵衛は迷いもなく歩き出す。叔父を見ると、クイッと首を作兵衛の方に振る。酒をかなり飲んでいたが、ふらつくこともなく立ち上がり、作兵衛の後を追った。私が広間を出るまで、誰ひとり、言葉を発しなかった。ただ、無数の視線だけが、ジッと私の背中についてきた。
〜 七 〜 ―― 甲斐作兵衛との長い夜
作兵衛は、私を母屋とは別の、奥にある茶室のような別棟の、小さな座敷へ連れて行った。
そこは、客間としてはあまりに簡素な建物であり部屋だった。畳が四畳半、床の間には何も飾られておらず、ただ、一升瓶と、湯飲みが二つ、用意されていた。誰かが、あらかじめ、ここで作兵衛と私が話すことを、知っていたかのようだった。
「座んなっせ」と作兵衛は言って、自分も座った。
湯飲みに酒を注ぎ、ひとつを私に渡した。それから、ゆっくりと、口を開いた。
作兵衛の話は、最初、何の話か分からなかった。地質学の話のような、地理の話のような、神話の話のような、それらすべてが混じった、奇妙な独白だった。
火があり、土があり、水があり。また火があり、土があり、水があり……。幾層にも渡って積み重なる悠久の刻を静かに物語るような、そんな話を、聞かせた。
そして唐突に「お前さん」と作兵衛は言った。「阿蘇ぁ、どぎゃんしてできたか、知っとぉか」
「巨大噴火、ですよね」と私は答えた。「九万年前の」
「そぎゃんたい」と作兵衛は頷いた。「学者ぁ、そう言いよぉ。だが、ぁの噴火ぁ、ただん噴火じゃなか。あれぁ、蓋たい」
「蓋……?」
「下に、おっとぉ。眠っとっとが、ある」と作兵衛は言った。「学者ぁ気づいとらん。気づいたところで、信じはせん。だがな、ぁの噴火ぁ、自然と起こったこつじゃなか。起こさにゃならんかったとたい。下のもんが、上に出てこんごつ、蓋ばせんといかんかった」
私は、黙って、酒を口に運んだ。
「九万年前、ぁの蓋ば、人さ作ったとぞ」と作兵衛は続けた。「人と、人にあらざる者ば、共同で。下から、出てきとぉもんばおって、その者と、約束ば交わして、蓋ぁした。代わりに、永代、戸守りば、置くこつにした」
「戸守り、ですか」
「お前さんの家ぁ、その家たい。椎葉ぁ、阿蘇ん戸ば守りよる家たい」
私は、湯飲みを置いた。
「待って、ください」と私は言った。「九万年前って、それは、文字もない時代の話でしょう。そんなことが、どうして」
「文字ぁ、なか」と作兵衛は頷いた。「だが、伝えさあっとばい。口さ、身体さ、血さ、なんぼでんつこうて伝えてきたとたい。文字ぁ後からついてきとったい。後からついてきた文字で、それば書き留めたっとが、お前さんば子供ん頃見た、ぁん本ぞ」
私は、息を止めた。
「火國秘聞」と私は言った。
「そぎゃんたい」と作兵衛は皺をより一層深めて微笑んだ。皺のなかの白濁した目が、ほんの少しだけ、満足げに細められた。「お前さん、覚えとったとな。あんたん父ちゃんさ、忘れてしもうとったい。忘れとうもんやから、灰塚ば離れて、二度と戻らんかった。だがお前さんさ、覚えとった。それぁ、お前さんさ、見るもんば備わっとぉってこつたい」
* * *
作兵衛は、酒を、何度も注いだ。私の湯飲みに、自分の湯飲みに。話は、夜が更けていくにつれて、深く、深く、潜っていった。
「下にぁ、海ぃさ、ある」と作兵衛は言った。「阿蘇ん火口ん、もっと下んとこ。地ん底にさ、海ぃ広がっとぉ。それぁ、上ん海とぁ、別もんたい。上ん海ぁ、太陽に温められて、満ち干がありよっけん。下ん海ぁ、永い闇でな、満ちもせん、引きもせん。ただ、揺らぐとたい。眠っとぉもんの、息でな」
「眠っているもの……?」
「主、さ、呼ぶ」と作兵衛は答えた。「名前ぁ、言わん。言うたぁ、呼んでしまうけんな」
「それは、何ですか」
作兵衛は、しばらく、黙っていた。手に持った湯飲みの酒を、ジッと見つめていた。やがて、ゆっくりと、言った。
「説明できんとたい」と作兵衛は言った。
そこで、作兵衛の声が、変わった。
「主は、人間が言葉で表せる種類のものではない」
さっきまでの田舎の爺さんの声とは明らかに違う、低く地の底から響くような声。まるで作兵衛の口を借りて言葉を伝えてきたような、抑揚のない心のない声。
「山に近かい。海に近かい。だが山でも海でもない。ただ、ある。ずっと、あった。人間が現れる前から。これからも、ある。人間が滅びた後も」
そして、また、もとの作兵衛の声に戻った。
「……っちゅうこったい」
作兵衛は、湯呑みの酒を、ひとくちグビッと飲んだ。
「そ、それは……神ですか」
