第五章 坑底
ふたたび現代に、戻る。
冬の、万田坑。
透という若者と、六造という老人が、あの竪坑の坑口の前に、立っている。過去のすべてはいま、語り終えた。
三池の家の、五百年。
戸が、壊れた日。
封鎖と、祈り。
透は、そのうちのごく断片しか、知らない。老人の口から聞いた、切れ切れの言い伝えから。
透は、それでも、確信しつつあった。
四つの束と六造の証言とが、透の中で繋がりはじめていた。五つ目の戸は、ここに、ある。この足の下に。かつて、三池という家が守り、そして、守りきれなかった鉄の戸が。老坑夫が地の底で、一人祀り続けた、その封鎖された坑区の、奥に。透は、五人目の男の、五つ目の物語の輪郭を、いま、掴みつつあった。
あと、もう一歩。
透は、六造に頼んだ。坑の底を、見せてほしい、と。
* * *
六造はしばらく、透の顔を見ていた。
それから、静かに言った。
「坑には、もう下りられんよ。埋め立ててしもうたけんな。ほんとうの底までは、誰も、行けん。……ばってん」
六造は、あの第二竪坑の坑口のほうへ、顎をしゃくった。
「あすこの、坑口の内側までなら、入れる。見学の範囲でな。ほんの入口たい。地の底の、爪の先ほどのとこ。それでもよかなら、見せちゃろう」
透は、うなずいた。
六造は係員に何ごとか告げて、透を柵の内側へ通した。第二竪坑の、坑口。鉄の櫓の真下。かつてケージが坑夫を乗せて、二百七十四メートルの闇へ下ろしていった、その穴の口である。いまは頑丈な鉄の格子で蓋をされ、その上にさらにコンクリートが打たれている。地の底へはもう通じていない。通じていない、はずであった。
坑口の内側は、ひんやりとしていた。
外の冬の寒さとは違う、冷たさであった。地の底から這い上がってくる、湿った冷気。透は、その鉄格子のそばに立った。格子の隙間から下を覗いた。
暗かった。
底は、見えない。
ただ、深い、深い闇が、そこにあった。
そして、透は、それを感じた。
* * *
揺れて、いた。
地面が、というより、坑口の全体が。いや、この丘の全体が。ごくかすかに、しかし確かに、揺れていた。地震の揺れではない。もっと深い、もっと規則的な、揺れ。
一度。
間を、置いて。
もう一度。
拍動であった。地の遥か底で、何か途方もなく大きなものが、ゆっくりと脈を打っている。その脈が、二百七十四メートルの岩盤を通し、鉄の櫓を通し、透の足の裏から脛を伝い、背骨を上って、頭の芯まで、響いてくる。
耳では聞こえない。
目には見えない。
ただ身体の内側で、感じる。
臓腑が、その拍に合わせて、かすかに震える。心臓が、その拍に引き込まれそうになる。
透は、思わず自分の胸に手を当てた。自分の鼓動と、地の底の拍動とが、いつのまにか、重なりかけていた。
八代の婆の語りに、あった。
数える者は、火と目で繋がる、と。
天草の娘の綴りに、あった。
海は、祈りの拍で寄せて引く、と。
そして、いま荒尾の坑底で。
透の鼓動が、下の海の拍に、合わせられようとしている。見ることでも、聞くことでもない。もっと直かに。身体のいちばん奥の拍そのものが、繋がれようとしている。
透は、慌てて胸から手を離した。格子から一歩、退いた。鼓動が、乱れた。そして、自分の意志で、打ちはじめた。地の底の拍から逃れるように。
透は、深く息を吸った。
* * *
そのとき透は、坑口の冷気に混じって、あの匂いを、はっきりと、嗅いだ。
潮の、匂いであった。
有明の海は、ここから確かに見える。
だが、遠い。
丘の上のこの坑口まで、潮の匂いが届くはずは、ない。まして、この匂いは外からではなかった。地の底から。埋め立てられたはずの竪坑の、闇の底から。冷気と共に、立ち上ってくる。塩辛い、生臭い、乾いたことのない、水の、匂い。
透は、悟った。
四つの束が語っていたことは、本当だった。
ここに、ある。
この、足の下に。
地の底の、海。
眠る、あるいは、静かに目覚めている、下の海。
それは、迷信でも、怪談でも、なかった。いま、透の足の裏を揺らし、透の鼻を突く匂いとして、確かに、そこに、ある。五つ目の戸は、実在した。
そして――割れている。
潮の匂いが、地の底から昇ってくるのが、その証であった。
透は、格子の向こうの闇を、見つめた。
この、下に。
ずっと、下に。
