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九州の地下に眠る海  作者: めこねこ
第五章 荒尾

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第三章 老ガイドの証言

 透は、老人の案内を、受けることにした。


 断る理由が、なかった。むしろ、望むところであった。透は、この土地について、何も知らない。四つの束が示した、五つ目の戸。その真上に立ってはいるが、そこから先へ、どう進めばよいか、当てはなかった。元坑夫だという、この老人は、透にとって、最初の、そして、おそらくは最後の、手がかりであった。


 老人は、透を、順路の先へと案内した。ほかの観光客とは、少し違う道を通った。ガイドだけが、通ることを許されている、細い通路である。老人の歩みは、ゆっくりで、しかし、確かであった。何十年も、この場所を歩いてきた者の、歩みであった。


「あんた、名前は」


 老人が、歩きながら聞いた。透は、名を名乗った。老人は、うなずいて、自分のことを、こう言った。


「わしは、六造《ろくぞう》ちゅう。この、万田で、掘りよった。閉山まで、な。もう、坑の底ば知っとる者は、この界隈にも、数えるほどしか、おらんごつなった」


 六造、と、透は、心の中で繰り返した。地の底を知る、最後の世代。


*  *  *


 巻揚機室の、巨大な機械の前で、六造は、足を止めた。


「これでな、人ば、下ろすとよ。ケージ、ちゅう、箱に、乗ってな。二百七十四メートル。まっすぐ、下たい。一分ちょっとで、下りよった。耳が、つうんと、なるとよ。飛行機の、逆たいね。上がるとじゃなか。下がると」


 六造は、機械の、錆びた巻胴を撫でた。慈しむような、手つきであった。


「下は、暑かった。深うなるほど、暑うなる。地熱、ちゅうてな。汗だくで、掘りよった。真っ暗で、暑うて、狭うて。……ばってん、不思議とな、坊。わしは、あの、地の底が、嫌いじゃ、なかった。地の底には、地の底の、静けさが、あってな。上の、世界とは、違う、静けさが」


 透は、聞いた。地の底に、こわいことは、なかったか、と。


 六造は、少し黙った。それから、機械から手を離して、言った。


「こわいこつは、いくらでも、あったよ。落盤。出水。ガス。仲間が、何人も、死んだ。炭鉱ちゅうとは、そういう、ところたい。地の底で、飯ば、食う、ちゅうとは、命ば、賭ける、ちゅうこつやった」


 その口調には、嘘がなかった。誇りと、痛みとが、等しくこもっていた。透は、四つの束のことを、一瞬、忘れた。ここには、怪異ではない、本物の重さが、あった。地の底で働き、死んでいった、無数の人々の、重さが。


「ばってんな」


 六造は、続けた。声を、少しだけ低くして。


「そういう、ふつうの、こわさとは、別に。もう一つ、あったとよ。坑の底には」


*  *  *


 六造は、歩き出した。透は、従った。


「言うても、あんた、笑うかもしれんばってん」


 六造は、前を向いたまま、言った。


「坑には、な、入ったらいかん、ちゅう、場所が、あったとよ。どこの、坑にも。ここにも、あった」


「入ったら、いけない、場所」


「そうたい。古い、坑夫は、みんな、知っとった。この先は、行くな、ちゅう、区画が、な。理由は、はっきりせん。ただ、古うから、そう、言い伝えられとった。あの、奥は、いかん、と。近づくな、と」


 透の心臓が、ひとつ、鳴った。透の知らぬところで、語り手が語った、あの第七の切羽。だが、透は、それを知らない。知らないまま、聞いている。知らぬのに、心臓が、鳴った。


「なんで、いかんとですか」


 透は、聞いた。


「わからん」


 六造は、言った。


「わしらも、わからんやった。ただ、そう、教わった。年寄りの、坑夫からな。あそこは、昔、大きな、事故の、あったとこやけん、行くな、と。……大きな、事故」


 六造は、そこで、足を止めた。冬の風が、二人のあいだを抜けた。


「わしはな、坊。一度だけ、その、事故の、記録ば、見たことの、あるとよ。閉山の、少し前にな。会社の、古い、書類ば、整理しよって。そんとき、ふと、見つけた。ずうっと、昔の、事故の、記録たい」


「どんな、事故だったんですか」


 六造は、首を振った。


「それが、な。ほとんど、何も、書いとらんとよ。日付と、それから、死者、行方不明者、あわせて、何十人、ちゅう、数だけ。あとは――封印、ち。ひとこと。封印、ち、書いてあった」


「封印?」


「坑ば、閉じる、ちゅうこつたい。事故のあった、坑区ば、そっくり、塞いでしまう。危なかけんな、そういうこつは、ある。ばってん――」


 六造は、透の顔を見た。


「普通は、封鎖っちゅうとたい。しかしその、坑区は、封印やった。ほかの、どの、封鎖とも、違うとった。書類にな、こう、あったとよ。『二度と、開くべからず。石炭、いかに、残ろうとも』。……坊、これが、どぎゃん、おかしなこつか、わかるな。炭鉱は、石炭ば、掘る、ところたい。石炭が、残っとるなら、どぎゃんしてでも、掘る。それが、炭鉱たい。それを――石炭が、残っとっても、二度と、開くな、ち。そぎゃん、封印は、聞いたことの、なかった」


