第四章 戸が壊れた日
いま一度、時を遡る。これが、最後の遡行である。
透という若者を、六造という老人の傍らに、残しておこう。彼らが、これからどこへ向かうかは、後に語る。その前に、語り手は、あの日のことを語らねばならない。年表に、たった一行――『この年、坑内災害。詳細は、記録に、乏しい』――と記された、その日。三池炭鉱の百年で、最も大きく、最も語られなかった、災害の日を。
誰も、正しくは知らない。生き残った者も、正確には語らなかった。語れなかった。だから、記録は、乏しい。だが、語り手は知っている。神の目だけが、あの日、地の底で、実際に何が起きたかを、見ている。
これから語るのは、その、生の記録である。
* * *
その日、第七の切羽では、二十人あまりの坑夫が、働いていた。
良質の石炭の層であった。会社は、この切羽に期待をかけていた。三池の家の者が、幾度もこの方角の採掘を逸らそうとしてきた、まさに、その箇所である。だが、その日は、三池の家の者は、そこにいなかった。別の坑区に呼ばれていた。あるいは――呼ばれるように仕向けられていた、のかもしれない。それは、誰にもわからない。
切羽の最奥で、一人の若い坑夫が、鶴嘴を振るっていた。
名を記す必要は、ない。彼はただ、その日、その場所で、鶴嘴を振るっていた、というだけの、無数の坑夫の一人である。彼に、罪はない。彼はただ、石炭を掘っていた。
家族のために。
暮らしのために。
汗を流して、まっとうに働いていた。それだけである。
彼の鶴嘴が、石炭の層の、そのさらに奥の、硬い岩に当たった。
いつもの感触とは、違った。
岩は、岩であった。だが、その岩を叩いたとき、返ってくる音が、おかしかった。硬いはずの岩の向こうが――空ろ、であった。何か大きな空洞が、そのすぐ向こうにある。そういう音であった。そして、その岩は、ほかの岩と、色が違った。黒でも、灰でもない。青みを帯びた、奇妙な岩であった。
そして――濡れていた。
地の底の、二百七十四メートルの、乾いた、暑い、切羽の最奥で。
その岩だけが、うっすらと、濡れていた。
若い坑夫は、それを不審に思った。だが、深くは考えなかった。考えるいとまも、なかった。彼はただ、目の前の岩を掘り進むのが、仕事であった。彼は、鶴嘴を振り上げ、その青みを帯びた濡れた岩に、力いっぱい、打ち込んだ。
岩が、砕けた。
そして、その、向こうから。
* * *
水が、出た。
いや。水ではあったが、ただの水では、なかった。
水のようで、水ではないもの。冷たく、黒く、粘りけをもった、それは、割れた岩の隙間から、みるみるあふれ出した。
塩の匂いが、した。
いや、潮の、匂い。
海から何里も離れた、地の底で。
若い坑夫は、そのあふれ出す黒い水を浴びて――そして、動きを止めた。
彼はそれきり、鶴嘴を握った姿勢のまま、動かなくなった。
同僚が、叫んだ。おい逃げろ、出水だ、と。だが、若い坑夫は動かなかった。彼は、割れた岩の、その黒い裂け目を、じっと見つめていた。まるで、その向こうに、何か見えるものが、あるかのように。
そして、彼は、言った。
同僚たちが、後にけっして口にしなかった、その、ひとことを。
――ああ。かぞえよる。
そう、言った、という。
かぞえよる、と。誰かが、向こうで、数えている、と。若い坑夫は、うっとりとした声で、そうつぶやいて、それから、自分から、その黒い裂け目のほうへ、一歩踏み出そうとした。
同僚が、彼の腕を掴んだ。その、瞬間であった。
* * *
岩盤が、鳴った。
第七の切羽の全体が、地の底の獣が唸るような音を立てて、軋んだ。そして――崩れた。
落盤である。
天井の岩が坑木をへし折り、坑道を塞ぎ、切羽にいた者たちを、呑み込んだ。
それは、炭鉱につきものの、落盤であった。地の底で働く者を、いつも待ち構えている、あの死のかたち。この日、第七の切羽で、多くの坑夫が、その落盤に呑まれ、命を落とした。それは――まぎれもなく、炭鉱の災害であった。人が地の底で働き、そして、崩れた岩に押し潰されて、死んだ、という、痛ましい事実であった。
記録には、そう残された。落盤による坑内災害。死者、行方不明者、あわせて幾十人。それは、嘘では、ない。半分は、まぎれもない、真実である。
だが、崩れたのは。
岩盤だけでは、なかった。
落盤が塞いだのは、坑道だけでは、なかった。あの青みを帯びた濡れた岩――五つ目の戸の、いちばん薄い最後の一枚も。若い坑夫の鶴嘴が砕き、そして、落盤が抉じ開けた。長年守られてきた戸は、その日、人の手で掘り抜かれ、そして、崩落と共に、砕けたのである。
坑道を塞いだ落盤は、皮肉にも、その砕けた戸を、瓦礫で塞ぎ直した。だから、下の海は、その日、いちどきにあふれ出しては、こなかった。瓦礫が、辛うじて押し止めた。だが、戸はもう、割れていた。割れた戸は、二度と元には、戻らない。
瓦礫の隙間から。
塞いだ岩の、あわいから。
下の海は――その日から、少しずつ、少しずつ、滲み出しはじめた。
百年をかけて、地上へ、向かって。
* * *
三池の家の、その日の当主が、第七の切羽の崩落を知らされたのは、事故から半刻ほど後のことであった。