かつて、若い坑夫の鶴嘴が砕いた、あの戸が、ある。落盤で瓦礫が塞ぎ直し、三池の家が五百年、できる限りの策を講じて押さえ続けた、その割れた戸が。そして、その瓦礫の隙間から、いまも下の海が、少しずつ、少しずつ、滲み出している。潮の匂いは、その滲み出しの、息づかいであった。
透は、長いことその闇を、見つめていた。
そして――ゆっくりと、一つの思いが、透の中に、満ちてきた。
わかった、と、透は思った。
五つ目の、物語がわかった。五人目の男が書けなかった、あるいは書く前に消えた、その五つ目。それが、これだ。荒尾の、鉄の戸。三池の家の、五百年の敗北と、その最後の祈り。透は、それをこの坑底で、掴んだ。四つの束に欠けていた、最後の一片が、いま、埋まった。物語は――完結した。
透は、深い安堵に、包まれた。
長い旅が終わった、と、思った。四つの束を読み、その欠落に耐えられず、この遠い土地まで来た。そして、五つ目を見つけた。五つの戸の物語は、これですべて揃った。もう欠けたところは、ない。透は、この掴んだものを持ち帰り、書き記すだろう。
六人目の書き手として。
そうすれば――物語は、閉じる。すべてが明らかになり、すべてが繋がり、そして、終わる。
透は、若かった。
だから、そう思えた。
物語には始まりがあり、そして、終わりがある、と。
謎は、解かれるためにあり、解かれれば、それで、終わる、と。
透はまだ若く、先があり、これからいくらでも生きていける。だから透は、この旅を、一つの完結した物語として胸にしまい、そして、次の人生へと歩いていける。そう信じることが、できた。
その若さは、救いであった。
そして、その若さゆえの安堵こそが――語り手には、いちばんいたましく、いちばん恐ろしく、見えるのであった。
* * *
なぜなら。
透がいま掴んだと信じたものは、物語の結末では、なかった。
透は、五つ目の戸を見つけた。
だが、見つけることと、閉じることは、違う。
三池の家ですら、五百年かけて閉じられなかった戸を、透が見つけたというだけで、どうして閉じられよう。
透がこの物語を書き記したところで、戸は塞がらない。滲み出しは、止まらない。透が、安堵と共にこの土地を去ったあとも、下の海はいまと寸分変わらず、少しずつ、少しずつ、地上へ向かって、滲み続ける。
透は、物語を完結させた、と、思った。
だが、完結したのは、透の旅だけである。物語そのものは――現実そのものは、一つも終わっていない。
いまも進行している。
透の足の下で。この瞬間も。透がそれに気づかず、安堵しているという、そのことこそが、この地の底のものの、いちばんの思う壺なのかもしれなかった。
人は、わかった、と思うと安心する。安心すると、忘れる。忘れれば――守らなくなる。
三池の家は、絶えた。
拝む者は、もう、いない。
そして、この透という最後の来訪者も、いま、わかった、終わった、と、安堵して、去ろうとしている。
誰も守らない。
誰も恐れない。
ただ、何も知らぬ観光客の足だけが、地面を踏み固めている。それが、いつまで保つのか。
透は、格子から離れた。
六造が、坑口の入口で、待っていた。透の顔を見て、六造は何かを察したようであった。
透の、その憑きものの落ちたような、晴れやかな顔を。
そして、六造の顔に、一瞬、影のようなものが、差した。それが何であったか、透は、気に留めなかった。
「見せて、いただいて、ありがとうございました」と、透は言った。「おかげで、探していたものが、わかりました」
六造は、すぐには答えなかった。それから、ぽつりと言った。
「……わかった、ち、思うたか」
透は、うなずいた。晴れやかに。
六造は、もう何も言わなかった。ただ、その暗い坑口のほうを一度振り返り、それから、透を柵の外へと送り出した。冬の光の中へ。何も知らぬ、観光客たちの歩く、明るい順路へと。
透は、軽い足どりで、歩いていった。
その背中を、六造は見送っていた。そして、誰にも聞こえない小さな声で、こうつぶやいた。あるいは、つぶやかなかった、かもしれない。
「――誰も、わかっとらんとが、いちばんよかとかもしれん。わかったら、こうやって、生きていかれんけんな」
透の姿が、順路の角を曲がって、見えなくなった。
坑口の闇の底で、拍動がひとつ、打った。
誰も、いない坑口で。誰にも、感じられぬまま。地の底の拍は、透が去ったあとも、変わらず、続いていた。
一度。
間を、置いて、もう一度。
ゆっくりと。
辛抱づよく。
何百年でも、待てる者の、拍で。