作兵衛は、クックックッと初めて、声に出して笑った。
「神、っちゅう言葉ぁ、人間さ作ったとたい。主ぁ、神じゃなか。神より、もっと前ぁ、おったもんたい。人間さ神っちゅう概念ば覚える前に、主ぁ、もう、ここに、おったとぞ」
私は、寒気がした。
それは、酒の冷えのせいでも、夜気のせいでもなかった。作兵衛の言葉が、私の脳の、普段は使わない部分を、直接、撫でているような感覚だった。「神より前」という概念を、私の脳は、本来は受け止められない。だが、無理やり受け止めさせられている、そういう感覚だった。
* * *
「灰塚にゃ、戸ぃある」と作兵衛は続けた。「火口ん、もっと下に、石ん戸ぃあぃとぞ。表に、模様ば刻んだ、巨大な石ん戸ぃ。あれが、主ば、上にあげんための、蓋たい」
「見たんですか」
「見た」と作兵衛は頷いた。「若かときに、一度だけ、降りた。戸守りの試しの儀礼でな。一族ん男ぁ、ある齢になると、一度だけ、降りるとたい」
「そこには、何が」
「戸ぃ、あった」と作兵衛は言った。「そして、戸ん向こうから、潮ん香ぃが、漂うてきよった。耳ば澄ますと、波音もしよった。阿蘇ん地下深くで、波が、寄せて、引いとぉ。それが、聞こえてきよった」
「……」
「わしゃぁ、戸ば、開けはせんかった」と作兵衛は静かに言った。「ばってん、戸ん隙間から、覗いた。ほんの、針ん穴ほどの隙間からな。中ば、覗いた」
作兵衛の白濁した目が、私を、まっすぐに、見た。
「中で、なんば、見えたとですか」と私は聞いた。声が、自分のものではないように、震えていた。
作兵衛は、答えなかった。
代わりに、こう言った。
「見たぁ。見たぁが、見たもんがなんやったか、わからんっちゅうこったい。人間さ見るごつ、できとぉもんじゃなかとたい。私ん目ぁ、こん通り、後から、こぎゃんに白うなった。覗いた者ぁ、皆、こぎゃんなるとたい。お前さんとこのじいさんの目ぁ、最後、私と同じ色になっとったやろが」
私は、祖父の亡き顔を、思い出そうとした。だが、布で全身を覆われていたため、見てはいなかった。
「じいちゃんも、戸ば、覗いたんとですか」
「覗きよった、何度も」と作兵衛は答えた。「お前さんとこのじいさんばぁ、灰塚で一番んさ戸守りやったとぞ。いっちゃん、長う、戸守りば、勤めよった。いっちゃん、たくさん、覗きよった。だから、最後ぁ、あぎゃん風な目になっとった」
* * *
夜は、もうずいぶん、更けていた。
広間のほうから、ときおり、低い読経の声が聞こえてきた。坊主が呼ばれているのだろう。だが、その読経の声は、私の知っている経文とは、どこか、節が違っていた。意味の取れない、もっと古い、もっと深いところから響いてくる、そういう声だった。
「お前さんに、伝えにゃならんこつが、あっとたい」と作兵衛は言った。「だから、こぎゃん夜更けまで、引き留めとぉ」
「何……ですか」
作兵衛は、しばらく黙ってから、言った。
「契約ぁ、六十年に一度、更新せにゃならん」
「更新」
「血ば、返す」と作兵衛は言った。「一族ん中から、ひとり、選んで、下に、返すとぞ」
私の手が、湯飲みのうえで、止まった。
「前に返したとが、六十年前ぁ、お前さんん大叔父ぃやった」と作兵衛は続けた。
「お前さんとこのじいさんさ、すぐ下ん弟たい。そんときゃ十六歳やったやろか。次ぃちゅうったら、その六十年後――今年たい」
「……」
「今年、返さにゃならん」と作兵衛は言った。「ばってん、戸守りん本家ぁ、もう、人がおらんごつなった。お前さんとこのじいさんさ死んだ。お前さんとこの父ちゃんさぁ、もう何十年も前ぃ、灰塚ば捨てた。源次んやつぁ、自分さぁ守るけん、自分さぁ返す者じゃなかいいよっと。残っとぉとが、お前さん、一人たい」
私は、ようやく、理解した。
葬式の連絡。叔父からの電話。「夢を見るか」という問い。集落の老人たちの、確かめるような視線。井戸から湧く貝の料理。私が呑み込んだ、潮の味。
すべては、私を、ここに、呼ぶためだった。
私は、最初から、選ばれていた。
「お前さんさぁ、選ぶこつばできぃっと」と作兵衛は言った。「逃ぐっこつも、できぃっと。誰も、無理にぁ、させん。じゃが、お前さんば逃ぐっと、戸ぁ、開く。今年中に、誰も返さんかったら、契約さぁ、終わる。終わったら、戸ぁ、緩む。緩めば、主ぁ、目ぇ覚ます」
「私が、選ぶ」
「そうたい」
「もし、私が逃げたら、どうなる」
作兵衛は、ゆっくりと、答えた。