当主は、別の坑区にいた。報せを聞いて、彼がまず思ったのは、坑夫たちの安否では――なかった。恥ずべきことかもしれない。だが、彼がその瞬間、真っ先に思ったのは、たった一つのことであった。
第七の、切羽。あそこは。あの、方角は。
五百年、三池の家が恐れ続けてきた、まさに、あの一点。あそこで、崩落。ということは。ということは――。
当主の顔から、血の気が、引いた。
彼は、駆けた。崩落した第七の切羽へ。救助の人夫を掻き分け、崩れた坑道のぎりぎりまで、駆けた。そして、その瓦礫の山の隙間から、漏れ出してくる冷たい黒い水を――潮の匂いのするその水を、見た。指で掬い、舐めた。
塩辛かった。
そのときの当主の顔を。語り手は、こう描く。
それは、ついに負けた、という顔では、なかった。掘るなとあれほど言うてきたのに、という恨みの顔でも、なかった。それは――まさか、行き当たったか、という顔であった。五百年、恐れ続け、逸らし続け、あがき続けてきたことが、とうとう、この自分の代で、現実になってしまった。あってはならぬ、信じたくない、しかし、来るべくして来た、その一点を、目の前に突きつけられた者の、顔。
絶望が、あった。底のない、絶望が。
だが、その絶望の、いちばん底で。
消えていないものが、あった。
負けてたまるか、という。
まだ終わってなどいない、という。
この代で行き当たってしまった。だが、この代で諦めてたまるか、という。
五百年受け継いできたこの務めを、自分の代で投げ出してたまるか、という、一点の、火が。
当主は、立ち上がった。
そして、会社に掛け合った。
この崩落した坑区は危険である、と。
二度と掘るべきではない、と。
完全に、封鎖すべきである、と。
当主は、必死で訴えた。当然、会社は渋った。良質の石炭が、まだ大量に残っている坑区である。崩落を復旧し、採掘を再開すれば、莫大な利益が見込める。危険を理由に放棄するなど、認められぬ、と。
だが、その崩落した坑区で、その後、奇妙なことが続いた。
復旧のために坑区に入った人夫が、次々に坑内で聞いたのである。誰もいないはずの瓦礫の向こうから。
水の、音を。
そして――かぞえる声を。
ひとつ、ふたつ、みっつ、と。低く、絶え間なく数え続ける、声を。
人夫たちは、怯えた。あの坑区には入りたくないと言い出す者が、続出した。無理に入れれば、原因のわからぬ事故が、起きた。落盤。ガスの突出。人が消えた。
会社もついに、匙を投げた。
採算と危険とを秤にかけて、会社は、その坑区の放棄を決めた。当主の執念が勝ったのでは、ない。ただ、あまりに事故が続くので、割に合わなくなった、というだけのことである。だが、理由はどうあれ、坑区は封鎖されることになった。
封鎖の書類に、当主は自らの手で、一文を書き加えさせた。
――二度と、開くべからず。石炭、いかに残ろうとも。
それが、当主にできた、精いっぱいのことであった。
* * *
だが、当主は、知っていた。
坑区を、封鎖しても。
書類に、二度と開くなと、書いても。
それは、戸を閉じたことにはならない、と。戸は、もう割れている。割れた戸は、瓦礫で塞いだところで、元には、戻らない。下の海は、瓦礫の隙間から、封鎖の岩のあわいから、これから、何十年、何百年とかけて、少しずつ滲み続ける。それを止める術は、もう、ない。
できるのは、ただ、押さえておくことだけ。
一日でも、長く。滲み出しを、少しでも遅く。完全な破局を、一年でも先へ送るために。当主は、封鎖された坑区の、その手前に、小さな祠を置いた。
山の神の、祠である。
そして、毎日そこへ通い、手を合わせるようになった。
それが意味のあることなのか。当主にも、わからなかった。祈って戸が塞がるのか。滲み出しが止まるのか。そのような保証は、どこにもなかった。だが、ほかにできることが、なかった。掘るなと言っても、掘られた。逸らそうとしても、行き当たった。封鎖しても、割れた戸は、戻らない。ならば、せめて、祈る。守る者が、まだ、ここにいる、ということを――向こうに、示すために。
見る者がいるあいだは。
守る者がいるあいだは。
もしかしたら。もしかしたら、下の海も、少しは、遠慮するかもしれない。
あの、八代の火が、数える者のいるあいだは、沖に留まったように。
あの、天草の海が、祈る者のいるあいだは、静まっていたように。
三池の家はその日から、戸を守る家では、なくなった。
戸が割れたことを知っている、ただ一つの家。割れた戸を、これ以上、開かせぬために、地の底で祈り続ける、家。それが、三池の家の、最後の務めとなった。当主から、その子へ。子から、その孫へ。
祠は代々、守られた。
閉山の、その日まで。
地の底で、たった一人に、なっても。
あの六造という老人が若き日に見た、老坑夫。坑の最奥で、封鎖の手前で、たった一人、山の神を祀り続けていた、三池さん。彼こそが――五百年の務めの、いちばん最後の担い手であった。
「こいだけは、絶対に、開けさせん。わしの代で、開けさせるわけには、いかんとたい」
その言葉は、負け惜しみでは、なかった。
それは、五百年、負け続けながら、ただの一度も負けを認めなかった、一つの家の。最後の、祈りで、あった。




