終章 綴じ
透という若者は、荒尾を去った。
彼がこの後、どう生きたかは、この物語の知るところではない。
彼は、掴んだと信じたものを胸に抱いて、帰っていった。
六人目の書き手として、五つ目の物語を書き記すのかもしれない。あるいは、日々の暮らしの中で、いつしか、この荒尾の冬の一日を、忘れていくのかもしれない。
どちらであっても、よい。透には、先がある。それは、救いである。この物語で、ただ一つの、明るい救いである。
だが、語り手には、まだ、務めが残っている。
この長い物語を、綴じること。五つの戸の、五つの家の、五つの敗北の記録を。ここで一度、高いところから見晴らしておくこと。それが語り手の、最後の務めである。
語り手はいま一度、視線を上げる。荒尾の丘から、さらに高く。雲の上まで。九州の北の、その全体が見晴らせる高さまで。そして、そこから、五つの土地を、順に見下ろしていく。
* * *
阿蘇。
火の、戸。
カルデラの底の、灰塚という、地図から消えた集落。
椎葉の家。
血を返すことで、火の戸を守ってきた家。
祖父は、孫を逃がそうとして、間に合わなかった。蓮という一人の男が、選ばされたことにも気づかぬまま、火口の下の海へ、還っていった。ダムの底に沈んだ、その土地の、コンクリートの内側には、いまも、水掻きの手形が残されている。火の戸は――開いた。
人吉。
水の、戸。
盆地の底の、淵迫という集落。
岩戸の家。
水位を読むことで、水の戸を守ってきた家。
だが、その血は、六年前の水害の夜に、絶えた。返す者のいなくなった水は、ただ、満ちるばかり。八朔の夜、盆地は霧の底に沈み、柏木という一人の記者が、そこで消えた。記録から。いなかったことに、なるように。水の戸も――開いた。
八代。
灯の、戸。
不知火の海に面した、燈ヶ浦。
矢部の家。
火を数えることで、灯の戸を守ってきた家。
源蔵という最後の当主は、死してなお、沖を数え続けた。だが、数える者が絶えたとき、火は、沖に留まる必要を失くした。岸に、上がってきた。数えじまいの夜。干潟に、燐光の足跡だけを残して。灯の戸も――開いた。
天草。
波の、戸。
潜伏の島の、和ヶ浦。
深江の家。
祈りを唱えることで、波の戸を守ってきた家。
四百年、迫害に耐え、絵踏を踏みながら、口の中で祈り続けた家。だが、その祈りは意味を失い、器だけが残った。羽鳥という一人の娘が、途切れた祈りを、もう一度、ことばと共に唄いあげた。だが、それは、戸を閉じはしなかった。海は、その祈りの拍を、覚えた。波の戸も――開いた。
そして、荒尾。
鉄の、戸。
三池の丘。
三池の家。
この家だけは、守り方が違った。
ほかの四つの家が、開かぬように守ったのに対し、三池の家は、掘らせぬように戒めた。だが、近代という巨大な力の前に、一つの家の戒めは、あまりに小さかった。戸は、人の手で掘り抜かれた。三池の家は、それでも、負けを認めず、地の底で祈り続けた。最後の一人になるまで。閉山の、その日まで。だが、その家も、絶えた。鉄の戸も――とうに、割れている。
五つの戸。五つの家。五つの、敗北。
椎葉。岩戸。矢部。深江。三池。
血と、水位と、火と、祈りと、戒めと。それぞれのやり方で、それぞれの戸を守ろうとして、そして、そのすべてが破れた。
時代に。
忘却に。
近代に。
あるいは、ただ、あまりにも長い時間に。人が、何かを守り続けるということは、これほどに難しい。何百年続けても、たった一代の途切れで、すべては終わる。血が絶え、意味が失われ、忘れられ、そして、戸は、開く。
語り手は、五つの土地を見下ろしながら、思う。
これは、恐ろしい話であったろうか。
そうかもしれない。だが、語り手には、それ以上に、これは、哀しい話であるように思える。
五つの家の人々は、みな、必死で守ろうとした。
誰も、逃げなかった。
蓮の祖父も、岩戸の当主も、源蔵も、深江の祖母も、三池の最後の一人も。
みな、自分の代で、投げ出すまいとした。守れるあてがなくとも。報われる保証がなくとも。ただ、受け継いだものを、次へ渡そうとした。その営みの、けなげさ。そして、そのけなげさが、時間の前には、あまりにも無力であったという、哀しさ。
それこそが、この五つの物語の、通奏低音であった。
* * *
ここまでを、もって。
熊本の地の底に眠る、下の海の物語は――語り尽くされた。
五つの戸のことは、すべて語った。五つの家のことも。それぞれの土地で、何が起き、誰が守り、そして、どのように破れたか。もはや、語り残したことは、ない。読み手は、いま、この長い物語の、すべてを知っている。阿蘇の潮の匂いから、荒尾の地の底の拍動まで。
これで、物語は、綴じられる。
長い旅であった。読み手にとっても、そうであったろう。五つの、恐ろしい、そして、哀しい話を、辿ってきた。その、すべてが、いま、ここに、閉じる。透という若者が、そう信じたように。読み手もまた、いま、この本を閉じかけている。長い物語を読み終えた者の、あの、しずかな満足と、名残惜しさと共に。
お疲れ様でした、と、語り手は言おう。
これにて、熊本の、下の海の、物語は――
いや。
一つだけ。
綴じる前に、一つだけ、語り手には、書き添えておかねばならないことがある。
それは、この物語の結末では、ない。むしろ、それを書いてしまえば、せっかく綴じた物語が、また、ほつれてしまう。書かずに、おきたい。書かずに、この本を閉じてしまいたい。だが――書かねば、ならない。誠実で、あるために。
五つの戸は、破れた、と、語り手は言った。
破れた、と。
開いた、と。
過去のことのように、語った。だが――正しくは、こう言うべきであった。五つの戸は、開いた。そして、いまも、開き続けている。閉じては、いない。ただの、一つも。阿蘇の火の戸も、人吉の水の戸も、八代の灯の戸も、天草の波の戸も、荒尾の鉄の戸も。すべて、いま、この瞬間も、開いたままである。下の海は、五つの破れ目から、地上へ向かって、滲み、あふれ、満ちつつある。
物語は、綴じられた。
だが、事実は、綴じられていない。
語り終えたということと、終わったということは、違う。この物語は、熊本の下の海について、語り尽くした。だが、その下の海が、これから、どうなるのかは――誰も、語れない。なぜなら、それは、まだ、起きていないからである。
あるいは、いま、まさに、起きつつあることだからである。この本を閉じたあとの、あなたの世界で。
それが、熊本の物語の、綴じ、である。
綴じても、閉じない。
語り終えても、終わらない。
そういう綴じ方でしか、この物語は、綴じられなかった。なぜなら、それが、事実だからである。