「灰塚ぁ、滅びぃ。阿蘇ぁ、滅びぃ。九州ばぁ、滅びぃ。そんでもっと、向こうもな。けんど、それぁ、明日ん話じゃなか。早くっとも十年、遅けりゃ百年。お前さん一人ん人生では、間に合わんかもしれん。俺等もおらん。なら、逃げてもよかとよ。それぁ、お前さんが選ぶことたい」
私は、湯飲みの酒を、一気に飲み干した。
作兵衛はそれを合図に、静かに立ち上がった。
「今夜ぁ、一人で考えんしゃい」と作兵衛は言った。「答えぁ、まだ要らん。葬式が終わるまでに、決めればよか。それまでぁ、お前さんは、客人たい」
作兵衛は、襖を開け、その離れから立ち去っていった。襖の向こうの戸口には、灯りがなかった。真っ暗な戸口の先へ、作兵衛の小さな背中が、消えていった。
私は、四畳半の座敷に、ひとり、残された。
湯呑みが二つ、空になった一升瓶が寝かされ置かれている。今までの夢の中のような話を繋ぐ現実が目の前にあった。
どこか遠くから、潮の匂いが、また、漂ってきていた。
〜 八 〜
私はその後、叔父が呼びに来て、母屋の二階の客間をあてがわれた。
通夜の客は殆どが帰ったが、奥の広間ではまだ飲み続けている者もいた。叔父は、私を客間まで案内すると、布団の脇に水差しを置いて、「明日ぁ、十時から葬儀たい。それまでぁ、ゆっくりすっとたい」とだけ言って、襖を閉めた。
時刻は、午前二時を過ぎていた。
私は、布団のうえに横になった。眠れるとは思わなかった。作兵衛の言葉が、頭のなかで、繰り返し響いていた。返す。血を、下に、返す。お前さん、一人。
だが、酒がずいぶん入っていたのだろう。意識は思っていたよりも早く、霞んでいった。
そして、夢を見た。
いつもの夢だった。深い、深い海の底。光のない闇。山ほどもある、巨大なもの。それは、寝返りを打とうとしていた。いつもの、あの瞬間が、来ようとしていた。
だが、今夜は、違った。
いつもなら、私はその瞬間に目を覚ます。だが、今夜は目を覚まさなかった。私は海底にいたまま、その巨大なものが寝返りを打つのを、最後まで見届けた。
そして、それは、目を、開けた。
海底の、闇のなかに、ひとつの、巨大な、目が、開いた。
目は、私を、見た。
見られた瞬間、私は、自分が、これまで「自分」だと思っていたものが、いかに、薄っぺらく、ちっぽけで、取るに足らないものであったかを、悟った。私の三十四年の人生。私の仕事。私の東京での生活。私の悩み。私の喜び。それらすべてが、その目の前では、海底の砂粒ひとつほどの重みもなかった。
私は、自分が、消える、と思った。
だが、消えなかった。
代わりに、私のなかで、何かが、応えた。
私の血のなかに、ずっと前から、それを「知っている」何かが、いた。その何かが、海底の巨大な目に向かって、静かに、応えた。何を応えたのかは、私にも分からない。だが、応えた。確かに、応えた。しっかりと。
そして、私は、目を覚ました。
* * *
目を覚ました瞬間、私は、自分自身以外の存在がそばにいることを感じた。
客間のそばに、なにかもう一つの存在があった。
障子の外の縁側に、月明かりが差していた。十一月の月は、もう傾いていて、その光は弱かった。だが、確かに、誰かの影が、障子に映っていた。
影は、人のかたちをしていた。
だが、それは、人ではなかった。
立ち姿の輪郭は、人間のそれだった。だが、肩の線が、人間より、なだらかすぎた。首が、人間より、長すぎた。そして、手の指が、人間より、一本ずつ、長すぎた。指のあいだに、水掻きのような、薄い影が、見えた。
そして、それは、障子越しに、私のほうを、見ていた。
瞬きを、していなかった。
私は、布団のなかで、動けなかった。
やがて、そいつは、障子の先でそこを超えて入るのを戸惑うように、右に左にと動いた。ずるり、ずるり、と音が、した。
そして、そいつは、口を、開けた。
口の動きが、障子に、影として映った。人間の口の動きとは、違った。下顎が、もっと深く、下に開いた。魚の口のように、ぱくり、と開いた。
そして、声が、聞こえた。
声は、障子の外からではなかった。私の頭のなかに、直接、響いた。
「れん……」
私の名前を、それは、呼んだ。
私の鼻の奥に、海の底の匂いが、再び、満ちた。
そして、影は、ゆっくりと、消えていった。溶けるように影が薄れていった。
月明かりが、再び、空の障子だけを照らした。
障子の先で、何かが、湿った地面を引きずるような音が、遠ざかっていった。
ずるり、と。
ずるり、と。
やがて、その音も、聞こえなくなった。
私は、明け方まで、目を閉じることが、できなかった。