 透は、思わず聞いた。その坑区は、いまも、あるのか、と。


「あるたい」


 六造は、言った。地の底を指さすように、足元を見て。


「この、下たい。埋め立てられた、竪坑の、ずうっと、下。水に、沈んで、封印されて。いまも、そのまま、そこに、ある。誰も、二度と、入っとらん。入れんごつ、してある」


*  *  *


 二人は、いつのまにか、あの竪坑の、坑口の前に、戻っていた。


 金網で覆われた、暗い穴。透が、さっき、潮の匂いを嗅いだ、あの坑口である。六造は、その前に立って、しばらく、暗い穴を見下ろしていた。


「一人だけ、な」


 六造は、ぽつりと言った。


「その、封印された坑区ば、ずうっと、気にかけとった、人が、おった」


 透は、息を詰めた。


「わしが若かころ、もうずいぶん、年寄りやった、坑夫でな。名前は……三池さん、ち、言いよった。この土地の、古い家の、人でな。三池さんはな、坑の中の、ある場所に――ちょうど、あの、封印された坑区の、手前にな、小さな祠ば置いて、山の神ば、祀りよったとよ。毎日、毎日。地の底で、線香ばあげて、手ば、合わせよった」


「坑の、中で……山の神を」


「坑口には、どこでも、山の神は、祀るとよ。無事ば、祈ってな。ばってん、三池さんのは、違うた。坑口じゃ、なか。坑の、いちばん、奥。あの、封印の、すぐ手前。そぎゃんとこに、祠ば、置いて。ほかの、坑夫は、誰も、そぎゃんことは、せん。三池さんだけが、な。毎日」


 六造は、目を細めた。遠い記憶を、たぐるように。


「わしは、一度、聞いたことの、あるとよ。三池さん、なして、こぎゃんとこで、拝みよらすとですか、ち。そしたら、三池さんはな、こう、言うた」


 六造は、その老坑夫の声を、まねるように、低く言った。


「『こいだけは、絶対に、開けさせん。わしの、代で、開けさせるわけには、いかんとたい』。――そう、言うとった。開けさせん、と。まるで、その、向こうに、何か、おるみたいに、な」


 透の背筋を、冷たいものが走った。


 三池家。掘らせぬではない、開けさせない。祀り、拝み、祈り続けた。閉山の、その日まで、地の底で、たった一人、祠を守り続けていた。石炭のためではない。誰に命じられたのでもない。ただ、開けさせん、という、その一心で。


 透は、四つの束のことを思った。阿蘇の椎葉。人吉の岩戸。八代の矢部。天草の深江。そして――荒尾の三池。五つの家。五つの戸守り。ほかの四つの家は、血が絶え、水位が読めなくなり、火が数えられなくなり、祈りが忘れられて、破れた。三池の家も、同じではないのか。


「その、三池さんは」


 透は、掠れた声で聞いた。


「いまも」

「もう、おらんよ」


 六造は、静かに言った。


「閉山の、あと、しばらくして、亡くなりよった。子も、おらんやった。三池の家は、あの人で、終わりたい。……祠もな、坑ば、埋めるとき、いっしょに、埋められた。いまは、もう、拝む者も、おらん」


 拝む者も、おらん。


 その一言が、透の胸に、重く落ちた。五百年、あの一点を守ろうとしてきた家が、絶えた。地の底で、たった一人、祠を守った最後の当主も、逝った。祠も、埋められた。もう、誰も、あの戸を守っていない。誰も、拝んでいない。誰も――塞ぎ続けては、いない。


 いや。

 塞ぎ続けている者は、いる。


 透は、周りを見回した。

 冬の光の中を、観光客が歩いていた。

 家族連れ。年配の夫婦。カメラを提げた客。

 みな、笑い、写真を撮り、地面を踏んで、歩いている。何も知らずに。この、世界遺産の地面を。踏んで、踏んで、踏み固めて。


 拝む者は、絶えた。だが、踏む者は、絶えていない。


 三池の家が、祈りで守っていたものを。いまは、何も知らぬ観光客の足が、無数の、無心の足が、上から押さえている。祈りが、足踏みに、取って代わられた。それが、いいことなのか、恐ろしいことなのか、透には、わからなかった。ただ、それは――あまりにも危うい綱渡りに、思えた。


 そのとき、また、足の裏に、あの揺れが伝わった。


 地の底からの、拍動。一度。間を置いて、もう一度。さっきより、少し強い、気がした。六造も、それを感じたのか、ふと、足元を見た。そして、何も言わずに、ただ、暗い坑口のほうを見た。その横顔には、透には読み取れない、複雑な色が、あった。


 六造は、本当に、知らないのだろうか。


 それとも――薄々、知っていて、なお、迷信として語っているのだろうか。地の底を、誰よりも知る、最後の世代として。語り手には、六造の胸の内は、描かれない。ただ、六造が、暗い坑口を見つめる、その静かな横顔だけが、そこにあった。


「坊」


 六造は、坑口を見たまま、言った。


「あんたが、何ば、探しに来たか、わしは、聞かん。ばってん、一つだけ、言うとくばい。……この下に、あるもんはな。掘り起こす、もんじゃ、なか。そっと、しておく、もんたい」


 風が、坑口から、吹き上げた。


 潮の匂いが、した。

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